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アーティストモードに入るとき

月イチでバンドの練習を続けている。毎月、特定の日に新宿のスタジオに行っている(以前は渋谷だった)。一応、コピーバンドではなく、オリジナル曲を演奏するバンドとして活動している。バンドとはいっても、みんなふだんは仕事を持っているので、部活の延長みたいな雰囲気だ。
 
楽曲は、ギターの人が制作したものをアレンジしたり、歌詞を変えたりして使っている。僕が作った曲もあるが、まだそれは本格的に練習していない。僕の中では、自分が個人で制作している楽曲制作と、バンドの場合は全く違うものと捉えていて、あまりバンドでは自分のやりたいことを前面に出してはいない。

音楽というのは、分解すればとてもシンプルなものだ。コード(和音)と呼ばれるものがあり、基本的にはコードが音楽を支配している。コードが変化して音楽というものは形作られていくが、その進行のパターンも研究され尽くしている。どんなコード進行にも前例はある。簡単にいうと、斬新なコード進行など、この世にはないということだ。
 
コードに載せるメロディも、コードに束縛される。コードから解き放たれたメロディというものはない(もちろん、前衛芸術を除いて、だ)。リズムもそうだ。だから、僕たちは、既存のコード進行、既存のメロディ、既存の歌詞、既存のリズムを組み合わせて、それっぽい楽曲を作っていく。
 
そうやって考えていくと、作曲というのはきわめてシンプルなもので、何も難しいことはない。コード進行を適当に引っ張ってきて、リズムをつけ、メロディをつけ、歌詞をつけたら、はい、完成。それを、それなりに経験のあるバンドマンに譜面として渡したら、次の瞬間からセッションができる。音楽というのはシンプルで、かつ、お手軽。それで場が盛り上がるなら、なおいい。なんて楽な趣味なんでしょうか。
 
ちなみに、これはあえて極端に楽曲制作のプロセスを単純化したもので、実際にはそうではない。というか、僕は個人で楽曲を制作をするときには、全く違う作り方をする。僕は、個人で作曲するときには、コード、リズム、メロディといったものを、いったんどこかに置き忘れている。それらを意識して曲をつくることはない。もっと断片的な、曲のピースを拾い集め、これではない、あれでもないと、巨大なパズルにハメ続ける、茫漠とした作業に近い。
 
僕の作曲スタイルは、ミスフィットの排除にある。無数にある可能性のうち、いまの自分にもっともフィットするものを探し当てる。確率でいうと、それはランダムに組み合わされる音どうしの組み合わせのほんの一部、1%にも満たないだろう。それを、無限の音の海から探して拾ってくるのだから、途方もない作業だ。
 
99%が気に入らない音の組み合わせ。だから、捨てる。捨て続ける。稀に、気に入った音の組み合わせに「偶然」巡り会える。そういったときに、ほんの少しだけ、作曲が前進する。しかし、それを翌朝になって聞いてみると、かなりありきたりで、陳腐なものであることが判明する。すると、それもまた躊躇なく捨てる。その繰り返し。つまり、基本的に奇跡でも起きない限り、前進することはない。
 
イントロが好きで、その後の展開を作っていって、「なんか違うな」と感じたら、イントロだけを残して全部捨てることもある。とにかく捨てる。捨て続けて、残ったものだけが自分の音となる。だから、完成品は、常に自分の最高傑作である。

そうして出来上がったものもまた、誰も見たことのないコードでもなく、メロディでもなく、リズムでもない。しかし、自分にとっては、気に入らないものを捨てて捨てて、捨て続けて、やっと残ったものなのだ。だから、それは自分の宝物なのである。
 
そんなふうに作っているので、とてもバンドメンバーにそれを強要することなどできない。だから僕は一人でも曲を作り続けるし、永遠に孤独なのである。それが、アーティストとしての自分だと思っている。(執筆時間12分19秒)

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