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「自分らしく」の泥沼

ふと、話題になっているnoteを見たら、「自分らしく堂々と振る舞う」ということを書いているnoteがピックアップされていた。読んでみたら、「今までは自分にコンプレックスがあって、素の自分をさらすことができなかったけれど、堂々としたらいいんだと気づいた」みたいな感じのことが書かれていた。
 
こういう文脈のテキストってぜんぜん減らないな、と思う。減らないし、たくさんの賛同を集めているということは、そう感じている人がたくさんいるということだ。基本的に書かれている内容はどれも全く同じだ。自撮りなどをして「堂々と振る舞う」と、批判されたりするのでそれが怖いが、そういうのを気にしないことで、自分らしく生きることができる、みたいな。
 
少なくとも僕には違和感のある文脈なのだが、それを言語化してみる。そもそも「自分らしく」ってなんだろう? 「堂々と振る舞う」とは?

逆に考えてみる。「自分らしく振舞えていない時」というのはどういうときなのだろう、と。僕は、TPOがカッチリと決まっている空間、たとえばドレスコードが決まっているセレモニーや会議などが苦手で、ましてやそこでスピーチしたり、人前に出たりすることはもっと苦手だ。「何か粗相をしたら……」と思うと、なんとなく足がすくむ。もしかしたら、その感じに近いかもしれない。「常に100点が求められる場」はしんどい、というか。
 
でも、TPOが全くない空間というのは、自宅で一人でくつろいでいるときぐらいしかない。外出時はもちろん、家族ですら、誰かがいれば、その「誰か」に多少なりとも配慮する。ということは、一日のうちの大部分は「自分らしく振舞えていない」ということになる。そんなことってあるだろうか? TPOに配慮している自分もまた、自分なのではないかと思うが……。
 
「自分らしく」というキーワードは、特に日本に強いんだろうな、とも思う。「自撮りを載せたら批判される」という感覚は、日本以外ではほぼ全くない感覚だ。外国人とフェイスブックで友達になるとわかるが、一日に10回ぐらい自撮り写真をあげている人などわんさかいる。まあ、それをみると「自分らしく振舞ってるんだろうな」とわかるが。
 
自分のことを振り返ると、僕は本能的に「集団」から避け続けている傾向にある。不特定多数の集団、つまりサークル活動などが根本的に苦手で、そういったものに所属した経験がない。学生のときはずっと帰宅部で、特定の友達とバンドをやっていた。社会人になってからも、サークル的なものには属さず、もっぱらインターネットを活用して、自分が面白いと感じた人だけにピンポイントで会う、ということを繰り返してきた。一対一の関係ならば、TPOも何も関係ない。お互いが、お互いの思うように接すればいい。

確かに、「集団からどのように見られるか」というのは怖い。集団というものは、集団そのものを維持するため、ルールから逸脱した行為、TPOに反する行為、常軌を逸した行為を批判するからだ。
 
それが息苦しければ、それから距離を置けばいい。完全には無理でも、減らすことはできるはずだ。
 
あ、僕が書いても結局はこういう結論になるのね(笑)。(執筆時間14分8秒)

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