見出し画像

本質に関する本質的なこと

仕事・プライベート問わずいろんな人とお話することがあるのだが、頭のいい人と話をすると、会話がスムーズで助かる。僕は自分の頭がいいとは決して思わないが、頭のいい人と話をすると、話題に詰まることがないのでよい。
 
「頭がいい」というのはかなり曖昧な表現だが、ずばり言うと、僕の考える「頭の良さ」というのは、「抽象的な思考ができる人」と定義できる。抽象思考ができる人とは、物事の本質を理解していて思考に柔軟性があり、いろんな角度から物事を見ることができて、自分の経験・知見を他に応用することができるのであらゆる問題に対処することができる人のことだ。逆に抽象的な思考ができない人と話すのはけっこう大変で、話題がすぐになくなってしまう。具体的な、ゴシップやトリビア的な話しかすることができないからだ。
 
抽象的な思考とは何か。抽象思考とは「本質的な思考」と言い換えることができる。実際に存在しているものを抽象的にとらえ、本質を理解できる人とできない人がいる、ということだ。
 
物事の本質がわかる、とはどういうことだろうか。僕は、本質を理解している人とは、「見た目は違うが、実は同じもの」を理解している人のことだと思う。
 
たとえば猫と犬は生物的に違う種だ。しかし「動物」という点では同じだし、「ペットになる」という点でも同じだ。つまり、猫や犬は、見た目や性質も違うが、「本質的に動物であり、ペットになりうる」という点で同じ、ということ。

こういうことが世の中にはたくさんある。たとえば、保険のセールスマンと、自動車ディーラーは違う仕事だが、本質的には「営業的な仕事」という点で共通している。保険のセールスでトップになれた人は、その仕事の本質を理解しているので、自動車ディーラーも務まるだろう。もちろん細部は違うが、本質を理解していれば、逆に「自動車ディーラーと保険の仕事の違い」がどういうところなのかを判別することができ、吸収速度が速い。
 
もうひとつの例を。最近はあまり聞かなくなったが、よく「パソコンで文字を打つよりも、ノートに手書きしたほうが思考の深度が高まる」みたいなことをよく聞く。しかし、本当にそうなのだろうか? ノートに手書きしたほうが確かに脳はたくさん使うかもしれないが、パソコンにキーボードで打ち込んだほうがたくさん文字が打てるし、漢字を思い出す必要もないから、より思考に脳の力を割けるような気がする。それこそ「本質的には同じ」なのではないか、と思うのだが……。
 
もしそれが違うのならば、なぜ違うのか、どう違うのかというのを議論しないと、議論にならないな、と思う。手書きノート派の人は、しばしば手をたくさん動かすから脳を刺激するということを主張するのだけれど、キーボードだって指を使って打ち込んでるわけで、同じじゃないのかなぁ、とも思う。また、ソクラテスは文字を書くよりも対話を思考を深めるために活用したとも言われるので、「お前はソクラテスよりも思考の深度が深いのか?」と突っ込んでやりたくなる。
 
僕が話をしにくいのは、こういう場面で、「パソコンでメモをとるよりも、手書きのほうが間違いなく良い」と無条件で主張するような人だ。「手書き」と「パソコン」の本質的に同一である部分、そして本質的に異質である部分を切り分けて考えないと、議論ができないのに……と。もっとも、そういう人にはこういう話をしてもなかなか理解されないし、してもらおうとも思わないからあまり話さない(だから会話が続かない)。

抽象的な思想の最たるものは仏教だな、と思う。仏教の真理をもっともわかりやすく記した経典として「般若心経」があるが、それには以下の文言が登場する。

色即是空 空即是色
 
これは究極の抽象思考だ。「色」は森羅万象、つまりモノや現象のこと。「空」は実体がないこと。つまり、森羅万象には実体がなく、逆に実体がないものが森羅万象を構成している、ということを、たった8文字で表現している。
 
もう抽象的すぎて高度すぎるのだが、万物のあらゆるものや現象は分解していくと実体がなくなり、その実体がないものが寄り集まって万物を形成している、と。
 
本質的に「同じ」ものは何か。そして、本質的に「違う」ものは何か。これを切り分けて思考できるようになることで、思考の柔軟性や、精度は増すだろう。それを獲得できるかどうかで、頭の良し悪しは分かれるように思う。(執筆時間16分38秒)

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。