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伝統宗教がんばって

周囲を見渡すと、心のバランスを崩した人って、けっこういるなあ、と思う。うちの会社も、もともとうつ病だった人がだいぶ前に入社してきて、一年ぐらい働いていたのだが、うつが再発したということで、休職したのちに退職していった。いまはだいぶよくなって、もっとのんびりしたところで事務職として働いているらしいが。元気でやっていてほしいと思う。
 
僕は鈍感なのか、神経が図太いのかわからないが、病気にかかったことはない(今のところは)。気分の落ち込みがずっと続くということは基本的になく、瞬間的に落ち込みはするものの、時間が経つと戻っていく。「真面目な人」ほど精神的に参りやすいというから、たぶん本質的に適当な性格というか、不真面目なのだろう。かなり大雑把に生きている自覚はある。
 
精神的に落ち込むと、人は何かに縋りたくなる。あるいは、世界の真実を知りたくなる。頭のいい人は、世界に失望したとき、何か強大な「真実」を解き明かしたくなるらしい。ここが本当の世界ではなく、真理は別のところにあるのだ、と。オウム真理教なんかは、そのあたりの優秀な人たちを拐かして勧誘していたのだろう。
 
いまはイスラム国というのはほぼ壊滅状態にあるらしいのだが、過激派のテロリストは、よくヨーロッパの精神病院で、戦闘員のリクルーティングをしていたらしい。精神的に参っている若者に声をかけて、ジハード(聖戦)に参加すれば天国にいける、と甘言を持ちかける。この世界が間違っているのだから、聖戦に参加するべきだ、と。人は強大な真実の物語を欲しているし、自分が信じるものがあれば、それに向かってまっすぐに向かっていける。そうした若者たちが、イスラム過激派の戦闘員として身を投じていく。

東京にはけっこうな数の心療内科があって、駅前をよく見ると実はここにも、という発見が多い。精神病患者が身近に何人もいたぐらいなのだから、本当にものすごい数の患者がいるのだろう。
 
ただ、ひとつ思うのは、人々の心の救済をしてきたのは、昔からある伝統的な宗教の役割だったはずだ。精神病院に行ってカウンセリングを受けるのもいいけれど、自分の宗派のお寺や教会が傷ついた人々の心を癒す場所になるべきなのでは、ということをたまに考える。そういった心の隙間を突いて、たくさんの新興宗教があると思うのだけれど(よく駅前にいますね)、新興宗教に頼るぐらいならば、伝統的な宗教のほうがまだいいよな、ということも思う(新興宗教も、キリスト系、仏教系、神道系など伝統宗教の宗派のひとつであることが多い。ここでいうと『新興宗教』とは、比較的最近できた宗派の意)。

考えてみれば、お金や法律や国家も、「みんなが価値あるもの」として共通に意識しているという点では宗教と同じだ。それにすがっている人も多いのだろう。日本人は無宗教だとよく言うけれど、わりと最近になって発明された新興宗教に毒されているのではないだろうか。伝統宗教にもうちょっと頑張ってほしいな、と思う。(執筆時間12分50秒)

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