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言葉はいつだってデジタル

聞いたところによれば、クックパッドの業績が傾いているらしい。原因はいくつか考えられると思うのだが、そのうちのひとつがちょっと衝撃的だった。「文字を読むのがだるい人が増えた」というのである。「文字ベースのクックパッドよりも、YouTubeで料理動画みたほうが早いし、わかりやすいし」ということのようだ。なるほど! 確かにクックパッドはだるい! 僕もYouTubeを見てこないだフレンチトーストを作ったので、気持ちはよくわかるんだ。
 
何回もここで書いていることではあるが、YouTubeが本当に加速しているな、と思う。YouTuberが大学生の延長みたいな企画をやっているのはまあ、こういうコンテンツもありだよな、と思っていた程度だったのだけれど、最近、それまではブログや書籍で言論を語っていた人たちが、YouTubeを使って「言論」を展開するようになってきたので、いよいよか……と感じている。
 
これは本当に流れとしてはかなり自然なのだけれど、そのうち、本一冊を、「書き下ろし」ではなくYouTubeで「語り下ろす」人が出てくるのではないか。そんな気がしてくる。ここにきて、琵琶法師というか、吟遊詩人みたいに、物語を口頭伝承していく人も出てきたりして。時代がテクノロジーの力を借りて、何千年単位で逆戻りしている、時代の潮流を感じる。

少し、「言葉」について考えてみる。正直なところ、YouTubeで語りをしようが、ブログで文字を書こうが、根本となるのは「言葉」だ。ハリウッドの大作映画だって、まず最初に企画書があり、立案した人がプレゼンテーションをすることによって実現するのだろう(知らんけど)。ここでも、やっぱり「言葉」が重要になる。
 
言葉というのは、デジタルなものだ。物事を、スパッと、あるいは曖昧に「切り取る」。「切り取る」ことによって、連続性を失わせることが、「デジタル」ということだ。この対義語が、もちろん、アナログになる。これは、「連続性がある」の意。
 
現実世界はアナログだ。たとえば、「雨」について考えてみる。「雨」というのは、いうまでもなく、蒸発した水蒸気が冷えて、地上に水として降り注ぐことで、それ自体は単なる自然現象にすぎない。神さまが「雨」と名付けたわけではなく、人類が勝手にそれを「雨」と呼んでいるだけだ。
 
人類は、雨の強弱によって、呼び方を変えるようになった。日本語ならば、「にわか雨」「小雨」「豪雨」など。時期によって呼びかたを変えることもある。「桜雨」「五月雨」「秋雨」など。また、地上の気温によっては、水分が凍結することがあり、それを「雪」と呼ぶ。さらには、「狐の嫁入り」など、シチュエーションで名前が変わることもある。
 
自然現象はどこまでもアナログで、「量」が変化しているにすぎない。それを、見ている人間が、勝手に、それらを切り取って、名前をつけているだけなのだ。連続性がないものを「デジタル」と呼ぶので、言葉はデジタルなのである。
 
YouTuberが熱っぽく言葉を語るとき、それは「言葉」というデジタル情報だけでなく、「口調」「声色」「表情」「音量」「音程」など、さまざまなアナログ要素(連続性のある要素)が付与されているので、結果として情報量が多いのだろう。もちろん、実際に話しているときには劣るが、文字だけよりもアナログな表現なのだ。

言葉はデジタルだが、名前をつけることで、その概念を伝えやすくなるので、伝達の効率はいい。もしアナログ表現しか受け付けない人がいたとしたら、ものすごく伝達に時間がかかるだろう。何かを伝えるときに、いちいち動画を撮ってYouTubeにアップしなければならない(笑)。
 
デジタルなものでも、豊富に語彙を持ち、適切につなぎ合わせることができれば、それは滑らかになる(連続性を付与できる)。それが「語彙力」、「表現力」につながり、文章力とはそうしたものなのかな、と。
 
アナログ性の高いYouTubeに、文章だけのデジタルで対抗する。それはすなわち、「滑らかな文章を書く」ということになるだろう。
 
読みやすく、滑らかで、行間の想像を容易にする。それが「言葉」の美しさだ。文字メディアの可能性を模索していきたいですね(雑な締め)。(執筆時間20分2秒)

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