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ウォルト・ディズニーを知っているか?

ウォルト・ディズニーの伝記を読んだ。

ディズニーは僕にとって不思議な存在で、考えれば考えるほどよくわからなくなる。ディズニーランドという場所が浦安市にあって、そこに毎年大勢の人が押しかける。ディズニーの映画がときどき公開されて、僕の姪なんかはそれを好んで見ているし、ディズニーのグッズもたくさん持っている。ディズニー好きは世の中にたくさんいて、結果として巨額のお金が動いている。
 
にも関わらず、ウォルト・ディズニーという人物については、みんなあまり関心がないようだ。会社の同僚に、ディズニーのホテルで働いていた人がいるのだが、ディズニーランドの関連施設で働いている人は宗教的にディズニーを愛している人が多く、賃金の大半をディズニーにつぎ込んでいる人も珍しくないらしい。しかし話を聞いていると、その人たちの多くは「ディズニー的なもの」を愛しており、ウォルト・ディズニーを崇拝しているのは少数派であるようだ。
 
初期のミッキーのアニメを見ると、いまのイメージとの違いに驚く。「蒸気船ウィリー」という作品が初期のミッキーマウスの短編なのだが、そこで出てくるミッキーはいまのイメージとは似ても似つかない。暴力的で、サイコパスっぽくもある。しかもいまのイメージみたいに丸っこくない。だんだん、時間をかけて、いまのミッキーマウスのイメージに近づけていったのだ、ということがわかる。

ディズニーが好きで好きでたまらない人たちの心理はよくわからないが、想像することはできる。純粋にファンタジーというか、空想の世界を現実世界に持ってきたようなところが好きなのだろう、と思う。ウォルト・ディズニーの伝記を読むと、ディズニー自身もまさにそういったユートピアを求めていて、それを自分で生み出したかのように見える。初期のディズニーランドの中には、ウォルトが実際に住んでいた建物もあったらしい。ウォルトは現実が嫌になると、よくそこに逃げ込んだのだそうだ。
 
ディズニーは宗教だという人がいるが、僕もそうなのではないか、と思うことがある。本物の宗教と似ているのが、時間が経つにつれて、実態がねじ曲がり、それを信じる人のイメージの通りに偶像が変わっていってしまうところだ。
 
たとえばキリスト教はイエス・キリストという人物によってはじまった。キリストはいまでいうパレスチナのあたりで生まれたのだから、どう考えても中東の人の風貌をしているはずなのだが、絵画などで描かれるキリストは西洋人っぽい見た目をしている。キリスト教の信者は、中東の人の風貌だと不都合があると考えて、キリストの姿を西洋人にしたのだろう。

ディズニーのすごいところは、これだけのファンを虜にしながら、ウォルトの存在がとにかく希薄であることだ。少なくとも、僕は周りのディズニーファンの中で、ウォルト・ディズニーが好きだという人には会ったことがない。むしろ、ディズニー好きだと公言している人の中には、「本当の」ウォルトとは気が合わないんじゃないかな、と感じることのほうが多い。
 
とにかく不思議な存在なのだ、ディズニーというものは。「ディズニーファン」を公言する人に、ウォルト・ディズニーについてどれぐらい知っているのか、質問をしてみたいぐらい。(執筆時間15分19秒)

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