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おいしいトマトが食べたい

幻になった伊坪さんのトマト
 届いて1週間。そろそろ完熟。わが家に到着したときはヘタの緑は鮮やかで鋭く反って輝いていた。
 栃木県・那須塩原の伊坪さんが育てるトマトをはじめて食べたのは13年前。以来、毎年4月も中旬を過ぎると「そろそろだなぁ」と思い出す。その瞬間までうっかり忘れていたりする年もあるけれど、何かの拍子にいきなり思い出す。トマトは一年中手に入るものと錯覚氏ているのか「この時期にしかない」ということをついつい忘れてしまう。
 手元に届くのは5月中旬から6月中旬の約1ヵ月間。地元でアッという間に完売するので油断できない。
 5月は、静岡の杵塚さんと向島園から新茶案内が届いて、4月から「新茶もトマトもそろそろだ!」と独り言のようにつぶやいている。とはいっても、待ち遠しいのは仕方ない。それほどのトマトなのだ。
 ところが今年は6月中旬からやっと出荷できるという。しかも少量。伊坪さんは83歳。米とトマトを作っているが、さすがに体力的に厳しく、今年は作付け量を減らし、時期も遅らせたという。「高校教師の息子が定年後は継いでくれるかも知れないというが、それまでにはもう少し時間がかかる」という。
 どんなトマトかというと、まず手にとると表面のキメ細やかさに見とれる。つぎに「あれっ、 洗ったのに表面になにかついてる」という手触り感。パッと見ではわからないので、もう一度やさしく撫でるように触ると、産毛であることが判明。あとはトマトの香り。
 実は栽培しているビニールハウスに足を踏み入れても、爽やかな土と青々とした葉とトマトの香りだけなのだ。
 無農薬、無化学肥料栽培のハウスでも、普通はムッとむせるような空気に襲われる。でも、伊坪さんのハウスは思わず深呼吸してしまう。気持ちのよい爽やかな空気にあふれている。
 「自分の体にいい環境なら、トマトにもいいはずだという思いで続けています」と伊坪さん。
 気になる味は、でしゃばらない酸味(青臭さとツンとくる酸味がない)とまろやかで、あとに残らない切れのいい甘味。糖度は6%。甘すぎない。濃厚だけど爽やかなジューシーさあふれる果肉とすこし厚めの皮。料理するにしても調味料は、シンプルにほんの少しで、一気に複雑な味になる。そして保存がきく。 
 涼しいところに置いておけば2週間以上日持ちする。その間、日を追うごとに赤味が増し、味も濃くなっていきながら腐らない。これは余計な水気がなく、実が締まっている証拠。すべてのバランスが一個一個、いちいちできあがっている。ほめ過ぎ?
 それくらいおいしいのである。
 でも、去年とはあきらかに違う。いや、ことばで表現すると同じ表現になるけれど、酸味も甘さも、全体の味わいも違う。私は去年より今年の方がおいしいと思う。思い返せば毎年そう感じているようだ。
 私より数倍トマト大好きの妻のhaya さんも同じだ。毎年進化しているのだ。最近はどういうわけか、果物をはじめトマトもおいしさの基準が糖度、甘味になっているけれど、それはおいしさの幅が狭くなってしまい、モッタイナイことだ。
おいしさの種明かしをしよう 
 人が飲む漢方薬の煎じかすなどを土壌に入れた漢方農法で栽培している。漢方薬は病気の症状に対処療法的に直接作用させるのではなく、人が本来持っている自然治癒力を高めるもの。「人も植物も同じ」という視点から植物の自然治癒力を高める方法を人と同じ漢方薬で応用。「人が口にできるもので育った植物は安全」というシンプルな考えのもとだ。
 漢方農法をはじめて24年。それまでは農薬と化学肥料を使う慣行農法だった。だから土壌の体質を変えるのに3年を有した。不安の3年間だった。4年目から土壌も良くなっていった。害虫や病害が年々減っていき、うまいトマトができはじめた。それから20年。うまくないはずがない。
 そういえば以前、知人のバーテンダーがブラッディ・マリーに使うトマトジュースを探しているというので漢方トマトから作ればと紹介したら「ダメだ。これは使えない。うまくてモッタイナイ」という返事だった。
 地元も入れて400人以上の人から直接注文が入る。そのほとんどがリピーター。そして今年も誰だかはじめて食べる人がいる。そして来年はリピーターになっていることだろう。
「あっ、今年は出荷量が少ないのだ」
私は来年まで待ちきれないので、今日また今年3回目の注文をする。
 その伊坪さんがついに廃業した。

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