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トヨタの歴史と強さの源泉を描いた意欲作「トヨタ物語」

言わずと知れた日本を代表する企業「トヨタ自動車」の創業から2000年代に至るまでの歴史、企業文化、トヨタ生産方式、などについて幅広く触れた意欲作です。

今自分は大手製造業をはじめとしたB向けにソフトウェアプロダクトを開発・提供する仕事をしているのですが、となれば当然トヨタ自動車については知っておかないとマズイよなーとふと思い、手に取りました。

18章からなるかなり長い一冊ですが、とにかくめちゃくちゃ面白くて一気に読み進めてしまいました。

個人的な見どころポイントは以下3つ。
1.) 戦後復興時に倒産しかけるもどうにか復活
2.) トヨタ生産方式と受け継がれるカイゼン文化
3.) アメリカ進出と世界No.1自動車メーカーになるまで

ハイライトした箇所が多すぎて抜粋するのも大変なんですが、がんばって印象に残ったところだけを以下に抜粋コメントしていきます。

トヨタ生産方式の基本的な考え方は戦前、創業者の豊田喜一郎が描いた。彼はアメリカに負けない国産車を作ることを志したが、戦争によって中断を余儀なくされる。しかし、喜一郎は 挫けず、戦後、「3年でアメリカに追いつけ」と取締役の豊田英二に命じた。英二は機械工場にいた大野耐一を呼び、新しい生産システムの開発に取り組んだ。

大野はゼネラル・モーターズ(GM)、フォード、クライスラーの脅威に危機感を抱いていた。なんといっても、終戦直後はアメリカの自動車会社が一日に1000台つくるところをトヨタは数か月かかって、やっとその台数を作っていたのだから。そういった状態からスタートして、トヨタはいまや世界ナンバーワンの生産実績をあげるようになった。

1949年、日銀総裁だった 一 万 田 尚 登 は「アメリカの乗用車と競争するのは困難」と述べている。鉄鋼、炭鉱、造船、鉄道などの主要産業に比べれば自動車産業は格下の業界であり、食うや食わずの国民から集めた貴重な資金を投ずる産業ではないと思っていたのである。

戦後のトヨタとアメリカの自動車メーカの実力差、日本の自動車産業の世間的な位置づけは印象的。

「今日やっている仕事を疑い、明日のためにくふうを凝らすシステム」 。働く者は自分で考えながら作業のムダをなくす。そうして他社より品質がよくて安いものを作る。すると消費者が買ってくれる。会社が儲かって賃金が上がる。 「なんだ、そんなこと、どこでもやってるじゃないか」 そうだろうか。世の中の多くの現場の労働者は何も考えずに、昨日と同じことを今日もまたやっている。朝、会社に来て、「よし、昨日やっていたことをまず分析しよう。ムダをなくして能率よくしよう」。毎日、そうやり続けている人間はどれほどいるだろうか。それをシステムとして職場に定着させるには並々ならぬ努力とくふうがいる。大野はそれをやった。繊維、軽工業、造船、家電、自動車とこれまで世界に出て行ったメイド・イン・ジャパンの製品はいくつもある。だが、生産方式で世界に認められたのはトヨタ生産方式だけだ。

トヨタ生産方式は小手先のテクニックではなくて「今日の仕事を疑って明日のために工夫するシステム」。

トヨタ自動車設立前、『価格は市場で決まる』という考え方のもと、原価低減目標やそのための施策を進めている。ゼネラルモーターズ(GM)やフォードの日本国内での販売価格から詳細に原価を割り出し、市場で戦える必要な生産台数を計算していたのだ。しかし、量産効果ひとつとっても、当時は欧米メーカーと大きな差があった。そこで、『必要なものを、必要なときに、必要なだけ』、すなわち『ジャスト・イン・タイム』という考え方を、新たにつくった 挙母工場(現・本社工場)で試行したのだ。これは中間在庫を持たない新しい生産方式であり、コストカットの発想によるものではない。市場が求める価格になるまで皆で知恵を絞って取り組む『原価との闘い』だった。

トヨタ車は、乗用車もトラックもGMやフォードの車よりも性能では劣っていた。そのうえサービス店も少ない。故障だって多かった。それなのに価格はアメリカ車よりも高かったのである。さらにトヨタ車を広めようと思ったら、製造原価を下げて、安い車を作るしかなかったのである。生まれたての弱小自動車会社が生きのびるためには、ムダをなくし、作業効率を上げるしかない。ジャスト・イン・タイムを実現するしかなかった。

「ジャスト・イン・タイム」は、顧客が求める価格を実現するために弱小ベンチャーがやるしかなかった「原価との戦い」。

敗戦時、トヨタには9500人が働いていた。敗戦直後の会社経営者は誰もが「どうやって社員を食わせていくか」を考えなくてはならなかったのである。喜一郎は多角化をすすめた。英二は瀬戸物の研究をやることになった。章一郎は北海道の稚内まで出かけていって、かまぼこ、ちくわの工場に勤めた。数か月後、やっと名古屋に戻ったと思ったら、今度は「お前は住宅の仕事をしろ」と命じられた。他の幹部たちにも、それぞれ課題が与えられた。ある幹部はどじょうの養殖を始めた。しかし、いずれも成功をおさめたとはいいがたい。形になったのは章一郎が取り組んだ住宅建設くらいで、これは後にトヨタホームという会社になる。

戦後トヨタは雇用を守って生き延びるために自動車以外の事業に多角化していた。

大野は増え続ける保管スペースに危機感を持った。トヨタでは、このままフォード・システムの亜流を続けていいのかと大いに疑問を持ったのである。 「いったい、アメリカでは膨れ上がる中間在庫をどうやって解決しているのだろうか」 大野はつねにジャスト・イン・タイムの実現を考えていた。もう一度、フォード・システムを徹底的に理解してみようと思ったのである。

製造工場の効率化を進めたフォード・システムだったが、喜一郎や大野は疑問を持っていた。喜一郎は「日本の自動車マーケットに1車種だけを大量生産するシステムは合わない」と思ったし、大野は「大量生産でコストを安くするには前提条件がある」と考えた。大野はフォード・システムを調べ、ある仮説を立てた。 「アメリカは少品種を大量生産すればいい。ところが日本は少量生産だ。そのままフォード・システムを移植しても機能しないのではないか。」

アメリカでは車を作ればすぐに売れる。しかし、敗戦で疲弊した日本では右から左へ車は売れていかない。 たくさん作れば、倉庫を建てて、しまっておかなくてはならん。倉庫代はかかるし、しまっておいたものはいずれ不良品になる。 吹けば飛ぶようなトヨタがビッグ3と同じ生産のやり方をしても、勝てるわけがない。まず断行したのは中間倉庫の廃止だった。ジャスト・イン・タイムを実現するには、機械工場では必要な数だけ部品を作り、それを組み立て工場に持っていくしかない。

トヨタ生産方式を確立させた大野耐一は、当時世界のスタンダードだったフォード・システムを徹底研究し、疑って、そこから日本に合った独自の「ジャスト・イン・タイム」を築いていった。

朝鮮戦争が勃発し、特需が発生したのだった。隣国にとっては大惨事だったが、日本経済には特需をもたらし、戦争の間、現在の水準にして約 20 兆円から 30 兆円の有効需要が続いたとされる。日本国内の景気はこれで一気に回復した。

悲しいかな技術や事業は戦争の特需で大幅に伸びたり復活するのが歴史の常…

トヨタ生産方式の導入で現場が抵抗したのは他人から見られること、自分の仕事のムダな部分があらわになること、そして、現在やっている作業を変えることへの恐れからだった。いつまでも現状維持で働いていたい……、それが本音だった。大野たち一派が闘っていたのはトヨタの社内ではなく、現状維持をよしとする日本社会の風土だった。

トヨタ生産方式の指導は現場を観察することから始まります。答えを出すにはまず根気強く観察する。そうしてやっと頭のなかにカイゼンの提案が生まれてくる。しかし、いくらいい案でも現場の人たちが理解してくれなければ実践できません。誰も助けてはくれないから、自ら現場に溶け込んで味方を作るしかない。

昨今のDXにも通ずる話。

大野の考えが石油危機で脚光を浴びたのは、トヨタが利益を減らさなかったことと、単純な大量生産とは相いれないトヨタ生産方式の思想が時代にぴったり合っていたからだ。こうしてトヨタはふたつの危機を乗り切った。同社の歴史を見ると、危機の連続だ。創業時の自動車開発の苦労、戦時の統制経済への対処、倒産危機、労働争議などせっぱつまった状況が続いた。だが、その度に危機以前よりも強い筋肉をつけて成長していた。

石油危機がきっかけでトヨタ生産方式の強さが世界的に注目されるようになった。

協力会社のうち、ティア1と呼ばれるのはデンソー、アイシン精機といった巨大な協力会社で、部品はトヨタに納める。ティア2以降には、デンソーなどのティア1の企業に製品を納める会社が数多くある。生産調査室がトヨタ生産方式を協力会社に導入する場合、ティア1に限らず、上流までさかのぼってカイゼンしないと、トータルで部品納入のリードタイムは短縮しない。そこで、お父さん、お母さんだけが働いているような小さな工場へも無償で指導に行くのである。

指導員が小さな企業へ行くと、たいてい、次のような反発を受ける。 「大トヨタにはできてもうちの会社では無理だ」 「トヨタの社員は優秀だからできるだろうけれど、私たちにはできない」 そこで、「なぜ、できないんだ」と怒鳴る指導員は最低だ。「自分には無理」という人たちに対しては「そんなことないですよ」と笑って語りかける。そして、彼らの立場に共感する「私も同じでした。私も何度も同じような壁にぶつかりました。」そう伝えると、相手も聞く耳を持つようになる。

ティア2以降の町工場にもトヨタ生産方式を伝授する徹底ぶり、すごい。

大野は現場に感謝し、作業者を愛し、現場に入り込んで、とことん一緒に考えるリーダーを育てたかった。

大野が残したものをあらためて考えてみると、それは人材だった。鈴村をはじめ、トヨタ生産方式を伝道してきた社員たちが大野の遺産だ。

大野がまだトヨタに勤めていた頃の話だ。韓国へ出張し、釜山の生産性本部でトヨタ生産方式について講義を行ったことがあった。そこで「もっとも大切なことはすべてのことに疑問を持つこと」と語っている。

野は部下の答えをじっと聞く。部下が自分と同じ答えを出したら、烈火のごとく怒った。彼は部下が自分と同じレベルでは満足しない。部下がさらにいい答えを見つけなくては満足しないのである。「オレは教える側だから、オレの言うとおりにやれ」。彼はそんなことはひとことも言わなかった。大野の偉さはそこにあり、張、池渕、林、友山もまたその偉さを受け継いでいる。 「オレをびっくりさせてみろ」 大野が部下に言った言葉はそれだ。

本書では、大野耐一をはじめとするトヨタ初期の面々がどれだけ現場を重視していたかが描かれている。

赤字決算の2008年、GMの世界販売台数が落ち込んだためにトヨタは自動車会社として世界一の販売台数を記録した。喜一郎がゼロから車作りを始めて約 80 年、なんと世界でもっとも多くの台数を作る会社になったのである。 戦前、三井、三菱といった大財閥は自動車製造には決して乗り出さなかった。なかには「自動車はやらない」と明文化した財閥もあった。名古屋の田舎で織機製造をしていた喜一郎が「自動車をやる」と言った時はまるっきり相手にされなかったのだが、その会社が世界一になったのである。

アツイ。


こんな感じで、トヨタの創業、戦後の復活劇、トヨタ生産方式の誕生・確立、グローバル展開からの成長、までの約80年を描いた超意欲作でした。トヨタのこれまでの成り立ちを知るには最適な本だったなと思います。

トヨタの歴史や成り立ちについてもっと知りたい場合は、TBS制作の「リーダーズ」というドラマもおすすめです。創業者の豊田喜一郎をモデルにしたスペシャルドラマです。

Podcastではビジネスウォーズの「トヨタVSホンダ」の回も最高に面白いのでおすすめです。


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