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「嫌い」でつくれる結びつきは弱い

ぼくがまだ会社員だったときのこと。仕事終わりで同僚や先輩や上司と飲みに行ったりラーメンを食べに行ったりすると、そこでは決まって仕事関連の愚痴が話題としてでてきた。同僚と一緒のときは先輩や上司に対する愚痴、上司と一緒のときは取引先に対する愚痴。
その場にいる人同士で結託するためには、なにか共通の敵をつくらねばならない。誰もそんなことを明言はしなかったが、人間の本能に刻み込まれているかのように、その場にいない人に対する悪口は、その場にいる人たちの仲間意識を高めてくれる。

同僚や先輩たちとは、会社をやめると途端に疎遠になってしまった。仕事以外の共通項がないので、わざわざ会おうという理由が見当たらないし、会ったところで盛り上がる会話があるわけでもない。会社をやめたぼくにとって、元上司も元取引先も敵にはならない。我々に共通の敵はいなくなったのだ。

これは政治の問題でも同じことがいえて、政治の話題には「反対」で結びつく感覚がある。何かに対して反対しているというだけで、仲間意識が生まれる。いまの政治はグダグダですよね。政治家はアホですね。利権にまみれていますね。いやはや、全くそのとおりです。もしかして、我々は仲間になれるのではないですか?と。

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ウディ・アレンの映画『アニー・ホール』の冒頭で、あるジョークが紹介される。それは、人生は孤独でみじめだということを適確に表すものだ。

どこかのレストランに行ったふたりの女性。
食べ終わったあとひとりが「ここの食事はひどいわね」と言う。するともう一人が「本当にそうね、わかるわ」と相槌をうち、そのあと「量が少なすぎる」と言う。

何かに対する不満で仲良しになったつもり、わかりあえたつもりになっていても、その後の「では、どうしてほしいか?」という未来については意見が割れる。わかりあえたつもりになっても実はわかりあえていない。これがウディ・アレンの言う「孤独」である。わかりあえたと思った分、惨めさが増す。

五輪に反対、ということについても同じようなものを感じる。五輪に対してどのような意見を持ってもそれは自由だ。もともとぼくは石原慎太郎氏が都知事時代に「五輪やりたい」と言い出したときからずっと反対だった。いまどき五輪かよ、くだらねえアホかよと思っていたけど、そのうち、やるならやるでコンパクトにやれ、むしろ観光客増えるなら良いのかも、という意見に変わっていった。
まあそれはともかく、確かに現政権のやっていることは意味不明でグダグダだから、今度の選挙では政権与党にお灸をすえたり、さらにいけば政権を打倒できるかもしれない。しかし、たとえそれで政権をとれたとしても、どういう未来を望むかで仲間意識がないなら、そんなものはすぐに分裂するに決まっている。

2009年に民主党が政権をとったときも同じだった。官僚主義がムカつく、自民党がムカつくという意見で多くの人が仲間になったように感じたが、いざ民主党が政権をとったら未来への展望は実にバラバラで、結果的に民主党は分裂してしまった。そのときの失敗を反省することもできず、活かすこともできないまま、2021年まで来ている。そんな状態で「五輪反対」の旗だけ掲げて仲間意識をつくっても、その「みんな同じことを思ってますよ!」は幻想でしかない。未来の展望に関しては各自バラバラなのである。

2030年、2040年、みたいな言葉をタイトルに掲げた本が書店にはいくつも並んでいる。未来をどうしたいか、どうすべきかは実は多くのところで語られているのだろう。しかしSNSを見ればそんな話題はほとんどなく、今日や昨日の話題で盛り上がっている。見ている未来はせいぜい1ヶ月先である。たしかにそれは重要なことなんだろうけど、なにかにムカついているならそのパワーを、もっと先の、五輪後の未来に向けないと、いつまで経っても世の中は変わらない。会社をどうしたいかという展望もないまま会社に対する愚痴を言っていたぼくが、会社を変えなかったのと同じだ。

立憲民主党の枝野代表が、先日、党首討論後のインタビューで、「いま枝野さんが総理だったらどうしますか?」と聞かれたときの答えが印象的だった。枝野氏は「私が総理だったらそもそもこんな状態になっていません」と答えたのである。そりゃそうかもしれないが、しかし、政権を担うというのは、前の政権の負の遺産も引き継ぐということだろう。負の遺産をどうするか、という問いだったのに、「私だったら負の遺産をつくってない」というのは、球場外でモニターごしに試合を観戦している人だけが言える言葉である。それは新入社員が飲み屋で「うちの社長アホだから、会社もいよいよやばいね。全く困ったもんだよ」と愚痴るのとほとんど変わらない。

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