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書くでも描くでも

なにか大それたことを書きあげたいような気がして書けなくなる。書かないでいるといつの間にか時が過ぎていく。書くでも描くでも同じことが言える。

東村アキコさんのマンガ『かくかくしかじか』(全5巻)を読んだ。東村アキコさん本人の実際の体験をもとにしたマンガで、高校時代から通い始めた絵画教室の先生と東村さんの関係が描かれている。
『かくかくしかじか』は一貫してモノローグで描かれている。同じく東村さんのマンガ『東京タラレバ娘』にも主人公の女性たちが急に物思いにふけるシーンがあるが、『タラレバ娘』は現在進行形の物語なのに対し、『かくかくしかじか』はほとんど回想のため、より一層モノローグが多い。
過去の自分を思い返し、なぜ自分はあのときああいう態度をとったのかを考えて、過去の自分を批判的に見つめる。語り口は後悔の念に満ちていて、悲しげだ。

このマンガには東村さんがデビューした経緯や、売れるきっかけも描かれているが、個人的には絵画教室で出会う「石崎くん」の話が印象に残っている(印象に残っているというより、自分のことを思い出して痛々しかったというほうが正確ではある)。

東村さんが大学を卒業後に絵画教室を手伝っていた際、『キャプテン翼』の石崎くんのような、丸坊主で眉毛がつながった男の子が生徒として現れる。その彼が言う屁理屈に東村さんは応えられず、先生に相談する。その後、先生が石崎くんになにを言ったかはわからないが、石崎くんはあっという間に絵画教室をやめた。

そんな石崎くんが数年後に東村さんと再会したとき、東村さんは漫画家としてデビューしていた。石崎くんは東村さんをつかまえて、「オレ漫画家になろうと思ってるんすけど」と言い、どんな内容のマンガを描こうとしているかを話す。それはSFマンガで、構想は壮大である。東村さんは「描いたら見てあげるから」と言ってその場を去る。

しばらく経ったのち、東村さんの携帯に、石崎くんから「マンガ描けなかったっす」と連絡が入る。

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構想がいくら大きくても、描かなかったら意味がない。こういう話は良く聞くかもしれないが、良く聞くということはそれなりに多くの人が大きな構想を抱き、そのまま何もせずに終わっていくということでもある。

前回、積み上げることの重要性について書いた。毎日の積み重ねが大事だというただそれだけの内容だが、そもそも積み上がるものと積み上がらないものの違いはなにか?という疑問もある。それに対して前回は、知識と技術という観点で書いたと思う。知識なら吸収したものをコンパクトに整理しながら積み重ねていく。技術なら日々の練習とフィードバックで、徐々に昨日よりはうまくできるようになっていく。

『かくかくしかじか』の石崎くんは積み上げられなかった人である。知識も技術も積み重なっていない(実際はそこまでは描かれていないが)。しかし知識や技術以上に、もしかしたら大事なのは、人に見せられるものを積み上げていくことである。スケッチをたくさん描いて描いて描きまくれば、技術は習得できる(たぶん)。でもその先に、もっと大事なことがあって、それはその技術を使って、人に見せられる作品をつくることだ。その作品こそが、人生を前に進めてくれる。これが『かくかくしかじか』からぼくが受け取った教訓である。描かなければ人に見せられる作品をつくる技術は身につかない。しかし、その技術を使ってなにか作品をつくらなければ、その尊い「技術」は、結局なんの価値も生み出さない。そんなのは当たり前だと言われてしまうかもしれないが、ぼくみたいな能天気な人間だと、なかなか気づかずに歳をとってしまう。知っている人には当たり前のことかもしれないけど、知っていても体が動かない。遊びが忙しくて動かない。仕事が忙しくて動かない。そういうダメなケースはよくあって、その「沼」に落ちるか、抜け出すか、そもそも回避できるか。人生はその3パターンである。回避するのが一番良く、回避した人はどんどん先を行く。

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