人生は余命からは逆算できない
ジョブズの余命思考
いまは亡きスティーブ・ジョブズはかつて、「おまえの人生には限りがある。だから、他人の人生のために使って時間を無駄にするな」と言った。
そんなジョブズの語りとは無関係に日本では推し文化が花開いており、人々は推しのために人生の時間を費やす。
ジョブズは同じスピーチの中で、どうしたら時間を無駄にしないで済むか、具体的な方法も示していた。「毎朝、鏡の前に立ってこう自問するのだ。もし今日が人生最後の1日だとしたら、自分は何をするのか?と。」
これをぼくは「余命思考」と呼んでいる。
人生の時間を有意義に過ごすための方法論だが、これを聞いたときから余命思考には違和感があった。
余命が1日なら、まず家族や友人と過ごすのではないだろうか?自分の過去を振り返り、ひとり静かに過ごすという選択肢もあるだろう。
ビジネスピープルの逆算思考
仕事は逆算で考えるとスムーズに進みやすい、とはビジネス書でいろいろ語られていることだ。
まずは〆切を設定し、その日に間に合うようにプロジェクトを進めていく。最終〆切から逆算すれば、中間地点の〆切もおのずと見えてきて、今日1日に何をすべきかもわかるので、時間を無駄にしないで済む。
余命思考の派生。余命1日思考と余命1年思考
ジョブズの余命1日思考とは別に、余命1年思考というものもある。
余命1年だと決めて1年を有意義に過ごそうというものだ。
これも1日か1年かのちがいでジョブズと同じ考え方である。
余命を決めて激しく行動できる人はこれを使えば良いが、
ジョブズの余命1日思考の罠と同じく、余命が1年ならその残りの1年は毎日遊び歩いて過ごしてしまいたくなる人もいるだろう。「自分のために」時間を使っているのだからそれで良いかもしれないが、1年が過ぎて貯金を使い果たしたあと、まだ生きていることに気づいたとき、余命1年思考は終わりを遂げる。
死を意識したり忘れたりする人
2019年に耳下腺に腫瘍が見つかったとき、ぼくは死ぬことを初めて意識した。
しかし調べてみると、死のイメージがあるのはテレビドラマなどの影響が大きく、実際には医療の発展によって死の病ではなくなってきているようだった。
特に早期発見により、生存確率は大きく伸びるのだという。
その確率の多くは、がん患者が5年後に死んだかどうかの5年生存率というやつで示される。
がんと診断されたのち、5年後に生きている人数が全体の何割か。
その割合が5割くらいあると、「もはやがんは死の病ではありません」」と言われるようになる。
ただ5年生存率は、その患者が6年以上生きるかどうかは考慮していない。
だから6年目に死んでいる可能性ももちろんある。
そんなふうに死を意識したのも束の間、手術をして腫瘍を摘出したぼくは、すっかり死を忘れてしまう。
ふつうの寿命思考
おそらく多くの人は、自分は寿命で死ぬのだと思っているだろう。
だから老後の心配をして貯蓄したり投資したりする。「年金なんか入らなくたって知らねえよ。なるようにしかならねえ」と言っている人も、年金をもらう年齢までは生きるつもりなのだ。年金をもらうより前に死ぬはずです、と思っている人は少数派だろう。
どれくらい生きるかわからない/いつ死ぬかわからない
人間というか、生物の厄介なところは、どれくらい生きるかわからない点にある。
みじめな老後は過ごしたくないが、いまこの瞬間も充実させたい。
人間と遺伝子的に近いチンパンジーが、人間とちがうのは未来への不安のあるなしだという。
言い換えると、チンパンジーはいまこの瞬間に集中できる。人間は未来への不安が頭から離れないため、いまこの瞬間すら、気持ち半分で生きている。
チンパンジーの瞬発力を試す実験でそれがわかるのだそうだ(瞬間的な短期記憶がチンパンジーはすさまじい)。
余命が1日だとか1年だとか決める方法を知ったぼくは、「どうせ死ぬなら心穏やかに過ごそう」と考えてしまう。余命思考は自分を行動に駆り立てるどころか、行動を思いとどめる効果があるのだ。
繰り返すが、厄介なのは、自分の余命が1日なのか30年〜40年なのかわからないという問題を抱えていることだ。
確率的に数年は生きるだろう。だけど、いつ、何がきっかけで死ぬかはわからない。「1日と40年のあいだのどこかで死にます」という予言はたぶん当たるけど、具体的にはどこかわからない。
大事なのは、この「いつ死ぬかわからない」ということだ。
「40年生きると思う」という確信は老後の不安に押しつぶされて今に集中できないし、「1日で死ぬと思う」という確信は死への恐怖でまた何も手につかない。
でも実際の人生はその中間のどこかなのだ。中間のどこで死んでも後悔がないように生きないといけない。
予想できないからこそ
予想できない地点で死ぬのだからこそ、今日を大事にしようと思ったほうが良い。明日死ぬかもしれないからである。
ところが、明日も生きている可能性はあるから、明日死ぬつもりでは生きないほうが良い。
いつ死んでも良いようにしておかないといけないし、いつまでも生きるように備えないといけない。
不安と緊張の中間
結局とても凡庸な答えにはあるけど、あと40年は確実に生きるという長寿の不安も、1日で死ぬという緊張感ありすぎの感じもぼくには受け入れ難いのだ。
こんなことを考えているのは、2019年に摘出したはずの腫瘍が、再発したからなのであった。
2019年に見つかった腫瘍は、実際は3年後には再発して、ぼくは放射線治療の一種である重粒子線治療を受けた。
それもうまく行って、腫瘍は消えていたはずだが、今年また再発してしまった。3度目となるとさずがに精神的にまいり始め、オレの人生も終わりかなあと思って、自分の中に「余命」というキーワードが浮上してきたのであった。死を忘れたはずなのに、また死を思い出してしまったのである。
生存率の多くが、5年であることに気づいたのも、2019年から5年が経っていたからだ。つまり自分はこれから生存6年目という未知の領域に突入する。
しかし、先日また摘出手術を行い、とりあえず「クリーンな体です」と担当医に励まされたぼくは、すっかり死を忘れようとしている。
もうそれで間延びした日常を過ごしかけている。
あと40年は生きるのだという発想は、今日くらいダラダラ過ごしても良いという考えにつながる。ダラダラした日常が続くこと自体は幸福でもある。
死を意識していたころ、ぼくはむしろダラダラすることの喜びを強く感じていた。しかしダラダラは、数年続けば身の破滅にもなる。何もしていないなら仕事も金もなくなって、ダラダラすることすらできなくなってしまう。
これはまずいと思い、ダラけたい気持ちに鞭打って、余命思考について書いておくことにした。
結論
人はいつ死ぬかわからない。だからいま書けることを書いておかないといけない。いや、「いけない」ってこともない。でもこの文章を書けるのはいまの自分しかいないのだ。
人が余命を考える時、そこには「何年」という具体的な数字がついてくる。しかし実際には、余命がどれくらいかは不明なのである。
そして、「余命が不明だからこそ、今やれることは今やっておく」という方法論に気づいたのである。ということなのです。
(参考note)2019年に癌が見つかった時に書いたnoteです。
書いたのは翌年2020年。なぜ翌年に書いたかというと、手術の後遺症が半年くらい残っていて、いちいち人に知られたくないと思っていたから。
ちなみに今回の手術は後遺症もなく、手術の前も後も普通に仕事しています。
https://note.com/yagiwataru/n/n1c1ebb624c0a