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俯瞰的なものの見方が邪魔をする

映画をつくるには年単位の時間がかかる。本をつくるのも数ヶ月はかかる。CMも同じくらい時間がかかっている。そのわりに映画をみる時間は2時間かそこらで、本を読むにしても1ページ1分とすれば合計で数時間かければ1冊読み終わるだろう。CMなら数十秒で見終えてしまう。そして観終わったあと人は簡単に「ホニャホニャ」と自論を語り始める。

みる側の話

インターネットで簡単にレビューが書けるようになったのがいつからかだろう。いまではもう☆の数でなにかを評価するのが当たり前のことになっている。映画を観たり本を読んだりしてレビューを書こうとすると、そこには☆の数を入れる欄があり、☆が何個分の作品だったかを問われてしまう。はて、このような☆の数を決めるのは、作品を観賞する上で必要なことだっただろうか?

ぼくはこれまで、批評的なものの見方が必要だと思って生きてきた。いまでもその見方自体は必要だと考えている。
ぼくなりの定義をすると、批評とはあるものを別のものと比較して見比べることだ。だから作品Aしか知らない人は批評ができないが、作品Bを知ると批評ができるようになる。10個の作品を知れば、それを比較分類して作品分析ができるようになっていく。コンテンツが飽和状態になっている現代では、いろいろ観ているうちに自然と作品と作品を比較するようになる。批評的なものの見方が自然に身についていく、ということだ。
比較ができるのは、作品を俯瞰的に見ているということだが、別の言い方をすれば、「コンテンツに触れれば触れるほど、人は俯瞰的にものを見る癖がついてしまう」ということでもある。意図的に身につけようと思わなくても、「俯瞰的に見る癖がついてしまう」のだ。

つくる側の話

一方、作品をつくる方面では、何かが自然と身につくようにはなっていない。何も作らなくても生きられる世の中だからだ。だから世の中を見回したとき、見る人と比べてものを作る人は少ない。売れない作り手はいまも昔も腐るほどいるが、誰からも評価されず、なんの売上もたたないまま作り続けられる人は少ない。安い予算で映画を撮れる環境はあるのに、作る人は少ない。作ってもモトが取れないとあらかじめ判断してしまうからだ。なぜモトが取れないと判断してしまうのだろうか?その判断こそが、俯瞰的にものを見る力の副作用である。

個人的な話

2023年の4月から1年間、ひらめき☆マンガ教室というところに通っていた。ここではだいたい月に1個は16ページ以内でマンガを描く課題が出る。そのつど出されるテーマは変わるのだが、16ページ以内で描く点は変わらない。課題をやる上で、主任講師のさやわか先生からは「完成させることが大事」と何度も言われる。
課題に従ってマンガを何本か描いていくと、だんだん「自分が面白いと思うマンガが、どういう要素を持っているか」がわかってくる(これは批評的なものの見方)。だから自分でマンガを描くときも、そういう要素を作品に盛り込もうと考える。が、ここで創作上の最大の難関が訪れる。

自分の批評的な目と、自分の手が描ける作品の落差の凄まじさに気づいてしまうのだ。
あまりにも下手すぎる。批評家きどりで「あまり面白くないね」などと言って読むのをやめていたマンガより、もっと圧倒的に下手くそでつまらないマンガを自分が描いている。恐怖である。その恐ろしさに直面すると、「もう描くのをやめよう」と思ってしまう。批評的な見方をするもう1人の自分が「やめたほうが良い。つまらない。才能ないよ」と言ってくるのだ。

眼と手の戦い


現代はコンテンツに溢れた時代だ。コンテンツに触れるより先に意識的にものを作り始めたという人は少ないだろう。幼き頃からコンテンツに触れていたら、たまに坂本龍一みたいな人も現れる。
ただ、触れる一方で、ものを作る習慣を身につけておかないと、眼(批評)と手(創作)の乖離は広がるばかりだ。眼は自然と批評的になっていくのに、手は何も動かさなくても大丈夫(1日に何時間インプットに費やし、何時間をアウトプットにかけているかでわかる)。

眼は脳と連携して、手に「諦めろ」と促してくる。「創作は労力ばかりかかる。見返りが少ないだろう?」と。

ここで手を動かすことをやめた場合、残された批評眼はどこへ向かうのだろうか?
それは当然、他人の作品に、である。他人が数年かけて作ったものに「つまんね〜。☆2つ!」と断言できるようになっていく。別に長い時間かけて作ったものだから「厳しいことを言うの良くない」わけではない。現にひどい作品もあると思うし、それに、そんなことを言ってはいけないというルールもない。誰も止めない。
しかし、だからこそタチが悪いのだ。レビューサイトは☆をつけるように促してくる。「批判こそ愛」などの言い訳をしながら、あたかもヘッドコーチかのような佇まいで、創作側に批判を納得するよう押し付けるようになる。

批評家の盲点


ここでその批評家は、「なぜ自分にはできなかったか?」を考えることができない。なぜ自分は作品を作り上げることができなかったか?を考えられないのだ。

作品と作品を比較することはできるかもしれない。そこは批評家の得意分野だ。そこは見えているのだろう。しかし一部の批評家を除いて、多くのエセ批評家には見えていないものがある。
それは、「どのようにしてそれは作られたか?」「どのようにしてそれは完成したか?」である。批評家はそこを見逃している。それは作品という完成形だけを見ていてもわからないのだ。つくるプロセスを経て、経つづけている人だけが、その完成までのプロセスを想像できる。
批評家はその盲点に気づかず、見逃したまま語るから「えらそう」だし、見逃していることに気づいている人からすれば「滑稽」でもある。ただしその滑稽さを作り手から指摘されることはない。批評家は批評する以前にお客様だからだ。作り手からは「お客様のご意見は、今後の創作に反映させていただきます」と言われることだろう。
もちろん、批評家の言うこと全てが的外れなわけでもない。ぼくは批評眼が必要だとずっと思っている。でも見えてないものがあるということをわからずに、ヘッドコーチのフリをするのは恥ずかしいというだけのことだ。しかし恥の概念も失われた昨今。批評家ふぜいの人々は、今までどおり辛口レビューをつけ、高みの見物を続ける。辛口のレビューが、本当に正しいのか精査されることもなく…。

居場所がない

ビジネス界ではPDCAサイクルをまわそう、という言葉が言われるが、批評だけする人はそのサイクルの中にない。このサイクルの中に君の居場所はない。この「必要とされなさ」こそが批評家が本当にツラく、見ようとしていないところでもある(だから匿名のアカウントで辛辣な態度をとる)。
自分が作り手に回らない限り、せっかく培った批評眼は何にも活かされないのである。


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