【武器になる哲学】09 悪の陳腐さー悪事は、思考停止した「凡人」によってなされる

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレムで裁判を受け、処刑されます。

この裁判を傍聴していた哲学者のハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムのアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですね。

アーレントがここで意図しているのは、我々が「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。

悪とは、システムを無批判に受け入れることである
アーレント

その上でさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

究極的には世の中には次の二つの生き方があるということになります。

  1. 現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

  2. 現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語る上で大変重要なものだと思います。

「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。

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