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怪物

仕事がはやく終わったので、お気に入りのカフェで時間をつぶす。ちょうど客が私だけだったので、店員さんと話をする。最近混んでいることが多くなったけれど、夕方〜20時前くらいが穴場だと教えてもらう。
おひとりさま晩ごはんのおすすめも教えてもらうが、場所が遠くて今日はちょっと行けなさそう。映画の時間より少し早めに出て、晩ごはん代わりにクレープを食べる。ちょうどクレープの日で安かったのだ。

そうこうしていると、席に着いたのは開演ギリギリになってしまったが、冒頭で響くピアノの音がなぜかとても印象的で、ごく自然と映画の中の世界に惹き込まれた。

映画を観終えて、すべてを解説してほしい気持ちと、なにも聞きたくない気持ちと。この映画を観られてよかったなと思うけど、この映画が必要でなくなる日がくることが望むべき未来なのかなとも考えたり。

自分が良かれと思って言った言葉で誰かを傷つけてしまうことがとても怖い。映画の中でも描かれているように、それがなんでもない日常のなかにある話だと言うことが怖い。
「そんなつもりじゃなかった」が、誰かをもうどうしようもないところまで追い込んでしまうかもしれないというのに。
車の中で母が湊にかけた言葉。『湊が結婚するまでお母さん頑張るってお父さんと約束したの。』
1度目と2度目のシーンでこの言葉に対する印象はまったく異なった。はじめは「母の愛がどうか湊に伝われば。」そう思っていたけれど、2度目は「あぁ、もうやめて。なにも言わないで。」という気持ちに。

というのも、2度目のシーンでこの言葉を聞いたとき、わたしは母から「もうそろそろ結婚しなきゃね」と声をかけられたことを思い出した。
いつもなら受け流すことのできる言葉なのに、ちょうどいろいろ思うところがあった時期と重なり、この言葉で心がグッと暗いところに引きずり込まれるような感覚で苦しくなったことがある。
わたしはこの言葉に対して、母(親)のエゴだなとも、娘を心配する親心だなとも思っている。
ただ、後者の要素があると理解していても、言い方やタイミングを誤ると、わたしがそうであったように傷つくこともあるわけで。むしろ私のための言葉ということが、より苦しみを倍増させることもあるわけで。湊も似たような気持ちだったんじゃないのかな。

もちろん自分が母のような立場になることだってもちろんある。
実際に相手に確認したわけではないけれど、例を挙げるとキリがないほど、発言してから「あの言葉相手を傷つけちゃったかな」など思いあたる節がある。自分が気づかない間に自分の発言で誰かを傷つけていることだってきっとある。

相手への尊敬や思いやりがあったとしても、無知であったり自分事になっていなければ、やっぱりどうしてもこういうことって起こってしまう。
知らないことに対して思いを馳せることはできないし、「知識として知っていること」と「自然と考えが及ぶこと」の間には大きな隔たりがあるのだ。とわたしは思う。

多様性が叫ばれる昨今、発言しづらくなったなぁと居心地の悪さを感じることもあるけれど、きっとそれは過渡期だからだ。誰かを傷つけるよりは全然いい。
過渡期の先はどんな未来なんだろう。そんなの可能なのかと思うけれど、みんなが必要のない苦しみに苦しむことがなくなるといいな。

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