第八章 蛇の娘①
目次とあらすじ
前回:第七章 永劫の彼方③
「姉さん! スヴェ姉さん!」
真っ暗な夜だというのに、村に近付くスヴェの姿を見つけるや否や、蛇の亜人の幼い娘は、凄まじい速さで地を這ってきた。
上半身には動物の革を使った簡素な服を着ており、長めの腰巻の下からは蛇の尾が伸びていた。
スヴェが上半身を受け止めると、ラフィは鱗で覆われた下半身をぐるぐると巻きつけてきた。
レムレース族の蛇の下半身は長く、スヴェの身長の三倍はある。
「ラフィ、これじゃ動けない」
「いいじゃない! 久しぶりなんだし!」
「寂しかったの?」
「当たり前でしょ! 馬鹿にしないでよ!」
スヴェは興奮気味の妹に少々困惑したが、いつものことかと諦め、頭を撫でた。
ラフィは嬉しそうに目を細めた。
◇
スヴェがレムレース族の村に戻ったのは、五十日ぶりであった。
族長に挨拶をして、この旅で得られた情報を伝えた。
族長はウルドの国王の死に驚いていた。
「集会を開かねばならんな」
族長のアンゼスは腕を組んで言った。
「そんなに問題?」
「シノームル王は我ら亜人種に対して、非常に好意的な姿勢を示して下さる方だった。これからはどうなるか分からん」
「……人間は、面倒ごとばかりだね」
「スヴェリア」アンゼスは険しい顔をした。「人間にも良い者とそうでない者がいることは、良く分かっている。そして、お前は良い人間であり、我が一族の誇りであることに変わりはない」
「……ありがとう。父さん」
「長旅、ご苦労だった。今日はもう休んだほうがいい」
「そうする」
スヴェはアンゼスの部屋を出て、狭い自室へ戻った。
木と泥で出来た簡素な家で、この沼地にはそこら中にある。
人間たちが住むような家屋ではなく、天井は低く、ほとんど眠るためだけに使われるものだった。
藁の寝台の上には、妹がとぐろを巻いて横になっていた。
「姉さん、おかえり」
「自分のところで寝なさいよ」
「いいじゃない!」
ラフィは憤慨した様子で言った。
スヴェは幼い頃にアンゼスに拾われて以来、この家の一員として生活している。
血は繋がっていないが、ラフィは確かにスヴェの妹だった。
「お話、長かったね」
「ラフィもそろそろ『集会』に参加しなよ」
「難しい話は嫌い」
「次の族長が、なに言ってるのよ」
「姉さんが継ぐんじゃないの?」
「馬鹿ね」スヴェは髪紐を解き、長い黒髪を開放してから、ラフィの隣へ並ぶように寝台の上へ転がった。「人間がどうしてレムレース族の族長になるの」
「だって姉さん一番強いし」
「魔法具のおかげ」
「姉さんだって、父さんの娘でしょ?」
スヴェはラフィの短い髪をくしゃくしゃと撫でた。「ええ、そうね。でも、やっぱりあなたが族長をやるべきね」
「姉さん、何かあった?」ラフィは目を細めた。
「何って……」
スヴェは手を止めて妹の顔を覗き込んだ。
ラフィはレムレース族の中でも血が濃く、特殊な魔法を扱う潜在能力を秘めていると言われている。
血の繋がらないこの妹は、自分とは違う世界が見えている。
スヴェは常日頃からそう思っていた。
「奇妙な夢を見たの」
気がつけば、スヴェは口を開いていた。
「夢?」
「王都を出る直前くらいから」スヴェは額を押さえた。「私は、ウルドの少年兵を助けるの。それで、その子に魔法具の使い方を教えながら、レムレースの集落目指して旅をする。まるで、本当にあったことを思い出すような気分で……」
ラフィは腕を組んで考え込むように唸った。
「何度も同じ夢なの。こういうのって、イヴェル様から何か聞いてたりしない?」
「大ばあちゃん?」
「そう。何か分かる?」
「さぁ?」ラフィはあっさり言った。「変な夢ってだけじゃない?」
気の抜けた態度のラフィを見て、スヴェは肩透かしを食らった気分になった。
真面目に考えていたのが急に馬鹿馬鹿しくなって、スヴェは寝台に寝転んだ。
そう、所詮は夢のなかの出来事に過ぎない。
◇
胸騒ぎがして、スヴェは寝台の上で体を起こした。
一瞬で意識が覚醒する。
見れば、同じ寝台で寝ていたはずの妹がいない。
部屋の中を見回すと、中空へ視線を向けるラフィの姿があった。
目は空ろで、表情は氷のようだ。
妹のこんな様子は初めて見た。
「ラフィ?」
スヴェはラフィに近付いたが、反応はない。
「どうしたの?」
ラフィは口を開いたが、聞いたこともない言語だった。
ぞっとするような冷たい声によって意味不明な音の羅列が続き、スヴェは恐怖に耐えられなくなってラフィの肩に触れた。
ラフィの目は正気を取り戻し、たった今眠りから覚めたかのような表情でスヴェを見た。
「……姉さん? なに、どうしたの?」
「なんともない?」
「何が?」
「何も覚えてないの?」
「だから、何が?」
「ここにいて」
スヴェはそれだけ言うと、<月影>を持って家の外へ出た。
背後から呼び止める声がした。
夜空は雲で覆われており、沼地は真っ暗だったが、魔法具を持つスヴェには問題なかった。
山の奥で、異様な魔物の気配がする。
これまで感じたことのないものだ。このあたりの魔物ではないのかもしれない。
原因はあれだろうか。
「行くでない」
焦燥感に突き動かされて集落の広場を通過しようとすると、掠れた声に呼び止められた。
振り返ると、老婆がスヴェに近寄ってきていた。
その顔には深いしわが刻まれており、生きてきた年月の長さを感じさせた。
背後には傍仕えの若い娘がおり、老婆の後ろにぴったりと控えている。
「アンゼスの若造に言って、皆をここへ集めさせよ。急げ」老婆がそういうと、娘は老婆の下を離れていった。
「イヴェル様、ラフィが……」
「分かっておるともスヴェリア。紅蓮竜が目覚めたのだ。ラフィリアはそれに反応した」
「竜?」
イヴェルは薄く眼を開いた。
もう何百年も生きており、この地で起きてきた長い歴史を、口伝ではなく身をもった体験として知っている。
一族の中でこの老婆に敬意を払わない者はいない。
「これより我らは集落を放棄し、王都へ向かい南下する。それ以外に生き残る道はない」
「竜は、……実在するの?」
「人種は五百年も生きられない。親から子へ語り継がれはするが、かつての災厄の記憶は劣化する……。かつてはこの地にも多くの種がおり、レムレース族も含めて、自らの生まれの地を守るために戦った。生き残ったのは、ごく僅かだ」
「イヴェル様」
傍仕えの娘が戻ってきた。「アンゼス様は、すぐに準備に取り掛かるそうです」
「間に合えば良いが……」
イヴェルは山の奥へ目を向けた。
「竜の目的はなに?」スヴェはたずねた。「どうして今目覚めたの?」
「王都で王位継承争いがあったと言っていたな。おそらくは、ウルド様の魔法に反応して……」イヴェルはそこまで言って首を振った。「いや、推測にすぎんか……。分かっているのは、竜は敵を探しているということ」
「敵?」
「竜は戦う相手を求めている。この時代に、自分と対等の者がいないと分かるまで、暴れ回るだろう」
◇
朝を待たず、レムレース族の大移動が始まった。
非常時の食料などを持ち出し、女や子供を守るようにして男たちは武器を取った。
これから住み慣れた集落を離れ、人種の領地へ移動することになる。
そこでどんな騒動が起こるのかは想像に難くない。
族長が一族の滅びを避けようとしていることは皆も理解しているが、それ以上に不安が大きかった。
そもそもこの沼地に戻ることは出来るのか。
イヴェルの話によれば、この避難は竜が眠りにつくまでという話だが、一体それは何時になるのだろうか。
だがその不安の矛先はほどなくして反転する。
イヴェルの言葉で族長が動き、最低限の荷をまとめ、皆が移動を開始した直後のことである。
紅蓮竜の山の奥地で巨大な爆発と振動が起き、この世界の全ての魔物を集めて煮詰めたような、おぞましい魔力が放たれたのだ。
一刻も早くこの場所から離れ、安全な場所へ逃げなければ。
スヴェは皆の感情を鋭敏に感じ取った。
混乱が起きなかったのは、族長であるアンゼスの力量によるところが大きい。
しっかりと皆を纏め上げて、先頭で集団を率いていた。
なるべく魔物領を避けてはいたが、紅蓮竜の山から離れることの方が優先だった。
魔物との戦闘を幾度か繰り返していたが、苦戦するようなことはなかった。
レムレース族は伊達に紅蓮竜の山の麓で生活していたわけではないのだ。
竜の強烈な気配は山から動こうとせず、皆は竜が移動していないことを喜んでいたが、イヴェルは不思議がっていた。
「ラフィリア、どう考える? なぜ竜は動かない?」
「大ばあちゃん、私が分かるわけないでしょ」
ラフィは困ったように言った。
「よいか、ラフィリア。お前にはレムレースの血が特に濃く受け継がれている。お前には見えることがあるはずだ」
「あーあー、またその話?」ラフィはわざとらしく腕を組み、蛇の尾を振った。「わかんないものはわかんないよ」
「しかし現にお前は『未来視』の力に目覚めたと――」
「覚えてないもん」ラフィは目をそらした。
「ラフィ。イヴェル様の言うことを聞いて」
スヴェが言うと、ラフィは叱られた子のような顔をした。
それから溜息をついて、自分の尾の先を指先でもてあそんだ。
「……あー、その、動かないんでしょ? 竜は」
「そうだ」イヴェルは頷いた。
「竜の目的は、強い敵と戦うこと、なんでしょ? じゃあ、もう戦ってるんじゃない?」
「竜に匹敵する何かが、いるというのか?」イヴェルは大きく目を見開いた。
「多分」
ラフィはそう言った。
次回:蛇の娘②
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