【クリーチャーの恋人】1-2 張り付く影
昼になり、講義終了を示すベルが鳴った。
柏木は顔を上げた。
講義の内容はまったく頭に入ってこなかった。
学生たちが一斉に立ち上がり、我先にと広い講義室から退室していく。
教員はノートパソコンを閉じ、気だるげに荷物をまとめていた。
柏木の講義ノートには、ついさっきまで書き込んでいた落書きがあった。
美女が化け物の塊に変貌していく精巧な絵だった。
赤や青のボールペンで色が付き、陰影が丁寧に書き込まれていて立体感があった。
「飯行こうぜ」
前の方の席に座っていた久保塚が、最後列の柏木の元に来て言った。
久保塚は柏木の落書きに目を落とした。
「うっわ、そりゃホラーか? それともSF?」
柏木は慌ててノートを閉じた。
「なんでもない」
「あの後も飲んでたのか」
「まぁな」
「完全に死んでるなぁ」
久保塚が笑った。
「昨日の戦果はラーメンでも食いながら教えてもらおうか」
――――――・――――――・――――――
食堂は今日も学生で混み合い、がやがやとうるさかった。
長テーブルがいくつも並び、料理を乗せた盆を持った学生たちが行き来している。
柏木の目の前では、久保塚が安い醤油ラーメンをテーブルですすっていた。
久保塚は背こそ高くないが、がっちりと肉厚な体格の男だった。
首も腕も太く、ラグビー選手であってもおかしくない風貌だ。
それに比べれば柏木は、すこし背が高いだけで、風が吹けば飛んで行ってしまいそうな、ひょろりとした男だった。
今日は顔色の悪さも相まって、今にも死にそうな病人のようだ。
柏木と久保塚の隣を、女学生の集団が通りがかった。
「うーわっ、ひっどい顔だぁ」
「大丈夫?」
「まーた飲み過ぎたんでしょ!」
彼女たちは柏木の顔を覗き込んだ。
けらけらと笑って、柏木の肩を気さくに叩く者もいた。
柏木は疲れた顔のまま言った。「まだ飲める」
彼女たちはそれを聞いてまた声を上げて笑った。
悩みなんて何一つない顔で、柏木はうらやましくなった。
「この前は楽しかったよ。次はいつにする?」
女子の一人が言った。
「ごめん、元気な時にまた連絡する」
柏木はそう答え、力なくひらひら手を振った。
女子の集団が去ると、久保塚が鼻から息を吐いた。
「おい伸びちゃうぞ。まじで二日酔いか」
久保塚はもう半分以上食べていた。
「違うって」
柏木は箸で麺を掴み、無理矢理自分の口に入れた。
食欲は全く無い。
湧いてくる気配もない。
「昨日も街に出てたんだろ。バイト代もつぎ込んで女漁りして……」
「そのためのバイトだ」
「あーやだやだこの子ったら」
「うるさいなぁ。お前は俺のお袋かよ」
「あなたいつも脱いだら脱ぎっぱなし」久保塚は図体に似合わず甲高い声を出した。「洗濯するの誰だと思ってるの! あらいつものお店にブランド物のバッグ。お父さんに黙って買っちゃいましょう」
「俺のお袋はそんなこと言わない」
久保塚はげらげら笑い、柏木もついにつられて笑った。
少し食欲が出てきて、柏木はラーメンを食べた。
ラーメンが減るたび、昨夜の出来事が、どんどん現実味を失っていく。
腹が減って気分が沈んでいただけだ、とさえ思うことができるようになった。
昨夜、怪物へ変貌した美女を目の当たりにして、柏木は部屋から逃げ出した。
そのままホテルのカウンターへ行き、従業員を連れて部屋へ戻った。
しかし部屋には化け物もおらず、窓が空いてカーテンが揺れているだけだった。
柏木は従業員の訝し気な目から逃れ、家に戻った。
あのままだと薬物中毒者と疑われ、警察を呼ばれるところだった。
こんなこと誰に相談すればいい。
ナンパで釣れた女が化け物だったんですと言って、誰が信じる。
証拠はない。
柏木の証言が全てだ。
まともに取り合ってもらえるはずがない。
自分自身ですら半信半疑なのに。
柏木は大きく息を吸い込んだ。
「……おい、お袋よ」柏木は久保塚の冗談に乗ることにした。「常盤さんとはどうなったんだよ」
久保塚はコップの水をこぼしかけた。「あ、あらぁ、なんのことかしらぁ」
「お前の、アカペラサークルの、先輩の――」
「わかった。わかったって」久保塚は降参というふうに両手を挙げた。「何で知ってるの」
「アカペラサークルに知り合いがいるのはお前だけじゃない」
「……まさか」
「ホラー映画好きなんだってさ」
「おい!」
「言っとくが、女ならとりあえず声をかけるクソ野郎は俺だけじゃないからな。デートは? もう何か誘ったのか?」
「……まだなにも」
柏木はため息をついた。「付き合いたいんだろ? 俺はいつもなんて言ってる?」
「先手必勝」
「具体的なアドバイスいるか?」
「いらない。どうせ下半身関係だろ」
「いいや上半身だ。手の爪はしっかり切っとけよ」
「いらん!」
久保塚と馬鹿話をしながら食堂を出る頃には、昨日の出来事は、夢で見たような感覚にまでなっていた。
――――――・――――――・――――――
柏木は電車を降りて、真夏の炎天下の中、実家へ向かって歩いていた。
駅前のさびれたアーケード街を抜け、田んぼを脇に見ながら歩く。
気がふれたように晴天の昼だった。
蝉の鳴き声がうるさくて嫌になる。
柏木はすぐに汗だくになって、白いシャツが張り付く不快感を味わった。
自分自身の濃い影に視線を落とし、柏木は太陽にたっぷりとあぶられていた。
ふと見上げると、電線の上にカラスがいた。
カラスはこちらを見下ろしていたが、柏木と目が合うと飛び立っていった。
住宅街を進むと、黒い野良ネコが、民家の塀の上で行儀よく座っていた。
黒い猫は、まるで人感センサの付いた監視カメラのように、通りがかった柏木へ首を向け続けていた。
奇妙な猫だった。
そうして見慣れた道を歩き、しばらく進むと、実家にたどり着いた。
小さな庭と小さな駐車場がある、古ぼけた家だ。
玄関を開けると見知らぬ女物の靴があって、柏木は嫌な予感がした。
「雄一郎! おかえり!」柏木の母はエプロン姿のまま小走りで走ってきた。
「麦茶くれぇ」
柏木は呻くように言いながら、母に手土産を渡した。
中身は酒と茶菓子だった。
「あら、お土産なんていいのに」
「誰か来てる?」
「ふーちゃんよ。あんたも久しぶりでしょ」
よく見れば母は目が赤かった。
母は年を取って涙もろくなっていた。
「ちょっと待っててね、お茶用意するから」
土産を手に、母は台所へ向かった。
柏木は勝手知ったる我が家を歩き、洗面所からタオルを拝借すると、汗をぬぐった。
そのまま仏間へ行って冷房の恩恵を受けた。
若い女性が仏壇の前に座っていた。
女性の名前は、井口風香。
穏やかな雰囲気で、ブラウンに染めた長い髪はゆるくカールしている。
長いスカートに、白いブラウスと、落ち着いた恰好だった。
二年ぶりくらいだろうか。
柏木は動揺が顔に出ないように、静かに深呼吸した。
「……久しぶり。元気だった?」
「まあ」柏木は目を伏せたまま仏壇の前へ進んだ。
仏壇には、柏木の兄である柏木優也の写真が飾られていた。
柏木は兄と並び、その隣には井口もいた。
兄が高校を卒業する時の写真だった。
柏木の兄が交通事故で死んで、ちょうど四年経っていた。
今日は命日だった。
柏木は仏壇の前で正座し、線香に火をつけると、嗅ぎなれた匂いが広がった。
静かに手を合わせ、ほんの数秒間目を閉じた。
柏木は仏壇から離れ、写真を眺めながら肩をさすった。
「痛むの?」井口が心配そうに言った。
「……別に」
どたどたと足音がして、母が麦茶を盆に乗せて戻ってきた。
「はい麦茶」母は仏間のテーブルの上に麦茶の注がれたコップを並べた。「ふーちゃんもどうぞ」
「ありがとうございます」
井口が受け取るよりも先に柏木はコップを掴み、一息で飲み干した。
「あんた聞いた? ふーちゃん、結婚するんだって」母は涙声で言った。「本当に良かった……」
「ありがとうございます。おばさん」井口も涙目になった。
「ねぇ、本当に良かった。優也も喜んでるよ」
「だといいんですけど」
「あの子は優しい子だから。きっとそうよ」
柏木はコップを置き、仏壇の写真を見た。
高校生当時、柏木の兄である柏木優也は、幼馴染の井口と付き合っていた。
二人は両親公認の仲だった。
「あんたは調子どうなの」
母の話の矛先が、柏木に向いた。
「普通」
「ちゃんと大学行ってるの? バイトばっかりじゃないの?」
柏木はボトルから麦茶を注ぎ、再び飲みだした。
とにかく水分が足りなかった。
「あんた近くに住んでるんだからもっと帰ってきなさいよ。お父さんも心配してるよ」
柏木の実家は、柏木が今住んでいる大学近くのアパートから、電車で一時間ほどのところにあった。
確かに、帰ろうと思えば週に一回帰ることも可能だった。
「忙しいんだよ」
「大学が? バイトが?」
「両方」
「ご飯食べてる? ご飯。だめよコンビニ弁当ばっかりじゃ。お米送ろうか」
「うるさいなぁ」
柏木は麦茶を飲み干した。
氷がカランと音をたてた。
「ふーちゃんの旦那さんも役所勤めなのよ。あんたも将来のこと考えてるの?」
「ちゃんと考えてるよ」
「だったらいいんだけどねぇ」
柏木は腰を上げた。「もう帰る」
「えっ? もう? お昼食べてかないの? もうすぐ父さんも帰ってくるよ」
「バイトあるから」
「そう」母も腰を上げた。「次はお土産なんていいんだからね」
「親父に飲み過ぎるなって言っといて」
「ならお酒なんて買ってこなければいいのに」
「あっ、私も帰ります。長々とすみません」
「いいのいいの! いつでも来てね。ふーちゃんはうちの子みたいなもんなんだから。次は旦那さんも連れてきてね」
柏木は汗を拭いたタオルを洗濯機に放り込み、母に見送られて実家を出た。
「いっちゃん! 待って!」
井口が走って追いかけてきた。
「電車でしょ。……駅まで一緒に行こうよ」
柏木は答えなかったが、井口に合わせて歩みを緩めた。
井口は日傘を差した。
柏木に入るように促したが、柏木は目を細めて辞退した。
沈黙が訪れる。
柏木は、井口が会話のきっかけを探っていることを察した。
二人の隣を車が通り過ぎていった。
住宅街は道が狭く、二人は身を寄せ合って車を避けた。
「……今どこに住んでるの?」井口が俯き気味に言った。
「大学の、駅近くのアパート」
「あ、じゃあ結構近いね。私もそっちの方に会社があるから、近くのアパートに住んでるんだ」
再び沈黙が訪れる。
セミの鳴き声がとにかくうるさい。
柏木はため息をついた。「……お袋が、迷惑かけたな」
「え」
「すごい喋っただろ。機関銃みたいに」
「おふくろ?」井口は笑った。「『おふくろ』だなんて、えっ、いっちゃんが? 変なの」
「……変かよ」
「変だよ。だって昔は『まーま』って言ってたじゃない」
「それいつだよ……」
「こんな」井口は手を胸のあたりに差し出し、当時の身長を示した。「くらいかな?」
柏木は照れ臭くなって頬をかいた。
井口はそれを見て嬉しそうに口角を上げた。
「迷惑だなんて。いろいろお話しできて楽しかったよ」
「お袋、寂しいんだよ」
「そう言うならもっとこまめに帰ればいいのに」
「忙しいから」
「そればっかり」
「社会人は忙しくないの?」
「それなりかな。残業もあるけど、大したことないよ」
「旦那さん、どんな人?」
「えっと」井口は首を傾げた。「物静かな人かな」
「同じ職場の人?」
井口は頷いた。
もう一度沈黙が支配した。
柏木は手で目元を隠しながら、空を見上げた。
「……いっちゃんのほうは? 彼女できた?」
「別に」
「すっかり大学生って感じだね」
井口は柏木のピアスを見て言った。
「ナンパばっかりしてるんだって? よくないよ、そういうの」
「どうして知ってんの?」
「噂になってるから」
「噂ね」
「この街狭いんだから、誰が見てるか分かんないよ」
柏木はため息をつく。「誰が見てたって気にしない」
「だめだよ。そんなことばっかりしてちゃ。いっちゃんも、ちゃんとお付き合いして、いい人見つけなきゃ」
井口は肘で柏木をつついてきた。
昔みたいな雰囲気だった。
指先が冷たくなった気がした。
耳の後ろで、ザッっと音がした。
柏木は足を止めた。
「いい人って、あんたの旦那みたいな?」
井口は息をのみ、顔を青くしていた。
怯えたように言葉に詰まっている。
「俺が他の女とヤって、何か迷惑かけたのかよ」
柏木は早歩きになった。
井口はついてこなかった。
柏木はそのまま一人で駅へ向かった。
田んぼの隣を通り、さびれたアーケード街へ向かう。
蝉の声がうるさかった。
電線の上にはまたカラスがいて、こちらを見下ろしていた。
――――――・――――――・――――――
陽が傾き、ようやく過ごしやすい気温になってきた。
駅周辺の通りでは、会社帰りのサラリーマンや、下校途中の学生が数多く行きかっている。
柏木は隣町の駅前まで来て、白石という女性とデートをしていた。
白石は柏木の隣でラジオ放送のようにしゃべり続けていた。
だいたい大学の話や、意味のないバイトの愚痴で、柏木はほとんど聞き流していた。
視界の端を背の高い女が通り過ぎ、柏木は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
盗み見ていた白石の胸元から目を離し、女の姿を追う。
違った。
金色の髪の外国人じゃなかった。
「ねえ聞いてる?」
明るい茶色の髪を指で弄びながら、白石は言った。
「聞いてるよ」
「聞いて! 信じられないの! なんていったと思う? そいつ!」
「あー」柏木は考えるふりをした。「一発ヤラせて下さい」
「馬鹿! そんなこと言うか!」白石はわざとらしく一度咳払いした。「『俺ェ、マスク嫌いなんスよ。だから風邪移したらすんませンね』だって! はぁ? って感じでしょ。まじでありえない。くっそキモい!」
白石の付けまつげが震えた。
「そいつやばいな」柏木は大げさに表情を変えて見せた。
「でしょ! おかしいよほんと……。はやく辞めないかなぁ。あー思い出したらムカついてきた」
「色変えたんだ」柏木は白石の目を見ながら言った。「いつ?」
「あー」白石は目を泳がせた。「ちょっと前かな。雰囲気変わった?」
「変わった」
「どう? 前のほうがいい?」
「うん。前のほうが似合ってる」
「はぁ?」白石は一拍遅れて笑った。「なにそれ! 正直すぎでしょ!」
「うそうそ。冗談。似合ってるよ」
「なーんかぁ、うそくさーい」白石は笑った。
――――――・――――――・――――――
情事のあと、柏木がシャワーから出ると、白石は「ごめん、親に呼び出されちゃったから」と言って、先にホテルから出て行った。
今回は街から少し離れた、普段利用しないホテルだったが、これは白石のチョイスだった。
柏木は支払いを済ませ、ホテルを出た。
人気のない薄暗い高架下を、駅に向かって歩いていく。
終電まではまだ何本か余裕がある。
白石は、自身に彼氏がいることを柏木に黙っているが、柏木はそれを見抜いていた。
柏木も追求しない。
体だけの関係だと割り切っているからだ。
親に会いに行ったなんて、つまらない嘘だ。
おおかた彼氏に呼び出されたのだろう。
これまでの経験から、白石とはもうじき連絡を絶たれるという確信があった。
もってあと二か月。
半年後には連絡を取っていないだろう。
柏木は構わなかった。
白石とは付き合っているわけじゃない。
他に相手はいるし、すべてダメになったら、また探せばいい。
柏木は歩きながらスマホを取り出そうとして、前方の電灯の下に誰かが立っているのを見た。
背の高い女が、仁王立ちでこちらを向けている。
「あ」柏木は間抜けな声を出した。
逆光で顔が良く見えない。
だがきらめく金の髪が、柏木の心臓をわしづかみにして、一歩も動けなくなった。
線路を電車が通り抜け、風が吹いた。
柏木の髪が、頼りなさげに揺れた。
――あの悪夢から、二週間経っていた。
柏木は、「すべては夢だったのだ」と半分くらい思えるになっていたところだった。
モナは黒いキャミソールにジーンズのショートパンツをはいていた。
前回着ていたきらびやかなドレスとは違い、比較的一般的な服装だった。
だが胸元は凶悪に盛り上がり、大胆に露出した太ももは光り輝いているようだ。
モナはその長い脚を優雅に動かし、ゆっくりと歩いてきて、柏木の前で立ち止まった。
モナの足元には真っ黒な猫がいて、柏木を見上げていた。
柏木は怯えて目を閉じた。
次の瞬間、頭からぱっくりと食べられていてもおかしくない。
だが目を開けても、何も起きていなかった。
「どうだった?」モナは柏木の顔を覗き込んだ。
柏木はぱくぱくと口を開いた。
息ができない。
「……なん、なにが」
モナはさらに顔を近づけた。
蛇に睨まれた蛙のように、柏木は顔を背けることもできない。
「あの女との交尾。気持ちよかった?」
「え」
「どうなの?」
「はっ、はい」
「そう」モナは無表情に頷いた。「デートしよう」
「え」
「デート嫌?」
モナの目は、青く輝く宝石のようだった。
――――――・――――――・――――――
街灯に照らされながら、駅までの道を遠回りして歩くと、住宅地の端に小さな公園があった。
使い込まれたジャングルジムと、ブランコがある。
近くに住む子供たちが、ここで遊んでいるのだろう。
柏木はさまようように公園に入った。
モナは柏木のぴったり後ろをついてきた。
黒い猫は公園に入らず、どこかへ走っていき、すぐに見えなくなった。
「ここは?」
「公園。子供たちが遊ぶところ」
「遊ぶ……」
モナは公園を見渡し、ブランコに近づいて鎖を鳴らした。
「やりかたを教えて」
柏木は怯えながら近づき、モナの隣のブランコに乗った。
体重を移動し、ブランコのふり幅を大きくしていく。
モナは柏木を見ながらブランコに乗った。
長い金の髪が揺れ、ついでに胸も揺れた。
柏木はつい胸を目で追ってしまって、すぐに逸らした。
「どう?」
「……合ってる。なあ、何しに来たんだ」
「まだ怯えてる」
じっと見られながら、柏木は隣で更にブランコを漕いだ。
こんな風にブランコに乗るなんて、いつ以来だ?
きいきいと金属のこすれる音が響く。
誰かが来ないか不安だったが、同時に誰かに助けてもらいたくもあった。
手の中の金属が柏木の手のひらと同じ温度になったあたりで、柏木はついに口を開いた。
「俺を殺すのか?」
「なぜ」
「……秘密を守るために」
「それが目的なら、もう殺してる」モナはこともなげに言う。「良く考えたほうがいい」
柏木は身構えた。「じゃあ一体……」
「目的なら、先ほど言った」
「デート?」
「私は人間社会に溶け込み、様々なことを学んだ。この社会では、一般的な男女はデートによって相手のことを知る。合っているでしょう」
一体どこで何を学んだんだ。
ナンパの横行する夜の街じゃないだろうか。
「つがいになる過程で、相手のことを深く知ることができる。そして男とつがいになるためには、まずはデートが必要」
「つ、つがい?」柏木は息をのんだ。「誰と、だれが」
「私とユウ。柏木雄一郎。あなたの趣味はなんですか?」
きいきい。
ブランコが鳴る。
柏木は眩暈がしてきた。
どこにでもいる大学生と、絶世の美女が、深夜の小さな公園で、並んでブランコを漕いでいる。
柏木はその異常さを改めて認識した。
「趣味は何ですか」モナは柏木に気にせず続けた。
「え、映画鑑賞……」
「映画か。見たことがない。映画には種類がある。知っている。ユウは何が好きなんだ」
「俺の質問にも答えてくれ。お前は、なんなんだ」
「いまは私が質問している」
柏木はブランコを降りた。「……これはデートと言ったよな」
「その通り」
「お互いを知るんだろ。俺が答えたら、そっちも答えて」
「それがデートか?」
「そうだ」
「つがいになるために必要な手順?」
柏木は無理矢理頷いた。「そうだ!」
「分かった」
モナもブランコを降り、柏木の正面に立った。
「質問に答える。『何』とは? 質問を具体的に」
柏木は息を吸った。「人間じゃあ、ないんだろ」
「その通り。我々は『ガリオン』という名の種だ。人類とは違う」
「ガリオン? どこから来た。エイリアン、なのか?」
「こちらの番。どんな映画を見る?」
「れっ、恋愛モノだ!」柏木ははやる気持ちを押さえつけられなかった。「さわやか系の! ハッピーエンドのやつ!」
モナは柏木に手を差し向けた。
こちらの質問の番ということだ。
「どこから来た! 宇宙か?」
「我々の次元から」
「次元って、なんだ、異世界……、的な?」
柏木はファンタジー映画を思い浮かべた。
ドラゴンが空を飛び、魔法使いが火を放つ。
「異世界で間違いない。この世界とは異なる世界だから。週末の予定は? 一緒に映画を見に行こう」
「週末はバイトで行けない!」
「そう」
「何が目的なんだ」
「どうしてユウは何度も同じことを言わせるのか、理解できない」
柏木は額に手を当てた。
わざわざ異世界から来て、やることがこんな一般人を捕まえてつがいになること?
信じられるわけがなかった。
モナは顔を上げ、公園の外の街灯へ目をやった。
そこには人影がいくつか立っていて、こちらをみているようだった。
柏木もそれに気づき、助けを呼ぶべきか考えた。
しかし、どんなふうに?
悲鳴でも上げればいいか?
柏木が悩んでいるうちに、人影はこちらに向かって――走ってきた。
途中にあった花壇や車止めの柵を一息で跳び越え、複数の影がまっすぐ、モナと柏木に向かって迫る。
「――えっ」
それから起きた一秒に満たない攻防を、柏木はほとんど認識できなかった。
柏木にできたことは、間抜けな声を出して、腰を抜かすことくらいだった。
人影は走りながら腕を振るった。
五指が根本から外れ、頭部が鋭利に尖った甲虫に変形した。
それらは羽音を立ててモナに突き進んでいく。
甲虫たちは槍のような角を突き出していた。
モナの柔肌に突き立て肉を抉ろうと飛翔する。
だがモナに触れることは叶わなかった。
虫たちは見えない壁にぶつかり、踏み潰されたように平たくなったからだ。
モナの目が、青く光り輝いている。
しかし襲撃者たちにとって、虫による攻撃は牽制でしかなかったようだ。
虫が体液をまき散らしてつぶれるさまを見ても、構わず向かってくる。
それらは若い男女の集団だったが、皆一様に目に光が無く、人形の群れのようだった。
彼らは一斉に、様々な戦闘形態へと変形した。
服が裂けて、筋肉が隆起する。
腕が伸び、関節が増える。
顎が外れ、牙が生える。
頭部が二つに割れ、巨大な眼球が現れる。
一瞬で変形を終えた怪物たちは、左右から、頭上から、足元から、モナに迫る。
後方に控えた人影たちは、虫を飛ばし、不可視の力場を生成し、前衛を援護した。
その動きはまるで訓練された猟犬のようだった。
モナは一切動かず、襲撃者の動きを観察していた。
――怪物たちが一瞬で変形を終えたとするなら、
――モナは一刹那で変形し、そして迎撃を終えていた。
柏木は尻餅をついて、眼前の光景を目にした。
血しぶきと、内臓と、肉片たちが、宙を舞った。
怪物たちは両断され、穿たれ、ねじり潰され、焼き殺されていた。
距離を取って援護に徹していた個体も例外ではない。
前衛と同様に、無残な死を遂げていた。
柏木は怪物たちの血を全身に浴びた。
むせかえるような鉄の匂いがしたが、柏木は硬直していて咳込むこともできなかった。
恐怖に縛られ、息ができない。
一呼吸の間も持たず、怪物たちは滅ぼされた。
――怪物たち?
いいや、違う。
本当の怪物は、目の前に立っている。
モナの変形は、頭部と、胴体に限られていた。
頭部は左側面がめくれるように開き、数個の目玉が筋肉の筋でつながって浮かび上がっていた。
それらは光を反射する結晶のように、赤や青など様々な輝きを放っている。
胴体では、肋骨の辺りから突き出した何本もの骨が、刃のように伸びて、怪物たちの血に濡れていた。
モナは胴から伸びた骨で足元に転がる怪物の一体を突き刺し、持ち上げた。
持ち上げられた怪物は、下半身が無く、顔が半分欠けていた。
まだ生きていたのか、ただの神経の反射なのか、右手がピクリと動いた。
瞬間、モナの複数の眼球のうちの一つが光を放ち、怪物は不可視の力場によって雑巾を絞るようにねじりつぶされた。
残った血液を絞り出され、公園の地面が、更に血で染まっていく。
何が起きているのか、柏木にはさっぱり理解できなかった。
夢の中のような光景に、柏木は理性の手綱を手放していた。
急速に曖昧になっていく五感のなかで、鼻をつく血の匂いだけが、これが現実だと教えていた。
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