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【クリーチャーの恋人】1-2 張り付く影

1-1 始まりの夜<<前 <表紙とあらすじと目次> 次>>1-3 点火


 昼になり、講義終了を示すベルが鳴った。

 柏木は顔を上げた。
 講義の内容はまったく頭に入ってこなかった。

 学生たちが一斉に立ち上がり、我先にと広い講義室から退室していく。
 教員はノートパソコンを閉じ、気だるげに荷物をまとめていた。

 柏木の講義ノートには、ついさっきまで書き込んでいた落書きがあった。
 美女が化け物の塊に変貌していく精巧な絵だった。
 赤や青のボールペンで色が付き、陰影が丁寧に書き込まれていて立体感があった。

「飯行こうぜ」
 前の方の席に座っていた久保塚が、最後列の柏木の元に来て言った。

 久保塚は柏木の落書きに目を落とした。
「うっわ、そりゃホラーか? それともSF?」

 柏木は慌ててノートを閉じた。
「なんでもない」

「あの後も飲んでたのか」
「まぁな」
「完全に死んでるなぁ」

 久保塚が笑った。
「昨日の戦果はラーメンでも食いながら教えてもらおうか」


――――――・――――――・――――――


 食堂は今日も学生で混み合い、がやがやとうるさかった。
 長テーブルがいくつも並び、料理を乗せた盆を持った学生たちが行き来している。

 柏木の目の前では、久保塚が安い醤油ラーメンをテーブルですすっていた。

 久保塚は背こそ高くないが、がっちりと肉厚な体格の男だった。
 首も腕も太く、ラグビー選手であってもおかしくない風貌だ。

 それに比べれば柏木は、すこし背が高いだけで、風が吹けば飛んで行ってしまいそうな、ひょろりとした男だった。
 今日は顔色の悪さも相まって、今にも死にそうな病人のようだ。

 柏木と久保塚の隣を、女学生の集団が通りがかった。

「うーわっ、ひっどい顔だぁ」
「大丈夫?」
「まーた飲み過ぎたんでしょ!」

 彼女たちは柏木の顔を覗き込んだ。
 けらけらと笑って、柏木の肩を気さくに叩く者もいた。

 柏木は疲れた顔のまま言った。「まだ飲める」

 彼女たちはそれを聞いてまた声を上げて笑った。
 悩みなんて何一つない顔で、柏木はうらやましくなった。

「この前は楽しかったよ。次はいつにする?」
 女子の一人が言った。

「ごめん、元気な時にまた連絡する」
 柏木はそう答え、力なくひらひら手を振った。

 女子の集団が去ると、久保塚が鼻から息を吐いた。

「おい伸びちゃうぞ。まじで二日酔いか」
 久保塚はもう半分以上食べていた。

「違うって」
 柏木は箸で麺を掴み、無理矢理自分の口に入れた。
 食欲は全く無い。
 湧いてくる気配もない。

「昨日も街に出てたんだろ。バイト代もつぎ込んで女漁りして……」
「そのためのバイトだ」
「あーやだやだこの子ったら」
「うるさいなぁ。お前は俺のお袋かよ」

「あなたいつも脱いだら脱ぎっぱなし」久保塚は図体に似合わず甲高い声を出した。「洗濯するの誰だと思ってるの! あらいつものお店にブランド物のバッグ。お父さんに黙って買っちゃいましょう」

「俺のお袋はそんなこと言わない」

 久保塚はげらげら笑い、柏木もついにつられて笑った。

 少し食欲が出てきて、柏木はラーメンを食べた。

 ラーメンが減るたび、昨夜の出来事が、どんどん現実味を失っていく。
 腹が減って気分が沈んでいただけだ、とさえ思うことができるようになった。


 昨夜、怪物へ変貌した美女を目の当たりにして、柏木は部屋から逃げ出した。
 そのままホテルのカウンターへ行き、従業員を連れて部屋へ戻った。
 しかし部屋には化け物もおらず、窓が空いてカーテンが揺れているだけだった。
 柏木は従業員の訝し気な目から逃れ、家に戻った。
 あのままだと薬物中毒者と疑われ、警察を呼ばれるところだった。

 こんなこと誰に相談すればいい。
 ナンパで釣れた女が化け物だったんですと言って、誰が信じる。
 証拠はない。
 柏木の証言が全てだ。
 まともに取り合ってもらえるはずがない。
 自分自身ですら半信半疑なのに。


 柏木は大きく息を吸い込んだ。

「……おい、お袋よ」柏木は久保塚の冗談に乗ることにした。「常盤さんとはどうなったんだよ」

 久保塚はコップの水をこぼしかけた。「あ、あらぁ、なんのことかしらぁ」

「お前の、アカペラサークルの、先輩の――」

「わかった。わかったって」久保塚は降参というふうに両手を挙げた。「何で知ってるの」

「アカペラサークルに知り合いがいるのはお前だけじゃない」
「……まさか」
「ホラー映画好きなんだってさ」
「おい!」
「言っとくが、女ならとりあえず声をかけるクソ野郎は俺だけじゃないからな。デートは? もう何か誘ったのか?」
「……まだなにも」

 柏木はため息をついた。「付き合いたいんだろ? 俺はいつもなんて言ってる?」
「先手必勝」
「具体的なアドバイスいるか?」
「いらない。どうせ下半身関係だろ」
「いいや上半身だ。手の爪はしっかり切っとけよ」
「いらん!」

 久保塚と馬鹿話をしながら食堂を出る頃には、昨日の出来事は、夢で見たような感覚にまでなっていた。


――――――・――――――・――――――


 柏木は電車を降りて、真夏の炎天下の中、実家へ向かって歩いていた。

 駅前のさびれたアーケード街を抜け、田んぼを脇に見ながら歩く。

 気がふれたように晴天の昼だった。
 蝉の鳴き声がうるさくて嫌になる。
 柏木はすぐに汗だくになって、白いシャツが張り付く不快感を味わった。

 自分自身の濃い影に視線を落とし、柏木は太陽にたっぷりとあぶられていた。

 ふと見上げると、電線の上にカラスがいた。
 カラスはこちらを見下ろしていたが、柏木と目が合うと飛び立っていった。

 住宅街を進むと、黒い野良ネコが、民家の塀の上で行儀よく座っていた。
 黒い猫は、まるで人感センサの付いた監視カメラのように、通りがかった柏木へ首を向け続けていた。
 奇妙な猫だった。


 そうして見慣れた道を歩き、しばらく進むと、実家にたどり着いた。
 小さな庭と小さな駐車場がある、古ぼけた家だ。

 玄関を開けると見知らぬ女物の靴があって、柏木は嫌な予感がした。

「雄一郎! おかえり!」柏木の母はエプロン姿のまま小走りで走ってきた。

「麦茶くれぇ」
 柏木は呻くように言いながら、母に手土産を渡した。
 中身は酒と茶菓子だった。

「あら、お土産なんていいのに」
「誰か来てる?」
「ふーちゃんよ。あんたも久しぶりでしょ」

 よく見れば母は目が赤かった。
 母は年を取って涙もろくなっていた。

「ちょっと待っててね、お茶用意するから」
 土産を手に、母は台所へ向かった。


 柏木は勝手知ったる我が家を歩き、洗面所からタオルを拝借すると、汗をぬぐった。
 そのまま仏間へ行って冷房の恩恵を受けた。

 若い女性が仏壇の前に座っていた。

 女性の名前は、井口風香。
 穏やかな雰囲気で、ブラウンに染めた長い髪はゆるくカールしている。
 長いスカートに、白いブラウスと、落ち着いた恰好だった。

 二年ぶりくらいだろうか。
 柏木は動揺が顔に出ないように、静かに深呼吸した。

「……久しぶり。元気だった?」

「まあ」柏木は目を伏せたまま仏壇の前へ進んだ。

 仏壇には、柏木の兄である柏木優也の写真が飾られていた。
 柏木は兄と並び、その隣には井口もいた。
 兄が高校を卒業する時の写真だった。

 柏木の兄が交通事故で死んで、ちょうど四年経っていた。
 今日は命日だった。

 柏木は仏壇の前で正座し、線香に火をつけると、嗅ぎなれた匂いが広がった。
 静かに手を合わせ、ほんの数秒間目を閉じた。

 柏木は仏壇から離れ、写真を眺めながら肩をさすった。

「痛むの?」井口が心配そうに言った。
「……別に」

 どたどたと足音がして、母が麦茶を盆に乗せて戻ってきた。

「はい麦茶」母は仏間のテーブルの上に麦茶の注がれたコップを並べた。「ふーちゃんもどうぞ」

「ありがとうございます」

 井口が受け取るよりも先に柏木はコップを掴み、一息で飲み干した。 

「あんた聞いた? ふーちゃん、結婚するんだって」母は涙声で言った。「本当に良かった……」

「ありがとうございます。おばさん」井口も涙目になった。

「ねぇ、本当に良かった。優也も喜んでるよ」
「だといいんですけど」
「あの子は優しい子だから。きっとそうよ」

 柏木はコップを置き、仏壇の写真を見た。
 高校生当時、柏木の兄である柏木優也は、幼馴染の井口と付き合っていた。
 二人は両親公認の仲だった。

「あんたは調子どうなの」

 母の話の矛先が、柏木に向いた。

「普通」
「ちゃんと大学行ってるの? バイトばっかりじゃないの?」

 柏木はボトルから麦茶を注ぎ、再び飲みだした。
 とにかく水分が足りなかった。

「あんた近くに住んでるんだからもっと帰ってきなさいよ。お父さんも心配してるよ」

 柏木の実家は、柏木が今住んでいる大学近くのアパートから、電車で一時間ほどのところにあった。
 確かに、帰ろうと思えば週に一回帰ることも可能だった。

「忙しいんだよ」
「大学が? バイトが?」
「両方」
「ご飯食べてる? ご飯。だめよコンビニ弁当ばっかりじゃ。お米送ろうか」
「うるさいなぁ」

 柏木は麦茶を飲み干した。
 氷がカランと音をたてた。

「ふーちゃんの旦那さんも役所勤めなのよ。あんたも将来のこと考えてるの?」
「ちゃんと考えてるよ」
「だったらいいんだけどねぇ」

 柏木は腰を上げた。「もう帰る」

「えっ? もう? お昼食べてかないの? もうすぐ父さんも帰ってくるよ」
「バイトあるから」

「そう」母も腰を上げた。「次はお土産なんていいんだからね」
「親父に飲み過ぎるなって言っといて」
「ならお酒なんて買ってこなければいいのに」

「あっ、私も帰ります。長々とすみません」
「いいのいいの! いつでも来てね。ふーちゃんはうちの子みたいなもんなんだから。次は旦那さんも連れてきてね」

 柏木は汗を拭いたタオルを洗濯機に放り込み、母に見送られて実家を出た。


「いっちゃん! 待って!」
 井口が走って追いかけてきた。

「電車でしょ。……駅まで一緒に行こうよ」

 柏木は答えなかったが、井口に合わせて歩みを緩めた。

 井口は日傘を差した。
 柏木に入るように促したが、柏木は目を細めて辞退した。

 沈黙が訪れる。
 柏木は、井口が会話のきっかけを探っていることを察した。

 二人の隣を車が通り過ぎていった。
 住宅街は道が狭く、二人は身を寄せ合って車を避けた。

「……今どこに住んでるの?」井口が俯き気味に言った。
「大学の、駅近くのアパート」
「あ、じゃあ結構近いね。私もそっちの方に会社があるから、近くのアパートに住んでるんだ」

 再び沈黙が訪れる。
 セミの鳴き声がとにかくうるさい。

 柏木はため息をついた。「……お袋が、迷惑かけたな」
「え」
「すごい喋っただろ。機関銃みたいに」

「おふくろ?」井口は笑った。「『おふくろ』だなんて、えっ、いっちゃんが? 変なの」
「……変かよ」
「変だよ。だって昔は『まーま』って言ってたじゃない」
「それいつだよ……」

「こんな」井口は手を胸のあたりに差し出し、当時の身長を示した。「くらいかな?」

 柏木は照れ臭くなって頬をかいた。
 井口はそれを見て嬉しそうに口角を上げた。

「迷惑だなんて。いろいろお話しできて楽しかったよ」
「お袋、寂しいんだよ」
「そう言うならもっとこまめに帰ればいいのに」
「忙しいから」
「そればっかり」
「社会人は忙しくないの?」
「それなりかな。残業もあるけど、大したことないよ」

「旦那さん、どんな人?」
「えっと」井口は首を傾げた。「物静かな人かな」

「同じ職場の人?」
 井口は頷いた。

 もう一度沈黙が支配した。
 柏木は手で目元を隠しながら、空を見上げた。

「……いっちゃんのほうは? 彼女できた?」
「別に」

「すっかり大学生って感じだね」
 井口は柏木のピアスを見て言った。

「ナンパばっかりしてるんだって? よくないよ、そういうの」
「どうして知ってんの?」
「噂になってるから」
「噂ね」
「この街狭いんだから、誰が見てるか分かんないよ」

 柏木はため息をつく。「誰が見てたって気にしない」

「だめだよ。そんなことばっかりしてちゃ。いっちゃんも、ちゃんとお付き合いして、いい人見つけなきゃ」

 井口は肘で柏木をつついてきた。
 昔みたいな雰囲気だった。

 指先が冷たくなった気がした。
 耳の後ろで、ザッっと音がした。

 柏木は足を止めた。

「いい人って、あんたの旦那みたいな?」

 井口は息をのみ、顔を青くしていた。
 怯えたように言葉に詰まっている。

「俺が他の女とヤって、何か迷惑かけたのかよ」

 柏木は早歩きになった。
 井口はついてこなかった。

 柏木はそのまま一人で駅へ向かった。
 田んぼの隣を通り、さびれたアーケード街へ向かう。

 蝉の声がうるさかった。

 電線の上にはまたカラスがいて、こちらを見下ろしていた。


――――――・――――――・――――――


 陽が傾き、ようやく過ごしやすい気温になってきた。
 駅周辺の通りでは、会社帰りのサラリーマンや、下校途中の学生が数多く行きかっている。

 柏木は隣町の駅前まで来て、白石という女性とデートをしていた。

 白石は柏木の隣でラジオ放送のようにしゃべり続けていた。
 だいたい大学の話や、意味のないバイトの愚痴で、柏木はほとんど聞き流していた。

 視界の端を背の高い女が通り過ぎ、柏木は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
 盗み見ていた白石の胸元から目を離し、女の姿を追う。

 違った。
 金色の髪の外国人じゃなかった。

「ねえ聞いてる?」
 明るい茶色の髪を指で弄びながら、白石は言った。

「聞いてるよ」
「聞いて! 信じられないの! なんていったと思う? そいつ!」

「あー」柏木は考えるふりをした。「一発ヤラせて下さい」

「馬鹿! そんなこと言うか!」白石はわざとらしく一度咳払いした。「『俺ェ、マスク嫌いなんスよ。だから風邪移したらすんませンね』だって! はぁ? って感じでしょ。まじでありえない。くっそキモい!」

 白石の付けまつげが震えた。

「そいつやばいな」柏木は大げさに表情を変えて見せた。
「でしょ! おかしいよほんと……。はやく辞めないかなぁ。あー思い出したらムカついてきた」

「色変えたんだ」柏木は白石の目を見ながら言った。「いつ?」
「あー」白石は目を泳がせた。「ちょっと前かな。雰囲気変わった?」
「変わった」
「どう? 前のほうがいい?」
「うん。前のほうが似合ってる」

「はぁ?」白石は一拍遅れて笑った。「なにそれ! 正直すぎでしょ!」
「うそうそ。冗談。似合ってるよ」
「なーんかぁ、うそくさーい」白石は笑った。


――――――・――――――・――――――


 情事のあと、柏木がシャワーから出ると、白石は「ごめん、親に呼び出されちゃったから」と言って、先にホテルから出て行った。

 今回は街から少し離れた、普段利用しないホテルだったが、これは白石のチョイスだった。

 柏木は支払いを済ませ、ホテルを出た。

 人気のない薄暗い高架下を、駅に向かって歩いていく。
 終電まではまだ何本か余裕がある。

 白石は、自身に彼氏がいることを柏木に黙っているが、柏木はそれを見抜いていた。
 柏木も追求しない。
 体だけの関係だと割り切っているからだ。
 親に会いに行ったなんて、つまらない嘘だ。
 おおかた彼氏に呼び出されたのだろう。

 これまでの経験から、白石とはもうじき連絡を絶たれるという確信があった。
 もってあと二か月。
 半年後には連絡を取っていないだろう。

 柏木は構わなかった。
 白石とは付き合っているわけじゃない。
 他に相手はいるし、すべてダメになったら、また探せばいい。

 柏木は歩きながらスマホを取り出そうとして、前方の電灯の下に誰かが立っているのを見た。

 背の高い女が、仁王立ちでこちらを向けている。

「あ」柏木は間抜けな声を出した。

 逆光で顔が良く見えない。
 だがきらめく金の髪が、柏木の心臓をわしづかみにして、一歩も動けなくなった。

 線路を電車が通り抜け、風が吹いた。
 柏木の髪が、頼りなさげに揺れた。


 ――あの悪夢から、二週間経っていた。
 柏木は、「すべては夢だったのだ」と半分くらい思えるになっていたところだった。


 モナは黒いキャミソールにジーンズのショートパンツをはいていた。
 前回着ていたきらびやかなドレスとは違い、比較的一般的な服装だった。
 だが胸元は凶悪に盛り上がり、大胆に露出した太ももは光り輝いているようだ。

 モナはその長い脚を優雅に動かし、ゆっくりと歩いてきて、柏木の前で立ち止まった。

 モナの足元には真っ黒な猫がいて、柏木を見上げていた。

 柏木は怯えて目を閉じた。
 次の瞬間、頭からぱっくりと食べられていてもおかしくない。

 だが目を開けても、何も起きていなかった。

「どうだった?」モナは柏木の顔を覗き込んだ。

 柏木はぱくぱくと口を開いた。
 息ができない。

「……なん、なにが」

 モナはさらに顔を近づけた。
 蛇に睨まれた蛙のように、柏木は顔を背けることもできない。

「あの女との交尾。気持ちよかった?」
「え」
「どうなの?」
「はっ、はい」
「そう」モナは無表情に頷いた。「デートしよう」
「え」
「デート嫌?」

 モナの目は、青く輝く宝石のようだった。


――――――・――――――・――――――


 街灯に照らされながら、駅までの道を遠回りして歩くと、住宅地の端に小さな公園があった。

 使い込まれたジャングルジムと、ブランコがある。
 近くに住む子供たちが、ここで遊んでいるのだろう。

 柏木はさまようように公園に入った。
 モナは柏木のぴったり後ろをついてきた。
 黒い猫は公園に入らず、どこかへ走っていき、すぐに見えなくなった。

「ここは?」
「公園。子供たちが遊ぶところ」
「遊ぶ……」

 モナは公園を見渡し、ブランコに近づいて鎖を鳴らした。

「やりかたを教えて」

 柏木は怯えながら近づき、モナの隣のブランコに乗った。
 体重を移動し、ブランコのふり幅を大きくしていく。

 モナは柏木を見ながらブランコに乗った。

 長い金の髪が揺れ、ついでに胸も揺れた。
 柏木はつい胸を目で追ってしまって、すぐに逸らした。

「どう?」
「……合ってる。なあ、何しに来たんだ」
「まだ怯えてる」

 じっと見られながら、柏木は隣で更にブランコを漕いだ。
 こんな風にブランコに乗るなんて、いつ以来だ?

 きいきいと金属のこすれる音が響く。
 誰かが来ないか不安だったが、同時に誰かに助けてもらいたくもあった。

 手の中の金属が柏木の手のひらと同じ温度になったあたりで、柏木はついに口を開いた。

「俺を殺すのか?」
「なぜ」
「……秘密を守るために」
「それが目的なら、もう殺してる」モナはこともなげに言う。「良く考えたほうがいい」

 柏木は身構えた。「じゃあ一体……」

「目的なら、先ほど言った」
「デート?」
「私は人間社会に溶け込み、様々なことを学んだ。この社会では、一般的な男女はデートによって相手のことを知る。合っているでしょう」

 一体どこで何を学んだんだ。
 ナンパの横行する夜の街じゃないだろうか。

「つがいになる過程で、相手のことを深く知ることができる。そして男とつがいになるためには、まずはデートが必要」
「つ、つがい?」柏木は息をのんだ。「誰と、だれが」
「私とユウ。柏木雄一郎。あなたの趣味はなんですか?」

 きいきい。
 ブランコが鳴る。

 柏木は眩暈がしてきた。

 どこにでもいる大学生と、絶世の美女が、深夜の小さな公園で、並んでブランコを漕いでいる。
 柏木はその異常さを改めて認識した。

「趣味は何ですか」モナは柏木に気にせず続けた。
「え、映画鑑賞……」
「映画か。見たことがない。映画には種類がある。知っている。ユウは何が好きなんだ」
「俺の質問にも答えてくれ。お前は、なんなんだ」
「いまは私が質問している」

 柏木はブランコを降りた。「……これはデートと言ったよな」
「その通り」
「お互いを知るんだろ。俺が答えたら、そっちも答えて」

「それがデートか?」
「そうだ」
「つがいになるために必要な手順?」

 柏木は無理矢理頷いた。「そうだ!」

「分かった」

 モナもブランコを降り、柏木の正面に立った。

「質問に答える。『何』とは? 質問を具体的に」

 柏木は息を吸った。「人間じゃあ、ないんだろ」

「その通り。我々は『ガリオン』という名の種だ。人類とは違う」
「ガリオン? どこから来た。エイリアン、なのか?」
「こちらの番。どんな映画を見る?」
「れっ、恋愛モノだ!」柏木ははやる気持ちを押さえつけられなかった。「さわやか系の! ハッピーエンドのやつ!」

 モナは柏木に手を差し向けた。
 こちらの質問の番ということだ。

「どこから来た! 宇宙か?」
「我々の次元から」
「次元って、なんだ、異世界……、的な?」

 柏木はファンタジー映画を思い浮かべた。
 ドラゴンが空を飛び、魔法使いが火を放つ。

「異世界で間違いない。この世界とは異なる世界だから。週末の予定は? 一緒に映画を見に行こう」
「週末はバイトで行けない!」
「そう」
「何が目的なんだ」
「どうしてユウは何度も同じことを言わせるのか、理解できない」

 柏木は額に手を当てた。
 わざわざ異世界から来て、やることがこんな一般人を捕まえてつがいになること?
 信じられるわけがなかった。

 モナは顔を上げ、公園の外の街灯へ目をやった。

 そこには人影がいくつか立っていて、こちらをみているようだった。

 柏木もそれに気づき、助けを呼ぶべきか考えた。
 しかし、どんなふうに?
 悲鳴でも上げればいいか?

 柏木が悩んでいるうちに、人影はこちらに向かって――走ってきた。

 途中にあった花壇や車止めの柵を一息で跳び越え、複数の影がまっすぐ、モナと柏木に向かって迫る。

「――えっ」
 それから起きた一秒に満たない攻防を、柏木はほとんど認識できなかった。
 柏木にできたことは、間抜けな声を出して、腰を抜かすことくらいだった。


 人影は走りながら腕を振るった。
 五指が根本から外れ、頭部が鋭利に尖った甲虫に変形した。
 それらは羽音を立ててモナに突き進んでいく。

 甲虫たちは槍のような角を突き出していた。
 モナの柔肌に突き立て肉を抉ろうと飛翔する。

 だがモナに触れることは叶わなかった。

 虫たちは見えない壁にぶつかり、踏み潰されたように平たくなったからだ。
 モナの目が、青く光り輝いている。

 しかし襲撃者たちにとって、虫による攻撃は牽制でしかなかったようだ。
 虫が体液をまき散らしてつぶれるさまを見ても、構わず向かってくる。

 それらは若い男女の集団だったが、皆一様に目に光が無く、人形の群れのようだった。

 彼らは一斉に、様々な戦闘形態へと変形した。

 服が裂けて、筋肉が隆起する。
 腕が伸び、関節が増える。
 顎が外れ、牙が生える。
 頭部が二つに割れ、巨大な眼球が現れる。

 一瞬で変形を終えた怪物たちは、左右から、頭上から、足元から、モナに迫る。
 後方に控えた人影たちは、虫を飛ばし、不可視の力場を生成し、前衛を援護した。
 その動きはまるで訓練された猟犬のようだった。 
 
 モナは一切動かず、襲撃者の動きを観察していた。

 ――怪物たちが一瞬で変形を終えたとするなら、
 ――モナは一刹那で変形し、そして迎撃を終えていた。


 柏木は尻餅をついて、眼前の光景を目にした。

 血しぶきと、内臓と、肉片たちが、宙を舞った。
 怪物たちは両断され、穿たれ、ねじり潰され、焼き殺されていた。

 距離を取って援護に徹していた個体も例外ではない。
 前衛と同様に、無残な死を遂げていた。

 柏木は怪物たちの血を全身に浴びた。
 むせかえるような鉄の匂いがしたが、柏木は硬直していて咳込むこともできなかった。

 恐怖に縛られ、息ができない。

 一呼吸の間も持たず、怪物たちは滅ぼされた。 

 ――怪物たち?

 いいや、違う。
 本当の怪物は、目の前に立っている。

 モナの変形は、頭部と、胴体に限られていた。

 頭部は左側面がめくれるように開き、数個の目玉が筋肉の筋でつながって浮かび上がっていた。
 それらは光を反射する結晶のように、赤や青など様々な輝きを放っている。

 胴体では、肋骨の辺りから突き出した何本もの骨が、刃のように伸びて、怪物たちの血に濡れていた。

 モナは胴から伸びた骨で足元に転がる怪物の一体を突き刺し、持ち上げた。

 持ち上げられた怪物は、下半身が無く、顔が半分欠けていた。

 まだ生きていたのか、ただの神経の反射なのか、右手がピクリと動いた。

 瞬間、モナの複数の眼球のうちの一つが光を放ち、怪物は不可視の力場によって雑巾を絞るようにねじりつぶされた。

 残った血液を絞り出され、公園の地面が、更に血で染まっていく。
 
 何が起きているのか、柏木にはさっぱり理解できなかった。
 夢の中のような光景に、柏木は理性の手綱を手放していた。

 急速に曖昧になっていく五感のなかで、鼻をつく血の匂いだけが、これが現実だと教えていた。


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