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干し柿と棺桶

おばあちゃんは干し柿が好きだった。
でも、私がそのことを知ったのは、おばあちゃんの人生がかなり終盤に差し掛かった頃だった。

おばあちゃんは、私が物心ついた時から、既に持病を患っていた。
糖尿病で入退院を繰り返していて、歩くと転んで危ないから、手押し車のようなカートを頼りに、日常生活を送っていた。

入院していない時期は、私が小学校から帰ると、おじいちゃんとおばあちゃんが我が家で「おかえり〜」と言って迎えてくれた。
両親は共働きで帰りが遅かったから、私にとって放課後の遊び相手は、おじいちゃんとおばあちゃんだった。

おじいちゃんはじっとしていられない人で、我が家の庭のぼうぼうに伸びた雑草とか、錆びてぎいぎい鳴る自転車とか、そういうのを見ると我慢できず、せっせと草刈りや修理を始めてしまう。
だから、静かな夕方のリビングは、おばあちゃんと私、二人の時間だった。

といっても、おばあちゃんは足が不自由だったから、育ち盛りの子供と一緒に、かくれんぼやキャッチボールをすることはできない。
私たちの定番は、寝っ転がりながらのドラマ鑑賞。
夏はソファ、冬はもこもこのじゅうたんの上に、二人してごろんと転がって、テレビをつける。
大抵見ていたのは、父の趣味で買い集めていたドラマ『相棒』のDVDか、フジテレビで平日16時くらいにやっていた昔のドラマの再放送。
『救命病棟24時』とか『ラストクリスマス』、あと『古畑任三郎シリーズ』は毎年のように再放送していた気がする。
今みたいに、NetflixやYoutubeであらゆるコンテンツが自由に見れる時代ではなかったから、テレビから流れてくるものを享受するしかなかったし、何度見ても見飽きない、面白い作品が多かったのも事実。

ドラマが流れ始めると、ぼーっと画面を見ながら、おばあちゃんと何気ない会話をする(ストーリーを真剣に追う必要はない。だって何回も見て、あらすじは全部知っているから。)
最初は「今日の学校がどうだった」とか、「〇〇ちゃんとは最近仲良くしてるのか」とか、そんなことをおばあちゃんに聞かれて、おしゃべりの私は、余計なくらいペラペラと答えていたんだけど、気付くとおばあちゃんからの質問が途絶えて、ドラマの音声だけが聞こえるようになる。
それでふと、おばあちゃんの方を見ると、スーッと寝息を立てて、眠っている。
「ああ、おばあちゃん、また寝ちゃったよ」と思う。
せっかく気持ちよさそうに寝ているところを邪魔するのは悪いから、静かにドラマを見るようにするんだけど、まだ子供だったし、遊び足りない、話し足りない。
どうしても、おばあちゃんを起こしたくなってしまう。

そんな時の私の常套手段は、「おばあちゃんの二の腕攻め」だった。
おばあちゃんの二の腕は、たぷたぷの皮膚とぷにぷにのお肉でできていた。
そこを優しくつまむように触ると、はんぺんみたいに気持ちいいのだ。
だから私はそうやって、おばあちゃんにちょっかいを出して、お昼寝から目覚めてくれるのを待った。
やっとのことでおばあちゃんが起きて、私は「おばあちゃんの二の腕、ほんとうに気持ちいいね」と言う。
おばあちゃんは「太ってるからだよ」と言う。

ちょうど日も暮れてきて、外作業から戻ってきたおじいちゃんが、寝転がるおばあちゃんを見ながら、「相変わらずマグロみたいに寝るなあ」と言う。
おばあちゃんは「いやあ、もう」と言う。

そんな毎日だった。

私の成長とともに、おばあちゃんが入院する頻度は、明らかに高くなっていった。
おじいちゃん家に行ってもおばあちゃんには会えなくて、病院に行かないと会えないようになってきた。
はんぺんみたいに気持ちいい二の腕を携えて、マグロみたいにどーんと寝ていたおばあちゃんは、病院の小さなベッドの上で、一回りも二回りも小さな体で、こじんまりと眠っていた。

「おばあちゃん、痩せたね」と声をかけると、「いいダイエットだわあ」と笑っていたけれど、私はすごく切なかったよ。

大学生になると、私は東京で一人暮らしを始めた。
秋のある日、近所のスーパーに行くと、干し柿が売られているのを目にした。
「そういえば、お母さんは干し柿が好きだったな」と思い出して、8個くらい入った小さな袋を買い、実家に送った(私の地元では干し柿がなかなか手に入らない。)
母は私からのお土産を受け取ると、「おばあちゃんにも1個あげるわ、大好きだから」と連絡をくれて、その時初めて、おばあちゃんも干し柿が好きなんだなあと知った。

多分、マグロみたいな体だった時は、糖分を厳しく制限されていたから、甘い塊のような干し柿なんて、絶対に食べてはいけない食べ物だったのだと思う。
だから私も、おばあちゃんが干し柿を食べるイメージなんて、全くもっていなかった。
でも、痩せて小さくなった今は、少しなら甘いものも許されるようになったのか、母がこっそり献上した干し柿を、とても喜んで、大事に大事に食べてくれていたそうだ。

それからは、秋になると、下北沢のオオゼキで箱入りの干し柿を買って、送るようにした。
おばあちゃんが1回に1個しか食べれないなら、できるだけ大きい1個を食べてほしくて、少し高くても立派なやつを選ぶようにしていた。
コロナ禍もあって、病院での面会は簡単なものではなくなったし、私自身、頻繁に帰省はできなくて、その間にもおばあちゃんはどんどん弱っていった。
そして最期がきた。

お葬式に行く日、東京で干し柿を買ってから、飛行機に乗り込んだ。
悲しんでいる母を元気づけたくて買って行ったのに、母は一切手をつけず、棺桶の中で眠るおばあちゃんの口元に、干し柿を置いた。
「天国なら好きなだけ食べれるね」と言って、見送った。

おばあちゃんが煙になって、骨だけ残った中に1つ、骨っぽくない青黒いかけらがあった。

紛れもなく、干し柿のヘタだった。

大粒の干し柿を、心置きなく食べれる世界で、穏やかにお昼寝してることを願って。

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