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フクラハギ、カタイネ。

大きな仕事を終えた時は、達成感よりも安堵を覚える。

5ヶ月ほど、会社で翻訳のようなプロジェクトを進めてきた。
英語のメッセージを、日本人の社員やスタッフに伝わりやすいよう、日本語に翻訳するという仕事。
気難しい作家の文学作品を翻訳するわけではないので、ハイレベルな日本語センスや英語スキルを必要とするものではなかったのだけど、想像以上に頭と体と時間を駆使しなければいけなかった。

10人弱のチームだったが、私の担当は他のメンバーが考えた翻訳案を集めて資料化することだった。「集めて資料化」と言ってしまうと、「なんだ、コピペするだけじゃないか」という感じなんだけれど、そうではなく、「皆のアイデアを編集し、たたき台を作る」という仕事だった。

1つの英単語を日本語にするだけでも、人によって様々な考え方がある。
例えば「Apple」を訳すなら、当然のように「りんご」と書きたくなるけれど、あら不思議、「赤いりんご」と修飾した方がイメージしやすいだったり、「アップル」でいいじゃんみたいな意見もあったり、「いやこれは何かのメタファーだ」と村上春樹論的な推測を始める人もいたり。
言葉の受け取り方には随分差があるし、自然と個性が見え隠れする。

ということで、個性が炸裂した翻訳案たちを、どうにかパッチワークのように繋ぎ合わせ、議論が活発になるような塩梅のたたき台を作らなければならなかった。

チームで取り組んでいるから、完成したものが「誰か一人の作品」になってはいけない。
一人一人の要素が少しずつ加わって、「皆で考え抜いたもの」に仕上げなければ意味がない。
私も一人のメンバーとして参加しているので、「私なら絶対こう訳すけど…」と思うことは多々あったが、グッと我慢し、「誰のものでもない、無名のたたき台」をせっせと作る。

そんなたたき台を皆の議論に持って行っては、「この表現すごいいいですね!」と言ってもらえることももちろんあったけど、「しっくりこない」「なんか違う」と優しく突き返され(本当に優しい人たちなので、絶対に叩いたりはしない。真っ当に議論をしているだけ)、また新たなたたき台を持って行くことの繰り返しだった。

それを5ヶ月続けて、やっと完成し、先日発表できた。
これから、少なくとも数万人の人がこの言葉を受け取る。
翻訳の時と同じく、人によって受け取り方は様々だと思うし、解釈の幅はあって然るべきだけど、曲解されてしまっては困る。
そのためには、誠実に伝えなければならないし、誠実さが伝わる言葉にしなければならなかった。
何が伝わって、何が伝わらなかったか、今はまだわからないけれど、ひとまず終わった。

発表まで気を張っていたのもあって、体がすごく疲れてこわばっていた。
朝起きた瞬間、脚は浮腫んで痺れるように痛かったし、こめかみは釘が刺さっているかのように鈍く響いた。
だましだましやってきたけれど、「これはダメだ」と思い、近所の激安マッサージに駆け込んだ。

50分、4000円弱のコース。
そこからポイントを使って-1000円、さらに口コミ割で-100円。
結局3000円弱でお世話になった。
有難い、というか申し訳ない。

ラベンダーのオイルを塗りながら、(恐らく)中国人のお姉さんがふくらはぎの裏面をぐーっと押してくれる。
私の脚を触った瞬間、お姉さんが放った一言。

「フクラハギ、カタイネ。」

その瞬間、急に泣きたくなった。
カタコトで抑揚のないその言葉に、なぜかわからないけれど泣きたくなった。
たぶん、客観的に今の自分を表した言葉だったから。
どんなに平気なフリをしても体は正直で、「まだ頑張らなきゃ」と這いつくばる自分に、体も必死に応えようとしてくれていたんだと思う。そのことを、ただそのまま伝えてくれたお姉さんの言葉に、ふと救われた気がした。

仕事の大変さなんて、きっと大したことないとどこかで思っている自分がいる。
3ヶ月もすれば他の仕事で頭がいっぱいになるし、3年もすれば思い出話になるんじゃないかと。
そう思えば、目の前の辛さや苦労は、豆粒くらいの、いやクスクスくらいの極小相手に思える。
傷ついたりすり減ったりすることもあるかもしれないけれど、その分誰かを喜ばせたり励ましたりすることができるかもしれない。

つまるところ、労働の代わりの対価なんだ。
ふくらはぎが硬くなったぶん、得たものがあるはずで、そこに目を向けられるかどうかなんだ。
結果や成果以上に大切なものは、自分で見出すしかない。
むしろ、それを見出すことに、仕事の楽しさがあるんだろう。

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