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藤本タツキ『ルックバック』は現実に起こった事件への鎮魂なのか?

藤本タツキの読み切り漫画を原作とする劇場版アニメ『ルックバック』が、2024年6月28日に全国の映画館で公開された。SNS上では絶賛の意見が目立ち、まだ上半期なのに早くも年間ベストに挙げる人も多く見受けられる。観た人の熱量を高くして語りたくさせる作品なのは間違いない。

その一方で、主に2つの点で物議をかもしている。ひとつは1700円固定という珍しい映画料金である。たしかに上映時間が58分と短いため、通常の映画の一般料金2000円より安くするのも変ではない。むしろ、どんな作品だろうが料金を一律固定にする映画館の慣例のほうが不自然だ。だが、この1700円は全員に適用されるため、普段は割引が適用される学生やシニアにとっては割高になってしまう。作中の主人公たちは10代の数年間を過ごしており、おそらくは同じくらいの世代へのメッセージを含んでいる。そんなメインターゲットとなる人たちの料金を割高にしているのはどうなのか、という疑問が挙がっている。

で、今回考えたいのは、もうひとつの物議だ。原作となる読み切り漫画『ルックバック』が発表されたときから話題となっていたが、作中のある描写が、現実に起こったある事件を元ネタにしている、とされている。これは藤本タツキによる実際の事件への鎮魂だと評されている一方で、被害者がいるのに無神経ではないかと批判もされている。WEB上の漫画においては、それらの反応を受けて、あとから作中でのセリフ等が差し替えられた。しかしアニメ劇場版では発表当初のセリフが採用されており、物議が再燃している状況下にある。

※ ここから先は後半部分を含んだ物語の内容に触れるので、未読・未見の方はネタバレに注意してください。

では、『ルックバック』のあらすじを簡単に説明する。なお今回は、ややこしさを避けるために、あくまで映画の物語を追う(もっとも演出はともかく物語上の違いは微細だが)。小学生の藤野は、学校新聞に4コマ漫画を連載し、絵が上手いと周囲から褒められ得意げになっている。しかし同学年で不登校の京本による4コマ漫画が隣に連載されるようになると、圧倒的な画力の差から自分の実力の無さを思い知る。そして京本を越えようとデッサンに没頭するが、それでも追いつけず、ある日プッツリと漫画を描くのをやめる。そして小学校の卒業式の日、藤野は不登校の京本に卒業証書を届ける羽目になり、2人は初めて顔を合わせる。

意外なことに京本は、4コマ漫画を描く藤野の大ファンであり、尊敬の対象だった。そんな京本から「どうして描くのをやめたんですか」と聞かれ、とっさに「漫画の賞に出すため、ステップアップのためにやめた」と、つい言ってしまう藤野。それから藤野と京本は合作(京本は背景のみだが)で漫画を完成させ、その応募作は準入賞する。賞金を手に入れた藤野は、「これから町のほうに遊び行こーぜ」と、京本を外へ連れ出す。

その後、「藤野キョウ」というペンネームの2人は、読み切りを何本か雑誌に掲載するほどの評価を得る。そして月日は流れて高校卒業の時期、編集部から連載の話が持ち上がる。しかし京本は、もっと絵を学びたいと美大に進学する選択をし、もう漫画は手伝えないと言う。藤野は、自分なしの人生はつまらないよと悪態をついてしまうが、それでも承諾する。

京本とのコンビを解消した藤野は、「藤野キョウ」のペンネームはそのままにして連載を始める。漫画はヒットするものの、どうしても背景アシスタントとの相性が合わない。そんな中、ニュースが飛び込んでくる。美大に男が乱入して、無差別に12人を殺害したのだ。その美大は京本の進学先であり、殺害されたうちのひとりが京本であった。

この、無差別大量殺人事件が、実際に起きた特定の事件を元ネタとしている、とされている。もったいぶらずに言ってしまえば、2019年に起こった京都アニメーション放火事件(以下、京アニ事件)である。その根拠となっているのが、犯人の動機を示すセリフ「俺の絵をパクりやがって」が、京アニ事件の犯人を思わせるからだ。

まずは物語上で、この事件はどういう位置にあるのか考える必要がある。物語のほとんどは藤野の一人称視点であり、であれば藤野にとってこれは何なのかといえば、「京本の命を奪った出来事」である。事件後、藤野は京本の死を自分の責任だと思い込む。不登校の引きこもりだった京本を外に連れ出し、知らない世界へ進む勇気を与えて美大に進学したいと思わせ、それを承諾したのは自分だからだと。

そう、物語においてこの事件は、藤野が罪悪感を抱くために用意された「理不尽に親友の命を奪った出来事」という道具立てでしかなく、それ以上の意味は(少なくとも直接的には)含まれていない。別に、地震に巻き込まれるでも交通事故でも、置き換え可能なのだ。ではなぜ被害妄想の人間による無差別殺人にしたかといえば、それがより「理不尽な死」を印象付けられるからであろう。物語の筋にあった設定を選択したまでだ。

それは、原作漫画において動機を示すセリフが後から差し代わったことからも推察できる。おそらくは、こんなにも多くの人が京アニ事件を連想させてしまうのは、予想外だったのではないか。セリフを差し変えたのは、別に犯人の動機はそこまで重要ではないからと判断したとも言えるし。

そもそも、犯人の動機を除けば、作中の出来事は京アニ事件とそこまで類似しているわけでもない。まず放火ではないし、舞台は地方都市の美大だし、死者数も倍以上違えば季節だって違う。無差別大量殺人は最近の日本では数年に一度のペースで起きているわけで、さらに被害者人数にこだわらない通り魔であれば年に何度もニュースになっている。「学校施設に凶器を持った男が侵入」という点をピックアップすれば、京アニ事件よりも類似の多い別の事件が複数浮かび上がるのだ。

それでも読者/観客の多くが京アニ事件を想起し、これが藤本タツキによる鎮魂だと感じたとすれば、読者/観客の多くが京アニ事件に対して(他の無差別殺人事件とは比較にならないほど)並々ならぬ感情を持っていたのであろう。その点で、京アニ事件から動機を拝借する重大さを、藤本タツキは見誤ったのかもしれない。しかし冷静に見れば、物語の主題でも何でもない単なる道具立てのひとつに執着するのは、映画『オッペンハイマー』を原爆映画だと勝手に捉えて批判しているのと似た滑稽さがある。

では、ここであえて深読みして、「犯人の動機」によって藤本タツキが京アニ事件への想起を促す意図があったと考えるとしても、やはりそれは鎮魂ではない。その理由を示す前に今一度整理すると、まず読者/観客にとっての『ルックバック』というフィクションの物語がある。その『ルックバック』の作中で、主人公の藤野による「もしも京本と出会わなかったら」というフィクションの物語がある。まずこの二重構造を頭に入れたうえで続きを進める。

葬儀後の藤野は、もしも小学校卒業の日に京本と出会わなかったらというifの物語を夢想する。そこでは、漫画を描くのを止めて空手道場に通う藤野が、たまたま美大に入っていく犯人を見つけ、京本に襲いかかる直前に蹴りを喰らわして犯行を未然に防ぐ。あまりに辛い現実を前にして、フィクションの物語に救いを求めているわけだ。しかし別の世界線に物理移動できる機械を宇宙人から提供されることもない藤野は、すぐに現実に戻ってくる。そして藤野が夢想したフィクションの物語は、現実を受け入れて前へ進むための助力として、あくまで藤野個人に対して機能する。

物語の力に過度の期待をするなと、藤本タツキは看過しているようだ。いくらフィクションの物語で救われようが、シャロン・テートもライスシャワーも非業の死を遂げた現実は変わらないわけであるし。フィクションの物語は亡くなった者への鎮魂のためではなく、生きている者への未来のためにある。少なくとも、藤野が夢想するフィクションの物語は、そのために存在する。

では、読者/観客にとってのフィクションの物語『ルックバック』もまた、そのような存在なのか。それは各個人に委ねるしかないかもしれない。ただし重要なのは、その作中では小さな力しかないとされるフィクションの物語における、さらに瑣末な道具立てのひとつに過ぎない「犯人の動機」には、もはや何の意味もない点である。

大切な人が理不尽な死を遂げれば、どうしてこうなったのか、どこで間違えたのかと悩むのは、致し方ないことである。しかしそれが他殺であり、「犯人の動機」を殊更に注目してあれこれと考え込んでしまえば、むしろ犯人を重要人物として大きな存在にしてしまう危険性がある。事実、京アニ事件を含め、世間の耳目を集めた殺人事件の犯人は、何やら歴史上の偉人かのように語り継がれてしまっているではないか。

そんな状況下で『ルックバック』は、京アニ事件における「犯人の動機」を、ただのフィクションの道具立てとして取り込んだ。まるで、そんなものにはこだわるなと主張するかのように。「犯人の動機」を些末に扱い矮小化するのは、犯人の存在感を小さくすることに繋がる。そんな藤本タツキの行為もまた、亡くなった者への鎮魂ではなく、生きている者への未来のために行われているのである。

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