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小説「オツトメしましょ!」一気読みVer.



あらすじ


湯浅由乃と上椙千英、「脛に傷持つ」女子大生二人が、共に愛する「歴史」のために、独断と偏見で立ち上がる。狙うは各地の博物館や大学に眠る、陽の目を見ない「考古物」。 

 順調に「救出」を進める二人の前に、謎の同業者が現れる。目的も不明なまま、同じ「考古物」に狙いを定めた二組の盗賊。相手を出し抜き、狙った獲物を見事「救出」することができるのか!?

 そして、意外なところから現れる新たな敵。二人は知力と最新装備、そして「愛の力」で立ち向かう!現役女子大生盗賊二人の、活躍に、今すぐエンゲージ!!

245文字

おつとめ


 物の本によれば、『一般に、「勤め」の丁寧な表現である。』とされている。

 だが、この四文字には、表裏善悪、いろいろな「用法」があるのである。

  例えば、仏教用語ではいわゆる朝夕の勤行を「おつとめ」と表現する。だが一方で、禁固や懲役の期間のことも「おつとめ」と言う。

 また、特別に安い商品を「おつとめ品」として陳列するし、長年連れ添った夫婦間において義務的に行う性行為を「おつとめ」と言い、江戸時代には遊女の揚げ代を「おつとめ」と表現した。

 そしてもう一つ。盗賊が仲間内で盗みに入ることを「おつとめ」と言うのである。



1 湯浅由乃


 光陽館大学の3年生になって、2か月が過ぎた。周囲は就職活動に向けて本格的に動き始める時期で、講義の合間や昼時の食堂などでは、もっぱらインターン先の話や、具体的にどう動いたらより有利なのか、が話題になっているのが聞こえてくる。


 これといって交友活動をしていない由乃の元にも、時折貪欲な学生が情報を求めて声を掛けてくるが、大学院への進学を希望している、と伝えると、皆拍子抜けしたように去って行くのが通例となっていた。


 由乃は、目立たない程度の茶色のロングヘアをきちんと結び、いかにも物堅そうなメガネを着用し、服装もブラウスやセーターに、ロングスカートやパンツを合わせる、と言うような、できるだけ地味に見える外見に徹していた。


周囲には何をしに大学に来ているのかわからないような、派手な服装で残された青春時代を謳歌しようとする男女が溢れていたが、由乃はそういった連中とは距離を置き、講義の空き時間などは図書館や自分の車で読書をして過ごしていた。


光陽館大学は、いわゆる「名の知れた」大学ではない。ぶっちゃけて言えば、由乃の成績なら、もっと上の国立大学でも充分に通用するはずだった。由乃がこの大学を選んだ理由は、

充実した歴史学、考古学の資産があるからだった。由乃の興味が尽きない、日本の創成期の講師陣が充実している。特に、人文学の准教授である、渡辺八重の論文に感銘を受け、縄文から弥生時代について学ぶなら、この大学以上の大学はない、と見極めをつけたのだった。


 入学してから、その見極めが間違っていなかったことがわかり、由乃は勉学に夢中になった。1、2年で履修する教養課程をほぼ1年で終わらせ、2年次は半分以上を専門課程で大好きな歴史に触れて過ごしてきた。当然、そのような目立つ行動を取る学生は由乃の他にはおらず、講師陣の間でも「やる気のある人間」として映るはずだった。


 だが、同じことをしてのけた人間が、もう一人いたのだ。上椙千英。名前を見た瞬間にピンと来るものがあり、由乃はすぐに調査を開始した。


 最初に名前と姿が一致したときは、自分の掴んだ情報が間違っているのではないか、と何度も首を捻った。それほど、上椙の学業態度と、その見た目にギャップがあった。


 身長は160cmもないだろう。厚底のスニーカーを履いているので、正確なところは分からないが、それでも小柄で、華奢な印象だった。ショートボブの黒髪に、緑のメッシュが入っていて、その黒髪も、光の当たり具合では全体が緑色に見える時がある。髪型と相まって、後ろから見ると小学生のように見えるときすらあるのだが、正面に回ると、その姿は一変する。


 まず目を惹くのが、耳に着けられた大量のピアスだ。鼻と唇にも着いている。化粧もドギツイ。顔は真っ白にしてあるのに、目の周囲だけが真っ黒で、青白く見えるカラーコンタクトを着けていた。へそが見える丈のロックバンドのTシャツに、ダメージの入ったジーンズのショートパンツは、至る所にスタッツが打たれている。


 誰が見ても、これが由乃と同じ過程を歩んだ「やる気のある人間」とは思えないだろう。むしろ、「攻撃的な変人」と思われるのが関の山だ。それは明らかに、外界との接触を拒絶している姿勢に見えた。


 由乃の好奇心が、ムクムクと膨らんで来た。大学の講師以外で、初めて自分から意思疎通を図りたいと思った人間が上椙だった。だが、ここで焦ってはことを仕損じる。まずはじっくりと、相手を観察しなければ。メガネの奥で、由乃の目に力が入った。もちろん、それは誰にもわからなかっただろうが。


 上椙は、大学の近くのマンションに一人で住んでいるようだった。ランクからしても、経済的に裕福な家庭に育ったのだろうと言うのがわかる。あの見た目では、ろくにアルバイトもできないだろうから、生活費は全て仕送りに頼っていると見て、間違いない。もちろん、由乃の睨んでいる通りなら、家庭環境は勉学にうってつけと言えるだろう。


 大学には徒歩で通っているが、休日にはバイクで出掛ける姿を見かけることができた。普段の姿からして、ネイキッドのネオクラシックにでも乗っているのかと思ったが、実際に乗っていたのはⅮトラッカーのカスタムバイクだった。向かった先は漫画喫茶で、働いているのではなくて客として利用しているようだった。

 

 それ以外には、買い物にもろくに出掛けず、たまにコンビニに寄ったかと思えば、買うのはタバコのカートンと車かバイクの雑誌で、食べ物や飲み物を買う気配がない。大学でも食堂は利用せず、空き時間は延々と喫煙所で過ごす。とにかく、何かを飲んだり食べたりするのを見かけたことがない。人と話さないのも徹底していて、ごくたまに誰かが話し掛けてもイヤホンから漏れてくる音楽の音量が大きくなるだけで、完全に無視を決め込んでいた。

 

 知れば知るほど、興味が湧く。由乃にしては珍しく、講義よりも上椙の動向の方が気になり、講義を休んでまで、上椙が受けている、自分が受けなくていい講義に潜り込んだりもしたほどだ。

 

 10日ほど、そうして観察を続けた由乃だったが、とうとう声を掛けようと決めた。と言うより、もはや声を掛けなければ抑えが効かないほどに、興味が湧いていた、というのが正確なところだ。とにかく、ファーストコンタクトが大切だ。尋常の手段では、他の人間のように軽くあしらわれて終わりだろう。そうならないための作戦を考え出さなければ。

 

 由乃の口元が歪んだ。まるでそれは、悪魔の微笑みだった。

 

 

2 上椙千英

 

 最近、どうも妙な気配がチラチラしている。構内でも構外でも、じっと自分を見つめる視線が感じられる。もちろん、気付かないフリをしているが、誰かにつけられているような感覚が、どこにでも付きまとう。不思議なことに、いつも感じるような非難や性的好奇心からくる視線ではない。ただじっと、こちらを観察している。自分がまるで肉食獣に狙いを定められた草食獣になったような心地がする。

 

 ある時、その視線の主を突き止めた。前髪で隠すようにしながら、ガラス越しにその姿を見ることができた。意外なことに、それは地味で目立たない、優等生タイプの女子学生だった。その日、部屋に戻るとすぐに大学のサーバーに侵入して、女子学生の身元を割り出した。

湯浅由乃。自分と同じ、3回生で、専攻も同じだった。

 

 「へー、172あるんだ、デッカイな。お・・・おぉ! ナイスバディ・・・。」

 

 千英は、もはや当たり前になっている独り言をつぶやきながら、情報をスクロールしていく。歴史学と人文学、日本史でA+を取っている。他も軒並み好成績だった。

 

 さらに調べてみて、湯浅が自分と同じように、ほぼ1年で教養課程を終えていることに気が付いた。

 

 「・・・なるほど・・・これ、か・・・。」

 

 自分がつけられている理由が分かったような気がした。一見して頭のおかしい格好の人間が、自分と同じ過程で学業を修めているのに疑問を抱いたに違いない。「そういう目」で見られるのは慣れていた。大方、どこかの教授が千英のことを漏らしたのだろう。そうと分かれば、殊更に警戒する必要もない。

 

 千英は画面を閉じて、別な画面を拡大した。真っ黒な画面に、緑色の文字や記号がびっしりと書き込まれた、何かのプログラムのようだった。そのまま千英は、プログラムをスクロールし、時折文字や記号の修正を入れた。その頻度は決して多くはなかったが、ブロックごと前後を入れ替えたり、数列を全く違う物に入れ替えたり、大規模な改変もあった。

 

 「相変わらず、頭が固いなぁ。時には柔軟な思考を持たないとね・・・。」

 

 千英がいじっていたプログラムは、父の研究所で開発された、X線CTスキャン装置の新しいドライバーだった。主に鉱物の解析に使われているこの装置を、非破壊で古文書の文字を読み取る、という用途に転用できないか、研究中のものだった。

 千英はプログラムを頭から見直し、1時間ほどしてその出来栄えに満足すると、画面を閉じ、ベッドに横になる。これだけ頭を使えば、今日は頭の回転の音を聞かなくても眠れるはずだった。

 

 案の定、軽い眩暈に襲われながら我慢して目を閉じていると、千英はすぐに眠りに落ちた。

 

 

3 邂逅

 

 由乃は今日もいつもの通り、愛車のミニクーパーで大学に向かい、自分の駐車場所に車を止めた。大学では、3年生から構内に駐車場を借りることが可能となる。おかげで通学も楽になり、空き時間の使い方についても、だいぶ幅が持てることになった。

 

 今日は、いよいよ動くつもりでいる。とは言え、それは大学の講義が終わってからの話だ。日中はいつものように講義を受け、夜に備えよう。

 

 「何か」があるときの一日は、とても短い。予定通りの講義を受け、由乃は帰路に着いた。が、車はここに残しておく。今日の本当の「目的」のために、そうするのが最善だったからだ。

 

 由乃は徒歩で構内を出て、千英のマンションへと向かった。マンションのエントランスからは入らず、細いビルの間を抜けて、直接中庭へと出ると、一階のドアの並ぶ廊下側となる。由乃は迷わず右端にある非常階段に向かうと、踊るようにそれを飛び越え、柵の上部の空いた部分から身を躍らせて、非常階段に出た。

 

 これで、オートロックを通らずにマンションの内部に入ることができた。後はこの階段を5階分登り、千英の部屋に入るだけだ。もちろん、こちら側にカメラがないのは下調べ済みだった。警備上の重大な過失だが、今は住民もうるさいので、こういうことになったのだろう。本来はカメラのあったであろう箇所は、円形の板で封がしてあった。大方、「マンションの住民に悪い人間などいない!」と主張したポリコレかぶれの住民でもいて、取り外すことになったのだろう。

 

 金属製の階段は、由乃が歩くと甲高い音を立てたが、ここは普段から低層階の人間が日常的に使用しているので、あえて音を消す努力はしない。5階に上がると、一番端の501号室が、目的の千英の部屋となる。

 

 当たり前のように部屋の前に立ち、カバーを開けて6桁の数字を打ち込む。電子音を立てて、ドアが開錠した。この電子キーというやつは、至極便利なものではあるが、それは由乃のような側の人間にとっても非常に都合がいい。

 

 ドアを開け、中に入る。居室まで廊下が伸び、左側にバス、トイレのドアがあり、右側にはクローゼットが設えられていた。全てのドアが少しだけ開けられている。本来なら、居室の窓から漏れる光で周囲が見えるはずなのだが、千英は遮光カーテンを使用しているようで、窓の周囲がほんのり明るいだけで、室内はほとんど闇だった。

 

 その他に気が付いたのは、匂いだ。大抵、他人の家に入ると「その家の匂い」があり、一瞬戸惑いを覚えるのだが、この部屋には匂いがない。かすかにタバコの焦げ臭い匂いがあるが、意識的に嗅がないと気付かない程度だ。こういう家も珍しい。

 

 脱いだ靴を左手に持ち、由乃は室内へと足を踏み入れた。居室から、ブーンという低い機械音が聞こえてくる。音からして、複数台のパソコンが動いているらしい。由乃は居室を覗きたい衝動に駆られたが、それを抑えて洗面所のドアを潜った。ドアを元の幅に戻して、洗面所の天井を見上げる。それからバスルームの天井を覗いて、目的の点検口を見つけた。

 

 おもむろに、由乃は服を脱ぎ出した。今日来ていたのは薄手のサマーセータ―とチノパンで、下にはレギンスとスポーツブラを着けていた。どちらも伸縮性に富み、身体にぴったりとフィットするタイプだ。脱いだ靴と服をリュックにしまいながら、洗面台の様子を見る。飾り気のない透明なプラコップと、歯ブラシが一本。歯磨き粉なし。女性が使うようなクレンジングやブラシやハンドソープというような物が、一切ない。

 

 化粧もしているし、髪型も無造作なようで梳いた形跡はあったので、その都度どこかにしまっているのだろう。パッと見た感じだが、鏡も洗面台も汚れがなく、髪の毛の類も落ちていない。由乃は、ますます興味をそそられた。たまたま掃除したばかり、というのでなければ、日常から気を付けて生活をしている、ということだ。そしてそれには、必ず理由がある。それが由乃と同じ理由から来るものとは思えないが、ここの洗面台は由乃のそれによく似ていた。

 

 全ての準備が整うと、由乃は浴槽の縁に足を掛けて、点検口から天井裏に昇った。降り積もった埃が落ちていないかを確認すると、点検口の蓋を元に戻す。小さなペンライトを灯して、リュックから薄手のゴムシートを取り出し、下に敷いた。その上に横になり、あとはしばらく待機となる。由乃は呼吸を整え、目を閉じてその時を待った。

 

 二時間ほどして、足音が近付いてくると、由乃は目を開いた。既に闇に慣れた目に、周囲の梁や隣室との隔壁が目に入る。すぐにドアが開いて、一人の人間が部屋に入って来たのがわかった。

 

 足音が居室に去り、若干の静寂の後、パソコンのキーボードを叩く音とともに、千英の独り言が聞こえてくる。最初は誰かとチャットでもしているのかと思ったが、そうではなく、自分が感じたことを時折口に出しているだけのようだった。一人暮らしが長いと、こういう症状が出てくる。

 

 同じ状態がしばらく続いた。一度トイレに入っただけで、ずっとパソコンに向かっているようだった。キーボードを叩く回数が尋常ではない。何かのプログラムを組んでいるか、どこかにハッキングを仕掛けているか、またはその逆か。いずれにしても、時に20分以上、キーボードの音が全く途切れずに続くこともあった。

 

 午前2時30分、ようやくキーボードを叩く音が消え、ドサッとベッドに横たわる音が聞こえた。由乃はさらに耳を澄まし、千英の呼吸音を探した。睡眠に落ちれば、自然と呼吸が変わる。由乃は呼吸音を聞いただけで、睡眠の状態を判別できる。

 

 3時20分、呼吸音が変わった。千英は今、深層睡眠に入った。由乃は静かに動き出した。点検口の蓋を開け、するりと浴槽に降りる。静かにドアを開き、廊下から千英の眠る居室へと入って行った。この間、まったく物音を立てていない。

 

 ベッドで、左手の親指を口元にして、まるで胎児が母の胎内で蹲っているような姿勢で千英が眠っていた。由乃は、しばらくその表情に見入っていた。それはとても、寂しそうな寝顔だった。極力人との関りを避けていながら、その実、心は人を求めているのだろう。人の本性は寝顔にこそ現れる、と由乃は思っている。人生に満足している人の寝顔は、それはもう幸せそうだし、心に負い目のある人間の寝顔は、とても苦しそうだ。

 

 おもむろに、由乃は千英の口元を自分の左手で覆った。瞬間的に目覚めた千英が、目を見開いて起き上がろうと、仰向けに姿勢を変えたところで、その左手に力を込めて、上から押さえつけた。同時にベッドに飛び上がり、千英の胴を跨いで座るようにする。もちろん、体重は最小限にしか掛けていない。ベッドのスプリングが、苦しそうな軋み音を立てた。由乃の下で、千英は激しくもがいていたが、どうあっても抜け出せないと観念すると、太い息を吐いて大人しくなった。

 

 「手荒な真似をして、ごめんなさい。私は湯浅由乃。同じ大学の同回生よ。」

 

 静かな声でそこまで話すと、千英の反応を窺う。千英の顎が、コクコクとうなずいた。

 

 「千英と話がしたくて機会を窺ってたんだけど、どうやら普通に話し掛けただけじゃ聞いてくれそうもないから、こういうことになったの・・・。」

 

 千英が、また「了解した」と言わんばかりに、コクコクとうなずいた。今は完全に落ち着きを取り戻しているように見える。

 

 「これから手を離すけど、大声を出したり、暴れたりしないでくれる? 本当に、話がしたいだけなの。まあ、信じてと言っても無理だとは思うけど・・・。」

 

 今度は、大きくゆっくり、千英がうなずいた。大丈夫だと見極めをつけた由乃は、身体はそのままで、口元から左手を離した。約束通り、千英は騒いだり暴れたりしなかった。

 

 「び、びっくりしたけど、も、も、もう大丈夫! ど、どけて欲しいけど、き、気になるならそのままでいいから、は、話してみて!」

 

 千英は一生懸命に言葉を紡いだようだった。人との関りを避けていた理由が、うっすらわかった。

 

 由乃は、ゆっくりと千英の上から身体をどけて、ベッドサイドに腰掛けた。千英もゆっくりと起き上がり、由乃の隣に腰掛けるようにして起き上がった。

 

 そのまま、お互いに首を傾けてお互いの顔を見つめた。千英の顔には困惑ではなくて、こちらの話を待っている様子が窺えた。

 

 「あらためて、はじめまして。私は湯浅由乃。きっかけは、千英が偶然に私と同じような講義の取り方をしていたこと。でも、調べるうちにどんどん興味が湧いて来て。千英は他人を避けているようだったから、どうしたらいいか悩んだ挙句、私の得意手段に出たってわけ。私、泥棒でもあるの。」

 

 「わ、私、う、う、上椙千英。慣れるまで、話し方が、へ、変だけど。」

 

 そう言って、千英が笑った。少年がはにかんだ時のような、素敵な笑顔だった。由乃は大丈夫、と言うように大きくうなずいた。

 

 「わ、私も、泥棒。でも、ぬ、盗むのは、情報。由乃のことも、調べた。」

 

 由乃は眉を上げた。そうか、千英はハッカーなのだ。だがそれ以上に、自分のことを「由乃」と呼んでくれたことに驚いた。自分でも認めているほど特殊な人間が、こんな特殊な状況で、不法侵入の上で目の前に現れているのにも関わらず、だ。

 

 「今、由乃って呼んでくれたよね?」

 「う、うん。千英って呼んでくれたから。ダ、ダメだった?」

 「全然いい! すごく嬉しい! ありがとう!」

 

 そう言うと、千英は照れ笑いを浮かべながら、ベッドから飛び出た脚をバタバタと動かした。その動きは、まるっきり子供のようだった。由乃はさっきから、胸がキュンキュンしまくりだった。最初から感じていたことだったが、千英は文句なしにかわいい。顔はもちろんかわいいのだが、その佇まいや仕草が、見た目以上に由乃の心をくすぐった。

 

 それから、二人はベッドに並んでいろいろな話をした。驚いたことに、千英が教養課程を1年で終えたのも、由乃と同じ理由だった。推しの講師まで一緒で、こちらはむしろ千英の方が一枚上手であり、渡辺八重についての膨大なデータを手に入れていた。それは、小学校時代の自由研究に始まり、大学在学中に草上した論文や、研究者時代の未発表の研究データ にまで及んでいた。

 

 その中に、昨年行われた縄文時代とおぼしき遺跡発掘現場の、フィールドワ―クのデータが含まれていた。由乃も大学生ボランティアの一人として渡辺准教授とともに参加しており、二人はそこで知己を得たのだ。だが、そこに千英の姿はなかったはずだった。もし参加していたなら、見逃すはずはない。それに、よく考えてみれば、渡辺准教授の講義ですら見かけたことがなかった。由乃がそのことを問い掛けると、千英は明らかに挙動がおかしくなり、壊れたロボットのような動きになった。

 

 なんと、千英は渡辺准教授が好きすぎて、迂闊に近付けないのだと言う。大学に入れば慣れるかと思ったが、廊下のはるか先を歩いている姿を見かけただけで隠れてしまうほどに、恥ずかしいと言うのだ。講義も生では受けられないから、教室にカメラを仕掛けてリモートで講義を受けていたらしい。直接話し掛けられるかも知れない、フィールドワークなんて、絶対に無理。と言い切った。

 

 そういう話をしているだけで、千英の顔が上気してきて、呼吸が荒くなった。これは、本格的な恋煩いというやつだ。

 

 そのまま、二人はいろいろなことを話して過ごした。慣れてきたからか、驚きと不安が無くなったからか、千英の話し方も普通になった。昔から極度の人見知りで、さらにあがり症なのもあり、人との関りを極力避けていたと言う。周囲が明るさを増し、スズメの声が聞こえて来ても、二人の話は尽きなかった。

 

 由乃も千英も、これほどまでに他人と話したのは、実に久しぶりのことで、それぞれが驚きを隠せないでいた。千英がそのことに触れ、由乃も同じように感じていたので、二人で腹を抱えるようにして笑い合った。特殊な環境での出会いとなったので、アドレナリンが良い方に作用した結果かも知れないが、それを差し引いても、二人の複雑な形をした人に見せる曲線が、ジグソーパズルのようにピタリとはまった感じだった。

 

 「はあ・・・お腹、空いてきた。なんか食べる物、ある?」

 「チョコバーくらいしかないよ。」

 

 ひとしきり笑った後、由乃は空腹を覚えて千英に尋ねてみたが、やはり食べ物らしい食べ物はないようだった。

 

 「そういえば、しばらく見てたけど、飲んだり食べたり、してなかったよね?」

 「あー、私、普段はサプリとエナジードリンクだけで生きてるから。」

 「本当に? いつから?」

 「うーん・・・中学生くらいから、かな・・・。」

 

 千英の少年のような体型は、これが原因のような気がした。成長期に十分な栄養が摂れていなかった可能性が高い。

 

 「ねぇ、変なこと聞くけど、生理はきちんと来てる?」

 「あ、そういえば、ここんとこない。・・・かも。」

 

 この言い方なら、相当な期間、生理が来ていないのだろう。由乃は急に心配になってきた。千英は人を避けるあまり、知らず知らずに現実世界から逃避していたのだろう。それは、健康にも及んでいた。要するに、自分の身体のことすら、興味を失いかけていたのだ。

 

 「ちょっと、それじゃダメよ! ね、何か食べに行こうよ。何が好き?」

 「え・・・。うーん・・・特に、ないなぁ・・・。」

 

 由乃は思いつくままに食べ物を並べていった。その結果、どうやら千英の好物は寿司、そして生魚、と言う結論に達した。特に、エビとイクラに反応が強かった。

 

 自分でもちょっと強引かな、と思い、余計なことをしているのかとも思ったが、渋々ではあるが千英も乗り気になってきているようだし、少なくても嫌がっている感じはしなかったので、由乃は安心した。会って数時間なのに、千英に嫌われるのは、何より避けたい、と思うようになっていた。

 

4 遠出

 

 二人でマンションを出て、早朝の大学へと向かう。まだ開門前だが、警備員に付き合いの飲み会帰り、と伝えて中に入れてもらった。こういうところが、至極便利なところだ。

 

 「わ、由乃、ミニに乗ってるんだ! しかもジョン・クーパー!」

 「あ、やっぱりわかる? えへへ、そうなんだよね。」

 

 由乃の乗っているミニクーパーは、巷では「ゴーカート」と呼ばれるほどに運転のフィーリングが手軽で楽しいことで知られている。かと言って、決して大人しいわけではなく、スパルタンな走りも得意だ。低回転から気持ちよく吹け上がり、ステアリングも即座に反応する、旋回性に優れた車でもあった。

 

 「せっかくだし、今日は大学休んで、少し遠出する?」

 「うん!」

 

 車が気に入ったらしい千英も、かなり乗り気になってきたようだ。助手席で車のあちこちを見回してはしゃいでいる。その様子を見て、由乃も嬉しくなり、ちょっと車の性能を見せてあげたい気持ちになった。

 

 早朝の車の少ない道路で、由乃はアクセルを踏み込んだ。速度計があっという間に60kmに達する。そのまま、ほとんど減速せずにカーブを通過すると、横からGが追い掛けてくるような感覚に包まれる。

 

 風を切るように街中を抜け、高速に入って海を目指した。この辺りで美味しい魚介を食べたいと思ったら、誰もが向かうK港へ向かうつもりだった。それに、下見したい場所もある。

 

 千英にそのことを話してみると、気軽に「いいよ」という答えが返って来た。千英の感覚的に、由乃の行動はどのように映っているのだろうか。単に「下見」と言っただけだから、それが盗みに入るためだとは思ってないのかも知れない。

 

 そのことを聞いてみようかとも思ったが、ウキウキした表情で流れる風景を見ている千英を横目で見て、そんな気も失せた。そういうことは、もう少し時間が経ってから聞いても遅くはない。

 

 目的の店には、開店前だが既に数名の列ができていた。伊勢海老を丸ごと使った海鮮丼がグルメ番組で紹介され、一躍人気となったのだ。千英は、車から降りると途端にまたおかしな挙動をしだした。初めての場所で、いきなり他人とともに並ぶのはハードルが高かったかも知れない。由乃はぎこちなく歩く千英の手を握り、手を繋いだままで列の最後尾へと並んだ。

 

 手を繋いだ瞬間、千英が「えっ」という顔をしたが、由乃は軽く微笑んで、何事もなかったかのように受け流した。千英の手に、少し力が入って、由乃の手を握り返してきた。

 

 ほどなく開店した店内に入り、壁際の二人席に腰を下ろす。いつもの癖で、自然と全体を見渡せる一番奥の席に着いた。厨房のすぐ前なので、異常があれば厨房を抜けて裏口から外に出ることもできる。この稼業の、悲しい性と言うべきか、祖父からも父からも、厳しく言いつけられている「心得」の一つだった。

 

 「この『将軍丼』って言うのが、ここの名物なの。すごいでしょ?」

 「え・・・さすがにこれは、食べ切れないと思うな・・・。」

 「じゃあ、二人で一つ頼んで、シェアして食べようよ。」

 

 そう言って、由乃は名物の将軍丼とカニ汁を二人分、それからイクラとイカ、アジの刺身を別で注文した。

 

 出てきた料理は、想像以上に量が多かった。千英が目を丸くしながら、それでも笑顔でスマホに写真を収めていた。取り分け用の小鉢をもらい、由乃がてきぱきと将軍丼を二人分に分けていく。 

 

 「ご飯は少なめにしておくね。無理しなくていいから、食べたいものだけ食べて。」

 

 由乃がそう言うと、千英は小鉢のイクラから食べ始めた。美味しかったらしく、食べ始めると手が止まらない。イカ、マグロ、サーモン、ハマチ、それに、少量のご飯。意外としっかり食べられるようで、由乃は安心したと言っていい。長い間食べることを止めていると、食欲そのものが減退する。さらに、食べ物を受け付けなくなることもある。結局、ご飯以外は二人でほとんど平らげ、入れ替えてもらった熱いお茶を飲んだ。

 

 「すっごく、美味しかった! 思ってたより食べられた!」

 「良かった! また、来ようよ。」

 

 千英は大きくうなずいて、それに答えた。由乃が会計を済ませ、店を出ると、さりげなく、千英が自分から手を繋いできた。さっきよりは動きも落ち着いていたが、何かを探すようにキョロキョロと辺りを見回している。

 

 「どうかした?」

 「あ! うん、なんでもない!」

 

 そうは言ったものの、千英は何かを言い淀むようにしてモジモジしている。そこで気が付いた。喫煙所を探しているに違いない。

 

 「わかった、タバコでしょ? 車で吸っていいよ?」

 「え、いいよ! 匂いが着くと、売るときに値段が下がるよ?」

 「そんなこと、心配しなくていいよ! 売る予定もないし、ね。じゃあトイレに寄ってから車に戻ろう? ここには喫煙所、ないみたいよ?」

 

 ひと昔前と違い、今は喫煙者が世間から白い目で見られることが多い。それに応ずるかのように、いろいろな施設から喫煙所が消えていた。新しい法律まで作って喫煙者を追い込むくせに、販売をやめさせようとしない辺りに、大人の汚さを感じるが、これも世の中の流れなのだろう。

 

 二人でトイレを済ませ、車に戻る。千英はおずおずと電子タバコを吸い始め、細く開けた窓から煙を吹き出した。由乃は千英に声を掛けてから、車をスタートさせ、「下見」の場所へと向かう。

 

 そこは、県立の古い博物館で、しばらくは企画展も行われていないような、見るからに寂れた感じのする博物館だった。予算も極小で、毎年閉鎖の声が上がる、いわば地方自治体の「お荷物施設」の一つだった。当然のように、ろくな研究は行われておらず、収蔵庫には何十年もそのままの考古物も多数、収められている。

 

 「ここが、次の標的なの?」

 「うん、ここにね、眠ったままの火焔土器があるんだけど、それには記号のようなものが刻まれているって言う話なの。昭和の時代に新聞にも載ったけど、そのまま打ち捨てられてるわけ。要するに、何十年も研究されずに、『漬物』になっちゃってるのよ。」

 「由乃は、それを盗みたいわけ?」

 「そうね。だって、おかしな話じゃない? 研究もされず、展示もされず、ただそこに置かれているだけなら、持っている意味がないでしょう? それなのに、なんのプライドかわからないけど、他所に貸し出したりもしないのよ?」

 

 会話の流れからいって、千英は下見が「盗み」のためだと気が付いていたようだ。それでいてあの軽い返事なら、由乃の行動に対して負の感情は抱いていない、と判断してよさそうだった。

 

この悪しき風潮は、日本中、いや、世界中に同じことが言えるのだ。一度手に入れたものは、他所に貸し出さなない。いや、まったく貸し出さない訳ではないが、そこに至るまでには多額の貸出料や、様々な書類の準備、政治的な駆け引きなど、途方もない労力が必要となる。それだけの手間を掛けても、それを研究目的で使用することは、まずできない。

 

ならば、自分たちで研究をするのか、と言えば、そうではない。何かのニュースになって脚光でも浴びれば別だが、大半の物はなんだかんだと理由を付けて、後回しにされる。こうして、陽の目を見ることなく、収蔵庫の『漬物』となった考古物や美術品は、相当の数に上るはずだ。由乃はそれを、『歴史に対する冒涜』だと考えている。

 

 人類共通の財産とも言うべきものを、経済的理由や、一部の人間のプライドだけで放置し、見て見ぬふりをして、良い訳がない。もちろん、技術的な理由で解明が困難であるとか、本当は研究したいのに、人的、経済的理由でそうできないものも、幾つかある。そういう物については、由乃は『猶予期間』を与えることにしていて、リストには載せているが、手を下すことはしない。

 

 そういった思いを、これから盗みに入ろうとする博物館の駐車場に車を止めて、由乃は熱く千英に語った。

 

5 覚悟

 

 「決定的だったのは、N大学の火事ね・・・。」

 

 日本でも有数の大きな大学で起きた火災事件が、由乃が行動を始める大きなキッカケとなった。職員のタバコの火の不始末で、収蔵庫が丸ごと消失してしまった。そこには、先史時代から飛鳥時代までの収蔵品が、20万点近く収められていた。よりにもよって、そんな場所で職員がタバコを吸っていただけでも大問題なのに、さらに不始末から火事を出し、おまけにスプリンクラー設備が稼働せず、全焼させてしまったのだ。

 

 さらに頭に来たのが、そのニュースを報じたマスコミの態度だ。それまで見向きもしなかったくせに、いざ無くなってみると、途端に「人類の損失!」とか、「日本の歴史解明に暗雲」など、センセーショナルな見出しを付けて大々的に大学を叩いたのだ。そのせいで、火元になった職員は後に自殺し、学長が辞任に追い込まれた。

 

 この、一連の流れを見て、当時中学生だった由乃は、そういう大人たちを一切信用しなくなった。テレビで毎日のように責任追及の特集が組まれていたが、出てくる「なんとか大学教授」などと言う人間は、どこに気を遣っているのか知らないが、当たり障りのない発言を、いかにも訳知り顔で繰り返し垂れ流していて、由乃を呆れさせた。

 

 そんな中で、たった一回だけではあるが、当時大学院で研究員をしていた渡辺准教授のコメントが流されたことがあった。考古学を学ぶ学生に、中継を繋いで直接インタビューをする、という、番組内のワンコーナーに過ぎなかったが、そこでたまたま通りがかった渡辺八重は、歯に衣着せぬ言動で、現在の考古学界の問題を語り、予算の少なさを嘆き、状況に警鐘を鳴らした。まずいと判断したインタビュアーが話を切り上げようとしても、マイクを奪いかねない勢いで話を続けたその勇気と姿勢に、由乃は強く心を動かされた。

 

 大学院の研究生が、公共の電波で公然と大学や考古学界に反旗を翻したのだ。生半可な胆力でできる行動ではない。それ以来、由乃は渡辺八重を追い掛け始めた。まだ大学生だった頃に、指導員だった一回りも年上の教授と結婚し、子供も授かったらしい。論文はどれも出色の出来で、当時はあまり理解できなかった内容も、今ではそれが、当時どれだけ画期的な研究だったか、はっきりと分かる。

 

こういった人物が、未だに教授にすらなれず、大学で講師をしなければならない現状こそ、本来憂うべき事情ではあるのだが、そこのところは由乃の力では如何ともし難い。

 

 だが、考古物を『漬物』から救い出すことはできる。それは、湯浅家の稼業だった。

 

 湯浅家は、家系が辿れる江戸時代まで遡っても「盗賊」を生業にしてきた。俗に言う、「盗め(つとめ)の三箇条」、すなわち、

 

一、盗まれて難儀する者には手を出さぬこと

一、盗めするときは人を殺傷せぬこと

一、女を手ごめにせぬこと

 

を、「金科玉条」として頑なに守り抜き、手堅い商売を続けて来ていた。過去にはどこにでも入り込んで盗みを果たすことから、「隙間風」の異名を取った大盗賊もいたと言う。また、忠臣蔵で有名な将軍綱吉の時代には、江戸城の御金蔵から、千両箱二つを盗み出した先祖もいるらしい。由乃は湯浅家の一人娘として、祖父と父から、「盗みの技術」の指南を受けていた。まるで嘗め回すように初孫の由乃を可愛がってくれた祖父でさえ、指南の時は鬼の形相になり、厳しく心得や技術を伝達された。

 

 この「盗めの三箇条」は、一番最初に叩き込まれた絶対の教えであり、もしこれが破られた場合には、それがたとえ手下のやったことでも、素直に罪を認め、自首することを固く約束させられていた。

 

 そうした経緯があり、由乃は父と共に、それらの『漬物』を『救出』する仕事を始めた。

狙うのは、大学や博物館、美術館などで眠っている考古物や美術品に限られた。そうして救出された物は、然るべき仲介者の下で、秘密裏に研究の力がある研究者や施設に届けられ、研究が続けられている。

 

 驚くべきことに、こうして今までに救出された55点に上る『漬物』の中で、実際に警察に「被害」として届けられた物は、一つもない。中には警察に相談をした事例もあったが、盗み出された時期も、具体的な数も、どういった物が盗まれているのかも正確に把握されていないため、被害届として受理できず、単に「遺失物」として処理されていた。この辺りからも、いかに管理が杜撰か、容易に判断ができる。

 

 盗み出した当の本人である由乃の父でさえ、あまりの杜撰さに拍子抜けしてしまい、由乃が大学に入学してからは、完全に手を引いていた。

 

 「あんまりひどすぎて、盗んでる甲斐がねぇ。」

 

 と言うのが父の言葉だった。それからは、由乃は一人で全てを段取りし、実行していた。この3年間で、合計5回、26点の漬物を救出し、然るべき人間に手渡すことに成功している。もちろん、こちらも被害届は出されておらず、警察に相談した形跡すら見出すことができなかった。

 

 気が付くと、由乃は一人で1時間以上、話を続けていた。その間、千英は話に熱心に耳を傾け、一言も口を挟まずにいた。話終えて由乃が大きなため息を吐くと、千英がポツリと言った。

 

 「私も、その仲間に入れて。」

 

 今度は、千英の番だった。千英は千英なりに、現在の考古物を取り巻く環境に、不満を覚えていたようだった。だから、様々な施設にハッキングを仕掛け、自分なりの「収蔵物目録」を作っていたらしい。

 

 併せて、いつか自分がそれらを助け出そうと、見取り図や防犯設備、警備状況などもつぶさに調べていたらしいのだ。だが、実際に「助け出す」行動に移してみて、その難しさに舌を巻き、危うく捕まりかけたことまであると言う。

 

 まったくの偶然ではあったが、千英も渡辺准教授のインタビューを目にして、自分とは正反対の生き方に強い憧れの念を持ち、それから考古学と渡辺八重本人への執着が始まったらしかった。

 

 それまでの千英は、父の影響で考古学というものがどういうものか、漠然とは知っていたが、自分がそれを学んでみようと思ったことはない、と言う。千英の父は、工業系の研究者で、考古学については趣味が高じた程度ではあったが、それまで鉱物や隕石の鑑定鑑別に使用されてきたX線CT透過装置を、古文書の解読に転用できないかを研究し、成功に漕ぎつけていた。紙も墨も、同じ炭素で構成されているため、それまでは判別がつかなかったものを、光学スペクトル分析の応用で、明確に判別し、それを選り分け、文字や記号として形にすることができるようになったのだ。

 

 「読めなかった物が読める」という一事に、千英は激しく知的好奇心をくすぐられ、それ以降、特にまだ解読されていない古文書に強い興味を持ち、それらを中心に調べを進めていた、と言うのだ。

 

 「さしずめ、現代の嘗め役、ってところね。」

 「嘗め役?」

 「うん。盗みに入る家屋敷の間取りとか、家族とか、どのくらいの資産が家にあるか、とか、調べて盗賊に売る商売があったのよ。そういう人たちを、盗賊の用語で、嘗め役って言うの。」

 「へー、じゃあ、私のハッキングも、役に立ちそう?」

 「立つなんでもんじゃないわ。私もそれなりに詳しいけど、ハッキングまではできないし、その様子だと、警備システムなんかの無効化もできるでしょ?」

 「うん・・・まあ、実際にやったことはないけど、その手前までなら何度もいった。」

 「やっぱり。だとしたら、私の仕事が半分は減ることになる・・・。外注に出すこともあるけど、費えも掛かるし、それに、そこから足が着く可能性もあるから・・・。」

 

 そこまで話して、由乃は考え込んだ。

 

 千英を、仲間に引き入れるべきか・・・。

 

由乃としては、心強い。由乃が苦手とする分野に特に明るく、気心も知れている。たかだか数時間話しただけで、という人間がいるかも知れないが、それはその人間が世間を、人間を知らないだけだ。血の繋がりがあろうが、何十年と一緒に暮らそうが、分かり合えない人間とは決して分かり合えない。逆に、会った瞬間にピタリと呼吸が合う人間、というのもいる。それが、由乃にとって千英だった、と言うだけのことだ。

 

だが、だからこそ、この世界に千英を引き入れていいものかどうか、由乃は迷った。いかに理に適った目的のためであろうと、それはどこまでも独りよがりであり、違法行為なのだ。さらにも増して、盗賊には盗賊の、守るべき厳しい掟がある。この掟は、まさに命懸けの掟であり、「掟破り」は盗賊仲間から常に命を狙われ続けることになる。

 

そういった状況に、千英を巻き込むべきなのか、どうか。

千英はそれを望んでいるようだが、それは、この世界のことをよく知らないからだ。少なくても由乃はそう考えた。

 

「千英。そういうことを、軽々しく口に出してはダメよ。こっちの世界に一度でも踏み込んだら、もう一生、抜け出せないのよ? 法に触れることだし、命を狙われることだってある。」

 

出来る限り重々しい口調で、由乃は諭すようにして千英に話をした。

 

「でも、命を懸けるだけの価値はあるんじゃないかな? 他に同じこと考えて、実行する人もいなさそうだし、由乃と私がやらなかったら、ずっとそのままじゃん?」

「まあ、それはそうかも知れないけど・・・。」

「どっちにしても、私も同じことをやろうとしてたし、それなら由乃と一緒の方が確実でしょ? 由乃だって私と一緒の方がしやすいんでしょ? お盗め?」

「それは・・・まあ・・・ね。」

「じゃあ、決まりじゃん! それに、さ、「そっち」が、例えどんな世界でも、由乃と一緒なら、私、平気だよ?」

 

 かぁーっと、顔に血が上るのが感じられた。不覚にも、激しい「照れ」が由乃を襲っていた。この子は、面と向かって何ということを言うのだろうか。それに、千英は由乃が思っていたよりも物事を論理的、現実的に捉えていたとも言える。「掟」については、逆に守っている限り生活に何の影響もない。起こっていないことであれこれ悩むのは、愚か者のすることだ。

 

「わ、わかった! そういうことなら、一緒に組もう! こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

 由乃は紅潮したままの顔で、千英に頭を下げ、自分を呪ってやりたい気分になった。これではまるっきり、プロポーズを受けた女子の回答ではないか。

 

 千英も、由乃の態度が変なことに気が付いたようで、クスクスと笑い出した。つられて由乃も笑い出す。本当におかしくなって笑ったのだが、それ以上に何か安堵感を覚えていた。

 

 それから、二人は下見もせず、帰路に着いた。千英と組むことを、「組合」に届け出なければならない。そうすることで、千英は晴れて「盗め人」の仲間入りを果たすことになる。

 

「組合」とは、いわゆるギルドのようなもので、世界各地に支部がある。要するに盗賊間の互助会であり、決められた年額さえ納めておけば、仕事の斡旋から盗賊仲間の紹介、盗品の売買、またはその仲介など、手数料は必要だが、受けられるサービスがあり、さらには病気やケガの際の見舞金から、葬儀埋葬の世話、家族がいるなら家族への手当まで、あらゆる協力と福利厚生を受けることができる。

 

 だが、万が一「組合」のことを外部に漏らしたり、同じ盗賊から盗みを働く「掠め取り」や、仲間を売るような行為で「掟」を破った場合には、瞬時に世界中に手配書が回り、賞金が掛けられて追われることになる。その一切を仕切るのも同じ「組合」の仕事だった。

 

 由乃は、帰り足で自分の所属している支部へ向かうことにしたのだ。首都圏第三支部。支部長は、祖父の手下だった男性が務めていて、由乃が小さい頃から見知っている、親戚のような存在だった。

 

 由乃のミニクーパーが下町の細い道を曲がりくねりながら進み、とある古い木造住宅の前に車を停めた。外から見れば、ただの古い住宅に見えることだろうが、これが目指す建物だった。

 

 「ここ? 普通の家じゃん。」

 「目に見える物が全てとは思わないでね。特に、これからは。」

 

 不思議そうに由乃を見る千英を連れて、玄関の引き戸を開く。ドアに取り付けられた鈴が、リンリンと音を立てた。二人は中に入り、土間で家人が出てくるのを待つ。

 

 「はいはい、どちらさん?」

 

 姿は見えないが、廊下の奥からしわがれた老人の声が届いた。千英が身を固くするのが感覚でわかった。

 

 「伊十郎おじさん、由乃です。」

 「ほっ、こりゃまた、珍しい! さあさあ、遠慮はなしだ。あがってあがって。」

 

 相変わらず姿は見えないが、声の調子からして歓迎されているようだった。由乃は千英に目配せをすると、靴を脱いで家にあがった。すぐ左の引き戸を開けて、中に入る。

 

 部屋は、和室の6畳続きで、室内はがらんとしている。奥の6畳間に、大きな神棚が設えてあり、その前に置かれた長火鉢の前に、髪の薄くなった老人が、ちんまりと座っていた。

 

 由乃は、千英と並び、入ってすぐの畳の上に正座をすると、折り目正しく挨拶をした。

 

 「伊十郎おじさん、お久しぶりです。・・・今日は、御用の筋で・・・。」

 

 伊十郎と呼ばれた老人は、一瞬目を丸くして驚いたようにしていたが、すぐのその目が針のように細められた。長火鉢に置かれたタバコを一本引き抜き、火を点ける。

 

 「・・・そうかい、ま、そこじゃ話も遠い。さ、中に入っておいで。」

 「・・・はい。」

 

 千英は、伊十郎老人の口調が急に冷ややかになったのに気が付いた。声から抑揚が消え、どことなく一本調子な話し方に変わった。

 

 由乃はするすると膝を進めると、手前の6畳間の境目で止まり、また平伏した。千英も遅れて平伏する。

 

「で、御用、というのは・・・? 湯浅の人・・・。」

 「・・・はい、私の隣に控えます、上椙千英を、盗め人に、と。」

 「・・・湯浅の人・・・アンタももう、この稼業に入ってそこそこの年季が入ってきたところだ、そんな話があっても、おかしくはねぇが・・・お隣のお嬢さんは、ちぃとばかり、若過ぎやしないかね?」

 「上椙は、幼く見えますが、歳は私と同じです。それに、情報を抜き取る術を身に着けております。腕は確かで、信ずるに値する人間です。」

 「・・・そうかい・・・まぁ、それなら、構わねぇが・・・で、上椙の人、アンタ、この稼業に入るってことが、どんなことか、其処ら辺は分かってるんだろうね・・・?」

 

 由乃は汗をかいていた。分かってはいたが、支部長の「試し」はやはり強烈なプレッシャーが掛かる。千英のことが心配だったが、顔を上げるわけにはいかない。それに、前もって話をすることも禁じられていた。ここは、千英に任せるしかない。だが、隣の千英は平伏しながら、もぞもぞと落ち着きなく動いているだけで、答えようとしない。これは、まずいことになったかも知れない。

 

 「・・・どうしたい?・・・上椙の人、まさか、その歳で耳が遠いってことも、ねぇだろうよ?」

 

 伊十郎おじさんの声に凄味が加わった。さすがは祖父の右腕として、差配を振るっていただけのことはある。由乃が助け舟を出そうと息を吸い込んだ時、千英が話し始めた。

 

 「は、はい! な、な、仲間になるに当たって、や、約束は、ま、守ります!」

 「・・・で、情報を盗むって? どうやって?」

 「は、は、はい! あ、あの、パソコン! パソコンを使って、盗みます!」

 「・・・。」

 

 伊十郎は長い沈黙の後で、由乃に声を掛けてきた。

 

 「湯浅の人・・・このお人を、手下になさおつもりかい?」

 「いえ、手下ではなく、五分の間柄です。」

 「ほぉ? 五分、ね・・・。」

 

 伊十郎はまた、長い沈黙に入った。由乃の眼鏡には、汗でできた水滴が溜まり始めていた。鼻から畳へ、汗の雫が落ちた。


 「・・・いいだろう、納め金は、1000万。7日以内に届けてくれ。さ、お二方、顔を上げなせぇ・・・。」


 許された。納め金の話が出た時点で、千英は伊十郎おじさんの、つまりは支部長の「試し」に合格したことになる。由乃は、そのまま畳に崩れ落ちそうになるほど力が抜けたが、腹にグっと力を込めて、身体を起こした。横目でそれを見て、千英もぴょこんと起き上がる。


 「もう一度聞くが、五分で、構わねえので?」

 「・・・はい。五分です。」


 今度は、由乃の目をジッと見つめて、念を押した。目で掛けられる重圧をはねのけるように、由乃も目に力を込めて、伊十郎を見つめ返す。


 「おい!」


 視線を外さず、伊十郎が奥に声を掛けた。間、髪を入れず、左手の襖が開き、中年の女性二人が、手に三方を持って現れた。これから固めの盃を交わすことになる。手下にするわけではないので、支部長が見届け人となり、お互いの血を混ぜた酒を飲むことで、固めを行うのだ。

 

 三方の一つには酒を満たした赤い盃が、もう一つには小柄が載せられている。小柄は、刀の鞘に付けられた小型の刃物で、現在で言うところのカッターやペーパーナイフのように使われたものだった。


 由乃は小柄を取ると、左手の平に小さな傷を付け、そこから出た血を盃の酒に垂らした。懐紙で小柄の血を拭き取り、刃先をこちらに返して千英に差し出す。千英も躊躇することなく由乃と同じことを繰り返し、これで双方の血が、盃の酒で混ざり合ったことになった。


 由乃は一礼してから盃を取り上げると、三々九度の要領で、半分ほどの酒を喉に流し、三方に戻した。千英がおずおずと手を伸ばし、盃を取り上げて酒を飲み干し、三方に乗せた。するすると中年の女性が近付いて来て、その三方を取り上げ、伊十郎の元へと運ぶ。伊十郎は盃が空なのを確認すると、懐紙で盃を包み、自分の懐にしまった。


 礼をして、中年女性二人が引き下がっていった。

 

 「これにて、『固めの一献』を終わります。天地照覧、神命助願。」

 

 3人が、その場で深々と頭を垂れた。これで、千英も「盗め人」となった。

 

 「いやはや! よっちゃん、驚かすもんじゃあねぇよ! 俺ァ、寿命が3年は縮んだぜ!このことは、親分は知っていなさるのかい?」

 

 伊十郎が長火鉢をパチンと叩き、打ち解けた様子で由乃に話しかけた。千英はその変貌ぶりに驚き、ビクッと身体を震わせた。

 

 「ごめんなさい、伊十郎おじさん。おじいちゃんにもまだ話してないの。気持ちが固まってすぐ、その足でここに来たから。」

 「そ、そりゃあ・・・よっちゃん! 大丈夫なのかぇ?」

 「大丈夫。これでも、一本立ちしてるのよ? 今更『お伺い』なんて立てたら、逆に叱られちゃうわ。」

 「そ、そりゃあ、まあ・・・そうかも知れねえが・・・。」

 

 そこで伊十郎は、不安げに千英を見た。千英は状況が飲み込めず、キョトンとして二人を見ている。

 

 「心配ないわ。千英は、こう見えて、芯がしっかりしている。仕込むのはこれからだけど、いい『盗め人』になるわ。」

 「む・・・ま、まあ、よっちゃんがいいなら、俺に否やはねぇが・・・。おいおい!大分深く切ったんじゃねぇのか! おい! 絹江!救急箱、持って来い!」

 

 そこで初めて、由乃も気が付いた。千英の手から、血が滴っていた。思いのほか深く切ってしまったらしい。バタバタと音がして、襖から救急箱を手に、伊十郎の妻、絹江が現れた。

 「どれどれ、見せてごらんな・・・。あれ! こんなに長く切らなくたって・・・。うん、そんなに深くはないようだね。」

 

 そう言うと、テキパキと消毒し、患部に血止めの膏薬を塗り込んで、包帯を巻いた。絹江は元看護士であり、この手の処置はお手の物だった。それでなくても、様々な怪我の多い稼業なのである。

 

 「おばさん、お手を煩わせて、申し訳ありません・・・。」

 「なんだい、よっちゃん、そんな他人行儀な! ・・・これで血は止まると思うけど、しばらくはこの手を使わせちゃいけないよ。まあ3日もすればくっつくだろうからね。」

 「はい、ありがとうございます。」

 

 由乃は絹江に丁重に礼を述べた。絹江は畳に滴った血もサッと拭き上げ、ニコニコと二人を見つめてから部屋を出て行った。

 

 「千英、大丈夫?」

 「うん。大丈夫。ちょっと・・・痛いけど。」

 

 そう言って千英は笑顔を作った。左手がうずくのだろう、自然と肩口まで手を挙げていた。

 

 「ささ、もう、固い話は終わりだ。足を崩して、楽にしねぇ。こっからはいつものよっちゃんと伊十郎おじさんだよ。・・・それと、千英ちゃん・・・ちぃちゃんってことだな! 俺ァ、よっちゃんのおじいさんの手下でな、伊十郎と言うんだ。よっちゃんがこんなちっちゃい時から、知ってるんだよ。これからは、ちぃちゃんも身内だ。何かあったら、遠慮なくおじさんを頼ってくれよ?」

 「あ、あ、ありがとう! お、おじさん!」

 「はは! 元気がいいねぇ! どうだい、伊豆栄から鰻でも取るから、久しぶりに一緒に食おうじゃねぇか!」

 「あ、懐かしいわね! でも、私たち、さっき食べてきたばかりなの・・・。それに、千英は食べ物リハビリ中で・・・。」

 

 そう言って、由乃は千英との出会いから今までの経緯を、簡単に語って聞かせた。伊十郎はまともに話をしたのが今朝方のことと聞いて、ますます思案顔になったが、二人の仕草やなんということのないやり取りを見て、徐々に愁眉を開いていった。

 

 「そうかい。じゃあ、鰻は今度にしようかね。・・・ところで、親分や若は、変わりがねぇんで?」

 

 伊十郎は未だに祖父のことを「親分」と呼ぶし、父のことを「若」と呼ぶ。今や首都圏第三支部の支部長として、300人からの手下を擁する大元締でもある、と言うのに。

 

 「ええ、おかげさまで、みんな元気よ。おばさんも変わりがないようだし、私も安心したわ。」

 「俺もこう見えてなかなかに忙しくて・・・ご実家にも、随分とご無沙汰だが・・・。」

 「それは、こちらも同じことよ。そんなことは気にしないで。あ、でも、祖父の傘寿の祝いには、来てくれるでしょ?」

 「そりゃあ、もちろん伺うよ。・・・そうかぁ、親分も、とうとう大台に乗る歳かぁ。そりゃ、俺も老けるわけだよなぁ!」

 

 そう言って、伊十郎は大声で笑った。祖父よりも10歳若いはずだから、今年で70歳ということになるだろう。相変わらず眼光も鋭いし、身体にもキレがありそうだが、いくらか声が大きくなったところを見ると、耳が遠くなり始めたのかも知れない。

 

 その時、柱時計が4時の時報を打った。なんだかんだと、1時間ほど話をして過ごしてしまったらしい。千英もそろそろ限界だろう。暇乞いをする時分だった。

 

 「・・・じゃあ、おじさん、私たち、そろそろお暇するわね。」

 「お、そうかい? 酒でも飲みながらゆっくり話したいところだが、お互い、そうも言ってられないものなぁ。引き留めても始まらねぇ、よっちゃん、気を付けてな。ちぃちゃんも。」

 

 玄関まで夫婦で見送りに出てくれ、絹江からは手製の稲荷ずしまで持たされた。由乃の大好物ということを覚えていて、由乃が来た、と聞いてから作り始めたらしい。こういう気遣いが、とても嬉しい。由乃にとっては、祖父母がもう一組増えたような、ありがたい気持ちになる。

 

 「それじゃあ、近いうちにまた来るわね。今日は急のことで、手ぶらでごめんなさい。」

 「そんなこと! 一切気にすることはないから、顔だけでも見せてちょうだいね!」

 「ええ! 稲荷ずし、ごちそう様! とっても嬉しい!」

 

 二人の晴れやかな笑顔を見て、由乃もいつになく晴れやかな気分になった。だが、本当に大変なのはこれからだ。千英を仕込み、一人前の「盗め人」にしなければならない。五分の盃を交わしたとは言え、その責任は由乃が全て負うことになるし、見届け人である伊十郎にも責めが及ぶ可能性もある。しっかりとしなければ。

 

 車に戻ると、千英が助手席に崩れ落ちるようにもたれかかった。無理もないが、かなり緊張していたようだった。

 

 「千英、お疲れ様! これで私たち、晴れて「お仲間」よ! まずは、タバコでも吸って、気を楽にして。」

 「うん・・・さすがに、ちょっと疲れた・・・かな・・・。」

 「そうだよね。このまま送っていく? それとも、今日は私の家に来てみる?」

 「え! 由乃の家、行きたい!」

 「オッケー! じゃ、家に帰るわね。」

 

 そう言って、由乃はミニクーパーを走らせた。途中でコンビニに寄り、千英のタバコを仕入れ、二人で由乃の家へ向かう。由乃の家は、大学から車で20分ほどの、街の高台にあった。

 

 二人を乗せたミニクーパーは、いつもよりも軽やかに、車を縫うようにして走っていた。それはまるで、二人の気持ちをそのまま走りにしたような、若々しい動きだった。

 

6 初訪

 

 由乃の家は、コンクリートが打ちっぱなしの建物で、敷地を囲む塀も同様に飾り気の一切ないコンクリートであり、まるでどこかの「近代美術館」を思わせるような造りだった。その塀から、一段下がったところに金属製の門があり、車が到着すると、左右にスルスルと開いて車を敷地に導き入れた。

 

 広い前庭には、小さめのロータリーがあり、由乃は玄関前にミニクーパーを横付けして車を降りた。さっき通った門は、既に閉まりかけている。

 

 「ず、ずいぶんと立派な家だけど・・・実家?」

 千英は「家」と聞いて、どこかのアパートかマンションを連想していたらしい。確かに、普通、女子大生が一戸建てに一人で住んでいるとは考えにくいだろう。

 

 「大丈夫、誰もいないわ。ここに一人で住んでるの。」

 「え・・・そ、そうなんだ・・・。」

 

 極力窓のない造りにしてあり、敷地の広さもあって大きな家に思われがちだが、建坪は40坪に満たない。とは言え、一人で住むには大きすぎるし、加えて地下室と、母屋と続きのガレージがあるので、初めて見るとかなり大きく感じられるだろう。

 

 「さ、どうぞ。入って。」

 

 ドアを抜けると、大きな玄関がある。靴だけでなく、何も置かれていない玄関は、寒々としていて、広さが一層際立った。

 

 「あれ、鍵、掛けてないの?」

 「ああ、マイクロチップが入ってるの。オートロックよ。」

 

 そう言って、由乃は右手の甲を差し出した。親指と人差し指の間を押すと、薬のカプセルのような形の、小さい何かが、皮膚の下に浮き彫りのように現れた。

 

 「私の車もパソコン、もちろんスマホも、全部このマイクロチップで施錠されてる、ってわけ。」

 「うん、聞いたことあるよ。やっぱり便利な物?」

 「そうね、『鍵』から解放されるって考えれば、かなり便利な物だと思うわ。でも3年に一度、痛い想いをしないといけない。」

 

 実際、由乃が入れているマイクロチップは、ブドウ糖発電機構が付いているので、一度体内に入れれば交換の必要はないのだが、安全のために3年まで、と決めている。3年に一度、全ての錠と鍵を最新の物に交換することで、セキュリティレベルを維持しているのだ。埋め込みには、極太の注射器を皮膚に刺す必要がある。場所が場所だけに、これが相当に痛い。

 

 玄関とリビングは、本来はそのまま真っ直ぐ進めば良かったのを、あえて壁を一枚増設して、回り込むようにしないとリビングに行けないようにしてあった。ダイニングとキッチンも一体になった、20畳ほどの広さのリビングも、玄関同様に殺風景で、中央に二人掛けソファがL字型に置かれた応接セットと、その両脇にある温かみのある光を放つスタンドライト、そして窓際の観葉植物くらいしか家具と言える物がない。

 

 その奥の四人掛けダイニングテーブルも、これと言って何の変哲もないもので、キッチンも使用感が全くない。さすがに大型の冷蔵庫、電子レンジ、IHヒーターはあったが、調理器具や食器、調味料の類は見当たらなかった。

 

 「あはは、生活感ないでしょ? 千英も相当だけど、それ以上だよね?」

 「・・・うん、なんか、できたてのモデルルームを見学してるみたい。」

 「あー、いいこと言うかも! じゃあ、このまま見学会と行きましょー!」

 

 由乃は千英の肩を押すようにして、さらに奥に進んだ。キッチンの奥の扉を開けると、大きな洗面所に出る。正面に横長の大きな鏡があり、丸い鉢のような洗面台が、二つ並んで置かれていた。右手がガラスで仕切られたバスルーム、その手前の右側にトイレ、左側には洗濯機が置かれていて、さらに奥のウォークインクローゼットへと続いている。

 

洗面所にも、何も置かれていない。さすがにクローゼットにはいくつか洋服が掛けられていて、靴箱やそれより大きな段ボールが何個か置かれていたが、その量はクローゼットの3分の1にも満たないものだった。

 

二人は洗面所を後にしてリビングに向かうと、出てすぐ左手にある引き戸を開ける。そこは、部屋の大半を占める大きなベッドが置かれた、主寝室だった。右側の壁が全面、クローゼットになっていて、左側は何もない壁だったが、上の方に横長の窓があり、外の光が室内を照らしている。

 

 「これで、表の部分はガレージを残して終わり。それは後回しにして、次は『裏』をご案内~!」

 

 由乃は自分でも、自分のテンションがおかしなことになっているのに気が付いていたが、どうすることもできない。この家に他人を入れたのは、業者を除けば千英が初めてだった。自分の家を見られるのが、こんなに恥ずかしいものだとは、思ってもいなかった。

 

 二人はそのままベッドの脇を進んで、一番奥のクローゼットの扉を開く。中は、服の掛かっていないハンガーだけが並んでいて、空だった。

 

 不思議そうに由乃を見る千英に、どや顔で微笑んで見せる。千英もつられてひきつったような笑顔になったところで、クローゼットの左の壁の前に右手を差し出した。

 

 カチャ

 

という音がして、壁が開き、下に降りる幅の狭い階段が現れた。中は暗かったが、段ごとに取り付けられているLEDライトが、まるで階段を降りていくように順々に点灯していった。

 

 「わ! 秘密基地っぽい!」

 「ぽい、じゃなくて、秘密基地よ。」

 

 由乃が階段を降り始め、千英も後に続いた。壁の扉はひとりでに閉まり、背後でカチャリと音を立てた。

 

 階段を降りていくと、部屋の天井パネルが、パネルごとに光り、地下の全貌が明らかになっていく。そこは、1階の倍の広さはありそうな、広大とも言える一間続きの部屋だった。千英が思わず歓声を上げる。

 

 「うわ! すごい! 間違いなく秘密基地だ!」

 「なかなかのもんでしょ?」

 「最高だよ! すごい!」

 

 そこはまるで、『アイアンマン』の、トニー・スタークの研究室のようだった。奥の方には車のパーツやバイクが並び、その手前には様々な工作機械や、バイク用と思しきライダースーツが掛かったハンガー、ヘルメットの並ぶ棚、その他、何の用途に使うのかぱっと見ではわからないような機械や物が置かれていた。降りている階段の逆側には、一段高くなったワークスペースがあり、大型のモニターが3枚、壁の上部に掛けられ、デスクには小型のモニターが並んでいる。左奥に衝立で仕切られた一角があって、そこにベッドと大型のソファ、冷蔵庫などが置かれていた。

 

 階段を降りて、千英が真っ先に向かったのは、やはりバイクの並んでいるスペースだった。銀色の大きな柱が4本、床から天井まで伸びていて、そこだけ天井の材質が違う。

 

 「これ、そのままリフトになってるの?」

 「そうよ。今はガレージの床になってるけどね。」

 「これ、エネルジカのバイク!?」

 「うん。エッセエッセ。ちょっといじろうかな、と思って。」

 

 千英の目が、キラキラ光っていた。子供のように、「これ、なあに?」を繰り返してくる。由乃はそれの全てに、簡潔に答えていき、千英の知的欲求を満たしていく。一通り質問が終わった後で、二人はパソコンの前に座った。

 

 「千英、これ、どう? 使えそう?」

 「うん? 大丈夫だよ。ネットさえ繋がってれば。」

 「え? そういうもんなの?」

 「うん。とりあえずリナックス動かせれば、大丈夫。むしろ回線速度とこっちの防御の方が心配だから、見てみるね。」

 

 千英はそう言って、パソコンを立ち上げた。由乃はあえて、セキュリティを解除しないで見守っていたが、千英はそんなことなどどこ吹く風で、当たり前のようにパソコンを立ち上げ、由乃が見たことのないような画面を次々と並べてはチェックし、時にキーボードで何かを打ち込み、ものの5分で全てを終わらせた。

 

 「よし。これで、とりあえずは大丈夫。」

 「え? 終わり? どう変わったの?」

 「え・・・えーと、簡単に言うと、防御力が3000倍くらいになって、回線速度が20倍くらいになった。」

 「・・・それって、どれくらいすごいの?」

 「あ、全然すごくはないよ。元がひどすぎたから。でも、簡単に破られることはないから安心して。」

 「そ、そうなんだ・・・。元は、どれくらいひどかったの?」

 「裸にサンダルだけ履いてビーチに行ったくらい、ひどかった。」

 「ぐ・・・そ、それは・・・ひどいわね・・・。で、今は?」

 「スタイル抜群の美女軍団500人に、デザイナーズブランドの水着を着せて、ノリノリの音楽で、パリのファッションショーでランウェイ歩かせるくらい安心。」

 

 理論的には全然わからない例えだったが、頭の中で想像してみれば、確かにそれは安心と言える、と思えた。見る側にしても、見られる側にしても。

 

 「今度、千英が作ったファイアウォールと追跡ウィルス持ってくるよ。そうしたら、もっと安心だし、万が一攻撃されても、相手を突き止められる確率が上がるから。」

 「そ、そっか・・・。じゃあ、こっち方面は、千英に任せるわね。」

 「うん! わかった!」

 

 二人はそれから、居住区画に移った。奥の引き戸を開けると、小さなキッチンとトイレ、バスルームに行くことができる。1階のそれとは打って変わり、こちらはばっちり生活感のある部屋だった。洗濯乾燥機には、洗濯物が入ったままになり、キッチンにも数は少ないが、空き缶やレトルトの空き容器が置かれている。由乃は冷蔵庫からビールと冷凍ピザを取り出し、稲荷ずしと並べて軽めの食事をしながら、今後について話をした。

 

 「千英には、これから『盗め人』としての修業をしてもらうことになる。まずは、心構えとか、知識の部分ね。それから、基礎体力づくり。これには、きちんとした食事も含まれているわよ? 冷凍ピザ食べながら言うのもなんだけど・・・。で、夏休みには技術的な修行のために、『組合』の訓練施設に山籠もりよ。家の方とか、大丈夫?」

 「大丈夫。大学の合宿とか、そういうことにしておく。」

 「良かった。ところで、体力的な問題は、ある?」

 「・・・どうかな・・・運動はできる方だと思うけど・・・。一応、中距離でインターハイに出るとこまではいったよ。同級生のタバコでなしになっちゃったけど。それと、体は柔らかい方だと思う。」

 「え・・・すごいじゃない。じゃあ、少し訓練すれば、そこそこいけそうね?」

 「うん。たまに筋トレとかもしてたし、同世代ではまだ動ける方だとは思ってるけど。」

 「分かった。それは、夏になったら確かめましょう。」

 「うん。」

 

 おもむろに由乃が立ち上がり、ベッドを動かすと、その下に敷いてあるラグを引き剥がした。さらに床のパネルを外すと、中から金庫の扉が顔を出す。由乃がパスワードを打ち込み、顔認証を済ませると、中から古めかしい本を3冊取り出した。

 

 「これが、私たちのバイブル。『盗法秘伝』という本よ。江戸時代の本だけど、中身は今でも通用することが多く書いてある。まずは、これを読んで。それから、こっちは組合の規約をまとめた本。つまり『掟』の部分ね。最後が、祖父と父の仕事を記した本。これから千英には、この本の中身を頭に叩き込んでもらうことになる。」

 「う、うん。何より大事なやつだね?」

 「・・・そうね。逆に言えば、これさえ覚えて、きちんと守っていれば、悲惨なことにはならないわ。」

 「わ、わかった!」

 「よし! じゃ、今日はこの辺にして、上にあがろうか。時間も時間だし、お風呂入って寝よう。明日は行くでしょ? 大学?」

 「うん、そのつもりだけど・・・。泊まっていいの?」

 「千英さえ構わなければ。って、ビール飲んだ時点でそうなるでしょ。」

 「あ、歩いて帰っても、いいよ?」

 「え? もしかして、むしろ帰りたい?」

 「え!いや、全然! 帰りたくないけど!」

 「じゃ、決まりね!」

 「うん!」

 

 由乃は取り出した本をもう一度しまい、今度は千英も手伝ってベッドを元の状態に戻してから、上に戻った。

 

 千英がソファでタバコを吸いながら、スマホで今日のニュースを見ている間、由乃は洗面所で何やらゴソゴソと動いていた。先にシャワーを浴びるつもりなのだろうと思った千英は、タバコを差し替え、もう一度加熱ボタンを押したところだった。

 

 「ちーえー! 準備できたよー!」

 

 バスルームから由乃が顔を覗かせた。由乃は既に下着姿になっていた。

 

 「え! えぇ? 先に入っていいよ! 千英、後から入る!」

 「ダメよ! 千英、左手使えないじゃない。どうやって洗うのよ!」

 「だ、大丈夫! ひ、一人でできるよ!」

 

 そう言ってソファに丸くなりかけたところに、由乃がやってきた。

 

 「いいから、ほら! シャンプーしてあげる!」

 「い、いいってば!」

 

 そう言いながら、千英は由乃に引きずられるようにしてバスルームに連れて行かれ、あっという間に裸にされた。由乃も下着を取り、二人でバスルームに入ると、由乃が丁寧に、体と髪の毛を洗う。

 

 なんだかんだで、1時間ほどバスタイムを楽しんだ二人は、さっぱりとしてリビングに戻って来た。千英も由乃に借りたバスローブを身に着け、失われた水分を補給するためにボトルから水を飲んだ。

 

 「さ、キレイになったところで、左手、見せて?」

 

 千英の左側に、救急箱を手にした由乃が座り、多少濡れてしまった包帯を解いた。当てられていたガーゼを外すと、血は完全に止まっていた。千英の小さい手の平に、痛々しい一文字の切り傷が走っている。

 

 「うっわ! だいぶ切ったのね。痛かったでしょ?」

 「うん・・・痛かったけど、どうしていいか分からなかったから・・・。」

 「そうだよね・・・。最初に説明できてれば良かったんだけど、パターンが色々あって、余計に混乱すると思って・・・。それに、タテマエ上は教えちゃいけないことになってたから。」

 「でも、おばさんの薬、すごく効いてる。もう痛くないし、大丈夫だよ。」

 

 由乃は、念のため再度傷口を消毒し、絹江が手渡してくれた稲荷ずしのお重に、簡単な手紙とともに乗せられていた膏薬を傷口に塗り込んだ。俗に言う、漢方の匂いのする、緑灰色の軟膏で、血止めと殺菌の効果が高い。これも昔から業界に伝わる薬の一つで、名を『萬均膏』と言った。最後に患部にガーゼを当て、今度は緩やかに包帯を巻き直した。

 

 「はい、おしまい! 早く治るといいわね。」

 「うん。由乃は、平気なの? 傷。」

 「私は大丈夫。少し血を出すだけなら、ほんとに浅く切るだけで十分なのよ。その辺りのことも、これから学んでいくことになるからね。」

 

 それから千英は由乃に髪を乾かしてもらい、今度は由乃が髪を乾かすのを待って、ベッドルームへ向かった。間接照明でほんのりとした明るさしかない大きなベッドに横になると、途端に眠気に襲われた。お互いに、いろいろとイベントがあり過ぎた24時間だった。由乃は、明日の起床時間の話をしようと千英の方を振り返ったが、千英は既に眠りに落ちていて、規則正しい呼吸を繰り返していた。その度に、ちょっとだけ開いた口から、吐息が漏れ出す。

 

 由乃は長い時間、千英の寝顔を眺めていた。相変わらず寂しそうな顔をしているが、蹲るような恰好はしていない。少なくても、警戒や緊張をした寝姿ではなかった。人見知りで初対面では吃音が出るほどなのに、今日は、よくがんばった。

 

 顔を近付けて、千英の匂いを嗅いだ。シャンプーとボディソープの甘い匂いの中に、ピアスの金属の匂いが混ざる。息が掛からないように気を付けながら、しばらく千英の匂いを楽しみ、とうとう我慢ができなくなって、その頬をチロリと舌先で撫でた。

 

 その味に満足を覚えた由乃は、体を戻すと、静かに目を閉じた。

 

7 修行

 

 「掟」により、自主規制。項目転記。   署名 湯浅由乃

 

8 披露

 

 十月吉日。今日は、祖父、湯浅権蔵の傘寿の祝いとなった。

 前日に、由乃の母が経営する料亭「尾曾松」において、身内だけの祝いの席がささやかに設けられ、今日は場所を由乃の実家に移して、お歴々を迎えての「御披露目」となった。

 

 盗賊の世界において、「傘寿の祝い」は、「世を捨てる」と言う意味を持つ。「退き」という引退の会となり、以降、死ぬまで身内とも別れ、一人で生きていくことになる。もっとも、それまでに縁の無かった者とは関りを持つことを許される。しかし、その風習自体がすでに形骸化しており、権蔵は今後もこの家で暮らすし、両親や由乃を始めとする「俗世間」との関りを断つこともしない。

 

 この風習が当たり前だった時代は、平均寿命が50歳に届かず、80歳は大往生の部類だったのだ。その歳まで生きながらえた盗賊は、それまでの罪を問われることもなくなり、稼業の上での恨みつらみ、争いごとからも解放された。その代わり、俗世間と縁を切ることを求められた。

 

 今では、食生活の改善や医学の進歩により、80歳は当たり前となった。また、現代司法も80歳だからと言って、その網から逃してくれるわけでもない。今後、「盗め」の世界からは完全に足を洗うことにはなるが、俗世間と縁を切る必要もなくなったのだ。

 

 そういうわけで、この後も続くであろう、「米寿」や「卒寿」の祝いは行わないし、参列者は喪服に準じた地味な服装を着用することになっていた。若干ではあるが、「生前葬」の要素も兼ねているのだ。全員が黒っぽいの服装の中で、権蔵本人だけが金茶色の和服を着て参加している。

 

 由乃と千英にとっては、「相方」となってから、これが初めての「お目見え」の場、となった。盗賊としてのデビューを、公的に知らしめる場ということだ。主役の権蔵の孫でもあり、「五代目文吾」を父に持つ由乃にとって、ここでのしくじりは今後に禍根を残すことになりかねないだけに、二人ともかなり緊張してこの場に臨んでいる。

 

由乃は、髪をアップにして和装で臨んだが、千英はミニ丈の「着物風」ワンピースを着用していた。この日のために、千英はしばらく前からピアスを外して過ごしている。ここ四ヶ月ほどの修業により、人見知りもだいぶ改善されていたし、基本的な所作が身についていた。

 

あれから半月強、大学に通いながら、この世界のことを知識として身に着け、食事、整息法、体力の練成を本格的に始めたあと、7月の初めには箱根神山の「組合」の訓練施設に移り、8月の終わりまでをそこで過ごした。二人だけで修業に励むつもりでいたが、どこから聞きつけたものか、三日目には祖父権蔵が現れ、指導に当たってくれたのだ。これは、由乃にとっても大きな収穫となった。最初の修業では、まだ成長中だったこともあって行うことが難しかった内容の修業も、千英と共に、完全に終わらせることができた。

 

 また、現役の時には「手長」(猿の意)の異名を取った権蔵は、体の柔らかさと敏捷性を生かした体術が得意だったが、体の大きな由乃ではその技術を十分に伝えられていなかったものと見え、ひと目千英を見るや、目の色を変えて指導に当たったものである。

 

 これには、由乃も軽い嫉妬を覚えたが、千英も厳しい修行によく耐え抜き、短期間の間に「縄抜け」や「自在関節」の妙技の習得に成功していた。

 

 修行が終わりに近づく頃には、二人とも体中の脂肪が落ちてしまったかのように瘦せ細り、目だけが爛々と光る険しい顔つきになっていたが、権蔵は、

 

 「こいつは五代目(由乃の父)にも教えてはいねぇ。」

 

 と言って、二人に「絶息の法」を伝えてくれた。これはもはや、「盗みの技術」と言うよりは「忍術」に近い内容で、整息法の一つであるが、言うなれば体の隅々にまで酸素を行き渡らせる法、と言えた。上達すれば、10分近くも無呼吸で活動ができる他、逆に取り込んだ酸素を一気に燃焼させて、瞬間的に爆発的な力を生み出すことができる、というものだった。

 

 この修業は、まさに地獄の苦しみと言えた。何度も権蔵の拳に鳩尾を打ち据えられ、そのたびに空気を求めて口を開くが、打撃で麻痺した横隔膜が言うことを聞かない。つまり、息を吸うことも吐くこともできないのだ。胃袋は裏返り、肺は焼けるように痛む。二人は何度も失神し、時に失禁したほどの苦行だった。

 

 「ま、こんなもんだろ・・・。」

 

 最終的に権蔵が一応の許可をくれた頃には、鳩尾を打つのが拳から先を尖らせた木の杭に変わっており、ふたりの鳩尾は内出血で真っ黒になっていた。

 

 そうした厳しい修行から戻り、二月近くが経過していた。すでに体重もほぼ元に戻っていたが、体つきはまるで変った。女性らしい柔らかさの下に、少し力を入れれば即座に反応する、筋肉の鎧をまとったようなものだった。

 

だが、険しくなった顔つきと、目の光を戻すのが大変だった。あまりの眼光の鋭さに、大学では人が避けていくし、コンビニに買い物に行っただけで強盗を疑われる始末だったのだ。

 

 その目の光を消すため、と言う訳ではないが、二人は由乃の家で犬を飼い始めた。ドイツシェパードの子犬は、その愛くるしさで、まさに二人を魅了した。女の子で、名前をジャニスと言う。千英が大好きな、あのロックミュージシャンから名前を拝借したものだ。

 

 その日々の世話と、共に過ごす時間が、二人の顔から急速に険しさを消していった。二人は、そうした中でこの日を迎えたのである。

 

 由乃と千英は受付に立ち、参列者からの祝儀を受け取り、記帳を依頼していた。伊十郎夫妻を始めとした、権蔵の元手下たちに混ざり、時折ニュースで見かけるような人物が受付に並んだ。

 

 「お! もしかして、よっちゃん? 懐かしいねぇ・・・おじさんの膝で遊んだこともあるんだが、覚えてはいないだろうねぇ・・・。一家名乗りしたそうじゃないか、いや、おめでとう。たまにはウチにも遊びに来てくれよ・・・。もちろん、昼間に表から、だよ!」

 

 頭を下げて挨拶をする由乃に、ボルサリーノを被り直しながら、高らかな笑いを浴びせて会場に入って行った初老の男性を見て、千英は由乃の脇腹をつついた。

 

 「ね、今の人、見たことある。」

 「まあ、あるでしょうね。総理経験者なんだから。」

 「や、やっぱり!? よくコッカイに出てるよね?」

 「仕事だもの。当たり前でしょ!」

 

 その後も、いかにも「その筋の」人間や、有名な演歌歌手、大相撲の関取などがぞくぞくと会場に入って行った。

 

 受付の人の流れも少なくなった頃、千英が大きなため息を吐いた。

 

 「な、なんか・・・ものすごいことになってる?」

 「まあ、ねぇ・・・。おじいちゃんもこの世界が長いから、色んなシガラミがあるのよ。」

 「いやいやいや! ビックリだよ! すごい人だとは聞いてたけど・・・。」

 

 そう言って千英は黙り込んだ。権蔵はこの世界で50年以上、第一線で働いてきた人間だった。もちろん、「お縄」になったことは一度たりともない。そればかりか、各界の大物が、様々な理由で権蔵の助けを借りていた。それは時に、海外に流出した日本の宝であり、外国のスパイに盗まれた機密の品であり、ライバルの秘密のネタだった。そうした様々な物を、あらゆる方法で余人に知られず盗み出し、依頼主に渡す。

 

 ここを訪れたのは、そうした「因縁」を持つ人間であり、権蔵がいなければ成功しなかった人間、失脚したであろう人間も多かったが、全員が変わらず、権蔵に深い感謝と尊敬の念とともに、「絶対に敵に回したくない」と言う畏れを抱いている。権蔵は界隈ではもはや「伝説」の存在であり、現代日本史の大事件の裏には、何かしら必ず権蔵が関わっている、とさえ囁かれていた。

 

「だからこそ、私たちも今日はしくじれないのよ。『手長の権蔵』が最後に仕込んだ直弟子の私たちが、その顔に泥を塗るわけにはいかないでしょ?」

「う、うん・・・。が、がんばるよ!」

 

 会の式辞は滞りなく進み、終始和やかな雰囲気で進められた。庭に面した和室を解放し、庭にも急造の四阿をいくつか設けてある。そこで料理を提供し、また庭に置かれたテーブルに運ばれる。料理人は尾曾松や馴染みの寿司店、ホテルなどから招かれ、給仕は組合から気心の利いた者たちを選りすぐってあった。

 

 権蔵は二人の息子に常に両脇を固められ、天幕の張られた一段高いところに置かれた椅子に腰掛けて、代わるがわる掛けられる祝いの言葉を、にこやかに受け取っている。

 

 「由乃、久しぶりね!」

 

 千英と二人、庭の片隅で寿司を食べていたところに、ウィドウスタイルの女性が声を掛けてきた。

 

 「聖さん! 久しぶり!」

 

 声の主は、父の妹である聖叔母だった。アメリカの国防高等研究計画局に勤めているのだが、忙しい仕事の合間を縫って、この会に駆け付けていた。昔から「おばさん」と呼ばれることを嫌い、由乃は単に「聖さん」と呼んでいる。先端技術の開発を手掛けており、由乃の使用する技術や装備の多くが、この叔母からもたらされていた。


 「この子が、由乃の相方なの?」


 聖が小首を傾げ、ヴェールの奥に笑顔を浮かべて千英を見た。未だに独身のためか、まもなく50歳になるとは思えなない美貌の持ち主であり、「雨鷽」の異名を取る「男たらし」の天才の笑顔は、同性の千英でも一瞬ドキッとするような、妖艶なものだった。

 

「あ!・・・上椙千英と言います! よろしくお願いします!」

 「私は湯浅聖。由乃の叔母よ。・・・千英さん、由乃を、お願いね。」

 「は、はいっ!」

 「うふふ、良い返事・・・。そうそう、由乃? この前送ったグローブはどう?」

 「『ヤモリ手袋』ね? ・・・あんなのがあったら、私たちの修業なんか馬鹿みたいに思えるわね。脱着がちょっと大変だけど、使ってみて不安はなかったわ。」

 「そう? 良かった。同じ性能のブーツもできたのよ。今度、送るわね。使ったら、使い心地を教えて頂戴。」

 「わかった。楽しみにしてるわ。」

 「・・・ところで・・・あなたたち、もう、寝たの?」


 そのストレートな表現に、千英は口に入れていた寿司を豪快に噴き出した。由乃も危うく手にした皿を取り落としそうになり、小声で、非難の声を上げた。


 「ちょ、ちょっと! 何を言い出すのよ!」

 「あら、隠すことないじゃない。すぐにわかったわよ? 恋人同士なんでしょ?」

 「そ・・・それは・・・!」

 「いいのよ、いいの! 今時、心も体もピタリと合う人間を探すのは、大変なことなんだから! 私を見ればわかるでしょ!」


 そう言って、聖は自嘲気味に笑った。二人はなんと声を掛けてよいかわからず、お互いに顔を見合わせた。


 「・・・でもね・・・情で、判断を誤ってはダメよ。いいわね? 『比翼連理』ではなくて、『呉越同舟』を目指しなさい。ただし、いつまでも仲の良い呉越でいてね? 私からの、餞の言葉よ。」


 一瞬にして空気が凍ってしまうほどの、凄味のある顔で、聖が言った。言い終わるとすぐに元の笑顔に戻り、ヒラヒラと手を振って、二人から離れていく。


 二人も一瞬で真顔に戻ると、立ち去る聖の背中に向けて、深々と頭を下げた。聖は、さりげない会話の中で、これからの二人の心の持ち方について、聖らしいやり方でエールを送ってくれたのだった。


 会もお披楽喜に近付いた。権蔵が立ち上がり、先ほどまで来客が祝いの言葉や、祝い唄を披露していた演壇に登壇して、スタンドマイクを脇にどけた。来客が一斉に手を止め、演壇に向き直る。


 「皆さん、本日は不肖、『手長の権蔵』がためにお集まりいただきまして、ありがとうござんす。この歳までこの稼業を続けられましたのは、ひとえに皆さん方のご助力があってこそ。権蔵、ここにあらためまして、ご深謝申し上げます・・・。ありがとうござんした。さて、これにて権蔵は、永のいとまを頂戴することになりますが、後ろに控えます、『五代目文吾』並びに『八角鷹』は引き続きこの稼業にて、変わらぬご厚情を賜りたく、あらためましてお願いを申し上げます・・・。」


 権蔵の後方左右に佇立していた、父と叔父が深々と頭を下げた。


 「また、せっかくの機会でございますので、あと二人、身内を紹介させていただきたいと思いやす・・・。」


 権蔵が由乃と千英に目配せをした。二人はするすると進み出て、演壇の前に並んで立った。


 「私の孫、由乃でございます・・・。いずれは、『六代目文吾』を継がせたいとは、じじいのささやかな夢ではございますが、今はまだまだヒヨッコなれど、相方を得て、このたび『笹鳴』を名乗り、一家を構えることとなりやした。いずれは『老鶯』を経て、『文吾』に近付くことができれば、と願っております・・・。また、その隣に控えますのが、『笹鳴』の相方にして、『手長の千英』で、ございます・・・。」


 会場が、「おおっ!」と、どよめいた。同じように、由乃も千英も、父や身内の全員が、この権蔵の発言に目を丸くした。千英を『二代目手長』と、正式に認めたのだ。千英は『小鴉』を名乗る予定で、親族はもちろん、組合にもその方向で、と報告をしていたが、これで全てが水泡に帰した。


 「二人とも、この権蔵が最後に取った直弟子でござんす。見た通りの半端者で、まだまだ稼業のいろはを覚えている途上ではございますが、この権蔵が見込みあり、と見極めた若者でござんす。何卒、ご高配を賜りますよう、お願い申し上げます・・・。」

 演壇の権蔵、壇上の父と叔父、壇前の由乃と千英が、深々と頭を下げた。会場から、歓声と拍手が巻き起こった。


 由乃は下を向いて喝采を浴びながら、あらためて権蔵の思いに深く感謝をしていた。同時に、身内に一層引き締まる感覚が湧き起こる。権蔵は・・・祖父は、いずれ必ず由乃が『文吾』を引き継ぐことになるだろう、と思い極めているに違いがなかった。だが、そこまで自分は生きられまい。その時に相方の通り名が、半端であっては均衡に欠ける。そこまで考えて、千英に『手長』の通り名を与えたのだ。祖父と父がそうであったように、『文吾』と『手長』は、江戸の昔から切っても切り離せない関係にある。


 思えば、権蔵が二人の修業に現れ、千英に己が得意の妙技を授け、さらには二人に『五代目文吾』にすら伝えていない秘技を伝えたのも、この時のための布石の一つに過ぎなかったのかも知れない。


 とは言え、今は喝采を送っている参列者の中にも、面白く思っていない人間はいるだろう。『文吾』も『手長』も湯浅家が独占していいものではない。もちろん、当代の人物がこれと見込んだ人物を指名するのは、至極当然のことではあるが、ようやく一家名乗りを上げたばかりの駆け出しと、その相方に、これだけの名跡が与えられるのは、身びいきが過ぎるのではないか、という声が上がってもおかしくはないのだ。


 それゆえに、由乃も千英も、名に恥じない、抜群の功績を上げなくてはならない。それは果敢な挑戦となり、危険も伴うだろう。だからこそ、由乃は喜びの中で、緊張もしたのである。


 二人が頭を上げた時、権蔵は降壇し、母屋の方へと去って行った。慣例に従い、身内の者は見送りをしない。由乃と千英も後に続き、母屋へと入って行った。


 「由乃、さっきの件は、知っていたのか?」

 「全然。私も驚いてる・・・。その言い方だと、パパにも相談はなかったってことね?」

 「ああ・・・驚いたよ・・・。手長は晶仁のために取っておくと、思い込んでいたからな。」

 「そうよね・・・。私もはっきり聞いたわけではないけど、そのつもりだと思ってた。」


 玄関の土間で二人を待っていた父が、由乃に話し掛けてきた。晶仁は由乃の父、克仁の弟である、秀仁の一人息子で、由乃の従姉弟に当たる。まだ中学生だったが、手先が器用で利発であり、権蔵が晶仁を仕込むのを楽しみにしていたのは、誰の目にも明らかだったのだ。晶仁の父である秀仁は、陸幕監部に勤めており、海外出張が多いばかりか、こちらから連絡がつけられない場合が多く、幼い頃から由乃の弟のようにして、克仁夫妻に育てられていた。晶仁の母は、晶仁が生まれて間もない頃に、悲しい事件で故人になっていたのである。


 三人で戸惑いの表情を浮かべていると、奥から由乃の母である綾子が顔を覗かせた。


 「あなた、由乃も! 奥の和室でおじいちゃんが待ってるわよ。千英ちゃんも。早く向かってね!」


 三人は、そそくさと履物を脱ぎ、くれ縁を通って権蔵の待つ和室へと急いだ。和室には権蔵の他に、秀仁と晶仁、聖、それに伊十郎もおり、きちんと正座して、3人を待っていたようだった。


 「おお、すまねぇな・・・。みんな、今日はありがとうよ。おかげでいい会になったよ。これで思い残すこともねぇやな。」

 「お、親分! なにを仰います!」

 「ははは! なに、伊十郎、まだくたばる気はねぇよ。ただ、皆様に筋は通せたと思ってな。俺も一安心、というやつをしたんだよ。・・・お前にも、苦労掛けたな・・・。」

 

 きちっと膝に手を置いた伊十郎は、その言葉に俯いた。思わず涙が出そうになっていたようだった。『鎹の伊十郎』も、やはり歳と共に涙もろくなったようである。


 「・・・さて、話と言うのは、他でもねぇ。『手長』の跡継ぎについて、お前たちには何も話さず、千英に渡したことについて、だ。」


 やはりそうか。おじいちゃんのことだから、きちんと説明があるとは思っていた。だからこの場に、伊十郎おじさんを同席させたのだ。証人とした上で、組合への筋を通すためであろう。


 「由乃と千英の修業に、俺が携わったことは、皆承知だと思うが、千英には、俺の持ってる全てを叩き込んだ。もちろん、まだまだ『手長』の域には遠く及ばねぇが、千英はたった一月ほどで、俺の技の他に、『絶息』まで形にした。教えた俺が言うのもなんだが、これには正直、驚いたよ。本当は由乃か、晶仁に伝えたかったんだが、由乃は体が大きくて手長にはなり切れねぇ。晶仁が学校を出る頃には、俺はこの世にいねぇかも知れねぇ。手長はしばらく空席になるかと、思い始めた矢先に、千英が現れた。・・・本当のところ、伊十郎から由乃が相方に同級生の女の子を選んだ、と聞いた時にはがっくり来たもんだが・・・会ってみると、これが何とも素直でいい子だ。「打てば響く」と言うやつさ。元々の素質がただ者じゃあねぇし。俺も、まさかと思いながらもついつい本気で仕込んじまった。で、千英はそいつを全て、形にしたんだ。『手長』は、千英をおいて他にいねぇ。むしろ、俺より『手長』にふさわしい、と言えるだろうよ。・・・そういうわけで、今日は、こういうことになっちまった。みんなに相談しなかったのは、俺も最後まで迷っていたからさ。千英は優れた天性は持ってるが、この世界じゃなんの実績もねぇ。不服に思うやつらも、出てくるだろうよ。千英にも、相方の由乃にも、どこからどんな魔の手が伸びて来やがるか、知れたもんじゃねぇ・・・。だから、その時は、ここにいるみんなで、千英を助けてやって欲しい。この通りだ。」


 珍しく長口舌を振るった後、権蔵はきちっと形を改め、頭を畳みに擦り付けるようにして頼み込んだ。これには、全員が驚いた。慌てて権蔵に歩み寄る。

 

 「親父! いきなり、何を始めるんだ!」

 「まったくだぜ! 歳食って、少し芝居がかったんじゃねぇのか!」


 克仁と秀仁が、権蔵の肩を掴むようにして、身を起させた。


 「ほんとに! 久しぶりに会ったって言うのに、驚かせないでよ!」


 聖も胸に手を当て、動悸を収めるかのようにポンポンと自分の胸を叩いている。伊十郎などは驚愕のため、ぽかんと口を開けて成り行きを見守っているしかないようだった。


 「ははっ! すまねぇな! ま、俺の最後のわがままと思って、言う通りにしてくれよ。」

 「言われるまでもねぇよ!」


 克仁と秀仁が、きれいに声を揃えて喚いた。あまりに見事なユニゾン具合に、口にした二人が一番驚いているようだった。


 「・・・ォホン・・・。由乃も、千英も、晶仁や、晶仁がこれから・・・もしかしたら聖もだが・・・選ぶ人間だって、全員が家族だ。絶対に一人にはしねぇ。なぁ?」

 「そうだぜ。兄貴も聖も、もちろん親父もだが、『あの時』だって弥生も、俺と晶仁も、しっかりと守ってくれたじゃねぇか。その時の話は、もう晶仁にもしてある。家族の務めは、しっかりと果たすぜ。」

 「うん。僕はまだできることは少ないけど、由乃姉ちゃんも千英姉ちゃんも、綾子ママもしっかりと守るよ。」

 「見ねぇ、親父。晶仁だって、この通りだ。今更、念を押されるまでもねぇよ!」

 「ほんとだよ! 父ちゃん、まさかボケたんじゃないだろうね?・・・それはともかく、克兄ぃ、『もしかしたら』って言うのは、聞き捨てならないねぇ?」

 「や!・・・だって、お前・・・!」


 その様子をにこやかに見守る伊十郎と、初めてこの軽妙な掛け合いを見て驚いている千英を見て、由乃はこの湯浅家の一員であることに、強い誇りを覚えていた。

 

 その場にいた一同が、誰からともなく笑い出し、やがてそれは大きな渦となって湯浅家に響き渡った。その笑い声を聞いて、一人台所に立っていた綾子が、ホッと息を吐き、安堵に胸を撫でおろしていた。

 

9 初陣

 

 権蔵の傘寿の祝いから、2週間が過ぎていた。日中は暑さが堪えるが、朝夕は涼風が立つことも多く、着るものを悩む時期となった。


 あのあと、由乃と千英は形を改め、親族の皆に正式に挨拶をした。全員が、目を細めてその様子を見守り、克仁と聖の目には、うっすらと涙が浮かんでいたようだった。また、晶仁がその影響をもろに受け、一族の者として活動する覚悟を決めたようで、作法や心得について、権蔵に教えを請うた、と、あとで綾子が教えてくれた。


 祝儀がまた、振るっていた。権蔵からは「盗め」の支度金として1000万を渡され、克仁からはこれまで培ってきた人脈が引き継がれ、秀仁からは車をもらった。一風変わっていたのが聖からの祝儀で、デザイナーズブランドの下着や洋服、靴やバッグ、化粧品などが大量に届いた。女に磨きを掛けろ、ということなのだろうか。


 千英の納め金に1000万を組合に支払っていた由乃にとっては、いずれもこれからに向けての大きな贈り物となった。特に、父克仁から引き継いだ人脈が大きく、投資のプロ、偽造のプロ、各種情報屋、世界規模の手配師など、組合の人材だけでは不足が生じることの多い用件の外注先が、一気に増えた。同じようなサービスは組合でも受けることはできるのだが、それぞれの世界で一本立ちしている人間の仕事は、組合のそれとは一味も二味も違い、完成度も質も極めて高い。もちろん、それに掛かる料金もそれなりに上がるが、いざという時には間違いなく頼りになる。


 そうした人間は、当然表に看板を掲げている訳ではないから、探し出すのは容易ではない。さらに見つけたからと言って、仕事を引き受けてくれるとは限らない。自分と組織の身を守るためには、得体の知れない人物から依頼を受けないのは、当然のことだった。そうした人脈を克仁から引き継いだのだ。由乃はその全てに、千英と共に顔を出し、挨拶を済ませていた。


 「これ・・・何度見ても、本物にしか見えないや・・・。」


 千英が、ニンベン師からあいさつ代わりに、と受け取った免許証を、自分の本物と見比べながら感嘆の声を上げた。


 ニンベン師とは、偽造を専門とする職人で、「偽」の字のニンベンからその呼び名が付いている。克仁から紹介された美雨(メイユイ)と言う女流ニンベン師は、まだ20代だと言うことだが、湯浅家と同じように代々受け継がれた技術を継承していて、その完成度は折り紙付きだと言う。免許証のような身分証明書だけでなく、海外の出生証明書や卒業証書、クレジットカードの類、絵画を始めとする美術品まで、偽造できないものはない、と言う。


 既に多くの弟子を抱え、まるでアトリエのような作業場には、20人近くの「ニンベン師候補」が在籍して、腕を磨いていた。


 「きちんとした理由と代金さえ用意してくれたら、モナ・リザだって偽造する」


 と豪語し、数万種類の紙とインクを始めとした、偽造のための「材料」を常備しているのだと言う。美雨は年齢も近いせいか二人とは話も合い、またその稼業から美術品や考古物にも造詣が深く、二人の「考古物」に対する考え方に賛同を示し、「全面的な協力」を申し出てくれた。また美雨本人も手元に置いておきたい美術品があり、贋作を作るからすり替えて来て欲しいと、冗談めいた発言まで飛び出した。


 そうした話をしている間に、美雨が自分の手下に「ご挨拶替わり」の免許証を作らせておいて、帰り際に渡してくれたのだ。


 いつの間に撮った物か、二人の顔写真と現住所も記載してあり、暗に「すべてを掴んでいるからヘタな真似はするな」と言う、恫喝も含まれているのは、言うまでもない。


 由乃は美雨のそうした用心深さとそつのない動きに、怒りよりも先に「頼りになる人物」と言う信頼感が先に出た。受け取りながらニヤリと笑ったその表情で、美雨も由乃の意図を掴んだらしく、同じようにニヤリと微笑んだ。


 「お望みなら、公安委員会のシステムに侵入して、『本物』にすることもできるわよ?もちろん、それには別料金を頂くことになるけど?」

 「嬉しいお申し出だけど、それはこちらでも可能だから、今回は遠慮しておくわ。」

 「あら、残念! じゃ、今日はこれで。骨のある依頼を待っているわ。」


 由乃は千英の動きを横目で見ながら、その時の様子を思い浮かべていた。もう少し「救出」で場数を踏んだら、美雨の言うような「展示物」をすり替えるという仕事も面白そうだ、と本気で考え始めていた。


 だが、まずは千英の初仕事が先だ。狙うのは、あの時二人で話をした博物館の収蔵庫で漬物になっている、「火炎土器」とその周辺物と決めていた。


 既に見取り図や警備状況の確認は終わっていた。夜間には機械警備だけとなり、人員は配置されていない。予想はしていたことだが、それだけなら、由乃にとっては警備されていないも同様だった。決行は、日曜日の夜と決めた。つまり、明日だ。月曜日は休館日になるので、万が一の場合でも、一日の余裕が生まれることになる。


 千英の様子から見ても、余計な緊張状態にはないようだった。訓練施設での厳しい修行が、千英に大きな自信をもたらしているようだった。それは由乃にも同様のことが言えた。


 「ねぇ、千英。明日の確認を、もう一度しておこうか?」

 「うん、そうだね。どこから始める?」

 「初めから、通しで。」

 「わかった・・・。明日は15時にここを出て、16時過ぎに現地に到着、最後の人間が退館するのを見届ける。それから決行時間まで待機して、30分前になったらサーモスキャンで館内を走査する。完全に人がいないことを確認したら、千英だけ車から降りて、建物裏の雨どいから屋上に。そこまでの敷地内に、こちらを向いたカメラはなし。屋上についたら、通風孔前でワイヤーの準備をしながら由乃からの連絡を待つ。」

 「OK、その間、私は敷地西側の路上で、千英のプログラムを走らせて、館内のカメラを無効化する。完了したら、千英に連絡。」

 「うん、由乃からの連絡を受けたら、千英は通風孔から館内に侵入して、1階奥の収蔵庫に向かう。通風孔には、そこまでに2か所の換気用ファンと、1か所の虫除けフィルターがあって、それを外しながら、15分で収蔵庫内の換気口に。」

 「私は、15分の間に敷地周辺を回って、異常がないかを千英に連絡、それから屋上に移動して、回収の準備をしながら待機。」

 「由乃からの二回目の連絡で、庫内に侵入。収蔵棚Bの6番の下段にある抽斗の鍵を開けて、火炎土器と、一緒に出土した土器の欠片、土偶を回収、棚の状態を戻したら、その袋を

ワイヤーに取り付けて由乃に連絡。千英も通風孔に戻って、原状回復しながら屋上へ。」

 「連絡が来たら、ワイヤーを巻き取って考古物を回収、戻って来た千英と合流して建物裏から敷地外へ。車に戻って、帰って来る。」

 「うん! 回収した物は、帰り足で伊十郎おじさんに引き継いで、戻って終わり!」

 「いいわね。じゃあ、注意点は?」

 「万が一、何らかの警報が発動したら、猶予時間は12分。一番近くの交番からは18分、警察署からは25分。パトロールの状態にもよるけど、明日の当直班は、基本的に23時以降は通報がなければ外には出ない。何かの警戒期間でも、取り締まり強化期間でもなくて、ここ4回の当直は全部同じ動き。付近の道路は日曜の決行時間付近は通行人もほとんどいなくて、表側の幹線道路はそれなりに交通量があるけど、それ以外は閑散。一番近いコンビニまでは直線で800m、それ以外、付近に営業中の店はなし。博物館の職員で緊急時に呼ばれる人間は、どんなに急いでも1時間はかかる。」

 「上出来。じゃあ、逃走経路は?」

 「館内で異常が発生したら、第一経路は侵入経路。第二経路は収蔵庫を出て廊下を右に進んだ先にある、非常口。第三経路は収蔵庫向かいの事務室の窓から。この場合は物盗りの犯行に見えるように、雑に荒らしておく。外の場合は、裏の道路の向かい側、雑木林を通り抜けて、500m先の幹線道路に出る。」

 「わお! さすが! 完璧じゃない!」

 「当たり前じゃん! シミュレーションも300回くらいしたからね!」


 千英は、付近の地図や見取り図などを取り込んだ、3Dのシミュレーションを作っていた。VRゴーグルを使って、本番さながらの動きができる。元々はダンジョンRPGのシステムを利用したもので、途中で警備員や警察官だけでなく、ゾンビや宇宙人を登場させることすらできる。また、アルゴリズムを変えれば、ありとあらゆる建物を仮想空間に再現できるため、今後の盗めにも大いに活かせそうだった。


 今回の最大の難所は、千英が通ることになる通風孔で、一番狭いところでは幅40cm、高さは25cmしかない。直角に曲がる箇所もあり、由乃はもちろん通ることができず、小柄な千英でも、関節を外しながら進むことになる。千英はその部分のシミュレーションを何度も繰り返しており、今ではなんなく進むことができるようになっていた。


 「・・・とにかく、明日は何が起こるかわからないから、心の準備だけはしておいてね。二人でならどんな問題も解決できるから、いざと言う時は、慌てず、しっかりと状況を見極めてから行動に移す。ね?」

 「うん! 大丈夫。任せておいて!」

 

 二人はその後、最近始めた料理を楽しみ、ジャニスと戯れた後に、ベッドに横たわってゆっくりと休んだ。明日は、忙しくなる。


 翌日、昼近くに起き出した二人は、地下室のトレーニング施設で汗を流し、付近のカメラ映像をモニターして異常の有無を調べた。幹線道路の交通カメラ、コンビニの防犯カメラ、もちろん博物館に設置されているカメラも覗いて見たが、博物館は日曜だと言うのにガランとしていて、事務室では、白髪の男性が机の上に足を上げてスポーツ新聞を広げており、中年の女性はスマホの操作に夢中になっていた。特に大きな異常は見当たらず、二人は顔を合わせてうなずき合った。予定通り、決行だ。


 由乃のミニクーパーで現場へ向かい、通用口の見渡せる場所から、事務所で新聞を読んでいた男性が外に出てくるのを見ていた。鍵を掛け、防犯システムの端末にカードをかざすのが見えた。時計は、午後5時15分丁度。要するに、1分の残業すらなく、職場を後にしたことになる。中年の女性は、午後5時には自分の車に乗って、帰路に着いていた。


 「はは! 公務員て、気楽な商売なんだね!」

 「まあ、みんながみんなじゃないだろうけど、少なくてもやる気があるようには見えないわね。」

 

 二人はその場を後にし、付近のショッピングモールで買い物や食事を楽しんで時間を潰した。誰がどう見ても、とてもこれから盗みを働く二人組には見えなかっただろう。夕方には、少年探偵が活躍するアニメ映画まで観るような、心理的余裕が二人にはあった。


 23時30分。途中の警察署と交番に、いつも通りの台数のパトカーや捜査用車が駐車していることを確認しつつ、再度博物館に戻って来た二人は、車内からサーモスキャンで建物内をスキャンした。熱反応を見せたのは、屋外のエアコンの室外機だけで、館内には大きな熱反応は見当たらなかった。付近の様子にも異常がなく、二人は再度、無言でうなずき合った。

 千英が助手席で服を脱ぐ。服の下に、上下メンブレンのスーツを着用していた。靴をスニーカーから同じ素材の地下足袋に履き替え、グローブを嵌めた。


 「じゃあ、行ってくるね。」


 千英は、由乃と軽く唇を合わせ、車を降りて行った。その姿はすぐに闇に溶け込んで、由乃からは見えなくなった。


 ライトを点けずに西側に車を移動させた由乃は、千英のパソコンのF5キーを押した。すぐに黒色のバーが現れ、徐々に緑色が黒を押しのけて行く。バーの右側には、パーセンテージが表示され、その数字がぐんぐん100に近付いていた。2分ほどでバーが完全に緑色になり、数字は100に到達した。由乃は左耳に嵌めたイヤホンを、爪で二度、叩いた。この音をマイクが拾い、千英のイヤホンに伝わったはずだ。ほどなく、千英からもカチカチと言う返信が来た。よし。ここまでは順調だ。由乃は時計のタイマーを起動させた。即座に、数字が15から14に減る。


 由乃はシートを一番後ろまで下げ、服を脱いだ。千英と同じようにメンブレンの上下に姿を変えると、首に掛かっていたフードに髪をたくし込みながらフードを被った。そのいでたちは、スピードスケートの選手のようだった。もっとも、履いているのは地下足袋だったが。


 車から降り、周囲の音に耳を澄ます。虫の声と、遠くの幹線道路を走る車の音以外は聞こえてこない。由乃は音もなく走り出し、異常の有無を探した。


 外周を2周してみたが、異常は見当たらない。由乃は建物に近付き、雨どいに取り付くと、するするとそれを昇り始めた。屋上について時計を見ると、表示が1にまで減っていた。今度は1回、イヤホンを叩く。これが、異常なしのサインだった。即座に千英からも1回の返信が帰って来た。


 通風孔の前に立ち、ワイヤーを確認する。ウェストポーチから電動の巻き取り装置を取り出し、ワイヤーを繋いだ。同時に、屋上に薄手の防水バッグを広げ、土器を保護するエアパッキンの封を切って、元の大きさに戻しておいた。準備が終わったところで時計を見る。文字が赤色に変わり、増えていく数字が3から4に変わるところだった。


 カチカチカチ


 千英からの引き上げの合図だ。由乃もイヤホンを3回タップし、巻き取り装置を起動させた。低いモーター音を発して、ワイヤーが巻き上げられた。装置を持つ手に、重さが伝わって来る。


 1分ほどで巻き取りが終わり、通風孔から考古物を入れた袋が顔を覗かせた。由乃は慎重にそれを取り出し、火炎土器をエアパッキンにはめ込んだ。事前に形と寸法を合わせて作ってあるパッキンは、土器をしっかりと保護した。残りの品物については、粘性ゲルの充填されたボトルに沈めていく。それらの作業が無事に終わった時、今度は千英が通風孔から姿を現した。体中、蜘蛛の巣と埃にまみれている。

 

 由乃は無言で品物を入れた防水バッグの口を閉じ、背中に背負った。うなずいて帰りかける千英の手を掴み、地面を指差す。


 長年手入れ清掃もされていない屋上には、黒色のカビとも苔とも思える汚れがついていた。それらの汚れに、くっきりと由乃と千英の足跡が残されている。由乃は左のポーチから小さめのスプレーを取り出し、千英に渡した。千英がうなずいたのを確認して、その場を離れ、離脱地点へと向かう。


 千英は、そのスプレーを地面に散布した。スプレーから出た液体が広がると、屋上の汚れがみるみるうちに消えていく。強力なアルカリ性の脱色剤が、汚れと共に二人の足跡を消していた。そのまま、千英は後ろに進みながら、スプレーを散布し続けた。離脱地点でその様子を見ていた由乃が、作業具合を確認する。


 離脱地点丁度で、スプレーが頼りなげな音を出し始め、やがてまったく噴出が止まった。暗闇の中で微笑みあった二人は、離脱地点から身を躍らせた。雑木林から伸びていた太い枝を経由して、音もなく地面に着地すると、そのまま走り出し、車に戻った。


 手早く服を着込みながら、二人とも込み上げる笑いを抑えられなかった。

 

 「中は全部、元通りにしてきたよね?」

 「もちろん! 汚れとか足跡とかも、しっかり確認してきた!」

 「そう! ここまでは、完璧ね! じゃあ、帰りましょうか!」

 「うん!」


 ミニクーパーを走らせ始めるとすぐに、千英がドライブレコーダーの映像を確認し始めた。二人が車から離れている間に、この車を目撃した可能性のある対象を探すためだったが、この数十分に、車の周囲を通った車も人間もいなかった。


 「チェックOK! 誰も通っていない!」

 「了解!」


 二人を乗せたミニクーパーは軽やかに、しかしいつも以上に慎重に道を進み、組合の運営するコインランドリーに止まった。ここが品物の受け渡し場所だ。故障中の札の付いた洗濯機に品物をしまうと、洗濯機のドラムの後ろが開いて、品物を回収する仕組みになっていた。


 無事に受け渡しも済んだところで、二人は帰路についた。


 家に帰ると、待ちわびていたジャニスが熱烈に二人を出迎えた。この時間にはいつも家にいるのに、今日は留守番を余儀なくされ、不安に感じていたに違いない。


 「ジャニス! ただいまー!」


 ジャニスは千切れるのではないかと言うくらいに尾を振り、二人の足元を入念に嗅いで回った。どこに行って来たのか確かめようとしているのだろうが、恐らくジャニスの知らない臭いしかしないだろう。千英がジャニスを抱き上げ、同じように喜びを現した。


 浴槽にお湯を張る間、二人でジャニスと遊び、ご褒美のおやつを食べさせて、一緒にバスルームへ向かう。最近は、お互いに髪を洗い合うのが当たり前になっていた。バスバブルで満たされた浴槽で、「初仕事」の様々な場面を思い返しながら、見落としや改善点がなかったかを話し合った。特に、単独行動した部分については、お互いに入念に確認をした。


 こうして、初仕事の余韻に浸りつつ、その夜も更けていった。明日からはまたしばらく大学生に戻る。2週間もしたら、また次の目標を選んで作業にかかることになるだろう。


 二人は初仕事の成功の余韻に浸りながら、柔らかなベッドですぐに深い眠りに落ちて行った。


10 個性


 11月も終わりに近づき、季節が一気に冬めいてきた。昨日、聖から小型の洋服タンス程もある荷物が届き、二人はリビングでその開梱作業に取り掛かっていた。


 「毎回のことだけど、聖さんからの荷物は開けるのが大変だよね・・・。」

 「品物が品物だから、無理もないけど・・・。最近はやたらと手が込んでるわよね。」


 ⅮARPA(アメリカ国防高等研究計画局)に勤め、その特別技術研究室の室長を務める由乃の叔母、聖は、同局で開発された新技術や新製品を由乃に送り、そのテストと評価をさせていた。由乃としても、常識外れのSF的な最先端技術に触れることができ、「お盗め」に転用もしていたので、ありがたいことではあるのだが、それを手に入れるまでの行程が、送られてくるたびに複雑かつ難解になっていて、ことに千英と組んでからの荷物は、電子キーなどは序の口の方で、様々な認証システムをクリアしなければならなかったり、高等数学の問題を解いて答えを入力しないと開かなかったりと、腕試しにしてもやり過ぎの感は否めなかった。


 今回の荷物は、簡単な錠前だけだと取り掛かったものだが、そのいかにも古めかしい、大型の蔵前錠の堅牢さには、ほとほと手を焼いた。おそらく江戸時代のものであろうが、まずは現代の鍵開けに使用されるピッキング用品などはサイズが合わない。瞬間的に固まる液体樹脂を流し込んで合い鍵を作ってみたが、鍵を回すのに必要な力を入れるには硬さが足りず、根元からぽっきりと折れてしまった。最終的に、江戸の盗賊たちがやっていたように、形を取って金属製の合い鍵を作り、なんとかその蔵前錠を開いたところで、力尽きてしまった。

 

 やっとのことで錠を外して木箱を開いてみると、中から合皮の船旅用トランクが出てきたのである。こちらも、もちろん錠が付いていた。いかにも複雑そうな、立体的な寄せ木細工が錠として使われていた。見た瞬間に心が折れた二人は、開梱作業を諦めて、就寝したのだ。


 今日は午前中で講義が終わり、大学から戻って来ると、二人は早速寄せ木細工に取り掛かった。かれこれ4時間近くかかり切りになっていたが、未だに開く気配がない。とうとうキレた千英が、台所からステンレスの包丁を持ち出し、合皮のトランクに突き立てたが、弾かれた包丁の刃先が折れ飛び、危うくジャニスにケガをさせるところだった。それを見た由乃が怒り狂い、ガレージからダイヤモンドコーティングされた刃を付けたエンジンカッターを持ち出したが、トランクには傷一つ付けられず、逆にエンジンカッターの刃の方がボロボロになってしまった。


 「あー! 腹立つ! 『トランクごと新製品』ってわけね!」

 「見た目はただの合皮っぽいのに・・・ね・・・。」


 千英の言う通り、質感や手触りまで、合皮のそれとまったく変わらない。指で押すだけで僅かに凹むほどの弾力性を持ちながら、刃物や摩擦に極端な抵抗を示す、新しい素材のようだった。


 二人がため息を吐き、紅茶でも飲んで気分を変えようとした時に、由乃のスマホが着信を知らせた。表示を見ると、聖からの着信だった。


 「由乃です・・・。」

 「ハーイ! いつもなら荷物が届いたらすぐ連絡が来るのに、何にも来ないから、こっちから電話しちゃった!」


 聖の声に、わざとらしい響きが聞き取れた。こちらが開梱に苦労してるのを見越して、その様子を探ろうと電話をしてきたのに違いない。


 「あー・・・まだ・・・開けてないの。」

 「あら! 昨日の朝には届いたはずよねぇ?」

 「・・・うん、届いたよ・・・。」

 「なのに、まだ開けてないの? 忙しかった??」

 「別に・・・忙しくはないけど・・・。」

 「じゃあ、どうして? 何かあったの?」

 「もう! わかってて、わざとやってるでしょ! さっきから!」


 途端に、スマホから千英にも聞こえるくらいの高笑いが響き渡った。スピーカーにしているわけでもないのに。


 「ちょっと! 笑い過ぎよ! 大体、最近梱包が厳重過ぎるのよ!」

 「あはははは! ごめんごめん! 木箱は開いた?」

 「うん・・・。」

 「やるじゃない! あの錠は、かの名人、ジョゼフ・プラマの作った物なのよ。あなたのおばあちゃんですら、開くのに丸二日掛ったの。」

 「おばあちゃんが? 鍵開けの名人だったんでしょ?」

 「そうよ。その腕前に惚れ込んで、おじいちゃんが三年がかりで口説いたらしいわよ。で、どうやって開けたの?」

 「今のやり方は通用しなくて、結局金型を作って鍵を削り出したわ。」

 「あー、じゃあ、由乃はまだおばあちゃんには及ばないわね。おばあちゃんはあの鍵ですら、目打一本で開いたんだから。」

 「う、嘘でしょ? いくらなんでも、話を盛り過ぎよ!」

 「嘘じゃないわよ。この目で見たんだから。あなたのお父さんも見てるわよ。」


 目打は、千枚通しに似た裁縫道具だった。あれ一本では、物理的に不可能なようにも思えるが、祖母はどうやって開いたのだろうか。生きていたら、ぜひその技術を伝えて欲しかった。いや、実際にその作業を見るだけでも良かった。


 「それで、トランクの方は?」

 「そっちは全然ダメ。寄せ木細工が全くわからない。千英と二人で四時間格闘してるけど、開く気配もないわ。」

 「・・・まあ、当たり前と言えば、当たり前ね。あれは開くようにできてないから。」

 「は、はぁ???」

 「由乃も少しは成長したかと思ったけど、まだまだのようね。『錠のように見える物』に、拘り過ぎてるんじゃないの?」


 由乃はハッとした。隣で一連の会話を聞いていた千英が、トランクを調べ始めた。すぐに、四つ角に打たれていたリベットの一つが、押し込めるようになっているのに気が付き、目顔で由乃に合図をした。由乃がうなずき返すと、千英がリベットを押し込む。


 カチャカチャカチャ


 トランクの上部、中央部、下部からそれぞれ作動音が聞こえたかと思うと、前面パネルが寄せ木細工ごと、ドアのように開いた。中には高価そうな毛皮のコートや、ウェットスーツのようなつなぎの服が掛けられていた。下部には、いかにも高級そうなブーツと並んで、バイク用のブーツと思しき物が並んでいた。


 「・・・開いたわ・・・。」

 「そう? 良かったわね。いい? 由乃と千英が取り組んで、壁にぶつかったと思ったら、もう一度全てを0から見つめ直してみなさい。あなたたちの技術は間違いなく一級品よ。どんなに複雑に見えるようなものでも、二人で挑んで全く歯が立たないなんてことは、まず有り得ないわ。全てに正面からぶつかっては、ダメよ。」

 「・・・わかりました。ありがとうございます。」

 「うふふ、いい子ね。だから私は、あなたたちが好きなの。でもね、正面から挑んでダメだからって、包丁やエンジンカッターを持ち出すのは、大人げないわ。」

 「見てたの!」

 「ほらほら、よく御覧なさいって、言ったばかりよ!」

 

 会話を続けながら、二人はカメラを探したが、見つけ出すことができなかった。この部屋は帰宅するたびにクリーニングしてあるので、部屋にカメラやマイクがないのは明らかだ。あるとすれば、木箱かトランクということになるが、どんなに丹念に探しても、レンズもマイクも見つけられなかった。


 「・・・聖さん・・・降参です・・・。」

 「・・・これで、二敗目よ? 一生懸命探したようだけど、木箱にもトランクにも、カメラもマイクもありません。私が見ていたのは、あなたが左手に持っているスマホのカメラからの映像よ。」


 やられた。聖は会話しながら由乃のスマホにハッキングを仕掛け、アウトカメラで室内の状況を見ていたのだ。床には、先ほど使ったエンジンカッターと折れた包丁がそのまま残されていた。聖は、その映像から導き出される答えを口にしていたに過ぎない。


 よく思い返してみれば、聖は『持ち出した』とは言ったが、『使った』とは言っていない。自分たちの先入観と思い込みで、見事に踊らされていた。さすがは、「雨鷽」だった。


 「私が敵でなくて、良かったわね? さっきも言ったでしょ? 二人で挑んで、ダメなら0から見直せって。冷静に考えれば、答えに行き着いたはずよ?」

 「・・・言葉も・・・ありません・・・。」

 「さっきも言ったけど、あなたたちの技術は、間違いなく一級品。でも、決定的に足りないものがある。それは「経験」よ。若いんだから、「老獪になれ」って言うのは無理があるけど、あまりにも素直過ぎるわ。なんでも額面通りに受け取らず、疑うことから始めなさい。時には、自分すら疑うことが肝心よ。わかったわね?」

 「・・・はい・・・。」

 「よし! じゃあ、今日の講義はおしまい。コートとブーツは、ちょっと早いけどクリスマスプレゼントよ。これは、額面通りに受け取って。それから、スーツとブーツについては、あとで仕様書をメールするわ。千英に教えておいたアルゴリズムで解凍して。」

 「わ、わかりました! 」

 「じゃ、これで。シーユー!」


 通話が切れた。二人とも、情けない表情でお互いを見つめた。まだまだ、修行が足りない。

 

 「・・・千英・・・ごめん・・・あなたにまで、恥ずかしい思いさせちゃった。」

 「お互い様だよ・・・。私も全然、ダメだった・・・。ごめん・・・。」


 こういう時、二人は一緒に風呂に入る。そこでまずはさっぱりし、癒される香りに包まれながらちょっと反省し、盛大に話し合う。もちろん、次はもっとうまくやるための話だ。

 

 「くっそー! それにしても、見事にやられたわ。」


 浴槽に二人で浸かりながら、由乃が縁に顎を乗せるようにして呟いた。

 

 「『雨鷽』の通り名は伊達じゃないね。・・・でも、ほんとに味方で良かったよ!」

 「そうだねー。それだけでも、まずは良しとしなくちゃね・・・。ね、ところで私って、やっぱり人に甘いかな? 簡単に信じちゃう?」

 「え・・・それは・・・そうかも。千英の時も、結構すぐだったよね? 自分で盗賊ってバラしたの。」

 「あーーー、そうだったーーー。話し始めて、五秒でバラしてたよね、私。」

 「うん。まあ、逆に千英は、それで由乃を信用したんだけどね。悪い人なら、最後まで隠そうとすることを速攻バラすんだから。『あ、この人は悪くない』って思っちゃった! そういう意味では、私も同類だね! ははは・・・。」

 「確かに! あの時まだ、千英を押さえつけたままだったよね?」

 「うん、そう。」

 

 要するに、揃いも揃って、『人が好い』のだ。好意的に見てくれる人間にとって、それは素直で可愛げがある、ということになるだろうが、悪意を持って近付いてくる人間には、隙だらけ、ということになる。


 「うーん、どうやったら治るかなぁ。」

 「簡単じゃ、ないよね。大体、誰彼構わず疑ってかかったら、すごいヤなヤツじゃん!」

 「まあ、確かに、感じ悪いよね?」

 「でしょ? 由乃がそんなだったら、千英、今ここでこうしてないと思う。」

 「それは言える! 私も、千英がそんなんだったら嫌だ!」


 そう言って、由乃は千英に抱き着いた。


 「う、うわ! ちょっ! まだダメ! 話、終わってない!」

 「えー、千英、マジメー!」

 「今からいいこと言おうとしてたの!」

 「あ、そうなの? なになに?」


 由乃は残念に思いながらも、千英から離れた。こういう時の千英の意見は、驚くほどに的を射ていることが多い。


 「うん、だからね、簡単に治らないなら、このままでいいんじゃないかな、って。無理して治しても、今までの私たちを知ってる人からしたら、急に感じ悪くなるやつじゃん? 好意的に見てくれてた人たちまで、敵に回しちゃうかも。」

 「うんうん、それで?」

 「だから、今まで通りに振舞って、でも『あ、コイツ違う』って気付いた時点で、対処すればいいんじゃない? 聖さんの言う通り、『一級品』なら、できるはずじゃん? 対処。」  

 「まあね。」

 「二人いるわけだし、基本的に話は由乃がするわけだから、その時は私が疑いながらやり取りを見てて・・・。」

 「千英が話してる時は、私がその役をするのね?」

 「そうそう! で、どっちかが気付いた時点で、対応を変える。そうすれば、感じ悪くなってもいいじゃん。相手が悪いんだから。」

 「なるほどー。」

 「・・・。」

 「え? 終わり?」

 「うん。終わり。」


 最後はいい加減な終わり方になったが、結局はそうやって相手を見抜く目を養いながら、経験を積んでいくしかない、と言いたかったんだろう、ということはなんとなくわかる。話を早めに切り上げたかったのもあるのだろう。千英が期待のこもった眼差しで由乃を見つめてきた。


 その顔を見て、悪戯心が湧いてきた。


 「じゃ、のぼせる前に、あがろっか。」


 由乃はそう言いながら、本当に立ち上がりかけた。


 「えっ!」


 果たして、千英が食いついてきた。やっぱり、人が好い。

 

 「なに? まだ話あった?」

 「え・・・そうじゃなくて・・・」

 「・・・なによ?」

 「・・・続きは?」

 「なんの?」

 「え・・・」

 千英が、心の底から落胆したような、寂しそうな顔をする。由乃はもう数ラリーこれを続けて、千英の口から言わせようと考えていたのだが、こんな顔を見せられては、たまらない。勢いよく浴槽に戻り、むしゃぶりつくように千英に抱き着いた。今度は千英も、由乃を止めなかった。


 なんだかんだで、浴槽に2時間近く浸かっていた二人は、完全にのぼせ上って洗面所に横たわった。


 「あーーー、もう、完っ全にのぼせた。」

 「うーーー、気持ぢ悪いーーー。」


 二人の異変を察知して駆け付けたジャニスが、周囲を駆け回りながらキャンキャンと吠え、時折二人の顔を舐めた。洗面所に、裸の女二人の唸るようなうめき声が、夜更けまで響いていた。


11 師走

 

 12月に入るとすぐ、由乃と千英はT県とI県で立て続けに「お盗め」を実行した。どちらも大学で、常駐の警備員もおり、最新クラスの警備システムと敷地をくまなくカバーする、大量の防犯カメラが設置されていて、前回のC県の博物館よりも格段に高いレベルを求められたが、二人はなんなく土器や石器、勾玉の類など、22点を盗み出し、組合に引き渡していた。


 組合からは、前回の「お盗め」についての経過が報告されていた。千英も同じようにモニターはしていたが、例の博物館が警察や警備会社に被害を申告した形跡は、今のところない。二つの異なる方向からモニターして動きがないなら、それは本当に動きがない、と見ていい。


事が公になるとすれば、3月末と9月末が最も濃厚だ。様々な公的な機関、企業がその時期に決算や棚卸を行うことになる。次いで、6月と12月。つまり、3の倍数月は気を付けなければならないということだ。


今回の大学は、9月に棚卸を実行していた。しかし、千英の調べた限り、収蔵庫の中身がチェックされた形跡はない。帳簿上は「したこと」になっているから、立派な虚偽報告なのだが、どこの大学でも美術館でも、「収蔵庫」とはそういう存在だった。

 泊りがけの遠征から戻っている途中で、「組合」傘下の自動車修理工場から連絡が来た。由乃の叔父、秀仁から祝儀にもらった車の改良が終わった、という連絡だった。


 フォード・エコノライン。いわゆる「フルサイズバン」という、大型のバンで、海外の映画などでは、SWATやCIAがよく前線基地に使用している。由乃は、この車の運用を千英に任せ、千英の気に入るように改良をさせていた。


 6.8リッターのV10エンジンを搭載し、変速機は6速オートマ、ホイールベースは4m近い。後輪はダブルタイヤ仕様で、サスペンションもブレーキも強化されていた。千英はそこから、大型のリチウムイオンバッテリーとソーラーパネルからなる発電システム、各種アンテナを設置させ、車体の中央部にコンソールデスク、冷却システム、電源を増設している。文字通りの、「前進基地」に仕上がっているはずだ。


 その一切の改装を引き受けたのが、「斎十商会」という修理工場だった。由乃のミニクーパーもそこで手を加えてもらっている。「修理工場」とは言っているが、旧車の修理販売だけでなく、レース経験を活かしたチューニングを行っており、長年の経験と勘もさることながら、「手に入らない部品は作る」という情熱と、確かな技術を持った、まさに職人気質の名人と言えるオーナーが切り盛りしている。


 由乃は、千英が車を斎十商会に持ち込んだ時の、オーナーの様子を思い浮かべて、顔を綻ばせた。小柄で白髪の混ざったもじゃもじゃ頭をサイドバックに撫で付け、顎髭を蓄えているオーナーは、普段は気さくな人柄で、京都弁をことさら軽妙な雰囲気で話すことのできる特技の持ち主でもあったが、車のこととなると一変し、自分で納得がいくまでは、絶対に妥協を許さない。


 「こんなん持ち込んで、どないすねん! こりゃ、車上げるのも一苦労だど。どうすんねん、これ?」

 

 工場に入りきらないほどの大型の車を持ち込んだ由乃に悪態をつきながら、それでも従業員にテキパキと指示を出し、他の車を移動して場所を空けてくれた。


 いかにも車の工場らしい、車関係の雑誌やカタログ、各種デカールがあちこちに貼られた、お世辞にもキレイとは言い難い事務所で、耳にペンを挟んで千英の要求を聞いていたが、その度に、「無理や!」とか、「なんしか、作らなあかんのぉ」など、独りでブツブツと愚痴をこぼしながらメモを取っていた姿が、まるで娘の無茶を聞いている父親のような感じがして、おかしかったのだ。


 オーナーが、「無理や!」と騒いだ大型のリチウムバッテリーを「見えないように積んで」と言った千英の要求が、どのように実現されているのか、今から楽しみだった。


 それは千英にも同じことで、初めて車を持つことになるという高揚感が日増しに高まっていたようだった。完全に運転席を再現したシミュレーターまで作ったほどの熱の入れようだった。


 既に夕闇の覆う時間ではあったが、二人は斎十商会に向かうことにして、ルートを変更した。


 「おう、待っとったで!」


 出迎えたオーナーに、途中で買ったビールを、ケースで3つ手渡した。自ら「燃料」と呼ぶビールで、労いの気持ちを現したのだ。


 オーナー自ら、改良点を説明して回る。

 

 「うまいこと積んだやろ? バッテリーは表から見えないようにしてあるんでな。」


 後部の荷室扉を開いて、中を見せる。車体中央部の右側に空のコンソールデッキが、その向かいに扉付のフェンスラックが備え付けてある。確かに、エアコンの室外機ほどもあるバッテリーは、そこにも見当たらない。


 「これ、見てみ。えっらい、苦労したど!」


 荷室の扉を閉め、リモコンでリフトを操作すると、車体が上に持ち上がった。工場の屋根に車の屋根が触れるほどにリフトを上げても、腰を屈めてでないと下部に入ることができなかった。


 車体の下部を覗いてみて、千英が感嘆の声を上げた。後部のサスペンションが、まるっきり別物に入れ替わっていた。リーフ式でなく、前部固定のマクファーソンストラットに変わっている。ロアアームの空いた部分、ドライブシャフトを跨ぐようにして、振り分けたバッテリーが組み込まれていた。


 「あのまんまじゃ、どうしたって付かんからな、バラして振り分けたんだわ。でな、燃料タンクも形変えなあかんかった。容量も減ってしまうから、エンジンルームに隙間こさえて、15ℓのタンク二つ積んで、ようやくや。」


 まるで、それが全て、と言わんばかりだった。サスペンションの総入れ替えなど、あまり頭になかったかのように聞こえる。


 「余計な座席は全部とっぱらったし、ソーラーも載るだけ載せた。コンバーターやなんかは、コンソールの裏や。電源は、100V4つと200V一つな。で、どうや?」

 「まさか、ほんとにやるとは思わなかった・・・すごい!」

 「アホか! そら、言われたらやるよ! なんや、やらんで良かったんか?」

 「ち、違う違う! 言ってはみたけど、どう計算しても見えないように積めるとは思わなかったから! まさか、サスまるごと入れ替えて、バッテリーをバラして振り分けるなんて、想像もしてなかった。」

 「えらい頭使うたわ! 冬やのに、頭から湯気出して考えたんや! まるっきり、パズルやど! でっかいように見えて、ほとんど隙間ないねん、この車!」

 

  そう言って、オーナーは詳しい仕様書や強度計算書を挟んだ車検証を千英に手渡した。


 「ま、いろいろ変えたとは言え、強度もバッチシやし、車重も元から10kg増で抑えたからな。この車いじるんは初めてやったけど、いろいろ勉強んなったわ。」


 これが、このオーナーの尊敬できるところだ。60をいくつか超えているはずだが、現状に満足せず、常に上を目指して積み重ねていくことを、決してないがしろにしない。

  

 100km程度だが、慣らし走行をしてみても、まったく不安はなかったと言う。また、小柄な千英でも運転がしやすいように、ペダル類の位置も変えてあり、シートの調整幅も増やしてあった。この辺りは、千英の注文にははいっていなかったはずだが、きちんと運転する人間のことまで考えた、いかにも職人らしい配慮と言えた。


 「ビール、おおきにな!」

 二人の満足した顔を見て、オーナーも安心したようだった。笑顔でぴょこっと手を挙げると、バックで出庫する千英の誘導のために、小走りで道路に出て行った。千英もシミュレーターで鍛えた腕を活かしながら、ゆっくりと車を道路に出した。由乃のミニクーパーと並ぶと、その大きさがよくわかる。

 

 千英が先頭で、帰宅の途についた。大通りに出て左折する時まで、オーナーが笑顔で手を振っているのがミラー越しに見えた。


 千英の車は、もちろん家のガレージには入れられない。大型のカーポートを発注してあったが、特注品だったこともあり、設置工事は来春の予定だった。


 「運転は、どうだった? 後ろからは、上手いなーと思って見てたけど。」

 「うん! 最高だよ! 見晴らしが、特に。さすがにバイクから乗り換えだと、加速に不満はあるけど、思ってたより曲がりやすいし!」

 「そっか。私も運転の練習しておかなくちゃね。左ハンドル。」

 「由乃も気に入ると思うよ? 特に、見晴らしが!」

 

 千英は車からの眺めが、相当気に入ったようだった。あれだけ高さがあれば、確かに気持ちは良さそうだった。それから千英は、遠征の疲れも忘れて、いろいろな小物を取り付けたりしていたようだった。


 翌日、大学で人文学の講義を受け終え、教室を出ようとしたところで渡辺准教授に呼び止められた。

 

 「湯浅さん、ちょっと、いい?」

 「はい? なんでしょう?」

 「大学院に進むつもりって聞いていたけど、今も、そうなの?」

 「ええ、そのつもりです。」

 「じゃあ、就職活動とかはしてないのね?」

 「はい・・・。してませんけど・・・。」


 12月に入り、3年生の就職活動もますます活発になっていた。すでに、内内定的な物を手にした学生もおり、そういった噂話が周囲の焦りを生み出していた。卒業の見込みが立ったものからそうした活動に入って行くわけだが、まだ目途の立たない学生も、それなりにいるようだった。


 「実はね、関西の大学から、合同で発掘調査をやらないか、って、お誘いが来てるのよ。纒向遺跡なんだけど、湯浅さん、興味ない?」

 「えぇ! もちろん、ありますけど!」

 「本当? それでね、一、二年生を何人か連れて行く予定なんだけど、湯浅さんにそのリーダーをお願いできないか、と思って。」

 「それは・・・とても光栄ですけど、四年生や大学院の方々は?」

 「うん・・・それがね、みんな、自分のことが忙しくて、それどころじゃないみたいなの。あ、来週の月曜から、5日間の予定なんだけど、大丈夫?」

 「はい。特に、予定はないので。」

 「良かった! 旅費は全額大学で出すし、講義に出席した扱いになるし、院に進学するための経歴書にも書けるから、お願い、できないかな?」

 「一応、家族にも相談したいので、返答は明日でもいいですか? もちろん、前向きに考えていますけど。」

 「それは、そうよね! うん! 明日でいいから、ぜひ、お願い!」


 そう言って、渡辺准教授が手を合わせてきた。相当、困っているようだ。実は、前々から噂にはなっていたが、渡辺准教授は他の考古学、歴史学の教授たちからは受けが悪いらしい。何事もズバズバ言う人だし、若い女性、というのも、お歴々には気に食わない要素のようだった。提出している論文を何件も握りつぶされていている、という話も聞いたことがある。

 

 纒向遺跡と言えば、邪馬台国の可能性が指摘されている、日本でも有数の遺跡だ。いくら個人の用事があるからと言って、四年生や院生の全てが断るとは、到底考えられない。この話が、渡辺准教授にもたらされたことが面白くない教授たちが、嫌がらせのためにそういった学生を囲い込んだ可能性は、十分に有り得た。  


 渡辺准教授と別れるとすぐ、千英から電話が掛かって来た。未だにリモートでしか講義を受けられないようだが、恐らく二人の様子を仕掛けたカメラで見ていたのだろう。


 「由乃! なんの話だった?」


 恐らく千英は、スマホを両手で挟むように持ちながら、勢い込んで電話をしてきたのに違いない。由乃は今の話を千英に語って聞かせながら、ピンと閃いた。

 「千英、今どこ?」

 「え・・・ミニクーパーの中。」

 「オッケー、すぐ行くわ。」


 由乃はクルッとUターンし、廊下を戻って駐車場へと向かった。せっかく関西まで行くのなら、ぜひ手に入れたい『漬物』がある。


 廊下を小走りに進みながら、由乃は具体的な計画を、頭で描き始めていた。


11.1 千英

 


 ミニクーパーの助手席でダッシュボードに両手を着いて、身を乗り出すようにキョロキョロと由乃を探す千英の姿が遠目に見えた。ほぼ正面を横向きに歩いているのだが、廊下の窓と行き交う人間に紛れて、見つけ出せないでいるようだった。


 『まるで、ジャニスみたい』


 由乃は、二人が車から降りると、同じような姿勢でどこに行くのかを確かめようと、こちらを見つめるジャニスの仕草を思い出していた。


 『もう・・・クッソかわいいな!』


 どちらにも言えることで、どちらも今すぐ抱き締めてモフモフしてやりたい気分だが、ジャニスはここにいないし、車の中とは言え千英に抱き着くわけにもいかない。


 ようやく由乃の姿を見つけた千英の顔が、パッと輝いた。その仕草まで、ジャニスと同じだった。


 「お帰り! で、なに?」


 由乃は無言で、見えないように自分の手と千英の手を絡めた。千英が不思議そうな顔をする。まったく、こちらの気も知らないで、考えているのは渡辺准教授のことだけみたい。


 「あのね、奈良の纒向遺跡で、合同の発掘調査に誘われた。それでね・・・。」

 千英に渡辺准教授から聞いた内容と、准教授を取り巻くヒエラルキーについての推測を伝え、併せて思いついた考えを説明する。


 「で、せっかく奈良まで行くのなら、手ぶらで帰って来るのも芸がないじゃない。だから、同時に「お盗め」もしちゃわない?」

 「えぇ? 来週でしょ? 間に合うかな?」

 「間に合わせるのよ。『急ぎ働き』にはなるけど、ある程度の目星は付けてあるから、情報をアップデートして、必要な準備をして・・・。」


 『急ぎ働き』は、本来なら避けるべきお盗めの態様だった。要するに、準備期間も下見も十分でない状態で行うお盗めのことを言う。対して、入念な計画と下見、あらゆる事態を想定した準備の上で、誰にも気付かれることなく終えるお盗めを『本格の盗め』と言うのだ。今のような情報化社会になる前の、江戸や明治の時代には、一つのお盗めのために数年掛けて準備を行うのも、当たり前だったという。


 当然、それなりの人数もいるし、費用も掛かる。そのため、本格の盗めを快く思わない盗賊も多かった。江戸時代には、20両盗めば死罪と相場が決まっていた。そういう意味では、まさに命懸けの盗めをしているのに、仕込みに時間だけが掛かって、分け前の少ない本格の盗めは、「割に合わない」ということになってきたのだ。


 そこで流行したのが『急ぎ働き』であった。目星をつけた商家に、賭場などでその場限りの人数を集め、強引に押し込んで盗みを働く。家人に気付かれれば殺す。女は犯してから殺された。挙句に証拠を残さぬために、家に火まで放つ始末だった。『急ぎ働き』の中でも、本格の盗賊からは蛇蝎のごとく忌み嫌われる、『畜生働き』という、最低の盗めの態様だった。


 「曲がりなりにも、人様の物に手を付ける稼業を生業にしている以上、人としての道理だけは通さなくちゃあならねぇ。それすらも捨てっちまったら、そいつはもう、人じゃねえ。畜生だよ。」


 権蔵が、ニュースで「闇バイトによる強盗事件」が流れるたびに、それこそ吐き捨てるようにそう言っているのを、よく耳にした。権蔵にしてみれば、いや、「盗めの三箇条」を守る全ての盗賊からすれば、こうした事件は断じて「お盗め」ではない。単に、「盗み」と言われるのさえ、嫌がった。人でない者が行う所業と、一緒にされてはたまらない。

 しかし、皮肉なことに、今では「盗み」と言えばこのような「急ぎ働き」がほとんどで、本格の盗めなど絶滅したに等しい。中でも「畜生働き」は、時代が変わっても、燻ぶる炭火のように燃え続け、昔よりもよりさらに場当たり的で、凄惨なものに変わりつつあった。組合の方でも、そうした芽をできる限り摘んではいたが、どこにでも生える雑草のようなもので、一掃することなど出来そうにもなかった。


 「まあ、親が子を殺し、子が親を殺す時代だ、無理もねぇ。戦争も病気も無くなって、俺たち人間は、命のありがたみを忘れたのさ。自分の命も人の命もな。」


悲しそうな目でそう語る権蔵の姿が、はっきりと思い出される。


 その孫であり、弟子でもある由乃が行うものは、「急ぎ働き」ではあっても、「盗めの三箇条」をきちっと守ることができる、と踏んでいるからこそ、である。いつか関西に行く時のために、獲物の選定と、その保管場所についての下調べは終わっているのだ。今でもその情報が有効かどうか確認をして、必要な物を準備すれば、いつもの「本格の盗め」になる。


 もう一つ、これからのために、「期限内にしっかりと準備をする」という経験も、二人には必要だろう、と考えたことも理由として挙げられる。今までのルーティンから、できるだけ無駄を省き、効率を考えた準備をしなければならない。


今までのお盗めは、準備期間は無限にあった。逆に言えば、時勢が整わなければお盗めは行わないのだから、当たり前だったが、そうではなく、「時間に追われる仕事」の経験を今のうちに積んで、問題点を洗い出しておきたかったのだ。


 「それと、ね。今回は、途中まで別行動を取ろうと思うの。私は渡辺准教授たちと移動するから、千英は一人で運転して来て欲しいのよ。」

 「そ、そうなの!? 大丈夫かな・・・。」

 「大丈夫にしてもらわないと、ね。それに、慣らしにも丁度いいでしょ? 」

 「まあ・・・そうだけど・・・。」

 「じゃあ、一旦はその方向で動き出しましょ? どうしても難しそうだったら、また考えるから。」

 「わかった。」


 それから二人で日本史の講義を受け、15時過ぎには帰宅した。いつものようにじゃれついてくるジャニスとの遊びもそこそこに、二人は準備に取り掛かった。


 まずは、今回の移動手段でもあり、遠征先の拠点ともなる、フォードを完成させなくてはならない。昨夜のうちに、千英は荷室の右壁に大型のモニター二枚を並べて取り付け、USB―Cの給電装置を設置し、配線を伸ばして運転席と助手席の間にも給電装置を取り付けていた。その他は、千英の趣味による小物が増えた。ハンドルカバーや灰皿、太陽の光を受けてユラユラ動くデフォルメされた動物たち。


 「こんなことなら、パソコンを先に積んで置けば良かった!」


 1台が20kg程あるパソコンを運び込みながら、千英がぼやいた。フォードには千英が組んだ同じパソコンが2台、ノートパソコンが3台積み込まれる予定になっていた。帰宅してから2時間ほど、二人で汗だくになりながら、制振装置と水冷式の放熱板を組み込んで、ようやくパソコンを乗せるところまで漕ぎつけた。出来れば今日中に運転席側にもモニターまで積み込んで、起動させるところまでは終わらせたい。


 「あ、乗せるの? 手伝おうか?」


 由乃は助手席に座り、大型のナビモニターを取り付けているところだった。聖から送られたナビシステムで、地図の精度が各段に高い上、地下道や下水網のデータまで入っている特別製だ。特定の発信源を追尾することまでできる。データは数日に一度更新され、常に最新のシステムでナビを行う。


 「大丈夫!・・・っせ!っと!」


 抱え上げると、千英の腰から顔までを隠してしまうような、大型のタワー型パソコンが荷室に積みこまれた。続けてもう一台。


 二人は黙々と作業を続け、23時過ぎに、パソコンの起動確認までが無事に完了した。

 

 「うん、オッケ! アンテナもきちんと機能してる。」

 「じゃあ、ここからジャミングもハッキングも可能になるのね?」

 「うん! ミニクーパーの時の、20倍くらいの広さをカバーできるようになった。まあ、それだと15分くらいが限界だけど。電源的に。」

 「十分じゃない! それだけあったらかなりのことができるわよ!」

 「まあ、ね。控えめに言っても、最高の車ができたと思う!」


 それも、千英がいてこそ、だった。千英はまさに、情報化社会の申し子と言っていい。知識として、というより、感覚的に高度な計算ができるようだった。本当は、その能力こそが最高なのだが、それが当たり前になっている千英には、いまいちピンと来ないらしい。


 そうなったのには悲しい過去があるのだが、それは千英の能力のスイッチを入れたに過ぎず、能力の大半が先天的に備わっていたとしか思えない。


千英には、4歳年下の妹がいる。正確には、「いた」という表現が正しい。妹は、先天的に免疫力がほとんどない病を持って生まれてきた。なので、妹の誕生を心待ちにしていた幼い千英は、病院のガラス越しにしかその姿を見たことがなかったのだ。


 ある時、小康を得た妹が家に帰って来たが、その部屋は無菌テントに覆われ、千英は立ち入りが許されなかった。だが、千英は、妹のために、自分のおもちゃを与えたかった。せめて、家にいるときくらい、おもちゃで遊ばせてあげたい。子供の純真な思いで、千英は言いつけを破り、自分が大切にしていたクマのぬいぐるみを、妹の枕元にそっと置いた。その時に、不思議そうに千英を見つめてから、ニッコリと微笑んだ妹の顔が忘れられない、と千英は言っていた。

 

 その行為は、30分もしないうちに母親にバレてしまい、千英は厳しく叱られた。大切にしていたクマのぬいぐるみは、ゴミ箱に捨てられた。そして、その2時間後、妹の容態が急変し、妹は二度と家に帰ってくることがないまま、短い生涯を閉じた。


 このことで、千英は母親に徹底的に嫌われた。それは、「完全な無視」という形で表現された。食卓に食事は準備されていたが、準備されていただけで、「食べていい」とは言われない。食べなければ、そのうち片付けられるし、食べてもそれは同じことだった。着替えも、風呂も、全てが万事、そんな感じだった。さながら、機械に世話をされ、生かされているようなものだった。泣きながら謝ったし、褒められようとあらゆることを試みたが、母は許してくれなかった。


 父親もほぼ同様だった。子供を失った悲しみを、仕事に向けた。家庭を顧みず、時に泊まり込みで仕事に没頭した。ある時、夜中にトイレに起きた千英が、真っ暗な自室でパソコンに向かう父の後ろに、はっきりと鬼の姿を見た、と言う。

 

そんな環境で育った千英が、小学校に上がるとパソコンに興味を持った。相変わらず母は口を利いてくれないので、父に頼み、古いパソコンをもらって、自室に閉じこもるようになった。千英のパソコンに関する知識も、画面に向かって行われる独り言も、こうして育まれたのだ。


 今は、母親もきちんとした治療を受け、千英とも話をするようになったと言うが、お互いに気まずさは拭い去れず、千英は中学卒業と同時に全寮制の高校に入り、今に至っている。それ以来、実に6年間、母とは電話で何度か話しただけで、実家には帰っていないと言う。


 「それでいて、毎月の仕送りはきちんと振り込まれるんだから、不思議なもんだよね。」


 そう、千英は話を結んだ。この話は、一緒に暮らし始めてすぐ、引っ越したことを親に伝えた様子がない千英を見て、不思議に思った由乃が、何気なく尋ねたことで判明したのだが、涙なしには聞けない話だった。そんな境遇に置かれながら、千英からは一言半句も、親への恨み言が漏らされなかった。千英は千英なりに、妹への責任を感じているようだった。


 その話を聞いた次の日、由乃のたっての希望で、千英の妹の墓を詣で、二人で手を合わせた。


帰り道、由乃は墓前に供えたクマのぬいぐるみと同じ物を、千英に贈った。千英はそこで初めて、声を上げて泣いた。同じように、由乃も泣いた。


 この時に、由乃と千英は心まで完全に一つになった。涙が二人の心を溶かし、一つにしたかのようだった。


12 母心


 月曜日の早朝、千英が一人で奈良に向けて出発していった。これからおよそ8時間かけて、奈良に向かうことになる。


 ジャニスを抱きながら見送りに出た由乃は、自分でこの計画を立て、弱気になりかけた千英を励まして実行に移した経緯があるにも関わらず、とても寂しい気持ちになっていた。

 「こまめに休むのよ? 無理はしないでね?」

 「うん、わかってる。」

 「早着より、必着だよ? 慌てなくて大丈夫だから。」

 「うん。」

 「車体が大きいから、横風に気を付けてね。ハンドル、取られるから。」

 「わかった。」

 「それから・・・」

 「もう! 大丈夫だって! 何かあったらすぐ連絡するし!」

 「そ、そうだけど・・・」

 「じゃあ、行くからね!」

 「う・・・うん・・・。」


 そう言うと、千英が運転席によじ登るようにして車に乗り込んだ。小柄な千英が、超大型のアメリカンバンに乗り込むと、まるで子供が運転席にいるようにも見える。シートベルトをして、サングラスを掛けると、ウインドゥが下がった。

 

 「じゃ、向こうで! 行ってきます!」

 「いってらっしゃい!」


 千英がちゃっ、と左手を挙げて、車が動き始める。由乃は着いていこうと手の中で暴れるジャニスを抑えながら、手を振って見送った。


 出発して5分も経たないのに、もう心配になって、スマホの位置情報を確認する。千英の位置情報が由乃のそれから、どんどん遠ざかっている。今のところ、順調のようだった。


 『まだ5分でこれか・・・私の方がよっぽど重症だったんだわ・・・。』


 由乃にベッタリで、何かと由乃に頼りがちな、千英の成長を促そうと計画したことだったが、その実それはまったく逆だということが、よく分かった。なったことはないが、子を持つ母親は、恐らくこういう不安と心細さに、毎日曝されているのだろう、とぼんやり思った。


 由乃は気を取り直し、自分の準備に取り掛かる。荷造りは終わっていたが、ジャニスにご飯を出して、実家に預ける準備を始めたところで、これから1週間、ジャニスにも会えない、と気が付いて、ハッとした。


 「あーん、ジャニスぅー・・・あなたともしばらく会えないんだったー。」


 千英の心配が落ち着いたと思ったら、今度はこれだ。千英にもジャニスにも、依存が過ぎるのではないか、と自分を見つめ直す、いい機会になった。


 時間の許す限り、ジャニスと戯れ、その匂いを存分に楽しんだ。千英は首輪付近の匂いが大好きだが、由乃は胸からお腹に掛けての匂いが大好きだった。ジャニスをゴロンと転がして、顔をくっつけて匂いを吸い込む。ジャニスが顔を上げ、由乃の髪の毛をベロベロ舐め始めた。なんとかして顔を、できれば口付近を舐めたくて、鼻先で頭を押してよこす。その力も、日増しに強くなっているような気がする。


 「こうやって押さえつけられるのも、あとわずかかもねー。」


 起き上がった由乃が、ジャニスの頭を両手で挟み込み、顔の皮を左右に伸ばして引き上げた。こうすると、まるで笑っているように見えるのだ。ドイツシェパードであるジャニスは、女の子ではあるが、将来的には30kg近くまで成長するはずだ。1歳にも満たないのに、体重は8kg近くある。物の本によれば、あと半年も経たないうちに、さらに倍になる。そうなったら、さっきのように抱き上げるのも一苦労、ということになるだろう。そう考えると、会えない7日と言うのは、非常に貴重にも思える。


 何とか、再度気を取り直して、ジャニスにご飯を与え、その間に自分の身支度を整える。ジャニスに舐められた髪の毛が、結構な感じで濡れていた。


 あれから集めていた情報を千英と検討し、今回はとある博物館に眠る古文書に、狙いを定めた。横書きのサンスクリット語で書かれた文献が存在すると言う。サンスクリット語は、いわゆる『梵字』であるが、これまで日本には、中国を経由して渡って来たと言うのが定説になっている。元々横書きのサンスクリット語が、中国で縦書きに直され、それが平安時代に仏教とともに日本に伝来したとされているのだ。


 もしも、横書きのサンスクリット語が発見されて、その時代測定が平安よりも前の物、とされれば、仏教伝来以前に、つまり中国を経由せずに日本に渡って来た可能性も否定はできない。


 もちろん、「どこから、いつ見つかった物か」が分からなければ断定はできないが、現在の学説を覆す、一大発見となるかも知れないのだ。にも関わらず、研究は一切行われていない。収蔵庫に収められて、20年の月日が過ぎ去ったと言うのに。


 理由はいろいろとあったが、一番問題になっているのは、考古学という学問の、「大きな変化を嫌う」という性質にある。「積み重ね」こそが正義であり、それまでの通説を大きく覆すような発見には、極めて慎重な姿勢を取るのだ。


 もちろん、大々的に発表した後で、それが「間違いでした」となってしまえば、その人間の学者生命が絶たれかねいので、ある程度慎重になるのはわかる。


 だが、そもそも、一度の間違いで、それまでの功績を全否定されるような風潮が、正しいと言えるのか、どうか。それがために、考古学という学問の進歩が、どれほど遅れを取ったのかを考えれば、それは間違いであった、と、言えなくはないか。


 既成概念に囚われ、既得権益にすがる、渡辺准教授を軽んじるような「学会の重鎮」こそが、最大の弊害なのではないだろうか。由乃は常々そう考え、そういった事実から考古物を救う活動を続けてきたのだ。


 今のところ大々的な発表はされていないが、少なくても組合を通じて手渡された先で、研究はされている、という事実を、由乃は掴んでいる。それが、自分の「罪」の部分に対する、最低限の礼儀だと思っていて、万が一、譲渡先でも同じことが繰り返されれば、由乃は最優先でそれらを「救出」するだろう。たとえ、それがどんなに困難でも、確実に実行する気でいた。それに命を懸ける覚悟さえ、持っていた。


 由乃はそれほどに歴史を愛し、考古物を愛していたのである。


 千英が、それらのデータを洗い直し、最新の情報に更新していた。由乃が調べた3年前のデータから、大きく変わったところはない。新しい建物が立てられ、敷地の見取り図が若干変更になったくらいのものだった。


 すでに、「警備の穴」も見つけてあった。搬入口のシャッターの鍵が、壊れたままになっていた。博物館の支払い目録の中に、それを修理した痕跡は見つかっていない。つまり、今も鍵は壊れたままの可能性が、非常に高い。シャッター自体がかなりの重さで、内側からモーターで巻き上げるしか開く方法がない、と軽く見ている可能性があった。


 由乃はそのシャッターを外側から開くため、フォードにエアジャッキを積んでいた。風船が膨らむ要領でシャッターを押し上げ、人ひとりが入るスペースを確保すれば事足りる。用事が済んだらジャッキを外せば、痕跡はどこにも残らない。


 食事が終わって、伏せの姿勢で寛いでいたジャニスの耳がピンと立ち、ついで立ち上がって玄関に向き直り、低く短い唸り声を上げた。と、同時に、敷地への侵入を知らせるチャイムが鳴る。ジャニスは最高クラスのセンサーよりも、探知範囲が広い。由乃はジャニスを褒め、強めに首を擦った。


 敷地に入って来たのは、由乃の母、綾子の車だった。今日は駅までの送迎と、ジャニスのお迎えを頼んであった。これから一週間、ジャニスは由乃の実家に預かってもらうことになっていた。


 ハーネスにリードを取り付け、トランクを牽いて玄関から外に出る。ちょうど綾子が運転席から降りたところだった。ジャニスが喜んで後ろ足で立ち上がった。


 「おはよう! あらー、ジャニス! いい子ねー!」


 綾子もジャニスも、お互いが大好きだった。特にジャニスのお気に入り具合は大変なもので、今もすぐに腹を上にして寝転がり、服従の姿勢を示している。その腹を、綾子が乱暴とも思える手つきで撫で擦った。


 「おはよ。ごめんね、朝から。」

 「いいのよ、全然。千英ちゃんは、もう出たの?」

 「うん。もう御殿場の近くまで行ったみたいよ。」

 「そう、お天気で、良かったわね。」


 言いながら、レンジローバーの後席ドアを開く。ジャニスが勢いよく乗り込み、シートの匂いを確かめている。由乃は足元にトランクを乗せるとドアを閉め、助手席に乗り込んだ。


 「オシッコしないでよ!」


 運転席に乗り込んだ綾子が、前科のあるジャニスを振り向いてそう言った。


 「鍵は掛けた? 火の元は大丈夫?」

 「うん、大丈夫。」

 「そう? じゃ、出発するわよ。」

 「うん。」


 レンジローバーが滑るように走り出す。綾子はこの旧型の、深緑色のレンジローバーが大好きで、先日、新車が変えるほどの費用を投じてフルレストアを行ったばかりだった。周囲は新車に乗り換えることを強く勧めたが、綾子は全く聞き入れなかった。生まれ変わったレンジローバーは、以前のようなエンジンからのガタツキ音もなくなり、左のスピーカーからも音が出るようになっていた。

 

 「どこの大学と合同なの? 発掘?」

 「あんまり馴染みのない名前だった・・・近江近代大学? そんなような名前。千英と二人で、キンキンだね、って笑った。ビールじゃないんだから! ねぇ?」

 「また、バカなことばっかり。あっちは人間が違うから、気を付けるのよ?」

 「いつの時代の話よ! 同じ日本語を話す日本人でしょ。」

 「違うわよ! カンサイベンを話す、外国人のようなものよ?」

 「またぁ。今時そんなこといったら、あっという間に炎上案件よ?」

 

 他愛もない話で笑い合った。綾子はほとんど関東から出たことのない人間で、行先が関西だろうが東北だろうが、必ずこういった話をしてくる。高校の修学旅行で沖縄に行くと決まった時は、本気でパスポートを申請しようとしていたくらいだった。

 

 20分ほどで駅に着くと、由乃はジャニスに留守を言い聞かせ、実家でいい子にしてるように、と伝えた。わかったかどうかは知らないが、とにかく得意そうな顔をしたから、たぶん大丈夫だろう。


 「持ち合わせ、間に合うの? 旅費は建て替えなんでしょ?」

 「大丈夫。カードもあるし、スマホもあるし。」

 「水道水は飲まないでよ? ちゃんと、水、買うのよ?」

 「はいはい。わかりました。」

 「気候も人も違うんだから、ほんとに気を付けてよ? あ、千英ちゃんにも伝えてね。」

 「もう、わかったって。私たち、いくつだと思ってんの? 」

 「いくつも何も、関係ないわ! 皺くちゃのばあさんになったって、あなたたちは私の子供なんですからね!」

 「はいはい。わかりました!」

 「はい、は、一回でよろしい! じゃあね! 気を付けて!」


 もちろん口には出さないが、薄々ながらも、今回の旅行が発掘調査の手伝いだけ、とは思っていないのだろう。完全に堅気の綾子は、そう言った類の話には一切口を挟まない。それでも、心配なのは間違いないのだ。話もできないのは、さぞもどかしいだろうと思う。だからこそ、他のことで、執拗に注意喚起を行うのだ。


 親、とは「木の上に立って見る」と書く。木の上から子供を見守る、という意味なんだろうが、なかなか樹上に留まっているのは難しい。どうしても、木から降りて手や口を出したくなるのが、親と言うものであり、人情だろう。


 由乃は、この短時間の間に、親と子、両方の立場になってみて、つくづくと思った。正確には千英は子供ではないが、愛しい存在なことに変わりはない。特に、母親と言うのは、その傾向が強いように思う。これが、母性と言うやつか。


 車を降りた由乃は、トランクを牽き、待ち合わせ場所へと向かう。集合時間までは、まだ30分近くあった。時間に遅れることが何より嫌な由乃は、いつもこれくらいの時間の余裕を持つことが多かった。


 待ち合わせ場所に向かいながら、遠目に渡辺准教授が中学生くらいの女の子と言い合いをしているのが見えた。祖母らしい女性が、女の子の肩を擦って、慰めているようにも見える。女の子は、泣いているようだった。


 『娘さんかしら? あんなに大きいお子さんがいたんだ・・・。』


 私的なことはあまり見られたくないだろうと思った由乃は、向きを変えて、プレハブのコーヒースタンドへと向かった。とても小さな店だったが、流行のシアトル系よりさらに濃いエスプレッソを提供していて、電車で通学していた時はよく利用していた。いかにも仲の良さそうな初老の夫婦が切り盛りしている。


 コーヒーを受け取って、チラッと後ろを振り向くと、女の子は車の後部座席に乗り込んでいて、ムスッとしながら俯いていた。渡辺准教授が、開いてない窓に必死に何かを話し掛けていたようだったが、ついに窓が開かれることはなく、車は路肩を離れて走り去って行った。その様子を、手を振りながらいつまでも見送っている。


 見なかったことにして、お店のサインボードに目を移した。そういえば、ここはクロックムッシュも美味しかったことを思い出した。確か、息子さん夫婦がパン屋さんをしているというようなことを聞いた気がする。時間もあるし、注文しようかと顔を上げた時、声を掛けられた。

 

 「ごめんなさい、気を遣わせちゃったみたいね。」


 振り向くと、寂しそうな笑顔を浮かべた渡辺准教授が立っていた。


 「あ、いえ・・・早く着いてしまって・・・。」

 「ふふ、優しいのね・・・。あ、ここ、クロックムッシュも美味しいのよ? 」

 「そうなんですか?」

 「そうそう。ご馳走するわ。・・・ご馳走って程じゃないけど。」


 そう言うと、由乃が話し掛ける暇もなく、渡辺准教授がコーヒーとクロックムッシュを二つ、注文した。


 「まだ少し時間あるから、座りましょ?」


 促されるまま、中央にパラソルの立ったテーブルと、プラスチックのガーデンチェアが置かれた座席に着いた。バスケットに、それぞれナプキンに包まれたクロックムッシュから湯気が立ち上っていた。


 「この香りで思い出しました。確かに、ここの美味しいですよね。」

 「そうなの。クロワッサン自体が美味しいのよね。バターの味がして。」

 

 渡辺准教授がクロックムッシュを取り上げ、口に運んだ。由乃も手に取る。


 「・・・さっきの・・・うちの娘なんだけど・・・珍しくグズっちゃって。」

 「あー、今回、長いですもんね・・・。」

 「いくつくらいに見えた?」

 「え・・・中学生くらいかな、と。」

 「やっぱり。でも、まだ小学生なの。5年生。」

 「あ、そうなんですか? じゃあ、まだ寂しいですよね。」

 「うん・・・。申し訳ないとは思うんだけど・・・。」


 渡辺准教授の顔が曇った。研究者としては、逃せないチャンスであるのは間違いない。ただ一方で、母としては、断腸の思いだろう。


 「毎日、電話してあげてください。それと、褒めてあげて、忘れてないよ、って伝えれば、いずれわかってくれると思います。」


 差し出がましいとも思ったが、言わずにはいられなかった。渡辺准教授が、驚いた顔をする。


 「あ、すみません・・・。私、余計なことを・・・。」

 「ううん!ありがとう! そうよね、いずれ、わかってくれるわよね?」

 「はい。それは、大丈夫だと思います。」

 「そうよね・・・そうするわ!」


 良かった。曇っていた表情が明るくなった。クロックムッシュを食べる速度も上がったようだ。


 食べながら、今回の発掘調査の話を少しすると、集合時間の5分前になった。


 「そろそろ、行こうか? まだ他の子たちは来てないみたいだけど・・・。」


 集合場所は、駅前ロータリーに設置されている花時計のところと、通知が来ていた。今回のメンバーだけでLINEのグループを作ってあり、そこにもきちんと、写真付きで場所が示してあった。


 集合時間になったが、誰も現れない。


 「・・・おかしいわね・・・場所がわからない訳じゃ、ないわよね?」

 「ええ、そう思います。もう少し待ってみて、LINEしてみましょう。」 


 それから5分が経ったが、誰も来ず、LINEに連絡も入らなかった。さすがにおかしいと思った渡辺准教授が、連絡を入れるが、誰ともつながらず、メッセージに既読もつかなかった。

 

 「あれ・・・どうしよう・・・電車の時間もあるのに・・・。」


 二人で顔を見合わせ、周囲を見回してみたが、それらしい人間は見当たらなかった。


 さらにそこから5分が経った頃、向かいのコーヒーチェーンから、大きな笑い声と共に学生と思しき一団が出てきた。見覚えのある顔が見えた。


 「あ、いた!」


 渡辺准教授が、安堵の表情を浮かべて、大きく手を打ち振り合図を送った。向こうもそれに気付いた様子だったが、急ぐ素振りすら見せない。由乃は、ふつふつと怒りが湧き上がって来た。むしろ「沸いてきた」と表現するべきかも知れない。


 「私、ガツンと言ってやりますね。」


 小声で渡辺准教授に伝えると、渡辺准教授が首を大きく振った。


 「ダメダメ。今は、まだ我慢よ。今、彼らにはまだ逃げ場がある。ここは、下手に出ましょう。向こうに着いたら、私が話すわ。帰りのキップを持ってるのは、こっちなんだから。」

 「なるほど・・・。わかりました。」


 さすがだと思った。まだ30代の前半と聞くが、長年の教授や学会とのやり取りで、老獪さが鍛えられたのだろう。伝説のインタビューをした頃の荒々しさも、まだ健在だと知って、由乃はなんだか嬉しくなってきた。


 「あなたたち、遅いわよー! 遊びじゃないんですからね!」


 笑顔で、できるだけ柔らかく話をしているようだが、その目は決して笑っていない。この5人が、果たしてそれに気付いたか、どうか。返答を聞いていても、それは感じられない。悪びれた様子すら見せない。見た目通り、中身もまだまだ子供のようだった。


 『これは、先が思いやられるわね・・・。』


 そう思いながらも、由乃は込み上げてくる笑いが抑えられなかった。「こいつらを、どう変えるか」を考えるだけで、ゾクゾクするほどの喜びを覚えた。


13 車内


 千英は、フォードを駆って、快調に進んでいた。6.8リッターエンジンは、驚くべき余裕を持って、3tを超える車体をグイグイと引っ張った。だが、それはガソリンも同じことで、燃料計もどんどんとEに近付いて行く。


 元々燃料計を見る、という感覚のあまりない千英にとっては、まさに驚きで、130ℓもガソリンが入っていれば、半分くらいで奈良まで行けるような感覚でいたのだが、静岡を超えた辺りで一度満タンにしたにも関わらず、愛知を抜けて三重に入る頃には、もう一度給油をしなければならない状態になっていた。


 車内に、本日3回目の「PUMP IT!」のギターのイントロが流れ始めた。スマホの中からランダムに音楽を再生するようにセットしていたのだが、このタイミングでこの曲とは。千英の気分が一気に良くなった。体を揺らしながら、ファーギーのパートをノリノリで口ずさむ。いつ聞いても、この曲は千英の気分をアゲてくれる。


 その頃、新幹線の車内で、由乃はタブレットを開き、今回の発掘現場の衛星写真を見ていた。巻向駅の東側、ちょうど、ホケノ山古墳と平塚古墳の間の畑から、弥生時代か、それより前の物と推量される土器や銅鐸が出土したらしい。


 「この辺りは、弥生時代の集落はなかった、と言われてますよね? 大規模な水害があったとか・・・。」

 「その通り。少なくても、縄文後期には大規模な土石流があったらしいことは確認されてる。弥生時代の物は、今回の遺跡からもっと南で、多数発見されてるけどね。」

 「じゃあ、もし今回の調査で弥生時代の物が出土してくれば・・・。」

 「うん。その定説が、ちょっと変わって来る可能性はある。そこが集落だったと解明出来たら、弥生時代に今考えられてるより、さらに大きな集落があった、という仮説が成り立つ。『邪馬台国畿内説』を推す学者には、嬉しいニュースになるでしょうね。」

 「渡辺先生は、どうお考えですか? 邪馬台国。」

 「うーん・・・難しいけど、今のところ、畿内説が優勢かな。あ、あくまで、私の中でって、ことよ?」

 「その、理由をお聞きしてもいいですか?」

 「じゃあ、渡辺八重と湯浅さんの、個人的な会話として、聞いてね? 教え子と教師ではなくて。」

 「わかりました。」

 「邪馬台国は『やまたいこく』って、言うわよね? でも、当時国交のあった、魏の国では、『邪馬台』は『じゃめてぃえ』の発音になるの。私の発音は正確ではないけど、ニュアンス的に、ね。で、それは『大和』の発音と、まるっきり一緒なのよ。つまり、『邪馬台』は『大和』。そして、日本で『大和』と言えば、奈良でしょ?」

 「聞いたことはあります。でも、反論も多いですよね?」

 「そうね。でも、否定派の意見って、どれも『邪馬台国=奈良』に反対してると言うよりは、『邪馬台国クラスの都市が、他にもあった』と言っているに過ぎない、と思うのよ。つまり、その当時の日本には、外国と国交を結ぶレベルの国家が複数あって、魏志倭人伝に出てくる『邪馬台国』が奈良ではなく、他の、例えば九州にあった、という感じね。確かに、渡航記録を見ると九州説も有り得るとは思うんだけど、当時の測量技術がそれほど正確だとは、私には思えないのよね。あ、発音に比べると、ってことよ?」

 「なるほど・・・。」

 「だって、12000里って書いてあって、そのうち10500里が今の福岡県辺りだから、残り1500里なら九州を出たはずがない、って言うのが一番の論拠なのよ? そんなの、通る道でも違うし、そもそも直線距離なのか行程なのか、その辺りも曖昧だし、大体、どうやって測ったの? それに、『里』っていう単位だって、国によっても時代によっても、全然その長さが違うのよ。日本じゃ約4kmだけど、中国だと500m、朝鮮なら400m。ちょっと・・・ねぇ?」

 「論拠としては、弱いと?」

 「個人的には、そう思ってる。まあ、その他にもいろいろあるのよ。そもそも古墳造営の年代が、まるまる一世紀前にずれて、実は3世紀ころから作られてたんじゃないか、とか言われ始めてるじゃない? そうなったら、ホケノ山古墳は、それこそ卑弥呼の時代に作られたことになる。それはそれで、大変よ?」

 「そうですね・・・。」

 

ここで、渡辺准教授は一段声を低くした。


 「今の話、大学ではしちゃダメよ? 理事の添田教授は、大の『新井白石』推しだからね。あのジジイに睨まれたら、後が大変だから。」

 「わかりました。気を付けます。」


 なんとなく、だが、向かいの座席を占拠して、ウノに興じている5人の学生は、その添田派が送り込んだ、スパイの可能性があった。最初に渡辺准教授からその話を聞いた時は、まさかそこまではやらないだろう、と笑ったが、集合の仕方と言い、今の態度といい、完全に旅行気分で、渡辺准教授に敬意を払う様子も見せないし、やる気があるようにも見えない。


女子学生の一人は、ミニ丈のワンピースにパンプス姿だ。その女子学生とやたらとベタベタしている男子学生は、クロックスを履いていた。どう考えたって、発掘に赴く格好ではない。少なくてもこの二人は、要注意だった。現地でもサボって渡辺准教授に恥をかかせようとする可能性がある。


 場合によっては、この二人には退場願おう。由乃は由乃で、別な決意を固めていた。


14 仕置


 由乃たち一行は、午後2時には滞在先となるホテルに着いた。今から午後7時の歓迎レセプションまでは、自由行動となる。渡辺准教授が一人で近畿近代大学(近江、ではなかった)へと挨拶に赴いている間、由乃は一つの計画を実行に移した。問題の二人の学生の部屋に、カメラを仕掛けたのだ。その後も新幹線の車内でさりげなく様子を見ていた由乃は、この二名がクロであると、目星をつけていた。他の3人は、二人の行動に引いている様子が窺えた。それに、やたらと同調を求める様子も見て取れる。何らかの力関係があることは、ほぼ間違いない。


 スマホの位置情報を確認すると、千英はあと30分ほどで到着する予定だ。すでに、同じホテルの別の階に、部屋を取ってある。千英の到着までに、仕事を終わらせるつもりだった。部屋はいわゆるビジネスホテルスタイルの造りで、6人は廊下を挟んで両側に、それぞれ3部屋並んで部屋を取ってあった。


 荷物を置くとすぐ、5人が連れ立ってどこかに出掛けて行った。由乃はその前に、一芝居打って、全員からカードキーを預かっておいた。


 「渡辺先生が戻ってきたら、みんなに資料を配るように言われてるのよ。みんなは出掛けててもいいけど、4時までに戻って来てくれる?」


 当然、不満の声があがる。あの、場違いな格好の女子生徒からだった。


 「じゃあ、戻るのはギリギリでもいいから、カードキーを渡しておいてくれる? 私も用事が終わったら、すぐ出掛けたいのよ。私が出掛ける時には、まとめてフロントにカードを返しておくから。」


 それで決まりだった。これで、なんなくカードキーが手に入り、ホテル側に入室の記録が残っても、不自然ではない理由ができた。


 こうして由乃は、問題の学生二人の部屋のカーテンレールに、カメラを仕掛けた。それらしい資料とともに。同じように、残り3人の部屋にも資料を配って、あっという間に仕事が終わった。


 部屋に戻るとすぐ、千英の車がホテルの駐車場に入って来るのが見えた。普通車ほぼ4台分の駐車位置を必要とする車は、係員の誘導で、一番端の道路側に変更されたようだった。千英には、番組制作会社の人間としてこのホテルに泊まり込んでもらうことになっている。社員証やそれらしい撮影許可の書類などを一通り、美雨に頼んで作ってもらっていた。


 由乃は鼻歌を口ずさみながら、踊るようにして部屋を後にした。


 千英がチェックインを済ませ、部屋のある12階でエレベーターを降りると、ドアの前で隠れていた由乃が後ろから飛びついた。千英もその動きは予想していたようで、まるっきり動じる気配がなかった。

 

 「無事に着いたね! どうだった?」

 「うん! 快適だったよ! ただ、燃費がものすごく悪い! タンクに穴が開いてるのかと思って、下回り調べちゃったよ!」

 「まあ、それは仕方ないんじゃない? 排気量も車重も、エコではないから。」

 「それにしても、高速使ってリッター3kmくらいだよ? ヤバくない?」

 「こまめに給油するしかないわね。今は?」

 「大丈夫。満タンにしてあるよ。」 

 「さすが! さ、疲れたでしょ? 部屋いこう、部屋!」


 千英のために由乃が選んだ部屋は、スーベニアスイートと名付けられた部屋だった。広さはそれほどでもないが、大きなジャグジーがあるのが決め手となった。


「おぉ! 豪華! 私の部屋と大違い!」

「どうせ、夜はこっちに来るんでしょ?」

 「それはそうよ。ね、ジャグジー入らない?」

 「今から? 由乃、大丈夫なの? 渡辺先生は?」

 「6時まではフリーよ! あ、それとも、どっか出掛ける?」

 「んー、ジャグジーかな。」

 「決まり!」


 二人でジャグジーに浸かりながら、それぞれ一人の時間の話をした。千英の方は運転しただけなので、燃費の話題以外は特にこれといった話題はなかった。


 「・・・という訳で、同行した5人は添田派の回し者の可能性が高い、と見ているワケ。どう思う?」

 「うーん・・・実際見ているわけじゃないから何とも言えないけど・・・でも、ほんとにそこまでするかな?」

 

 千英は慎重な姿勢を示した。聖の助言が効いている。以前の千英なら、一も二もなく賛同してきたはずだ。


 「それは、私も思ったの。でも、そういう目で見ると、明らかにおかしいのよ。だって、発掘調査なのに、ワンピにパンプスだよ? カバンも確認したけど、それらしい服装は入ってなかったから、おそらくあのままよ。」

 「こっちで買うつもり、とか?」

 「まあ、可能性としては否定できないわね。それでね、早速で悪いんだけど、5人のこと、調べてもらえる?」

 「オッケー! 任せておいて。」

 「それでね、もしもクロで確定なら・・・。」


 由乃は千英に何やら耳打ちした。それを聞いた千英が、一瞬驚いたような顔をしたが、やがてそれは、悪だくみをする子供の笑顔に変わっていった。


 前回の経験から、浴槽に長く浸かるのは危険だと判断した二人は、千英の身体の張りが取れた頃を見計らって部屋に戻った。バルコニーで風に当たりながら、周囲の景色を楽しんでいると、渡辺准教授がタクシーから降りるのが見えた。

 

 「残念だけど、そろそろ下に戻るわね。オシゴトの時間よ。」

 「うん。じゃあ千英も動くよ。」


 そそくさと服を着替えて、自分の部屋に戻る。壁に耳を当てると、隣の部屋から物音が聞こえた。渡辺准教授も部屋に入ったようだった。


 特に呼び出しなどもないまま、時計が午後5時を示していた。由乃は事前情報として渡されたレジュメを見ながら、予備知識として足りていない、と感じた周辺遺跡の情報を、パソコンで調べて時間を過ごしていた。そこに、がやがやと5人が帰ってきた。由乃がパソコンの画面を切り替え、仕掛けたカメラから送られてくる情報を見た。


 男子学生の方が、女子学生の部屋に転がり込んでいた。やたらと体を触ろうとする男子学生を、女子学生があしらっている様子が映っている。由乃はイヤホンを嵌め、音声レベルを上げた。


 「なあ、まだ時間あるじゃん、いいだろ?」 

 「やめて。私、シャワー浴びたいのよ。出てってくれる?」

 「おし! じゃあ、一緒に浴びようぜ?」

 「はぁ? トイレと一緒のシャワールームに、二人で入れるわけないでしょ!」

 「ノリ悪いなぁ。じゃあ、いつなんだよ?」

 「帰ってからって、何回も言ってるじゃない! とにかく、疲れてるし、気分じゃないの。いいから、早く出て行って!」

 「・・・くそ、つまんねぇ。じゃあ俺、湯浅先輩のお部屋にお邪魔しちゃうよ? あの人、地味めだけど、キレイだよな? エッチな体してるし。ああいうのが、意外と激しいんだぜ?」

 「勝手にすれば! 早く! 出て! しっしっ!」

 

 とうとう、男が追い出された。自分の部屋に戻った男は、ふてくされたようにベッドに寝転がって、スマホをいじり始めた。女の方は、スマホを取り出して、どこかに電話を掛け始める。


 「あ、先生! ちょっと、話が違うんですけど! アイツ、なんかすごい彼氏面して来るんですよ! 今も、襲われかけたんですから!・・・え?・・・もちろん、何もしてませんよ。・・・ええ、大丈夫です・・・アイツになんとか言って下さい!・・・このままだと私、今夜にもヤラれちゃいますよ!・・・もう・・・早く帰りたい・・・。え?はい、振り込まれてました。・・・それは・・・そうですけど・・・。じゃあ、いいんですね?私がアイツにヤラれても?・・・」


 音声をミュートにして、イヤホンを外す。ここまで聞けば、十分だ。


 『ギルティ。』


 心の中で呟いた。千英に確認をしてもらおうとスマホを手にした時、千英から着信があった。


 「ちょうど電話しようと思っ・・・。」


 電話の向こうで、千英が怒り狂っていた。さっきの場面を見ていたらしい。


 「アイツ、マジで何!? 〇〇野郎が○〇○やがって! ○○〇切り落として○○させてやる!」

 「こらこら、お客様にお見せできない言葉を連発するんじゃありません! それより、見てたのなら話が早いわ。銀行、調べてもらえる?」

 「・・・そっちは、少し時間ちょうだい。さすがに銀行だと、ね・・・。あ、でも! 通話してる相手がわかったよ。添田教授じゃない、奥田准教授だった! で、調べてみたら、あの二人、一緒に旅行とかしてるよ。一応、顔は隠してるけど、見る人が見たらわかるやつ、投稿サイトにあげてた。匂わせ?だっけ?念のため解析して確認したけど、バッチリ! 写真送ったから、見てみて。」

「なるほどね・・・。やっぱり、人は見た目によらないわね。」

 「でもアイツ、ゼミも女子ばっかだし、私のことも・・・。」

 「・・・私のことも、何よ?」

 「あ・・・うん、なんでもない。今度話すよ。」 

 「ちょっと! 聞き捨てならないわね。奥田こそ○○野郎なんじゃないでしょうね?」

 「ほら、由乃もおんなじじゃん!」

 「えぇ? あー。こら、試したな?」

 「まあ、とにかく、さっきの、実行でいいね?」

 「そうね・・・。ちょっとばかり、お仕置きが必要のようだから・・・。

 「オッケー。じゃ、やっておくよ。」

 「うん、気を付けてね・・・。」

 「うん、大丈夫。」


 奥田准教授は、主に奈良から平安にかけての文学や、焼き物の研究をしている、40代の男性准教授だった。そのフランクな人柄と、清潔感溢れるルックスで、特に女子学生からの人気が高い。反面、最近ではこれといった論文の発表がなく、一部から「万年准教授」と揶揄もされていた。


 千英から写真とともに送られてきた資料を見ると、4年ほど前に離婚をしており、息子が一人いることになっていた。渡辺准教授と同じ准教授ではあったが、年齢が上で、大学でも人気の講義を持っているし、ゼミも優秀で、文部科学省や名のある団体からの表彰実績などもあり、給与ランクは講師陣の中でもトップクラスのようだ。


 要するに、「職業教授」という部類に入るのだろう。自分の研究はほとんどやらず、肩書きと人気だけが頼りの教授なのだ。時期的に、来春の教授会で自分が優位に立ちたいがために、渡辺准教授の足を引っ張ろう、と画策したに違いない。


 渡辺准教授とはまるで逆の考え方の人物だった。渡辺准教授はほとんど出世欲もなく、自分の給与を高めるための努力もせず、自身の研究に重きを置いていた。講義を休んでフィールドワークに出ることも、度々あった。


 研究を疎かにし、大学に貢献する奥田准教授。

 大学職員としての貢献を疎かにし、自身の研究を深める渡辺准教授。

 給与として、奥田准教授のランクが上なのは、ある意味当然だが、「教授昇進推薦」となれば渡辺准教授の方が有利、と言えるだろう。今回の遺跡の発掘調査で新発見があり、新しい論文として発表することになれば、その差は決定的となる。


 奥田准教授の焦りは理解できるが、そのやり方が卑劣極まりない。正式に付き合っているのかどうかはわからないが、自身に好意を寄せる女子学生を利用し、金の力まで使ってライバルを追い落とそうと画策するのは、大人としても男としても、由乃の許せる限界を超えていた。卑劣な手段には、卑劣な手段で応じることになる。 

 

 午後7時を過ぎ、歓迎レセプションは終始和やかなムードで行われた。特に、近畿近代大学の乙畑教授と言うプロジェクトの責任者は、ユーモアセンスに溢れ、その考え方も柔軟で、発表された発掘調査の進め方も、理に適った効率的な方法だった。

 

 「みなさんこんばんは! キンキンの乙畑です! キンキンはビールと愛川欽也に任せて、熱く語りましょう!」


 大袈裟な身振りを交えた挨拶で始まったレセプションは、乙畑の狙い通りとはいかず、文字通りキンキンに冷えた状態で幕を上げたが、そこでズッコケたリアクションを取って、何とか盛り返した感じだった。


 「変な人みたいね。でも、嫌いじゃないわ。」

 「そうですね。情熱も感じられるし、段取りも手際がいい感じです。」

 「負けてられないわね。私たちも、がんばりましょう。」

 「はい。」


 パワーポイントを使ってこれまでの経緯や、発掘調査の目的、さらには今後の展望まで含めた説明がなされた。その計画に、穴らしい穴は見つからなかった。渡辺准教授も同じような感想を持っていたようで、小さくうなずきながら熱心に話を聞いていた。


 その頃、千英は由乃たちの部屋のある階の天井を、這いずり回っていた。同じ階にもう一部屋借りて、そのバスルームの点検口から天井に上がり、例の学生の部屋を目指す。小さな電動ドライバーで隔壁を外しながら進み、目的の部屋に着くと、バスルームから部屋に降り立った。ここは、男子学生の部屋だった。由乃に対して侮辱的な発言をした、罰を受けてもらう。


 開いたまま、ベッド脇の床に無造作に置かれていたトランクから下着を取り出し、それらの「局部」が当たる部分に、取り出した小さなスプレーボトルから液体を吹き付けた。全ての下着に同じことを繰り返す。液体は、比較的軽度な皮膚病を引き起こす、菌やウィルスをカクテルにした物だった。いずれも即効性はあるが、持続性のないものばかりで、どの下着を着用しても、6時間後には違和感を覚え、市販薬程度でもきちんと塗布すれば、一週間後には症状は完全に消えるはずだった。千英は、局部を掻きむしる男子学生の姿を想像して、ニヤリと笑った。これでしばらくは、○○○○どころではなくなるはずだ。


 全てを元に戻し、隣の女子学生の部屋で同じことを繰り返す。布面積のほとんどない下着ばかりで、効果がきちんと現れるかどうか、少し不安になった。念のため、こちらはプランBを合わせて実行する。ボディクリームに細工をして、同じように痒みを引き起こす植物の成分を混ぜ込んだ。さすがに顔に使う化粧水や化粧品に混ぜるのは気が引けた。ロクでもない女なのは確かだが、たとえ軽微なものとは言え、顔にダメージを与えることになるのは、避けたい。最後に、侵入の形跡を残していないか確認をしていると、真新しい紙袋を何個か見つけた。千英の予想は外れ、中身は中堅ブランドの布の少ない洋服と、ハイヒール、それに香水の箱だった。やはり、ただの旅行と考えているらしい。


 千英は来た時の逆の手順で自室に戻り、その部屋で着替え、シャワーを浴びてから12階の自室に戻り、作業が無事完了したことを由乃に報告した。


 レセプション会場では、固い話の部分が終わり、会食が始まっていた。当然、ある程度のアルコール類も提供され、渡辺准教授は少し離れた席で、乙畑教授と熱心に語り合っていた。由乃はさりげなく5人の監督をしながら、近近大の学生と交流を深める。


 創設されてから間もない大学らしく、関西でもバカにされることが多いので、この発掘で歴史に残るような発見をして、少しでも大学の名を世間に知らしめたい、と考えているようだった。また、本格的な発掘調査が初めての学生も多く、由乃も体験談や気を付けた方がいいことなど、惜しみなく知識を披露した。


 例の5人は、自分たちだけで席を占領し、飲食を楽しんでいる。近近大の学生に話し掛けられても、軽くあしらっているような感じがした。やはり、その中心にはあの女子学生と男子学生がいたが、他の3人は、幾分申し訳なさそうな表情が見て取れた。やがて、その3人は席を立ち、それぞれ近近大の学生と交流を始めたようだった。二人きりになってしまったテーブルでは、男子学生が、むしろこのときばかりと露骨にベタベタし始め、女子学生は露骨に迷惑そうな顔をしていた。


 「やあ、あなたが、湯浅さん? ちょっと、いいかな?」

 「あ、乙畑先生。もちろんです、どうぞ。」

 「渡辺先生から聞いたよ、優秀なんだってね? 将来有望だって、褒めてたよ。」

 「いえ! そんな! 好きなのは間違いありませんが、優秀では・・・。」

 「うん。でも、『好きこそ物の上手なれ』っていうだろ? 実は、それが一番重要なんだと、僕は思うよ? 向こうから見ていたけど、ウチの学生にもいろいろ教えてくれてたみたいだし。」

 「教えてたなんて・・・ちょっと経験を伝えていただけで・・・。」

 「学生の顔を見てて気づいたよ。湯浅さんは、いい教授になれると思う。ぜひ、その道も選択肢の一つに入れておいてよ。とにかく、明日からもお願いね! 気付いたことがあったら、何でも教えて欲しいんだ。」

 「分かりました。お役に立てるように、がんばります。」

 「うん! 湯浅さんも、この機会に、何かを学んで帰ってね!」

 「はい!」


 差し出された右手を握り、握手を交わす。力強い、いい握手だった。タイプは違うが、この人も歴史を愛する一人に違いない、と感じた。それにしても、教授か・・・。そうなれたら、どんなにいいか。でも、恐らくそういう訳にはいかないだろう。由乃は自嘲気味に微笑んで、温くなったビールを喉に流し込んだ。それは、どこか悲しげな笑顔だった。


 翌朝、例の二人が朝食の席に現れず、連絡を入れると、どちらも体調が悪い、と言う。既に仕掛けたカメラで千英の仕事ぶりを確認していた由乃は、心配そうな渡辺准教授を安心させるためだけに、二人の部屋を訪問した。念のために、一年生の女子生徒を同行させる。


 「おはよう、湯浅だけど・・・体調が悪いんですって?」

 

 男子学生が部屋から出てきた。歩き方がぎこちない。立っているだけなのに、やたらとモジモジしている。こうしてる間も、猛烈な痒みに襲われているに違いない。


 「熱は? どんな風に体調が悪いの?」

 「いや・・・ちょっと、腹の調子が・・・。」 

 「そうなの? 病院は一人で行ける? 薬は?」

 「あ・・・、一応、飲みました。とりあえず休んで、ヤバいようなら午後から行ってみます。あ、一人で、大丈夫なんで・・・。」

 「・・・じゃあ、連絡だけは取れるようにしておいてね? 病院に行く時は連絡をちょうだい。大学にも話しておくから。」 

 「え・・・? 大学にも、連絡入れるんですか?」

 「当たり前でしょ。大学の講義の一環で来ているんだから。」

 「あ・・・でも、そこまで大袈裟にしなくても・・・。」

 「何かあってからでは、困るのよ。それに、旅費だって大学から出てるんだから、知らせるのが普通でしょ?・・・それとも、何か不都合があるの?」

 「あ・・・いえ・・・そういうわけじゃ・・・わ、わかりました。」

 「うん、それじゃ、とりあえずお大事に。ゆっくり休むのよ?」

 「あ・・・は、はい・・・。」


 由乃は笑いを堪えるのに苦労した。話をしながら、常時足を踏みかえ、腰を微妙にくねらせて、布の摩擦でアソコを掻こうと必死な様子が伝わって来た。その動きを、不思議そうに見ている一年生の表情がまたおかしくて、集中力を総動員して笑いを抑え込んだ。


 女子学生の方は、扉越しに話すことになった。こちらは頭痛で、少し熱もあるらしい。風邪をうつすと申し訳ないから、と言うのが彼女の言い分だった。由乃はしつこく食い下がらず、男子学生と同じことを伝えて、ロビーに戻ることにした。


 これから二人は、激しくお互いを罵り合うことになるのだろう。奥田教授にはあんな様子を見せておいて、いざ行為が始まると、かなり盛り上がっていたようだった。責任の押し付け合いは見ものだろうが、後から千英に様子を聞くだけで我慢しよう。


 昨夜遅く、千英の部屋で調査の結果を知らされていた由乃は、二人には同情の余地がないと考えていた。奥田教授からは、30万が女子学生の口座に振り込まれていた。スマホの内容も見てみるか、という千英の申し出は、不必要だと判断した。もはややり取りを見るまでもなく、金と色の絡んだ、汚い策略だということは、誰の目にも明らかだ。千英の手を煩わせるほどのこともない。その代わり、千英には今夜の現場の下見をお願いしている。その方が、余程重要だった。今回の発掘調査中、もう彼女らがこちらの動きを妨害することもできなくなったのだから、尚更だ。


 二人の様子を渡辺准教授に伝え、ホテル側にも事情を伝えて、何かの時は連絡をもらう手はずを付けた。


 由乃は、残ったみんなとともに、迎えに来た近近大のマイクロバスに乗り込んで、発掘現場へと向かった。久しぶりのフィールドワークだった。今日は風も穏やかだし、天気も良好だ。いい発掘日和になるだろう。


 夜には、別の仕事も控えている。発掘とお盗め。方法は違えど、まだ見ぬ考古物に触れる機会があると言うのは、素晴らしい。由乃は晴れやかな表情で、流れる車窓からの風景を楽しんでいた。ここに千英がいないのが、何とも残念だった。


15 先客

 


 発掘現場では、すでに乙畑教授や近近大の学生、役場職員やボランティアの方々が集まっており、縄張りも済んでいる状態だった。


 それ以前の「表土剥ぎ」や「遺構の発見」は既に終わっていたようで、これからは黄色い水糸で区画に分けられた、それぞれの「縄張り」を掘り下げていくことになる。そこで何かの遺物が見つかれば、報告し、記録し、それから完全に掘り出して保管するのだ。


 土の状態も見逃せない。遺構の部分は、明らかに地面の色が変わっており、踏み固められている様子が窺える。造営のために、人力でどこからか土が運ばれていたりすることもあるし、火事に遭遇していれば、土が焼けていることもある。昨日の説明で、遺跡全体の3分の1程度の広さから、土石流によって山から運ばれた土が混ざっていることが説明されていたので、その範囲を明確にするためにも、重要な確認作業の一つだ。


 乙畑教授は、渡辺准教授以下5名のために、縄張りのど真ん中、すなわち、何らかの遺物が発見される可能性が高い場所を割り当ててくれていた。渡辺准教授が恐縮し、病欠もいるので他の場所を、と提案したが、乙畑教授は笑って受け付けず、代わりに今回初めて発掘に参加する学生二人を「指導して欲しい」と言って付けてくれた。何とも行き届いたことだった。この一例だけでも、乙畑教授の人柄が見て取れる。某准教授のために、爪の垢でも持って帰ろうかと思うくらいだ。


 「そういうことだから、張り切っていきましょう! 急がず、丁寧に!」

 「はい。」


 渡辺准教授も、自然と力が入ったようだった。いよいよ、実際の発掘にかかる。バディを3つ作り、渡辺准教授は全体を統括しながら記録を取る。


 30分もしないうちに、土器の破片が出土した。竹べらとブラシで土を取り払いながら、大まかな形を見極めたら、記録を取って周囲を慎重に掘り下げる。ここで割れたのだとすれば、この近くに残りの欠片もあることになり、それらを合わせれば元の形に復元することもできるのだ。案の定、周囲から放射状に広がっていくつもの土器の破片が現れ始めた。最初に見つかったのは、どうやら鉢型土器の口縁部のようだ。


 由乃の見る限り、弥生時代中期から後期の作風と似ている気がした。もちろん、口には出さない。渡辺准教授も、掘り出された欠片を手に取り、ルーペで確かめていたが、先ほどから呼吸をしていない。興奮している様子が伝わってくる。


 乙畑教授が軍手を外し、真新しい白手袋を掛けながらこちらに近付いてきた。周囲を見回すと、皆が手を止め、こちらの様子を、固唾を飲んで見守っている。乙畑教授に気が付いた渡辺准教授が、恭しいとも思える手つきで、慎重に土器の欠片を渡した。


 「・・・うん、年代測定をしてみないと何とも言えないけど・・・弥生様式に似ている。いや、酷似していると言っていい・・・。これは・・・もしかするぞ?」


 まだ土の中で、形だけが見えている残りの欠片と、手のひらの欠片を何度も見比べながら、乙畑教授が口を開いた。


 周囲から驚きの声とともに、拍手が巻き起こった。


 「あ! いやいや、拍手はまだ早いです! 皆さん! あくまで、そのように見える、というだけで!」


 慌てて手を振って、発言の内容を誤解のないように修正する。


 「でも、確かに光明は見えました! 始まってすぐにこれなら、期待ができそうです! さあ、皆さん、続けましょう! 何か見つけたら、すぐに教えて下さい!」


 明らかに、全員の士気が上がった。光陽館大学の3人も、顔を輝かせ、顔が土に着くのではないかという程に屈みこんで、作業を続けた。


 「ね? 楽しいでしょ? フィールドワーク。もちろん、毎回こんなわけにはいかないけどね。あなたたちは、とっても運がいいわよ? こうなると、ホテルに残してきた二人がかわいそうになるわね・・・。せっかくの機会なのに、体調崩しちゃうなんて・・・。」

 

 3人とも、大きくはっきりとうなずいた。あの二人の振舞いに同調しなくてよくなったことが、後ろめたさを消していた。その上で、この幸先の良い出来事だ。少なくても考古学を志した人間なら、嬉しくないわけがないのだ。しかも、もしかしたら歴史を塗り替える可能性のある発見に、立ち会えたのかも知れない。発掘者の一人として、正式に記録に残る可能性すらある。


 千英の調査から、この3人のうち2人の男子学生は、ホテルで寝ている男子学生と同じ高校から入学してきており、高校時代には同じ部活で、先輩後輩の間柄であることが確認された。恐らくそうした力関係から、声が掛かったのだろう。最後の一人の女子学生は、そのうち一人と最近付き合い始めた女子学生だった。


 そうした背景から、由乃はこの3人についてはそれまでの行いを不問とした。逆に、この機会にこちらに取り込もうと考えたのだ。ここでしっかりとした関係性を構築し、奥田准教授の情報をそれとなく伝えてもらう。3人は由乃との何気ない日常会話で、知らないうちにスパイとしての役割を果たしてくれることになる。


 そこで、由乃は殊更に、「良い先輩」を演じることにした。適切なタイミングで適切な助言を与え、些細なことも大袈裟に褒める。悪い気がするわけがない。向こうから、何かにつけて助言を求めるようになってくれば、しめたものだ。


 その後も、深鉢や甕形の土器を中心に、あちこちで遺物が発見された。この遺構は、それなりの規模の集落だった可能性が出てきた。現場全体の活気が増し、役場職員は方々への連絡に忙しくなる。地元テレビ局が取材に来たし、お偉いさんが差し入れを持って視察にも来た。


 そして、夕方4時、今日の発掘作業が終わり、現場にはブルーシートが広げられた。今夜からは、警備会社が警備に就くことになったらしい。


 帰りのマイクロバスの車内は、みんなが笑顔だった。あの3人も積極的に発言するようになったし、渡辺准教授も嬉しそうだった。


 ホテルに戻り、夕食の席でも話題は尽きなかった。明日に向けての確認も行われた。ホテルに残っていた二人は、結局病院には行かず、部屋で大人しくしていたらしい。由乃はその役を、あえてあの3人に依頼した。恐らく、今日の発見の話も伝えられただろう。発掘組と残留組に、たった半日でどれだけの差がついたのか、身に染みて理解しただろう。


 7時にはそれぞれが部屋に戻った。渡辺准教授は、これから近近大に赴くらしい。由乃も誘われたが、体調不良の人間もいるので残ることにし、代わりに3人のうちから誰かを連れて行ってはどうか、と提案した。渡辺准教授はその意見に賛同し、手を挙げた男子学生1名を伴って、近近大に向かった。


 自室に戻り、千英に連絡を入れる。お互いに今日の報告をし、これからの動きについて確認をした。動くのは、全員が寝静まってからだった。このホテルは時間外の通用口があり、そこからならフロントを経由することなく人間が出入りできる。いろいろなサービスを提供する人間や、遅くまで繁華街に繰り出す人間から従業員を解放するための、「不作為のサービス」といったところだろう。


 由乃はそれまでの間、長い夜に備えて仮眠を取ることにした。渡辺准教授は10時には戻ると言っていた。


 10時少し前、部屋に誰かが訪ねてきた。出てみると、渡辺准教授だった。


 「今、帰ったわ。変わったことはなかった?」

 「はい、大丈夫です。どうでした? 近近大は?」

 「うん! 素晴らしい大学だわ! 設備が新しいのを別にしても、なんて言うか、活気に溢れている感じね。まだまだ発展するような、そんな印象を受けたわ。」

 

 それから、明日についての打ち合わせをして、二人は別れた。由乃は入念にストレッチを行い、これからの行動のために、体のスイッチを入れ直す。


 12時過ぎ、由乃は気配を消して、静かに廊下に出た。エレベーターで1階に降り、無人で明かりの消えているフロントを通過して、裏の通用口へと向かう。そのまま、表には回らず、搬入用の通路から敷地の外に出ると、路上にフォードが止まっていた。サイドミラー越しに、千英と目が合った。サイドのドアから車内に乗り込む。


 「ナイスタイミング、だね!」

 「ほんと? たまたまだったけど、良かったわ!」


 車が走り出す。由乃は後部荷室で着替えを始めた。ここから博物館までは、30分ほどの道のりだった。着替え終わった由乃は、助手席に身体を滑り込ませ、シートベルトを締める。


 「準備は?」

 「バッチリ。7時には全員建物を出てる。カメラの周波数も確認済み。キーを一つ叩くだけで、無効化できるよ。シャッターへの仕掛けも終わってる。」

 「さすがね! ありがと。・・・ところで、あれからどうだった?」


 ずっと聞きたかったのだが、それよりも優先度の高い会話があったので、聞けずにいたのだ。今なら、少しはその余裕がある。千英は、そんな由乃の気持ちを焦らすように、ニヤニヤするだけでなかなか話し始めない。

 

 「何よ、その顔! そんなに面白かったの?」

 「うん! すごかったよ! 一応、録画してあるから、後で見てみたら?」

 「えー! ダイジェストで、お願い!」

 「もう、放送禁止用語の連発だよ! どっちがうつしたか、凄まじい擦り付け合いの応酬だった! でね、そしたらあの男子学生、実は今回が初めてだったんだって! だから、絶対に自分じゃない、って言い張るの!」

 「うわー、だいぶ手慣れた感じで話してたよね?」

 「だから! いかにも遊び慣れてますって、話し方だったよね? 普通に、捨てたくて必死だったんだ! もう、おかしくておかしくて!」

 「で、で、それに対して?」

 「初めてだからって、元から持ってないとは限らない、って突っ込まれて、『え?そうなの?』みたいな感じになってた! 毎日ちゃんと洗ってんのか、って言われて、口ごもってやんの! ありゃ、毎日は洗ってないんだよ、きっと。」

 「じゃあ、形勢逆転、ってわけだ?」

 「そうそう、そこからは、もう一方的に責められてたよ。最後には泣きそうになって謝っってた。『奥田先生にだけはー』って。単位ヤバいんだって。」

 「あははー、バカだ!」

 「単位ヤバくなるほど遊んでんのに、初めてだとか、カワイソ過ぎ!」

 「まあ、あの感じじゃ無理だよねー」


 その後、男子学生はドラッグストアで大量にかゆみ止めと冷却スプレーを購入した、と言う。おそらく、それで気が狂うほどの痒みではなくなっているだろう。とは言え、まだしばらくはモジモジすることになる。汗でも掻いたら、それは耐え難いほどになるはずだ。


 これで、奥田准教授がどう出てくるか、だが、もはやできることは多くはないだろう。既に今日の発見の報告は、光陽館大学へも入っているはずだ。その報を耳にした時の奥田准教授の顔も、見てみたい気がする。


 千英が物まねを交えながらその場面を繰り返し、由乃は腹を抱えて笑った。現場までの時間は、あっという間に過ぎ去っていった。


 外周を一回りしながら、サーモスキャンを行う。今回の博物館は敷地が広く、全体をカバーするわけにいかなかった。だが、駐車場にも付近にも、駐車中の車もなく、状況から判断しても、中に人がいる可能性は皆無だった。


 千英は、フォードを通用口から少し離れた位置に止めた。この駐車位置も入念に検討してあり、侵入口まで最短距離でたどり着くことができ、なおかつカメラに捉えられる可能性が最も低い。ジャミングでカメラは無効化できるが、一度に全部を無効化すると、余計な警戒を招く可能性がある。緊急時でない限り、ジャミングは最低限、可能なら、死角だけを使って全てを終えられるのがもっとも望ましい。


 今回はいつもの荷物に加えて、エアージャッキを膨らませるための、CO2ガスボンベを 持っていく。これで瞬間的にジャッキを膨らませ、シャッターに数十センチの隙間を作る。


 「準備OK?」

 「OK!」


 交代でお互いの装備を確認し、最後に暗視ゴーグルを装着した。二人は静かにフェンスに近付くと、一飛びにそれを乗り越え、敷地内を音もなく走ってシャッターへと向かった。


 千英がセットし終えていたエアージャッキの本体は、ぱっと見はどこにでもあるポリ袋のように見える。厚さは数ミリしかないが、普通車なら楽々持ち上げることができる、聖から送られた特製の品物だった。


 ボンベを繋ぎ、バルブを開くと、ほんの数秒で本体がまん丸に膨らみ、重いシャッターの一部を持ち上げた。その隙間から、まずは由乃が身を入れる。すぐ後に千英が続いた。


 コンクリートの床を進み、トラックバースの段差を越えて、上部に非常口の表示のある鉄扉の前に着く。シリンダー式の鍵が掛かっており、マグネット式の防犯装置が付いていた。由乃がピックガンでシリンダー錠に取り掛かっている間に、千英が薄いマグネットを取り出して、センサー部に滑り込ませる。

 

 カチリ


 と言う音が響き、由乃がうなずいた。ゆっくりと扉を開く。警報は鳴らなかった。千英の取り付けたマグネットがセンサーを誤魔化し、『扉はまだ閉まったまま』と思い込ませることに成功している。


 扉を潜ると、右と正面に続く廊下に出る。扉は、「ロ」字型の廊下の接合部に位置している。右側の壁の裏側が目的の収蔵庫なのだが、こちら側に入り口はない。回り込んで向こうに行かなければならなかった。


 由乃は真っ直ぐに伸びる廊下を、壁沿いに進んだ。突き当りのT字路にぶつかる。右に曲がれば収蔵庫の入り口、左に曲がれば展示室へと繋がる。迷わず右に曲がり、「収蔵庫3」と書かれた扉の前に屈んだ。この扉も施錠されている。先ほどと同じ手順で扉を開けて、中に入る。天井まで届く、着物箪笥のような薄い抽斗が並ぶ棚が続いている。表示を見ながら、目的の番号を見つけ出し、抽斗を開いた。


 目的の品物が、そこになかった。置いてあったであろう部分の詰め綿が凹んでいるのみだ。由乃は千英を振り返る。千英も、何が起こったかわからないように首を振る。その下の抽斗を開けると、そこには2冊の古文書が、木箱のまま置いてあった。念のため、もう一段、抽斗を開ける。そこも同じく、木箱が置かれていた。


 棚を変えて調べたが、やはり他には異常がない。つまり、目的の品だけが無くなっているということだ。


 『何かがおかしい。』


 そう感じた由乃は、ハンドサインで緊急撤退の合図を送った。千英がうなずいて、即座に行動を開始した。最後に由乃は棚を確認し、元通りになっていることを確かめた。千英は扉について、由乃が出たらすぐに鍵を掛けられる体制を取っていた。由乃は扉を閉めると同時に、センサーに取り付けたマグネットを外す。千英が再び鍵を掛け、立ち上がり掛けたその時、向かい側の収蔵庫の扉から、人影が現れた。


 一瞬、何が起こったのかわからず、それぞれが扉の前で固まった。相手は一人。かなり背の高い男だったが、暗視ゴーグルでは人相を確かめることはできなかった。サングラスにマスクを付け、パーカーのフードを目深に被っていたので、裸眼でもはっきりとは確認できなかっただろう。手に、薄い木箱を何個か持っていた。


 男は、やにわに踵を返して走り出した。突き当りの廊下を右に曲がる。千英が無言で追い始め、由乃も後に続いた。このまま行くと、収蔵庫を回り込むようにして、二人が侵入した鉄扉の前に出ることになる。二手に分かれれば、その鉄扉の前で挟み込むことができたが、相手はこちらより明らかに筋力で勝る。千英を一人にはできない。


 千英から少し遅れて右に曲がる。千英は10m程、相手はさらに5m先を進んでおり、小脇に荷物を抱えているにも関わらず、その速度はかなり速い。すぐにまた、右への曲がり角にぶつかり、男は左の壁を蹴りつけるようにして向きを変え、凄まじい速度で曲がっていった。


 由乃がその角を回った時には、男は鉄扉を開き、トラックヤードに出るところだった。扉が閉まる前にたどり着いて、トラックヤードに飛び出ると、男は既にシャッターにたどり着いていて、右手一本で軽々とシャッターを持ち上げた。シャッターのレールを抑えている金具が、ものすごい勢いで外れ飛び、アルミとスチールでできたシャッター本体が大きく歪んだ。


 そこで、千英が急停止し、驚いた様子で由乃を振り向いた。由乃が大きく首を振る。追跡はここまでだ。由乃は急いで鉄扉に取り付き、鍵を掛け直してマグネットを外した。千英は警戒しながらシャッターに近付き、エアージャッキを取り込む。二人は急いで車に戻ると、無言のまま速やかに現場を離れた。


 「アイツ、何者!? あのシャッター、軽く300kgはあるよ? 片手で、なんて、信じられないよ!」

 「私も驚いた。しかも、アイツが掴んだシャッターの部分、まるでアルミホイルみたいにくちゃくちゃになってた・・・。火事場のバカ力じゃ、説明がつかないわ・・・。」

 「そうだ! ナビ点けてみて。発信機、投げつけたんだ。」

 「ほんとに!? ナイス、千英!」 


 ナビを起動し、発信機追跡の画面を呼び出した。すぐに反応があり、現在の車の位置から800mほど離れた道路上を、時速40kmほどで移動していることが分かった。

 

 「やった! うまくいってるみたい!」

 「すごい! よくあの状況で、そこに気が着いたわね! 私は発信機のことすら忘れてたのに!」

 「いや、実は、たまたま今日の日中、メンテナンスしたところだっただけ。それがなかったら私も忘れてたと思うよ。」

 

 二人はハイタッチを交わし、距離を置いて跡をつけ始めた。まずは、どこに行くかを確認する。今の状態で直接やり合うわけにはいかない。


 「バッテリーはどれくらい持つの?」

 「今日換えたばかりだから、10日は持つはず。」

 「それだけあれば、十分ね・・・。それにしても・・・。」


 由乃は考え込んだ。だが、考えれば考える程、謎が深まる。まずは、相手の身体能力だ。明らかに常人離れしている。二人が習得している『絶息』を使えば、シャッターを持ち上げることは可能かも知れない。だが、あの表面の歪み具合。どれほどの握力が必要になるのか、それすら見当がつかない。それに、どうしてあの考古物を狙ったのだろう? 自分たち以外に、あれに興味を持つ人間がいるとは、考えにくかった。20年も「漬物」になっていた品物だ。当時を知る人間ですら、忘れていて不思議はない。


 背丈からして、どこかの外国人の仕業だろうか?

 由乃は、スマホを取り出して、どこかに通話を始めた。3コールで相手が出る。無機質な女性の声だった。

 

 「はい。」

 「笹鳴です。コード、LVN4401000A、『ココアシガレット277』。・・・照会を一件、外国人、一人、男性、身長180から190、NRM1015、特異行動。同条件で、日本人でもお願い。」

 「かしこまりました。少々お待ちを・・・。該当なし、です。」

 「ありがとう。」


 通話を切ったスマホを口に当て、由乃はさらに考え込んだ。通話の相手は、『組合』の照会センターだった。名前と割り振られたコード、本日の合言葉を告げた上で、今日、奈良県の1015博物館(もちろん正式の名前ではなく、符丁である)で、該当する人物が盗みに入る予定があったかどうかを確認したのである。予想はしていたが、回答は否定だった。つまり、少なくても組合に届けてのお盗めではない、ということだ。


 謎は、ますます深まった。あの考古物に、具体的な金銭的価値は無いに等しい。逆を言えば、欲しい人間ならいくらでも積むだろうが、何が何だか分からない物に大金をつぎ込む人間がいるとは思えない。理由は、他にあるはずだ。


 「工場地帯に入るみたいだけど、どうする? こっから先は、この時間ほとんど動きはないよ?」

 「見つかる可能性は避けたいから、近くで様子を見ましょう。」

 「わかった。」


 追跡している対象から、300m程離れている路上で車を止めた。ナビに映る地図の縮尺を調整する。相手が入っていったのは、物流倉庫や様々な加工工場のある地区だった。対象の移動速度が徐々に遅くなり、ほとんど歩く速度まで下がって、やがて止まった。地図を拡大して確認すると、どうやら金属加工の工場らしかったが、調べてみると、その工場は数年前に倒産しており、今は建物だけが残され、中身は空のようだった。


 「潜伏先としては、うってつけよね?」

 「うん。夜の間は、ほとんど無人地帯だからね・・・。」

 

 そのまましばらく様子を見ていたが、地図上の赤い点は動く様子がない。時計は3時を少し回っていた。


 それから30分が経過したが、建物内で動き回っている様子はあったが、外に出るような動きはなかった。もう少しすれば、早朝出勤の人間がここに現れ始める。それから動くことは、まずないだろう。


 二人は、相手の拠点をここと見定め、今日のところは一旦引き下がることにした。帰りの車内で、思いつく限りの可能性を挙げていったが、それらしい答えにたどり着くことはなかった。二人で活動し始めてから、初めてのつまずきだった。


 先を越されたばかりか、自分たちではないとは言え、建物に大きな被害が出た。明日にはニュースになることだろう。当然、無くなった物にも気が付くはずだ。証拠は何も残していないはずだが、それでも不安は残る。


 相手の素性も目的も分かないまま、と言うのも気に食わない。今回の獲物については誰にも話していない。ただの偶然なのだろうか? それとも・・・。


 ベッドの上でまんじりともしないまま、長い夜が明けた。


16 胡乱


 翌日、まず驚いたのが、発掘現場のボランティアが昨日の倍近くに増えていたことだった。ギャラリーも増え、誘導の警備員も増強されているようだった。駐車場から発掘現場に向かって歩いていると、そのギャラリーから拍手と共に応援の声が掛けられた。ちょっとした芸能人のようだった。


 さすがは奈良県の人々と言うべきか、こういう出来事に場慣れしているらしく、大きな発見の瞬間に立ち会うのを楽しみにしている人が多いのだと言う。他のところでは集めるのに苦労するボランティアにも事欠かないと言うことだから、なんとも羨ましい話ではある。


 この日、由乃は一つの縄張りのリーダーに任命され、6人を監督する立場となった。光陽館大学の学生3名が、それぞれボランティアの方とバディを組み、作業に当たる。どこからかのお声掛かりで、発掘現場そのものが広く取り直されたらしく、縄張りの数が昨日より増えたことが主な要因だった。


 「それでは、作業に掛かります。地中超音波検査で、何かがありそうな箇所に小さな旗が立っていますので、そこを中心に掘り下げましょう。わからないことは、なんでも聞いてください。本日もよろしくお願いします。」


 今日も、いろいろなところで様々な土器が出土していた。残念ながら由乃たちの担当縄張りからは何も出土しなかったが、今日だけで200点近い土器の欠片や木器らしき物が発見され、研究に回されることになった。


 みんなには悪いと思ったが、由乃はむしろ大きな発見がなくて良かったと考えていた。昨夜のことが、どうしても頭から離れず、自分でも集中を欠いていると感じた瞬間が何度もあった。


 千英には、絶対に一人で動くなと伝えてある。その代わり、発信機の監視とニュースを始めとした情報取集を依頼してある。昨夜の件は全国ニュースでも取り上げられていたが、シャッターの損壊具合から、野生動物の仕業ではないか、という説が濃厚だと報じられていた。まだ盗まれた物があることに気が付いていないのかも知れないが、少なくても、あの男が出てきた収蔵庫1の扉は施錠されていないはずだ。気付かれるのも時間の問題だろう。


 「どうしたの? 今日は、なんだか心ここにあらずのように見えたけど?」


 帰りのマイクロバスで、渡辺准教授がそっと話し掛けてきた。縄張りが離れていたにも関わらず、しっかりと見られていたようだ。うまくやっていたつもりだったが、この人の目は誤魔化せなかった。


 「すみません、昨夜、興奮しすぎてうまく眠れなくて・・・。」

 「なんだ、そうだったの? 良かった! 具合が悪いわけでは、ないのよね?」

 「はい! 大丈夫です・・・。ご心配をお掛けして、すみません・・・。」

 「こちらこそ、ごめんね。湯浅さんには負担を掛けてばかりで・・・。」

 「いえいえ! そんな!」

 「疲れたら、遠慮せずに休んでね? ほんとに。無理は、ダメよ?」

 「はい。ありがとうございます。」


 渡辺准教授が、ウィンクをしながら、小さな瓶を手渡してきた。受け取ってみると、ウィスキーの小瓶だった。


 「眠り薬よ。食事したら、これ飲んで寝ちゃって。今日は、他の子を連れて行くわ。体調不良の二人も他の子たちに頼んで行くから、ゆっくり休んでね。あ、でも、一度は湯浅さんも連れて行きたいのよ、近近大。一見の価値はあるから。」


 確かに、一度は先方にも顔を出しておくべきだろう。もちろん、個人的にも興味がある。渡辺准教授の心遣いもありがたかった。


 自室へは引き上げず、そのまま千英のいる12階のスィートへと向かった。今日はもう、誰かが部屋に来ることはないだろう。


 その様子を部屋から見ていたのだろう。部屋の前に立ったタイミングでドアが内側から開いた。千英がニコニコと出迎えてくれる。


 「おつかれー。」


 二人で声を掛け合いながら、部屋の中へ入ると、ベッドの上にノートパソコンを囲むように、ズラリと資料が並べられていた。


 「何かわかった?」

 「そっちは、全然。アイツも、日中は全く動きなし。寝てるか、昨日着てた服を脱いだのか・・・。」

 「もしくは、発信機に気が付いて、こちらの出方を見ているのか・・・?」

 「・・・その可能性もあるね。・・・で、どうする? 予定通り?」

 「うん、このままじゃ、引き下がれないよね? 千英はどう思う?」

 「私も同じ。なんで『あれ』だったのか、そして誰なのか、知りたい。」

 「よし。じゃあ、予定通りで行こう。装備は、車よね?」

 「準備済みだよ。」


 それから、二人で今夜の計画を練った。昨夜突き止めた廃工場に侵入して、できることなら奪われた古文書を取り戻したい。だが、相手が相手だ。簡単に事が運ぶとは思えない。場合によっては、戦闘になる可能性もある。そのため、車に、聖から送られた特殊な装備を準備してもらっていた。

 

 できることなら、直接の接触は避けたい。最も良いパターンは、無人の廃工場に忍び込んで、奪われた古文書だけを回収できる場合だ。最悪の場合は、古文書は既にどこかに運び去られ、あの男や、その仲間と鉢合わせすることだ。どう転ぶかは、実際に現地に赴いてみなければわからないが、十分な準備と下調べを行い、あらゆる事態に対応できる状態にしておく。


 23時、二人は予定通り部屋を出て、車に向かった。荷室に千英が並べておいた装備類を確認する。


 一番目立つのは、やはり二人分の『プルーフスーツ』だった。「あのトランク」に入れられて、聖から送られてきた『新製品』だった。仕様書によれば、刃物や銃弾、打撃などの衝撃に対して、そのエネルギーを瞬時に分散・吸収することができるらしい。一見すると、バイク用のレーシングスーツのように見えるが、表面は六角形の鱗のような微細なパーツが、無数に集まってできている。それが何層にも重ねられており、衝撃を受けるとそれぞれの間隔が広がって衝撃を吸収する仕組みのようだった。生体電流を使用するため、着用しないと効果がないと言う。実際に試してみると、衝撃を受けた瞬間、青い光がさざ波のようにスーツの表層を走り、内側には全く衝撃が伝わらなかった。目の部分以外全てを覆うように作られており、着込みのようにして使用する。試してみたくはないが、30mの高さからコンクリートに落下しても、初速1200m秒以下の銃弾で撃たれても、致命的な損害は受けないということだ。ご丁寧に、受けた衝撃に応じて発電する機能まで付いている。


 腕に着用して使用する、射出装置も準備してある。ゴム弾、ネット、種々の液体、アンカー付ワイヤーなどを、ガス圧で発射することができる。その他、ディスプレイバイザー付きの戦術ヘルメット、「ヤモリ」手袋とブーツ。伸縮式の特殊警棒は、スタンガンとしても使える物だ。そして、それらと予備弾をしまうポーチ類などを、次々と確認しながら着用していく。


 「ほんとはこういうの、使いたくないんだけど・・・。」

 「・・・だよね・・・でも、今回は、仕方ないよ。相手はゴリラ並みだからね。比喩じゃなくて、実際に。」

 「・・・何者なのかしら?」

 「可能性、としてなら、圧縮空気で筋力を増幅させるスーツはできてるし、サイバネティクス技術を使用してるのかも知れない。ロシア、イスラエル、EUでも、それなりに成果は出ているみたいだから。」

 「どこか、外国勢力の支援を受けている、ってこと?」

 「政府じゃなくて、民間企業が独断でってこともあるよ? 映画なんかだと、よくあるじゃん。大企業の社長が黒幕のパターン。」

 「確かに。そう言えば、トニー・スタークも社長だもんね。」

 「そうそう。映画の話、って笑うかもだけど、実際のところアイアンマンスーツ的な物はもうできてるからね。あそこまで洗練されてはいないけど。・・・一作目のラスボスみたいなやつなら。」

 「恐ろしい時代になったものね・・・。」

 「まあ、私たちも、その、『恐ろしい』側に近いんだけど・・・。」

 「そ、そっか・・・。はは・・・。笑えない。」


 言いながら、由乃は髪を結び、スーツの中にたくし込んだ。頭と顔の下半分を覆う部分は、首の部分でたるんでいて、ハイネックのセーターを着ているように見える。スーツの上からスパッツを履き、裾の長いタイプのTシャツを着ると、裾がミニ丈のスカートのようになった。その上からフード付きのパーカーを着る。足元はヤモリブーツに履き替えた。


 フォードの座席に座り、膝頭に被せるようにしてヘルメットを置いた。千英も同じ服装になって運転席に座るが、ヘルメットは座席の間に置く。


 エンジンを掛けると、V10の重々しい響きとともに、軽い振動が伝わって来る。ナビを起動して位置情報を確認すると、相手は拠点と見定めた場所から遠ざかるように移動していた。向こうも動き出したようだ。こちらの後をつける選択肢も出てきたが、由乃は予定通り、拠点と思しき場所に向かうことにする。このまま逃げられる可能性もあるが、まずは、もっと情報が欲しい。


 工場地帯に入る少し手前に、運送会社の露店車庫があった。非舗装で、敷地を木杭と数条の針金で囲っているだけの、簡易的な駐車場だった。プレハブの事務所らしき建物はあったが、もちろん無人で、警備されている様子もない。千英は大型トラックの間の、道路からも事務所からも死角になる位置に車を止めた。そのまま、しばらく様子を窺う。


 15分ほど経過しても、異常がないことを確認した二人は、ヘルメットを装着し、監視装備を収めたバックパックを背負って、車外に出た。


 ヘルメットのバイザーが闇を感知し、自動的に暗視モードに切り替わった。右下の方に、現在時刻とともに、作戦経過時間がカウントされていく。左下の方には、目線でコマンドを切り替えるためのパネルが浮かび出ていて、その上に、相手の現在位置が小さく表示されていた。相対距離がどんどん離れていく。


 二人は静かに動き出し、工場地帯へと進んで行く。暗い街灯がポツポツと並んでいる他、時折大型の投光器が敷地を照らし出している建物もある中、闇を選んで縫うように、目的の建物へと近付く。


 まずは、目的の建物を見下ろせる、隣の建物の屋上に侵入した。ヤモリ手袋とブーツの効果で、スパイダーマンのように楽々と壁を登ることができた。由乃は暗視双眼鏡で目的の建物を、倍率を変えながらくまなく走査する。その隣では、千英がサーモスキャンを始めていた。


 「こっちはネガティブ。ドアは施錠すらされてないみたい。」

 「こっちも人影はなし。熱源が二つ。形からして、ノートパソコンと電気ストーブの余熱みたい。場所は中央の、二階事務室だね。」

 「よし、決行しよう。二階事務室周辺から。」

 「了解。」


 囁くようなやり取りの後で、二人は屋上から飛び降りた。3階からの着地の衝撃は、水泳のターンで壁を蹴った時くらいしかなかった。目的の建物の鉄扉に取り付き、ドアノブと蝶番に潤滑剤を流し込んでから、静かにドアノブを回す。やはり、無施錠だった。ゆっくりと静かに、ドアを開く。室内の闇を感知したバイザーが、暗視装置のレベルを上げた。じんわりと浮かび上がるように、室内の様子が確認できる。


 室内はガランとしていた。ところどころに木箱やパレット、無造作に置かれたビニールシートなどがそのままにしてある。ドアから、中央の2階にある事務室に昇るための階段に向けて、いくつもの足跡が残されている他は、床は砂埃に覆われていた。靴は一足のようだ。かなり大きい。30cmは超えているだろう。靴底のパターンの中に、スウッシュマークが見て取れた。


 足跡に気を付けながら階段まで進み、塗装が剥げて錆の浮いた金属製の階段を昇る。金属の軋み音がしたが、気にするほどのことではない。一気に事務室に侵入し、中央から左右に分かれて、捜索を開始した。


 由乃はすぐに、機内持ち込みサイズのトランクを見つけた。また、床に段ボールとマットが敷かれていて、簡易的なベッドのようになっており、比較的きれいな毛布数枚が足元に畳まれていた。奥の棚にはロープが張られ、洗濯物らしい靴下やタオルが干されている。どうやら、ここで生活をしているようだ。ゴミ袋に残されたゴミの量からして、少なくても一週間前後はここで暮らしていると見ていい。


 事務机はきれいにされており、椅子は木箱で代用しているらしい。足元に石英管タイプのヒーターが置かれ、開いたままのノートパソコンが載せられていた。その他、メモ用紙やペン、定規といった文房具と、ハンドスピナー。


 千英が、首を振りながら合流した。目的の物は、今のところ見つかっていない。


 「千英、パソコンをお願い。私はトランクを見てみる。」

 「わかった。」


 外周をファスナーで一周するタイプのトランクは、施錠されていなかった。ファスナーを開くと、着替えと洗面用具の他に、梱包材に包まれたジップロックがたくさん入っていた。そのうちのいくつかには、何かが入っている。大きさや形からして、何かの書物のようだった。由乃の鼓動が早まった。


 慎重にジップロックを開くと、またジップロック。二重にしてある。さらに、書物自体が油紙と和紙で厳重に包んであった。少なくても、光や湿気など、外界の刺激から書物を守ろうとしているのが分かる。それも、かなり丁寧に、だ。


 合計3点の古文書が見つかったが、いずれも目的物ではなかった。由乃も保護の観点から、この場で全てを開くのは諦めた。これらの古文書は、空気に触れただけでバラバラに風化してしまう可能性がある。上から軽く押さえて、表紙の文字を読み取って、目的物ではないと判断した。それらは、今風に言えば楽曲集だった。様々な和歌とともに、雅楽で用いられる記号が羅列してあるものだろう。そういうものなら、何度か目にしたことがある。そこまで珍しい物ではない。


 ますますわからなくなってきた。ここまで得られた情報から推測する限り、質素ではあるがきちんと様式化された生活を送っていて、考古物の扱いも丁寧だ。これらは恐らく盗み出されたものであろうが、ネットオークションでも数万円程度で入手できるような品物に思える。


 『一体、どういう人間なのかしら・・・?』


 由乃が思案を巡らせている時に、千英から呼ばれた。


 「これ見て。狙いはわかったかも知れない。」


 画面をのぞき込むと、エクセルで作られたリストだった。いくつかのセルが黒で塗りつぶされていた。塗りつぶされたセルの中に、昨日の古文書が含まれている。先ほど見た楽曲集もだ。どうやら、盗品リストのようだ。


 「これ、ロックされてた?」

 「なし。ファイルにパスワードすら掛かってなかったよ。隠す気はなかったみたい。今、ディスク丸ごとコピーしてる。帰ったら調べてみるけど、隠しファイルみたいなものもないと思う。」

 「何か、人物を示すような情報は?」

 「あったけど、恐らくアイツじゃなくて、別人の。このパソコン自体、盗んだか、中古で買った物だね。」

 「分かった。コピーしたら、原状回復して撤退しましょ。ここに『あれ』なない。」

 「オッケー。」


 由乃はトランクを元に戻し、千英を待つ間、もう一度事務室内を見回してみた。やはり、生活に荒れた様子がない。洗濯物の干し方や、毛布の畳み方、ゴミは分別までしてある。几帳面な性格が窺える。どうしても、昨夜の動きと、ここでの生活ぶりが一つにならない。


 「完了。」

 

 由乃はうなずいて、静かに事務室を出た。二人は無言で車に戻り、ホテルへ向けて出発した。午前1時30分。ナビの情報を見ると、アイツは今、奈良県内の大きな神社の宝物殿にいる。今日も、何かを盗み出そうとしているのに違いない。


 「昨日の件がニュースになってるのに、近所で立て続けに、なんてね・・・。」

 「うん、プロではないみたいね。それとも、何かに焦ってるのかしら?」

 「捕まらない、と高を括ってるのかもよ? 「組合」に連絡する?」

 「・・・とりあえず、それはやめておこう。」


 助手席で由乃が考えに耽っている。千英はその様子を見て、運転に集中することにした。こういう時の由乃に話し掛けても、まともな返答は返ってこない。いつものパターンなら、次に口を開いた時は、千英も驚くような面白い考えを聞かせてくれる。


 今度は何を言い出すのだろう。千英は心の中でワクワクしながら、その時を待った。


17 始動


 由乃は二人で12階の部屋に戻っても、まだ沈思黙考を続けていた。由乃がすごいのは、頭を音が聞こえて来るのではないかと思うほど回転させながら、他のことは別に考え、行動ができることだ。多分、CPUがクアッドコアなのだろう。いや、もしかすると脳そのものを複数個持っているのかも知れない。


 だから、『沈思黙考』という表現は適切でないのかも知れないが、千英の見ている限り、間違いなく由乃の一部は沈思黙考を続けているのがわかる。付き合い始めの頃は、単に機嫌が悪いのかと思ったが、そうではない。


 千英が抜き取ったデータを解析するための準備をしている間、由乃はシャワーを浴びに行った。明日もあるし、戻ってきたら早めに休ませようと、千英は思った。


 「はー、さっぱりした。千英も行っておいで。あのスーツのせいかな、なんかアルミが焦げたような臭いが身体に付いた。なかなか落ちなかったよ。」

 「え、それは嫌だな。じゃ、チャチャッと行ってくるね。パソコンはそのままにしておいて。あと15分くらいはかかるから。」

 「わかったー。」

 

 バスタオルで髪の毛を拭きながら、由乃は冷蔵庫から水のボトルを取り出して、返事をしてきた。服を脱ぐと、確かに微かな異臭がした。千英は、それが熱い状態でパソコンのカバーを開けた時の臭いだと認識した。個人的には、好きな部類の臭いなのだが、由乃が嫌な臭いと感じたようなら、きっちり落とさなくてはならない。


 3回身体を洗って、ようやく臭いが取れた。ボディソープの香りで上書きされただけかも知れないが、とにかく、異臭は消えたようだ。ローブを羽織って部屋に戻ると、ベッドで由乃が寝息を立てていた。起こさないように気を付けながら、由乃が飲みかけていた水を飲んでから、解析作業を続ける。


 何度か繰り返して全てのファイルを確認したが、やはり隠されたファイルは存在していない。とすると、残されていたのはエクセルデータと写真や図面の類だけ、ということになる。パソコン本体の履歴を製造番号から探ると、元々は某コールセンターで使われていたものらしかった。それからアマゾンに渡り、2年ほど北海道の大学生が使用した後、大手の中古品買取店に売られていた。そこから先は少し飛んで現在に至る。売買記録が残っていなかったので、おそらく、買い手がつかずに廃棄されたものが、どうにかしてアイツの手に渡ったのだろう。最後に大学生が売りに出した時の記録が9年前のものだった。


 そこまでのことを調べた後、検索サイトの履歴を調べていった。博物館、美術館、大学やその研究施設、神社仏閣の情報など、写真や図面をダウンロードするために調べたらしいものが多かった。千英の目を引いたのは、光陽館大学のHPを何度か訪れた形跡があることだった。それと、新薬情報に興味があったらしい。厚生労働省をはじめ、製薬会社や、所属する研究所、各種論文まで調べていた形跡がある。最も、それらは最近では調べられていない。


 次に、写真と図面を調べる。ネット上で検索できるものと、自身で撮影されたらしいものが残されていた。どれも博物館や美術館など、エクセルの「リスト」に名前のある場所の物だった。下調べしたのだろう。


 最後に、エクセルのデータだった。あの事務室で由乃と共に確認したリストの他に、盗みに入った場所の状況を記録に残しているようだった。最も新しい物には、侵入中に別な「泥棒」と鉢合わせしたことが、簡潔に記録されていた。少なくても、アイツが日本語を使う、恐らくは日本人で、文章を作るのにワードではなく、エクセルを使う人間であり、盗みが本業ではない、ということだ。職業的な犯罪者なら、「泥棒」とは表現しないだろう。


 ふと気が付くと、部屋の外が明るくなってきているのに気が付いた。時計を見ると、6時を少し過ぎている。由乃を起こさなくてはいけない時間だった。


 千英がベッドに昇った時の僅かな動きで、由乃が目を覚ました。


 「おはよう、そろそろ起きる時間みたい。」

 「ん・・・ごめん、寝ちゃったんだ・・・。」

 

 由乃が起き上がり、大きく伸びをした。


 「寝ないで調べてたの?」

 「うん。調べてたら、そうなっちゃった。」

 「何か分かった?」

 

 千英が分かったことと、推測したことをかいつまんで説明した。それから、リストの内容について、何かの関連がないか、これから調べようとしていたことも伝えた。


 「じゃあ、引き続き、お願い。あ、少しは寝てね? もしかしたら、今夜も動くかも知れないから。」

 

 由乃の考えは、まだまとまっていないようだった。どことなく素っ気ないのがその証拠だ。今朝は、挨拶のキスまで忘れて、自室に戻っていった。昨日は発掘で集中を欠いていたと話していたが、今日もどうやらそうなりそうな気がする。


 千英は作業に取り掛かる前に、バルコニーで冷たい空気を浴びながら、タバコを吸った。最近はめっきり本数が減った。以前なら、このレベルの作業をしたら立て続けに吸い、軽く一箱は空けていただろう。


 そうやって考えてみると、由乃が初めて千英のマンションに忍び込んで来てから、自分が大きく変わったのを感じる。食生活も変わったし、エナジードリンクは完全に飲まなくなった。その代わり、お酒を少し飲むようになった。相変わらず小柄ではあるが、華奢ではなくなったし、映画でしか観たことのなかったような世界を、毎日生きている。


 それに、「外側」に興味を持つようになった。自分のことも、他人に対しても。以前は、まったく興味が湧かなかった。「内側」のことだけで生きていけた。今では、「外側」なしの生活は考えられない。


 「良い方に、変わったんだよね?」


 小さく、声に出してみた。誰に問い掛けたものかは、自分でも分からなかった。内なる自分に呼び掛けたような気もする。とにかく、毎日が充実している。「生きている」と思える生活だった。もう、「生かされている」ではない。


 千英は部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。まだ少し残っていた由乃の体温と残り香に包まれて、自然と眠りに落ちた。


 発掘作業は3日目に入った。今日も昨日に引き続いての作業となる。由乃は、思い切って全員を一か所に集め、ここぞと思う地点を深く掘り下げてみることにした。どこかで昨日の分を取り戻したい、と思ったのかも知れない。


 「どの辺がいいと思う?」

 

由乃は、まず光陽館大学の3名に話を聞いた。ホテルに残っているあの二人は、今日の午前中には引き上げることになっていた。今朝の食事の席で、渡辺准教授からそう聞いた。近近大の職員が駅まで送ってくれるそうだ。そういうわけで、この3人も名実ともに解放され、来る途中のマイクロバスの中でも、やる気を見せていた。


 3人は自分たちで話し合い、縄張りの北東角を指示した。そこは周囲より若干だが、土が柔らかいように感じたらしい。由乃は異議を挟まず、午前中は全員でそこに取り掛かろうと決めた。


 そして、まもなく午前の作業も終わろうか、という時間に、それは現れた。


 「湯浅さん! これ、見て下さい!」


 あの一年の女子学生が、興奮した様子で由乃を呼んだ。全員が地面の一点を見下ろしていた。そこには、明らかに円形に加工されたような木の板の一部と、それを囲むように、土器の一部が露出していた。その部分からして、全体は直径が30cmほどにはなりそうだった。


 「ねえ、渡辺准教授を呼んで来て。それと、あなた、位置を確定させるから、そっち持って!」

 由乃はテキパキと指示を出し、一人の男子学生に写真を撮影させながら、もう一人の学生にメジャーの一端を持たせ、距離を測った。


 まもなく、渡辺准教授が現れ、露出した物をつぶさに検分した。


 「うん、土器に木でフタをしたみたいね。フタがまだ外れてないみたい。もしかして、割れずに残っている可能性もあるわ。まず、ここを中心に周囲を掘り下げて、もっと露出させましょう。あ、さらに慎重にね! 周囲にもまだ何か埋まってる可能性があるから!」


 その作業は、昼食返上で行われた。慎重ではあるが、時に大胆に周囲の土を掘り下げていくと、甕形の、木の蓋が付いたままの土器の上縁部が露出した。直径は28cm、高さは60cmはありそうだ。木の蓋が割れており、少しだが中が覗き込めた。


 乙畑教授と渡辺准教授が、ペンライトを使って土器を覗き込みながら、何かを話し合っている。二人とも、かなり興奮しているようだった。由乃たちは、ボランティアの方から手渡された熱いコーヒーを飲みながら、固唾を飲んで様子を見守った。


 「みんな、落ち着いて、聞いてね・・・。中に、恐らく、子供の遺体が入ってる。まだ頭髪の一部らしき物が残っているのが見えたわ・・・。」


 渡辺准教授が興奮を押し殺した様子で、一語一語確認するようにして、そう話した。隣の乙畑教授は、すこし顔が青ざめているようにすら見える。


 「ほ、ほんとですか!?」

 「しっ! まだ、不確定だから大きな声は出さないで! いい?」

 「わ、わかりました・・・。」

 「それでね、ここは一旦、ブルーシートで覆うわ。もちろん、みんなには中に入ってもらうわよ。覚悟は、いいわね?」

 「は、はい!」


 乙畑教授の指揮で、縄張り全体が大型のタープテントで覆われ、周囲にブルーシートが張られた。発掘現場全体に緊張が走り、囁き声があちこちから上がった。発掘現場で遺体と思しき物が見つかった場合、まずは警察に届け出なければならない。事件性があるものなのかどうかを、見極めなくてはならないのだ。そこで事件性なし、と判断されれば、次は供養を行う。その読経に包まれた状態で、蓋を開けるのが通例となっていた。だが、ここにいる全員が、知識としてそれを知っていても、現実にそうなった経験はない。全員にとって初めてのこととなった。


 立ち会っていた役場の職員が、いつも以上に忙しそうになる。乙畑教授がボランティアの方々に事情を説明し、今日はここで一旦解散として、後ほど連絡を入れる、ということになった。


 その後、警察官数名が検分をした結果、一旦は事件性はなし、と判断された。だが、警察官にとっても初めてのことで、上級官庁にあたる検察の判断を待ちたい、という指示が出された。最終的にゴーサインが出たのは、午後4時を過ぎ、周囲が夕闇に包まれ始めた頃になっていた。これから発掘するには、時間も設備も足りない、と判断した乙畑教授と渡辺准教授は、作業の打ち切りを発表した。作業は、明日の朝、再開される。集まっていたマスコミやギャラリーからは非難の声も上がったが、二人は頑として譲らなかった。この場の責任者として、不確定な状況で作業を行う訳にはいかない、と撥ねつけたのだ。


 ギャラリーやマスコミが解散するのを待って、今夜の体制が発表された。乙畑教授と近近大の学生、それに、光陽館大学の男子学生二人が、警備員とともに現場に残ることとなった。


 帰りのマイクロバスは、大発見の予感に、喜びや興奮よりも、信じられない、といった雰囲気に包まれ、みんな押し黙っていた。寒い中で長時間立ちっぱなしだったのが、疲労を倍加させたのもあるだろう。


 耳の早いホテルの職員が、夕食の席に豪勢な刺身盛りを提供してくれ、それを食べているうちに興奮が再燃してきた。


 「やっちゃったわね! うん、やっちゃったわよ、私たち。」

 「おめでとうございます!」

 「何を言ってるの! 第一発見者は、あなたたちよ! これからの教科書に、名前が載るわよ~。」


 渡辺准教授も上機嫌で、おどけた様子でそう話した。だが、それが冗談でなくなる可能性も、多分にあった。その後も終始笑いに包まれた食事が終わり、現場に残った学生に申し訳ない、などと話しつつ、全てを平らげた。渡辺准教授が、帰ったら全員に「回らない寿司」をご馳走する、と言っていた。


 21時過ぎに、ようやく千英の部屋を訪れた由乃は、興奮気味に今日の出来事を語って聞かせた。一通り二人で喜び合い、話は今日の千英の成果に移っていく。


 「リストは全部、奈良から鎌倉辺りの時代の物に限られてた。多くは古文書だけど、中には装飾品とか、楽器とか、刀なんかも含まれてて、どうやら「鬼」、とか「術」に関係があるみたいなんだ。ただ、古文書の内容はあくまで言い伝えレベルの話で、きちんと解析されたわけじゃない。場所が確認されているのが20点くらいあるけど、一部は海外の博物館に収蔵されてる。」

 「・・・海外の好事家からの依頼、とか、ありそうよね?」

 「うん、千英もそう考えて、「鬼」とか「術」とか、そういう品物を集めてる人を調べてみたんだ。全部で300人くらいいた。そこから、経済的なレベルとか、年齢とか、職業でフィルターを掛けて、怪しいと思う人間だけピックアップしたんだ。」


 千英がその5名を画面に呼び出した。自分を織田信長の末裔と信じて、埴輪から新選組に所以があると言われるようなものまでを集めている70代の男性。バラエティ番組に出演したことがある。自称「博物館」という建物に住んではいるが、ただのゴミ屋敷だった。違う。もう一人は、歴史ではなくオカルトに傾倒した老人。これも、ゴミ屋敷。違う。3人目はドイツのコレクター。日本の物なら何でも集めているようだが、特に浮世絵に興味があるようだ。だが、一番の宝物と称している写楽の浮世絵は、画面越しにも贋作とわかるような代物だ。本物を求めるようには思えない。違う。アメリカのコレクター。マスコミ関連の大物だ。浮世絵、漆器、茶器などに興味が強い。有り得るかも知れない。最後はイタリアのコレクター。日本の大学に留学経験のある、海運会社の社長。戦国時代の武具や茶器のコレクターだった。有り得るかも知れない。 


 「最後の二人は、可能性があるわね。最初の3人は違うと思うわ。」

 「千英もそう思ったんだけど、この5人は、資産的にはかなり裕福なんだ。最初の二人は土地で、ドイツ人は投資で大儲けしてる。成金の考えそうなことかな、と思って残したんだ。あとの二人は、超の付く金持ち。」

 「でも、集めてる時代も、物も違う・・・。この線ではない気がする。」

 「やっぱり。調べながら、千英も違う気がしたんだ。なんて言うのか・・・アイツ、申し訳なさそうに盗んでる気がするんだよね。なんなら、そのうち返そうとしてる感じさえ受ける。普通、自分の起こした事件の詳細を残しておく、なんて有り得ないよね? まるで、誰かのために、記録を残してるような感じだよ。そんなの喜ぶの、警察くらいじゃん。何のためにそうしてるのかが、どうしても引っ掛かるんだよね。」

 「そうなのよね・・・。盗んだ物の保管も相当気を遣ってる様子だし、生活もきちんとしようとしてる・・・。それでいて、証拠を消そうとしていない・・・。何なのかしら。」

 「昨夜の神社からは盗めたのかな? 狙ってたのは古い記録みたいなものらしいけど。今のところニュースにはなってないんだ。あ、それと、今日も日中は動きなし。寝てるか、机に向かってるかだったよ。今はまだ、あの廃工場にいる。・・・机に向かってるね。」


 千英が別な画面で発信機の信号を確認した。


 「・・・ねぇ、千英?」

 「ん?」

 「今度は、リストに載っている物を、こちらが先に盗む、と言うのはどうかしら?」

 「あの古文書と交換するため、ってこと?」

 「うん・・・まあ、それもあるんだけど、ちょっと話してみたいのよね。アイツと。」

 「ええっ? 何故に?」

 「なんて言うか・・・まず、このままじゃ私が納得できない。それと、何となくだけど、悪人じゃないような気がするの。もしかしたら、私たちと同じ目的なのかも、って。」

 「でも、『漬物』だけじゃないよ? リストに載ってるの。」

 「まあ、ね。でも、いずれ成果は出ていない物よね? 」

 「・・・そうだね。」

 「でしょ? 言うなれば、『食卓に並んでるけど誰も手を付けない漬物』と言えなくもない。」

 「・・・ちょ、ちょっと苦しい気はするけど・・・言えなくも、ないね。」

 「うん、だから、先取り、しちゃおうよ!」


 慎重に答えながらも、千英の心拍は最高潮に高まっていた。なるほど、やられたらやり返す、シンプルだが、その理由が面白い。『話したいから』恐らく、これが最大の理由だ。相手が逃げるなら、追い掛けるよりも追い掛けさせた方が捕まえやすい。


 「うん、やろう!」

 「きゃーっ! だから千英、好きよ!」


 いつもの調子に戻った。思考モードが終わったのだ。由乃は早速、ターゲットを発表した。狙うのは、「笛」だった。理由は、収蔵場所がここから一番近く、それがとある神社の宝物庫だったからだ。宝物庫とは言っても、神主の住まいの一角に設えられた、普通の部屋だった。警備など、無きに等しい。次は、「首飾り」だった。これも京都だが、ここから近い。保管場所は同じく神社だったが、こちらは大きい神社だから、それなりに警備もされているだろう。


 「じゃあ、明日はこの二か所を調べておくよ。もしも、アイツと狙いが被ったら、どうする?」

 「その時は、こっちが狙いをずらす。向こうの動きがわかっているうちに、他の物をいただく。そのうち、相手がこちらの狙いに気が付くでしょ? おかしいと思い始めた頃に、メールを送って誘い出す。それまでは、鉢合わせしないように、極力気を付ける。」

 「わかった。じゃあ、ここから近い順番で、できる限り下見まで済ませておくよ。」

 「うん、お願い! よし、そうと決まれば、お風呂入ろ? で、今日は早く寝ちゃおう!」

 「そうしよう、そうしよう!」


 今夜は、別な意味で長い夜になりそうだった。


18 引際


 翌日、二人は朝から絶好調だった。状況は未だに不明確だが、やることが決まると言うのは、それだけでモヤモヤを吹っ飛ばす効果がある。それに、やるべきことをしっかりと進めて行けば、状況は必ず良い方向に動くという、自信があった。


 発掘現場は、朝から大賑わいだった。マスコミ、ギャラリー、役所の関係者、そして、それらを誘導する警備員。今日はそれにプラスして、土木関係者や僧侶の姿も見える。


 渡辺准教授は、到着早々からあちこちの対応に追われていた。今では、一躍時の人だ。大学からの指示もあり、マスコミを始めとした各種対応は、渡辺准教授が取りまとめることになっている。しかし、乙畑教授も渡辺准教授も、事あるごとに「学生が」と付け加えるので、そういった人間の目がこちらに向けられているのをひしひしと感じる。虎視眈々と、他社に先駆けて、学生たちの映像とコメントを狙っているようだった。


 由乃は戸惑う3人をしっかりと引率し、そういった者たちからみんなを守った。少なくてもこの現場では、そんなことはさせないつもりだった。3人も由乃の意図を見抜いたようで、自分たちから進んで由乃の庇護下に入ろうと動いてくれたのが功を奏した。


 10時過ぎ、ようやく本格的な発掘作業が再開された。土木関係者が手際よく土器を養生し、小型のアームショベルで上から吊るようにして支え、倒れないように措置をしてから周囲を掘り進めた。


 高さは、70cmくらいありそうだった。最後の瞬間は、ぜひ発見者である学生たちに、という乙畑教授の声掛けで、土器の周りに渡辺准教授以下5名が集まり、最後の発掘を行った。その瞬間はマスコミ各社にも開放され、僧侶の読経の声とフラッシュやシャッターを切る音に囲まれながらの作業となった。


 由乃は、できる限り顔が映らないよう、帽子を目深に被り、常に下を向いて作業を続けた。本当は断りたいくらいだったのだが、周囲を白けさせるのも大人げないと思ったのだ。


 そしてとうとう、土器が完全に露出し、用意してあった保護用の木箱に移された。これから近近大に運ばれ、開封作業と中身の確認が行われることになる。全容の解明には、まだしばらく時間が必要だろうが、少なくてもこれで、考古学において近近大が、付近の大学からバカにされることはなくなるだろう。


 ロマンを感じずにはいられない。この発掘現場が弥生時代の物かどうかは別として、いずれ2000年前後の時を経て、現代に蘇ったのだ。少なくても、ここにその時を生きた人間の生活の跡が残されており、それらを見つけ出すことができた。まだ確定ではないが、埋葬されたであろう物も、損壊していない状態で掘り起こすこともできた。中で眠っていた人には申し訳ないと思う気持ちもある。まさか、今更掘り起こされるとは、考えてもいなかっただろう。


 『いくら子孫のためとは言え、私はごめんだけどなぁ。』


 将来的、いや、未来的には、由乃にその順番が回ってくる可能性もある。ここにいる全員に同じことが言えた。いつか死んで、埋葬された墓が、何千年も後に「遺跡」として掘り起こされ、研究され、展示されるかも知れない。


 『その時には、この時代にはなんていう名前が付いてるかな。』


 縄文時代、弥生時代など、過去の一時期を現すのに名称が付けられているが、その当時を生きた人々がそれを知る術がなかったように、自分たちにもそれを知る術がない。ただ、この時代にも、いずれ確実に何らかの名称が付けられる、ということだけはわかる。


 一度、千英とその話題で盛り上がったことがあった。由乃は「電波時代」を挙げた。千英は「化石燃料時代」だった。どちらもありそうだったが、今となっては千英の挙げた案の方が有力な感じがする。たぶん、その頃でも電波は使われているだろうが、化石燃料からは脱却していそうだったからだ。


 そういった想像に身を委ねる時、由乃の思考は時空を超えている。子供の頃から、この「超越感」が好きだった。幼い頃に、恐竜に興味を持った時は、恐竜になり切って生きていたこともある。権蔵を草食恐竜に見立て、よく食べていた。由乃は、ティラノサウルスが大好きだったのだ。

 

 「湯浅さん、湯浅さん?」


 女子学生に呼ばれて、ハッとした。トラックに積み込まれる様子を見ながら、ボーっとしてしまった。これから近近大に移動して、会見を開くということだった。既に一行はマイクロバスの方に移動を始めている。小走りに追い掛けて、車に乗り込んだ。 

 

 同じ頃、千英は、「笛」と「首飾り」の調査を終え、今は参拝客の一人となって、神社の下見をしていた。途中、運転をしながら、ナビをテレビに切り替え、ニュース番組をチェックしていたが、盗難のニュースはなく、例の発掘現場の様子が映し出された。画面に、由乃が映っているのを見て、千英は思わず吹き出した。何とかして顔が映らないように、必死な様子が見て取れ、動きが不自然になっていた。由乃のうろたえ具合を想像したら、笑わずにはいられなかった。


 考えていた通り、どちらも警備らしい警備はされていない。笛の方は、大きめではあるが完全に一般民家で、賽銭箱に向けたカメラが一台あるだけだ。警備会社のシールは張ってあるから、何らかの機械警備はしてあるのだろう。首飾りの方も、大きな神社ではあったが、そもそも、何かを盗まれる可能性を考慮していない警備体制なのだから、二人にとっては、警備されていないも同然なのだ。


 『古式ゆかしい方法で、十分行けるね』

 千英は手にした一眼レフで周囲の景色を撮影しながら、そんなことを考えていた。もしかしたら、一晩で両方いける可能性もある。発信機はまだ機能するはずだが、アイツに気付かれたら、今この瞬間にも役に立たなくなる可能性もあった。また「急ぎ働き」になってはしまうが、今回は時間が必ずしも味方ではない。むしろ、その逆だ。「お盗め」の時間効率は、外すことのできない重要なファクターとなる。


 この足で、もう少し下見を進めておくことにした。実際に見てみると、やはり神社仏閣を優先的にチェックして、多少遠くても、先に片づけた方が良さそうだ。「解きやすい問題から解く」テストの鉄則と同じだ。


 近近大はちょっとした丘の上に立った、真新しい大学だった。学舎も近代的な建物で、ガラスが多く使われている。校門を過ぎると、教職員や生徒が並んで待っていて、一同を盛大に出迎えた。チアリーダーまで加わり、激しく踊りながら、黄色い声を上げていた。


 会見場には、ロビーの吹き抜けがそのまま使用された。まるで、大きなモールに来たような錯覚を覚える。広々とした作りで、天面と側面のガラス窓から、光が燦々と降り注いでいる。案内されるままに会見場に入ると、近近大の副学長の隣に、添田教授がにこやかに立っていた。渡辺准教授も驚いた様子を見せたところを見ると、完全に秘密の動きのようだった。


 「やあやあ、渡辺准教授、皆さん! ご苦労さん!」


 聞いたこともないような猫撫で声で、全員と握手して回った。浮かない様子の渡辺准教授を見て、何となく事態を察知した。


 添田教授は、露骨に手柄の横取りに来たのだ。恐らくこの段階で、自分をメインに据えるように、近近大側に圧力を加えたに違いない。たとえ乙畑教授ががんばっても、副学長からの命令には逆らえないだろう。


 実際に会見が始まると、その疑念は確信に変わった。会見席の中央に、近近大の副学長と添田教授が並び、その両脇に、乙畑教授と渡辺准教授が座る。メインの応対は副学長が行った。集まった記者からの質問も、一旦は副学長と添田教授が受け、それっぽい返答をしてから、それぞれに振る、という形を取る。どこまでも「メインは自分たちで、こちらの先生方は私の指示で動きました」と言わんばかりの扱いだった。


 最初は満面の笑みで添田教授と握手をしていた3人も、会見の推移に疑問を持ち始めたようだった。


 「・・・なんか、おかしくない?」

 「だよね・・・添田教授もあの副学長も、現場に来たこと、ないよね?」

 「うん・・・なんか、自分たちが見つけた、みたいになってるし・・・。」


 会見場の外れで、小声で囁き合っている。これで彼らも、一つ大人になったことだろう。この世界は、決してきれいではないのだ。

 

 話には聞いていたが、実際に当事者になってみると、その悔しさに、果てしない虚しさを覚える。悔し過ぎて思考が停止したかのようだった。さらに頭に来るのが、彼らの言っていることも、一部では正しい側面があることだ。確かに、乙畑教授も渡辺准教授も、今、隣に座っている上司の許可なくして、今回の発掘に漕ぎつけられてはいないだろう。実際に、発掘が始まる前の交渉や資金の調達は、彼らの仕事に拠るところが大きい。


 それを知っているからこそ、乙畑教授も渡辺准教授も、甘んじて脇に控えているのだろう。どんなに考古学を愛していても、個人では何もできない。大学と言う後ろ盾があって、初めて研究ができるのだ。この先も研究を続けたいなら、口を閉じているしかない。それにしても、見事なのが添田教授の動きの速さだ。昨日連絡を受け、飛ぶように現地に入ったのだろう。さすがの判断力、政治力と言えた。ここまで露骨だと、逆に清々しさすら覚える。


 由乃は、その場面に当事者として立ち会いながら、いつか必ず、自分の野望を実現して見せる、とあらためて心に誓った。


 由乃は、独自に考古学や歴史の研究ができる世界的な機関を作りたい、と考えていた。政府からも企業からも独立して、どこからの圧力も受けずに研究だけに心血を注ぐ。合法的に世界中から「漬物」を集め、乙畑教授や渡辺准教授のような、情熱に溢れる研究者に研究をしてもらうのだ。


 資金面や運営について、クリアしなければいけない課題は、それこそ無限にある。ユネスコやWHOといったような機関が、その運営に苦労し、初期の目標から逸脱し始め、某国の傀儡機関と成り下がっているような現状を見れば、それは尚更のことだった。


 話が直接の発見者について、に移ったところで、由乃は体調不良を訴え、会見場から離れた。直接に顔が写るのは避けたかったのだ。それに、もうこれ以上、茶番は見ていたくなかった。


 その夜は、大学合同で飲み会が開催された。発掘の期間はまだ残っているが、添田教授の口利きで、近近大の施設での研究に移ることになった。もちろん、発掘は近近大の学生やボランティアによって継続される。


 飲み会の席で、由乃の手腕が高く評価され、一躍人気者になってしまった。光陽館大学の3名が、大袈裟に由乃の統率力と見識の高さを吹聴して回り、渡辺准教授も乙畑教授もその発言を支持したため、由乃の元に次から次へと人が押し寄せてしまった。中には下心があるような男子学生も含まれていたが、由乃は適当にあしらい、それが逆にますます声望を高める結果になった。


 ホテルに戻った時は、23時を回っていた。遅くなったので、明日は10時にホテルを出発して近近大に向かうことにすると言う。由乃は自販機に行くことにして、一行とはロビーで別れた。12階に上がり、恒例となった一日の報告会を行った。


 「というわけで、まー、見事なもんよ。あっぱれだわ、添田教授。いけすかないけど、やり手なのは間違いない。」

 「渡辺准教授も、いずれそうなっちゃうかな?」

 「うーん・・・どうだろう? 個人的には、そうはならないと思う。おばあちゃんになっても、外で汗流して土掘ってる気がする。逆に言うと、偉くはなれない、そんな感じ。」

 「それって、どう受け取ったらいいかわかんないよ!」

 「誉め言葉よ! 誉め言葉! あの人は、立場で人間が変わるような人じゃないと思う。でもそれは、政治的にはむしろ短所よね。」

 「まあ、政治家になって欲しいわけじゃないしね。」

 「うん。だから、考古学界を変えるような発見はしても、体質そのものを変えるような影響力は持てないだろうね。それは、誰か他を探さないと。」

 「そんな人、いる?」

 「いないわねぇ・・・。」


 話はそれで終わりだった。千英からは、今日の下見の報告がなされる。


 「・・・なるほど、確かに、そうね。よし、じゃあ、今夜は2件、片付けよう。千英もそのつもりでしょ?」

 「うん。2件片付けても、4時までには戻れると思う。装備は車に準備済み。」

 「そうと決まれば、動きましょ。」


 二人はまず、「笛」のある神社へと向かう。発信機は、今日はほとんど建物内の動きだけらしい。水道の近くに30分ほどいたので、もしかしたら洗濯をしていた可能性もある、と千英は話していた。


 神社の床下に潜り込み、宝物庫の下まで来ると、エアソーを取り出した。床を支える木の厚さは6cm。刃先の長さを合わせたエアソーで床板を切り取ると、畳の裏地が顔を出す。持ち上げれば、潜入成功だ。床板を切り抜くときに斜めに刃先を入れてあるので、事が終われば簡単に原状回復ができる。もちろん、切り抜いた跡は残ることになるが、発見されるのはかなり先だろう。


 ずらりと並んだタンスの中から、目的の笛の入った木箱を取り出した。それを床下で待つ千英に手渡し、現状を回復して終了だ。木屑の積もったビニールシートを畳み、エアソーをブロアーにして周囲の汚れを風で飛ばす。床下から出るための経路のところどころに、蜘蛛を放しておく。明日の朝までには、蜘蛛の巣も元通りになるはずだ。


 同じ手順で、二件目の神社からは首飾りを手に入れた。ホテルに戻って時計を見ると、3時50分だった。


 「予定通り!」

 「千英の下調べのおかげよ! こんなにスムーズだったのは、初めてじゃない?」

 「え? そ、そうかな? いいよ、もっと褒めて。」

 

 奈良に来てからの段取りは、ほとんど全て千英が行っていたが、今夜は計画までしっかりと立てた上で、見事にお盗めを成功させた。次の計画も既に立ててあると言う。


 使える夜は、あと一日、土曜日の夜を残すのみ。日曜には東京に帰ることになっていた。舞台は、東京に移ることになる。例の「リスト」には、東京や北関東、東北地方の場所も含まれていた。


 「・・・ねぇ、千英? 明日は、ゆっくりすることにしない?」

 「どうして?」

 「最近、急ぎ働きばかりじゃない? もちろん、いい経験にはなったんだけど、やっぱりいろいろな綻びも、出て来たよね? ほとんどアイツのせいだとしても。」

 「・・・確かに・・・。うまく行き過ぎてる今こそ、退き際、ってことだね?」

 「そう。私たちも自覚は無くても疲れを溜めてるはずだし、ここでできることはしたから、後は戻っていつも通りに、残りのリストの物を狙いましょう。」

 「そうだね。ここで焦っても、仕方ないもんね。」

 「そういうこと。」


 千英の計画を白紙に戻すことにはなるが、考えれば考える程、賢明な判断だと思えた。それでなくても、この近辺を騒がせ過ぎている。あらゆることを、一旦落ち着かせる必要がある。それに、千英は長距離の運転も控えている。体調を整える意味でも、明日はゆっくりと休ませた方がいい。


 カーテンの隙間から薄明りが漏れて来た頃、二人はベッドに横になった。今日は出発が遅いから、3時間は寝ることができるだろう。



 翌日、近近大を訪れると、全体の詳細に渡る写真撮影が終わり、木の蓋部分と土器の部分を数か所ずつサンプリングしていたところだった。これらは第三者機関に送られ、そこで成分と年代の測定が行われることになる。


 そしていよいよ、蓋が外されることになった。乙畑教授と渡辺准教授が作業に当たり、由乃と近近大の学生一人が、その補助に当たる。室内には方向を変えて3か所からビデオで撮影がされ、他にスチル担当の人間もいる。光陽館大学の3名は、添田教授らと共に、ガラス窓の向こうから作業を見守ることとなった。


 蓋は、蜜蝋のようなもので固めてあり、それらを削りながら、慎重に外されていった。外した蓋は由乃が受け取り、パッドに並べていく。土器との接合部が、荒く削られているのがわかる。それだけでも感動ものだ。石器や砥ぎ粉を使って、時間を掛けて作業をした様子が目に浮かぶ。


 「出るわよ。」


 土器から出てきたのは、子供の遺体だった。膝を抱くような屈曲姿勢で土器に収められていた。膝の上に、木で動物をかたどった物が置かれていた。この子のおもちゃだったのだろうか。それと、木椀と箸と思われる食器、何らかの植物と思われる物も出てきた。死者を弔い、死後の世界でも食べたり遊んだりできるようにしたのだろう。埋葬したのは、親だろうか。いつの時代でも、親が子を思う心には変わりがないようだ。


 頭の部分に、まだ頭髪と思われる物が残っていた。土器の密封状態、泥炭地層に埋葬されていたこと、土器そのものにナトリウムが多く含まれていたことなど、好条件が揃い、奇跡的にそうなったのだろう、と乙畑教授が話していた。いずれにしても、貴重な資料となり、この発見が後世の研究に大きな影響を与えることになるのは、疑いようがない。


 「やりましたね、乙畑先生!」

 「渡辺先生・・・」


 乙畑教授は、泣いているようだった。発見を喜んでいるのか、状態に感動したのかはわからないが、涙が頬を伝っている。


 午後から、また会見が開かれた。今度は、乙畑教授と渡辺准教授が二人で席に座った。由乃たちが大急ぎで作ったパワーポイントの資料を使いながら、発掘から現在に至るまで、時系列で説明がされていく。会見には、海外からのマスコミも参加している。カメラを入れているのはアメリカとイギリスの放送局らしいが、他に中国やフランス、ドイツからの記者もいるようだった。


 質疑応答も含めて、3時間近くの会見になった。ほとんど講義のような内容で、特にイギリスのテレビクルーからの質問は、専門的な分野にまで切り込んでいて、きちんと事前に勉強してきているのがよく分かった。この辺りは、日本のマスコミも見習うべきだろう。違う記者が言い回しを変え、同じ質問を何度も繰り返す場面が多く見られた。


 夕方から、乙畑教授と渡辺准教授が中心となって、寿司屋を一軒借り切っての宴会となった。乙畑教授の同級生が営んでいる店らしい。決して大きくもないし、高級店という訳でもなかったが、清潔感に溢れ、何より大将とおかみの人柄が良かった。もちろん、味も。


 「湯浅さん! お疲れ様! 最初から最後まで、ほんとにお世話になった!」

 

 乙畑教授は、完全に出来上がってしまい、本日3回目の感謝を受けた由乃は、向かいに座る渡辺准教授に助けを求めた。


 「私からも、心からお礼が言いたい。いろいろと、だいぶ負担を掛けちゃったわ。本気で大学院を目指すなら、喜んで推薦文を書くからね! ねぇ? 乙畑先生?」

 「もちろんですとも! いくらでも書く!」

 「そうよ。あなたなら、海外の大学院も目指せると思うわ。オックスフォードとか、イェールとかね。」

 「あはは、ありがとうございます! じゃあその時はお願いしますね!」


 渡辺准教授は、このままこちらに残り、発掘と研究を続けることになっていた。だから、明日は由乃の引率で3人を東京に連れ帰らなければならない。発見の規模から考えれば、当然のことだ。もちろん、添田教授の思惑も、少なからず絡んでいるはずだ。


 その後も、近近大の学生と連絡先を交換したり、これから他の分野でも共同研究を行っていこう、などと言う話も挙がっていた。ここに会した人間で「乙渡会」という会まで結成されたのだ。もしかしたら、これから長い付き合いになる可能性もある。どうやら、男子学生の一人と近近大の女子学生の一人が、かなりいい雰囲気らしい。

 

 短い期間だったが、実りの多い、充実した時間を過ごした。由乃にとっては、「稼業」の方でも同じだった。つまずきをチャンスに切り替えることができた。何より、千英の成長が著しかった。由乃の思惑は、見事に成功した、と言うべきだろう。本当ならここに千英もいて欲しい気がしたが、逆にそうだったら、千英の成長は見込めなかったかも知れない。


 その千英からは、撤退の準備が整ったという連絡が入っていた。日中は、観光をして過ごしたらしい。楽しそうな写真が何枚も送られてきていた。


こうして、最終日の夜が更けていった。明日からは、舞台を東京に移し、アイツとの決着を付ける準備を進めなければならない。


19 家計


 翌朝、自室から朝食のために食堂に向かうタイミングを、意図的に渡辺准教授に合わせた由乃は、気になっていたことを口にした。


 「その後、娘さんと仲直りできました?」

 「ええ、おかげさまで。テレビで会見の様子を見たらしいの。ものすごいはしゃぎようでね、生意気に『お母さん、良かったね!』なんて言うのよ!」

 「良かった・・・。私も母が忙しい人間だったんで、娘さんの気持ちも分かって、ちょっと心配してたんです。」

 「そうだったの・・・。ありがとう。それでね、こっちにいる期間が延びたじゃない? てっきりまたぐずられるのかと思って、おそるおそる切り出したら、全然よ! それはそれで、ちょっとカチンと来たから、こっちに呼んだの。湯浅さん達とは入れ違いで、夕方には着くはずよ。」

 「わあ、良かったです! でも、一人で?」

 「まさか! 体は大きいけどまだ5年生よ! 私の母と一緒に。仕事の成果を見てもらって、少しは見直してもらわないとね! 本人はそんなことよりUSJが楽しみみたいだけど!」


 由乃は心から安堵した。子供の頃の話は事実で、毎日帰宅しても誰もいないし、休みにどこかへ出掛けた記憶も、ほとんどない。それだけに、渡辺准教授の娘の寂しい気持ちがよくわかり、気に掛けていたのだ。なかなか二人きりになる時間がなかったので、口にはできないでいたが、期間が延びたことで、さらに悲しむのではないか、と心配になったのだ。嬉しそうに話してくれた渡辺准教授の笑顔を見て、由乃も幸せな気持ちになった。


 千英は朝早くに出発していた。昨夜、と言うよりも今日の早朝に、由乃の仕掛けたカメラを回収し、クリーニングを行うことになっていた。次の客が皮膚炎を起こしては、あまりに気の毒だ。可能性はほぼなかったが、念には念を入れたのだ。


 ホテルには、乙畑教授が自分の車で迎えに来てくれた。車は三菱デリカだった。なんとなく、乙畑教授らしいチョイスだな、と感じた。ごくごく自然に、渡辺准教授が助手席に座る。そう言われれば、今日は二人ともアウトドア風ではあるが、カジュアル寄りの服装だった。貴重な休みだし、もしかしたら、娘さんが来るまで、二人でどこかに遊びに行くのかも知れない。いや、その後も一緒の可能性もある。二人とも独身なのだから、誰に遠慮もいらないはずだ。考えてみれば、悪くないカップルかも知れない。


 駅に着くと、顔見知りの近近大の学生が何名か見送りに来てくれていた。手土産に、舟形家のくず餅やあぶらとり紙、近近大のTシャツなどを受け取った。時間まで構内でしばらく歓談し、そして、車窓の人となった。帰りの車内は、これからの話で盛り上がった。すでに全員が学長表彰されることが決まっている。その他、地元テレビ局の取材や、学内成果発表会も予定されている。それなりに忙しい日々になりそうだった。


 その頃、千英は、静岡に入ったところだった。次のSAでは給油が必要になるだろう。日曜日ということもあり、東京に近付くにつれて車の量が増えてきた。相変わらずの大飯食らいで、この先渋滞にハマってガス欠だけは、なんとしても避けたい。燃費問題は、いずれ解決しなければいけない問題となるだろう。


 『あのおっちゃんなら、お願いしたらハイブリッド化してくれるかも』


 斎十商会のオーナーの顔を思い浮かべて、千英は自然と顔が綻んだ。文句を言いながらも、何とかしてくれそうな感じはする。とは言え、どちらにしても目玉の飛び出るほどの金額が掛かるのは間違いない。


 二人の経済状態は、この「業界」では決して裕福とは言えない。とは言え、一般的な社会人から見れば、裕福な部類には入るだろう。主な収入源は「お盗め」による組合からの分け前だが、漬物のそれは決して高くはない。他の人間を使っているわけではないし、仕込みに大金が掛かるわけでもないから、それでも少しはプラスになる。浮いた分は、積極的に投資に回していた。千英は、高校に上がるとすぐに投資の勉強を始め、今では常時7桁の金額を動かして利益を上げていた。元手がパソコンの修理や、ゲーム解説の動画投稿で得た資金だったから、千英の投資術は非常に優れたもの、と言えるだろう。


 そのゲーム解説でも、今ではなかなかの人気者になっている。チャンネル登録者数は約40万。月に4~5回の配信で、数十万の収入になる。何気に過去動画からの収入がバカにできない。チリも積もれば、というやつだ。

 

 一方、由乃は、と言うと湯浅家の地所からの家賃収入、聖からの「新製品」インプレッションによる顧問料、そして、由乃の経営する会社からの収益が主な収入源となる。家賃収入はこの業界に入った時に親族から引き継がれたオフィスビルからのものだ。そしてそのビルに、由乃の経営する警備コンサルタントの会社がある。表向きは防犯相談や防犯設備の販売、設置を行う会社だが、「裏のサービス」があり、万が一盗難被害などに遭った場合には、由乃が赴いて盗み返す。もちろん、「組合」の息が掛かった盗みには手を付けないが、それ以外の、いわゆる「モグリ」による犯行は躊躇せずに盗み返した。


 顧客はその多くが宝飾関係ハイブランドの直営店で、海外でも同様のサービスをどこからか受けている。日本では、そういった店を狙った犯罪自体が少ないので、今まで需要がなかったのだが、最近は訪日外国人の増加に伴い、武装強盗の類が増えており、サービス開始直後はかなりの反響があったと言う。由乃は、その顧客の多くを組合に融通し、自分では先着10件のサービスを受けるに留まっている。あまり数を増やしては、手が回らない、と言うのがその理由だった。


 こうして、組合は定期的な収入源を得ることができた。それは決して少ない額ではなく、由乃はそのロイヤリティを手にする権利を有していたが、それを放棄し、代わりに「上納金」の免除を申し出た。両者を天秤に掛ければ、間違いなく組合側が有利な取引となり、組合はそれを受け入れ、今に至っている。


 千英は最初こそ上納金を収めたが、「笹鳴一家」に名を連ねたことにより、以降の上納金は免除されている。こうして、「収入」は減ったが、「支出」はさらに減った。おかげで実入りの少ない「漬物」の救出に、ほとんどの時間を費やすことができているのだ。


 今回の、一連の動きができているのも、そのおかげだ。大抵の組合構成員には、そんな余裕はない。特に、千英のような駆け出しなら、毎日のように上納金代わりの「奉仕活動」を行わなければ、あっという間に追い出されることになる。「奉仕活動」はもちろん、お盗めの手伝いも含まれる。そうして、この業界の厳しい掟や組合の仕組みを覚えながら、盗め人としての経験を積んでいくのだ。


 首都圏第三支部の伊十郎の手下には、このレベルの盗め人が非常に多い。いわば、「養成所」の役割も果たしているということだ。


 そういう意味では、千英は非常に恵まれている。学業を続けながら、ほぼ自由に動くことができる。もちろん、後ろ暗い面も含まれるが、それでも「漬物」を再び世の中に出す、という使命の前では、微々たるものだ、と考えている。他人から見れば、この価値観は理解できないだろうが、少なくても由乃と千英にとっては大きな問題だ。大局的に見れば、人類にとってプラスになるとさえ、考えている。


 未だに相手が何者かはわからないが、当初の目的物は相手の手の中にある。何とかして取り戻さなければ、「笹鳴」の名にも傷が付くことになる。何としても、取り返さなくてはならない。


 SAに入り、休憩を取りながら、千英はナビを操作し、発信機の画面を呼び出した。まだ、あの拠点にいるようだった。


 「待ってろよ、もう少ししたら、正体を暴いてやる」


千英はそう呟いて、車をスタートさせた、ナビ上では、まだ3時間以上の道のりが残されているようだった。この分だと、もう一回は給油しないとダメだろう。まったく、この燃費の悪さだけは、何とかしないといけない。


20 正月


 由乃と千英が関西から戻り、2週間ほどが経っていた。暮れもいよいよ押し迫り、世間の年末特有の慌ただしさも落ち着いて来た頃、それを待っていたように、二人は行動を開始した。


 今度は、綿密な下調べと準備を行い、年末年始の休暇に入った様々な施設から、「リスト」に載っていた品々を次々と盗み出した。


 奈良から戻るとすぐ、千英は地下室の大型パソコンから、あの男のノートパソコンに追跡ウィルスを潜り込ませていた。これで発信機と併せ、パソコンの動きから位置を割り出すことができるようになった。さらに、記録や変更された内容についても、即座にわかるようになった。


 リストは半分ほど埋まり、黒で塗りつぶされた項目が増えていたが、「笛」と「首飾り」の項目は赤で塗りつぶされていた。例の、「盗みの記録」を入力してあるエクセルシートには、物が消えていたことが書いてあり、焦りとともに、困惑している様子がありありと見えた。由乃はそれを「良い兆候」と表現し、相手に対し、心理的にもダメージを与えられている証拠だと言った。


 まもなく年が変わる頃、二人は家で年の瀬を楽しんでいた。ここ三日はお盗め一色だったので、別な話題を話したかったのだが、どうしても、話がお盗め関連の、中でも、奈良で出会ったあの男の話になってしまう。足元では、ジャニスが「笑うことを禁じられた」テレビ番組に夢中になり、棒を手にした男たちが画面に現れるたびに、尻尾を振って跳ね回っていた。


 「何とか、年内に区切りのいいところまで進めたわね。」

 「向こうも、関西の分は集め終わったみたいだね。」

 「そうね。あとは7割が関東、3割が東北や中部の何件か・・・。」

 「順当に行けば、この後は中部経由で関東、東北の順かな?」

 「そう見るのが一般的ね。でも、関東の7割の内、半分はこちらが握っていることになるから・・・どの段階でアイツに知らせるか、が鍵にはなって来る。」

 「このまま関西に居座る可能性も、完全に否定はできない、か・・・。」

 「うん。アイツは、私たちが笛や首飾りを持っていることを知らないから、残って探し続ける可能性はあるわね。ほんとに偶然だったけど、アイツにとっては、この二つがリストの中でも最重要に考えてたみたいだから。」

 

 その後も、二人はあらゆる可能性について検討をしてみた。どちらにしてもこの件が片付かない限り、正月気分にはなれそうにない。


 まず、このまま関西に居座られるのは都合が良くない。地理や、いざと言う時の救援の意味からも、フィールドは関東の方が絶対的に有利だ。それに、これ以上関西で騒ぎを起こして欲しくない。「野生動物の仕業」となったあの一件以外にも、あの男はあちこちで荒っぽいやり方で騒ぎを起こしている。今のところ大事にはなっていないが、長引けばそれだけ大事になる確率が上がり、そうなれば由乃たちのお盗めが露見する可能性もある。


 笛や首飾りを探すために、さらになりふり構わない行動を起こす可能性も否定できない。あの男が焦りを感じているのは確かだ。


 もっと困るのは、残りの品物を求めて関東に入り、同じような騒ぎを起こされることだ。こうなると、「組合」の仕事にも影響が出てくる可能性がある。これまでのあの男の仕業と思われる手口は、気を遣っている感じはあるが、どこまでいっても素人の仕事ぶりだ。同業ならすぐに気が付くだろうし、そのうち警察関係者の中にも気付く人間が出てくるだろう。


 関西と同じことを関東で繰り返したら、間違いなくこちらが動きづらくなる。由乃がお盗めを急いだのは、そういった側面も含まれていたのだ。場合によっては、あのサンスクリット語の古文書と引き換えに、全てを返してもいい、とさえ考えていた。もちろん、それなりの理由があることが最低条件ではあるが。


 「やっぱり、正月返上で動くしか、なさそうだね・・・。」

 「結局、それしかないみたいね。」


 元々、千英も実家に帰る予定はなかったし、由乃も家で何かをするわけでもない。湯浅家では、正月行事は旧正月に行われるのが習わしだった。


 そこで、二人は地下室に降り、あの男に向けてメッセージを送った。


『当方、そちらのリストにある品々を所持。あの夜、貴君が持ち去った古典文献と交換の用意あり。応ずる気があるのならば、正月三日の午前0時、浜和庭園、中島の御茶屋までご足労願う。応じない場合、その後はこちらの勝手次第。』


 メッセージには、笛や首飾りの写真を添付してあった。これで向こうにもこちらの意図が伝わったことだろう。本来なら、相手のパソコンのカメラやマイクから映像や音声情報が入手できたのだが、型の古いあのパソコンは、そのどちらも壊れていた。千英はあの廃工場の事務室に、監視機器を何も備えなかったことを悔やんだが、当時はお互いに冷静な判断ができていなかった。これらのミスは今後改めなければならない。


 ウィンドウズのエラーメッセージと同じ形式で、向こうのパソコンに表示された画面は、移動することはできても、消すことはできない。メッセージの下に、残り時間が表示され、カウントがどんどん減っていっているはずだ。二日の余裕を持たせたのは、もちろん移動に時間が掛かるからだった。相手の移動手段がなんであるかは不明だが、こちらが位置を特定していることを、言外に伝える意味も含まれている。向こうがそこに気が付くかどうかは不明だが、上手く行けばさらなる心理効果を得られずはずだ。


 これで、賽は投じられた。あとは、向こうの出方を待つだけだ。メッセージを送ると、二人とも急に気が楽になったような錯覚を覚えて、同時に溜息を吐いた。顔を見合わせて、笑い合った。こんなところまで気が合うとは。


 そうなったら、やることは一つだ。明日からはまた忙しくなる。今日くらいは、のんびりしてもいいだろう。二人は手を取り合って、バスルームへと向かった。

 元旦、二人は昼過ぎまで惰眠を貪った。一度は起きてジャニスの「敷地巡回」と食事を与えた後、またベッドに潜り込んだのだ。ジャニスも勝手に自分のベッドを持ち込み、足元の床でいびきをかいていた。

 

 ようやく起き出して、屠蘇ではなく、コーヒーで正月を祝っていると、由乃のスマホから通知音が鳴った。珍しい、いうべきか、伊十郎からの連絡で、久しく顔も見ていないから、顔を出さないか、というものだった。そういえば、傘寿の会で顔を合わせたのが最後で、以降、「組合」にも顔を出していない。


 正月で、ろくな手土産も準備できなかったが、それでも何とか柄樽を準備した二人は、伊十郎宅を訪ねた。伊十郎の妻、絹江が温かく出迎えてくれ、組合で使っている茶の間ではなく、奥の座敷に通してくれた。間もなく現れた伊十郎も元気そうで、顔色がいい。


 「おお、すまねぇな。こっちで呼んだのに、手土産までもらっちまって・・・。」

 「こちらこそ、お招きありがとう、伊十郎おじさん。・・・変わりはないみたいね?」

 「ああ、おかげさんで、俺も絹江もすこぶる元気さ。憚りながらと、暗いうちからお参りに行ってきたくらいだ。」


 そこに、絹江が茶菓を運んで現れた。


 「ま、こんな稼業だからあいさつは小正月に取っておくとして、今年もよろしくね。」

 「こちらこそ、今年もよろしくお願いします。」


 テキパキと茶を淹れると、ニコニコと笑いながら引き下がっていく。いつもなら絹江も混ざって会話をするのだが、何か用事でもあるのだろうか。この時期は余程に気心の知れた人間でなければ、来客などもないはずだが。


 そういえば、伊十郎の様子もいつもと違う。絹江相手に冗談の一つも飛ばし、それを絹江が軽妙に返す、というやり取りがあるのが普通なのだ。


 「・・・おじさん、何か、あったの?」


 二人の態度に異変を感じた由乃が、口火を切った。わざわざ奥座敷へ通されたのだから、お盗めの話ではないと思うが、何とも言えない胸騒ぎがする。


 「ん?・・・ああ、いやなぁ、ちょっと、耳に入れておきてぇことがあってな。」


 伊十郎はそう切り出すと、まずは、あくまで伊十郎おじさんとよっちゃん、ちぃちゃんとの話として聞いてくれ、と前置きした。ということは、やはりお盗め関連のことなのか。


 「実はな、その、二人のことをよく思ってねぇ奴らが、動き出したみてぇなんだ。」


 言いづらそうに切り出した伊十郎を促して、詳細を聞き出すと、どうやら中堅グループの盗め人達が、千英の「手長」襲名に異を唱えている、と言うのだ。そもそも、「手長」が名跡となり、千英が襲名した「経緯」が、「組合」を全く通さず、権蔵の一存のみで決められたことが面白くないらしい。さらに、その名跡にふさわしい「お盗め」どころか、組合に貢献する動きを、何もしていない、と。


 確かに、由乃も千英も、組合に表立って貢献するようなお盗めはしていない。今までのお盗めは、最終的に組合にその処理を任せていたとしても、あくまで自分たちのためだけのお盗めだった。


 伊十郎は、その動きを察知し、その件について問い質したのだと言う。千英の、「手長」襲名についての経緯を説明し、「お前たちがどうこうできる問題ではない」と諭したのだそうだ。だが、その話を聞き入れず、逆に開き直った体だったと言う。


 「そいつは・・・『明神の瑛吉』ってんだが、まあ確かに、今の組合の盗め人の中じゃあずば抜けて優秀だ。「年寄」連中も、一目置かざるを得ねぇ。それに、手下も粒ぞろいでな、まあ一つの勢力ではあるんだが・・・。どうも、考えが浅はかでいけねぇ。俺が話した時も小馬鹿にしたような態度でなぁ、『そっちでどうにもできないなら、こっちで何とかする』と言って、せせら笑いやがった。」

 「・・・そんなことがあったの・・・。でも、だからと言って、何かができるわけではないでしょう?」

 「まあ、俺もそう思って、打ち捨てておいたんだが・・・。実はな、今朝がた「年寄」から連絡があってなぁ・・・。その瑛吉が、「委員会」の所属になったんだよ。それも、作業班だ、ってんだ。」

 「えぇ? いきなり作業班? そんなことあるの?」

 「俺も驚いた。だが、俺が話をした時には、内々に決まってたんだろうなぁ。だからこそ、俺に対してあんな態度を取れたんだろうよ。」


「年寄」は、いわば組合の「長老会」とでも言うべき存在だ。組合の最高意思決定機関であり、当然、人事権も持っている。「委員会」と言うのは、組合の中の取り締まりをする部署のことを指す。掟破りや、組合にとって不利益となるような行動を取った者を追跡、捕捉し、然るべき措置を取る。その中の「作業班」は、その際の実力行使を司る部署で、強い「現場決定権」を持っている。委員会の決定に従わず、歯向かったり、抵抗したりする者には、遠慮なく実力で対抗することを許されている。それ故に、作業班に配属される者は、少なくても3年は委員会で他の仕事に従事し、その中で人格や行動に問題のない、優秀な者が選抜されるのが通例だ。

 

 「どうにも、気に食わねぇ。何から何まで、何かおかしい。だからよ、本来なら、組合からの通達で知るべき事柄なんだが、あえて順序を変えて話をしたのよ。」

 「・・・おじさん、ありがとう。それを知っているのと知らないでいるのとでは、大きく話が変わってくるわ・・・。十分に、気を付けるわね。」

 「・・・すまねぇ。本来なら、俺がきちっと抑え付けとかなくちゃなんねぇことなんだが、向こうの勢いが強過ぎる。俺ぁな、よっちゃん、なんとなく「年寄」の誰かが絡んでる気がして、ならねぇんだよ。」

 「そうね・・・。確かに、そうなると辻褄が合うこともありそうね。大丈夫よ。私も笹鳴を名乗ってるんだから、しっかりと対処するわ。」

 「む・・・そりゃ、そうだが、今回は相手が悪い。こりゃあ、親分や若にも、話しておいた方がいいんじゃあねぇのか?」

 「どうしようもなくなったら、そうするわ。でも、まだ具体的に何かが起こったわけじゃないし、それに、父はともかく、おじいちゃんは隠居の身よ? 巻き込むわけにはいかないわ。」

 「そ、そりゃあ・・・そう言われりゃあ、それまでなんだが・・・。」

 「おじさんも、あんまり気に病まないで。私たちも、今の件が片付いたら、組合のお盗めをするわ。その、なんちゃらって奴が、文句も言えなくなるほどのお盗めをね。」


 それで、話は終わりだった。それでも心配そうな伊十郎を宥め、できるだけ取り留めのない話をして過ごし、絹江が腕を振るった夕飯までご馳走になって、ようやく伊十郎の家を出た。


 帰りの車内で、由乃と千英は対策を話し合った。とは言え、相手が身内なら、そこまで大事にはならないだろう、と、高を括っていた。伊十郎の心配も、年配者特有の杞憂に過ぎないかも知れない、とさえ話していた。


 それよりも、間近に迫ったあの男との接触の方が、今の二人には喫緊の課題だったのである。


21 接触


 「ボギー1、南東から進行中。」

 「コピー。」


 いよいよ、アイツのお出ましだ。千英は、庭園中央部の池にある、中洲の島にいた。正確には、そこに建てられている「一服茶屋」の屋根の上に、身を潜ませている。この島には、南東から北西に向かって橋が架けられていた。池から現れる以外は、橋を通るしかない。真冬にわざわざ水に浸かる真似をするとは考えにくいから、「どこから現れるか」はほぼ二択に絞られる。


 浜和庭園は、竹芝桟橋の近くに造営された、広大な公園であり、和風の庭園が特に有名だ。敷地には海水を引き入れた大きな池と水路が廻らされており、季節によって色とりどりの花々が来園者を楽しませる。だが、真冬の今、海からの冷たい風を遮る建物のないこの公園は、都会の一角にぽっかりとできた、完全な無人地帯となっていた。真夜中ともなれば、尚更のことだった。


 由乃は、外縁部の林の中から一服茶屋を見張っていた。相手が完全に一人なのか、何を持って来ているか、どんな様子なのかを、確実に識別してからでないと近付く気にはなれない。


 二人とも、プルーフスーツを着込み、その上から、光をほとんど反射しない素材でできたトラックスーツを着ていた。もちろん、バイザーヘルメットを被っている。サーモモードで見張っていたにも関わらず、危うく見落とすところだった。対象の表面温度が異常だった。いくら真冬とは言え、一番温度の高い、露出している顔の部分でさえ、30度しかないことになっている。由乃は当たり前のように、体温程度の温度を示す、黄色からオレンジの色を探していた。歩いてくるような動きがなければ、30度前後を示す緑色は見落とすところだったのだ。


 由乃はバイザーを望遠モードに切り替えた。トレンチコートの襟を立て、帽子を目深に被っている。マスクまで付けているようで、顔は全く確認できなかった。登山用のリュックを背負い、廃工場で見つけたあのトランクを牽きながら、自信たっぷりの足取りで一服茶屋に歩いて行く。茶屋の前まで来ると歩みを止め、そのまま微動だにせず、立っていた。時間は23時55分。


 堂々としている。歩き姿を見ても同じことを思ったが、立っていても落ち着いていて、時間にも正確だ。何かの罠を仕掛けているようにも思えない。二人の読みは当たったかも知れない。少なくても、心に疚しいところがある人間では、こうはいかないはずだ。


 「ボギー到着。目標と類推。これより接触を開始。」


 カチカチ


 千英からの受領通知が届いた。屋根の上の千英が、由乃の援護ができる位置に移動するのが見える。由乃は、相手とは反対側の、北西側から近付いて行った。こちらも小細工はなしだ。地面から橋に足を掛けたところで、相手がこちらに気付いて、身体を正対させた。トランクから手を離し、両手をだらりと垂らす。何も持っていないことを示したのだろう。由乃も両手を振って見せ、何も持っていないことを相手に示した。


 十分な距離を取って、対峙した。わずかに膝を撓めたままにして、いつでも後ろに飛び退けられるようにしてある。


 「そちらは、手ぶらの、ようだが・・・。」


 しわがれた男性の声が響いた。その声は、高齢男性の物だった。話すのが大変そうで、一言ひとことをはっきり発音しようと、苦労している様子だ。


 「まずは、そちらの品物を確認してからだ。」


 由乃は変声機を使用していた。若い男の声に変えている。男は、不思議そうに首を傾げ、こちらの様子を窺うようにしながら、ゆっくりとリュックサックを前に回し、中から薄い木箱を取り出すと、リュックを置いて、木箱を開いた。間違いなく、あの古文書が入っているのが確認できた。


 「今度は、そちらの、番だ。物は、どこだ。」


 木箱の蓋を戻し、両手で抱え込むようにする。その手は、革製の手袋で覆われていた。


 「ひとつ、確認したい。どうして、それを盗んだ?」


 男は、黙ったままだった。これ以上は、妥協するつもりがないらしい。由乃はゆっくりと、左手を背中に回し、服の中からあの笛を取り出した。


 「まずは、笛だ。他の品物もすぐ近くにある。先ほどの質問に、答えてもらいたい。」


 笛を見て、男の態度が変わった。危うくこちらに近付きかけ、慌てて止まったような動きを見せた。そのまま、長い沈黙の後、とうとう根負けした形で、男が口を開いた。


 「ある、目的の、ために、必要だ。話した、ところで、無益、だ。」

 「それは、こちらが判断する。目的を知りたい。」

 「・・・。仕方、ない・・・。」


 そういうと、男は木箱を橋の上に置き、ゆっくりと帽子を取った。そして、マスクも。下から現れたのは、およそ人の顔とは思えない、おぞましい顔だった。


 まず、異常に痩せている。まるで頭蓋骨だけのようだが、顔のあちこちから、赤紫に変色した皮膚の残骸らしきものが垂れ下がっていた。頭髪はほとんど抜け落ち、代わりにボコボコした何かが無数に突き出ている。目そのものと、目の周囲は人間のものであったが、皮膚の侵食がすぐそこまで迫っているように見える。


 「・・・な、何かの、病気なの・・・?」


 声が震えそうになるのを、かろうじて堪えた。しばらくはこの情景が瞼の裏に焼き付くことになるだろう。それほどに衝撃的な面相だった。瞬間的に、リストの品々に「鬼」が関連していることを思い出した。目の前にいるのは、まさしく、「鬼」に違いない。


 「病気、ではない、これは、呪い、だ。」

 「呪い? なんの冗談?」

 「冗談、では! ない! これが、映画か、なにか、だと、言うのかっ!」


 そういうと、男は手袋を外した。その手は、黒と緑のまだら色で、骨ばった指が異様に長い。指の先には、太くて黄色い大きな鉤爪がついていた。やにわに男が腕を振り下ろすと、橋の欄干が金属音を立てながら裂けた。その表面に、3本の爪痕が残っている。男は、爪についた金属の残骸を反対の指でつまみ、橋に落とした。

 「・・・呪いを解く、方法を、探して、いる・・・。」

 「・・・なるほど・・・。それは、切実ね・・・。」


 由乃は、そこでヘルメットを脱ぎ、プルーフースーツのフードを下げた。


 「ちょ! 何やってんの!」


 千英の声がイヤホンから聞こえてきたが、それを無視した。先ほど顔を見た瞬間、言葉遣いを誤ってしまった。もはや、偽装の必要はない、と考えた。それに、相手はこちらの要求に従い、知られたくはなかったであろう秘密を、こちらに明かした。こちらもそれに答えるのがフェアな気がしたのだ。


 「あなたが欲しい品物は、あそこにある。」


 そう言うと、由乃は先ほど自分が潜んでいた茂みの一角を指差した。雑木林の中でも、ひと際背の高い、ナラの木がある辺りだ。


 「あの木の枝に、黒いバッグが掛けてある。そこに全部入っているわ。」


 そう言うと、手にしていた笛を橋の上に置いた。


 「それと、あなたの足元にある古文書も、持って行っていいわ。」

 「・・・どういう、ことだ・・・。」

 「どうもこうも、ないわ。そんなのを見せられたら、何とかしてあげたくなるのが人ってもんでしょ。それだけ。」

 「・・・すまん・・・。助かる・・・。」

 「いいのよ。・・・解けるといいわね、その、呪い。」

 「む・・・。」


 そう言うと、由乃は身を返し、元来た橋を戻る。渡り終えたその瞬間に、林の中に飛び込んだ。


 「動きを見届けてから、RVへ。こちらは先に離脱する。」


 カチカチ


 10分後、千英が戻って来た。あの男は、荷物を持って公園を後にしたと言う。


 「びっくりしたよ! 思わず喋っちゃった!」

 「ごめんごめん、なんか、ああしたくなった。」

 「それにしても急すぎ! で、なんで?」


 正直なところ、「鬼」とか「呪い」とかを、信じたわけではない。だが、あの有様は、あまりにひどい。原因が何であれ、そう長くは生きられないだろう。しかし、あの男はまだ希望を捨てていなかった。何かを探して、必死にもがいていた。


 その部分だけが人間の、目が、瞳が、全てを物語っていた。信念に燃え、覚悟を決めた者の目だった。それを奪うのは、あまりに酷という物だ。


 「そんなに?」

 「千英は見えなくて良かったと思うわ。・・・たぶん、一生忘れない。」


 それでなくても、千英はホラー系の演出が苦手だった。グロテスクな物、鮮血が吹き出すような物は、SFでも戦争物でもダメだ。映画でさえダメなんだから、実物を見たら卒倒しかねない。


 今までの「お盗め」をふいにする結果になってしまったが、少なくても「漬物」状態ではなくなったし、実際にどうするのかは不明だが、あの男が使うためにはいろいろと調べなくてはならないだろう。それなら、「救出」の目的は、半分果たせた、と言えなくもない。


 それに、いずれあの男がそれらを手離さなければなくなる時がくるだろう。その時のために、由乃はカバンの中にメモと携帯を忍ばせていた。メモには、「処分することになったらこちらで引き取る」というような内容が書かれている。携帯は、由乃の電話にしか掛けることができないように細工がしてあった。状況によってはどちらも抜き取ってから渡す気でいたのだが、その場合なら、そもそもこちらの品物は渡さなかった可能性も高い。


 いずれにしても、由乃はあの品々を「今、本当に必要な人間」に渡したかった。そして、あの男にその必要性を感じたから、全て渡したのだ。不要になったら返してもらうつもりで。実際に連絡が来るかどうかはわからないが、それならそれでいい。いずれまた、必ず「救出」する。その自信があったからこその、措置だった。


 素顔を曝したのは、そのための伏線、という意味合いもある。人は、顔を知らない人間より、一度でもその目で顔を見た相手の方を信用する。あの男が「人」であるかどうかは甚だ疑わしいが、少なくても「人の心」は持っていると、由乃は感じたのだ。


 「とりあえず、この件は、ひとまずこれで落着、ってことでいい?」

 「うん、いいんじゃないかな。人助けにはなったわけでしょ?」

 「まあ、ね。手間暇考えたら、割には合わないけどね。」

 「またまたぁ、そんなこと言って、結構早い段階から、こうなると予想してたでしょ?」

 「え・・・そう思う?」

 「うん。って言うか、むしろそうしたそうに見えた。」

 「・・・ごめん、千英にはタダ働きで申し訳ないかな、と思って、言い出せなかったけど、実はそうだった。」

 「やっぱり。でも、由乃がそうしたかったんなら、千英はそれでいいんだよ? 元々損得勘定で動いてないしね。由乃が満足なら、千英も満足。」

 「あーーーーーん、ちえーーー。もうっ、だから、好きっ!」

 「ちょ、ちょっと! 運転中、運転中!」


 千英の抗議は受け入れられず、由乃は千英に抱き着き、頭を抱えて頬ずりした。フォードはちょっとフラついたが、すぐに制御を取り戻した。触れ合った頬と頬は、最初こそヒヤッとしたが、今は温かい。真冬の寒さがまだ車内を覆っていたが、二人の体温は急激に上昇していくようだった。


22 底企


 「お頭、本当に、実行するんで?」

 「お頭は、もうよせ。今は「班長」だ。・・・ああ、するさ。」

 「・・・そんなに、『手長』の異名が欲しいんですか?」

 「はははっ! そんな時代遅れの名前を手に入れて、どうするっていうんだ? 一円にもならんだろうが。」

 「え・・・? じゃあ・・・」

 「俺が欲しいのは、名前じゃない。本体だよ。」

 「本体?」

 「ああ、上椙千英、そのものだ。」

 「・・・どういうことで・・・?」

 「どうって、そのままさ。俺の女にしたいんだよ。あの女、湯浅の孫娘と付き合ってるそうじゃないか! 女同士、一緒に暮らして! ハハッ! そういう女に、男ってヤツを教えてやるのもいいだろ? 顔も体も好みじゃないが、なんてったって箔付きだからな。そういうのを女にしたら、俺の株もあがるだろ?」

 「・・・そのためだけに、年寄に取り入ったんですかい?」

 「・・・いや、それだけじゃあない。・・・まあ、いいさ。・・・さあ、もう行け。やることがあるだろ。」

 「・・・はい・・・。」


 『明神の瑛吉』こと、朱乃宮瑛吉は、手下の一人、『駒止の信二』が部屋を出たのを確かめると、吐き捨てるように舌打ちをした。信二は、瑛吉の元からの手下ではなく、「委員会」に配属されたことにより、組合から押し付けられた、瑛吉に取ってみれば新参だった。


 10年近くも委員会で様々な仕事をこなしてきた信二は、頭務めもしたことのない、瑛吉から見れば格下の「盗め人」だったが、年も上だし、今までの「委員会」勤務の経験もあり、前例のない行動を取る瑛吉に、何かと不服そうな態度を取る。それが気に食わない。


 かといって、「委員会」の仕事の詳細については信二に聞くしかないし、「組合」から付けられた人間を邪険に扱う訳にもいかない。それが、ますます気に食わない。


 『あの、目が嫌いだ。』


 一見すると、なにやら物悲しいような感じなのだが、瑛吉はその奥に、常に蔑みの感情が見えるのが何より嫌だった。従順なような態度を取りながら、その目は、『決して心服はしていないぞ、若造が、いい気になるな。』と言っている。


 『今に、見てやがれ・・・。』


 もう少し、「委員会」での仕事を覚えたら、信二には消えてもらうつもりだった。理由は何とでも付けられる。このところ、瑛吉はその時のことをあれこれと想像しながら、溜飲を下げているのだ。存分に痛めつけ、心も体も折ってやるつもりだ。それに、あの目だけは、必ず自分の手で抉り出してやる。誰もいない部屋で、瑛吉はククッと笑った。



 信二は班長部屋を出ると、階段を降りて作業部屋へと入った。部屋にいた若い手下3人に、それぞれ命令を出して外に出すと、自分の席に着いてタバコに火を点けた。


 「気に食わねぇ・・・。一体、何を考えてやがる・・・。」


 そう、声に出して呟いた。組合から、正式には、「年寄」の一人からこの話を聞いた時から、ずっとそう思っている。長い事「委員会」で仕事をしているが、こんなことは後にも先にも聞いたことがない。いくら有能な「お頭」で、抜群の成績を誇っていようが、いきなり「委員会」の、それも、「作業班班長」に抜擢されるなど、有り得ないし、あってはならないことだ、と信二は思っている。


 『しかも、選りにも選って、一番なっちゃいけねぇタイプの人間と来てる・・・。』


 さすがに、ここは声にはしなかった。だが、その思いは日に日に強くなる。『明神の瑛吉』は、典型的な「権力に酔う」タイプだ。今も、激しく酔っている最中だろう。普段から、何をしても結果を出せば許されると考えているような人間に、何をしても許されるような権限を与えてしまった。これからどうなることか。それを考えると、信二は恐ろしくなった。


 今の話でもそうだ。「上椙千英を手に入れたい」と言うのは、組合にも委員会にも何も関係のない、個人の欲求だ。しかも、飛び切り下衆な。それを、まるで「それこそが委員会の務め」とでも言わんばかりの勢いで命令を出してくる。ことの善悪が、まったく頭の中にない。だが、命令は命令だ。今の信二の立場なら、従うしかない。


 さらに恐ろしいのは、それを、瑛吉を推した年寄も、否定しないどころか支持しているようなフシがあることだった。一体、何がどうなっているのか、さっぱりだった。とにかく、組合の中でおかしな動きが起こっているのだけは間違いがない。


 信二は、深く長い溜息を吐いた。

 

 どうにも、気が乗らない。だが、仕事は仕事だ。「笹鳴」には気の毒だが、今はやるしかない。それに、もしかしたら、信二などは考えもつかないような何かが、笹鳴にあるのかも知れなかった。だから年寄も、瑛吉に全てを任せている、ということもあり得る。もしそうなら、命令に従わなかった場合はとんでもない落ち度になる。それこそ、命が危ないレベルで。


 信二はもう一度溜息を吐くと、タバコを消して立ち上がった。


23 勾引


 1月も半ばを過ぎて、大学では期末テストが間近に迫っていた。同様に、ウィンターインターンを始めとした就職活動も忙しくなる時期で、構内は人の集まるところと集まらないところがハッキリ分かれるようになった。


 由乃はそうした学生達とは違い、大学院進学のための準備を進めていたが、まずは奈良の発掘調査をレポートにまとめ、大学に提出する準備に忙殺されていた。


 千英は、相変わらず渡辺准教授が「好き過ぎて苦手」なため、別行動をする時間が増えることになった。実は、最近、父と連絡を取り始めた。と言っても、それは父と娘の関係と言うより、開発者と協力者のそれだった。


 千英の父は、非破壊検査のエキスパートであり、今までは主に隕石や特定鉱物の成分鑑定などを手掛けていたが、春からは本格的にX線CTスキャン装置を使用しての、「墨書」の解析をメインの研究課題にするという。そこで問題になって来たのが、スキャン画像の三次元的再構成の精度だった。紙も墨も、同じ炭素で構成されているため、それらを区別してテキスト化するためには、ミクロン単位の精度が必要となるのだ。


 今までは、父の構築したプログラムに不正にアクセスし、手直しを加えてきていたのだが、それがとうとうバレてしまい、どうせなら本格的に研究を手伝って欲しい、と頼まれた。当初、千英はあまり乗り気ではなかったが、由乃が積極的に手伝うべきだ、と言うので、半ば渋々、協力を始めた。


 始めてみると、これが面白い。千英はすぐに夢中になって、次々に押し寄せる難題をクリアするため、かなりの時間を割いていた。


 今日も由乃を待つ間、一人ミニクーパーの助手席でノートパソコンを開き、プログラムを追っていた。今日の千英は絶好調で、ここ三日掛かりきりだった難局に、光明を当てる可能性のあるアイデアが降りてきていた。アスリートで言えば、「ゾーン」に入ったような状態で、キーボードを叩き続けた。


 そのために、ミニクーパーを取り囲んだ異変に、まったく気が付かなかった。その瞬間、千英は「手長」でも「盗め人」でもなく、「研究者」になっていたのだ。


突然、助手席の窓が割られ、驚いて振り向いた千英の顔に、何かのガスが噴射された。瞬間的に、千英は意識を失った。


 由乃のスマホが、けたたましいアラームを鳴らした。画面を見ると、ミニクーパーの異常を知らせるアラームだった。しかし、今、ミニクーパーには千英が乗っているはずだ。先ほど、あと30分ほどかかる、と連絡をした時にも、それを確認していた。


 『誤作動させたのかしら?』


 そう考えながらも、由乃は研究室を出て、駐車場に向かった。歩きながら、千英のスマホを鳴らしてみたが、千英が出る気配がない。由乃は移動速度を上げた。鳴るはずのないアラームが鳴り、出るはずの千英が出ない。どちらかだけなら偶然だが、二つ重なれば、それは事故ということだ。


 駐車場の見える廊下に出た時、ミニクーパーが見えた。助手席のドアが開け放しになっている。千英の姿は見えない。由乃は廊下の高窓に飛び上がり、その窓から直接駐車場に出た。その様子を見ていた数名の学生が、信じられないモノを見た、というように顔を見合わせる。その中の一人は、近近大の女子学生と遠距離恋愛をしている、あの男子学生だった。


 「千英! 千英っ!」

 ミニクーパーの助手席の窓が割られていて、車内から鼻を衝く異臭が漂った。恐らくセボフルランだ。千英は、誰かに攫われた。


 由乃は素早く周囲を見回した。何かの異常を見落としていないか、確認するが、これと言って変わったことがない。その時、駐車場のフェンス越しに見える、一般道路を走って行った宅配トラックの運転手と目が合った。ニヤニヤとこちらを見てから、スピードを上げて走り去って行った。


 助手席のドアを閉め、ボンネットを滑って運転席に回り込むと、エンジンをスタートし、ミニクーパーを急発進させた。駐車場を瞬時に走り抜け、サイドブレーキターンで右折してゲートに向かう。バーは下がっていたが、開くのを待つ余裕はない。由乃はギアを落とし、アクセルを踏み込んだ。 


 ミニクーパーが即座に反応し、回転数が一気に上がる。驚いた顔の駐車場の警備員が、両手を大きく振ってこちらの注意を促したが、由乃はそれにクラクションで答え、警備員をどかせると、そのままゲートのバーをへし折って、道路に飛び出た。左から来た車が急ブレーキを掛け、その後にけたたましくクラクションを鳴らしたが、由乃は意に介さず、さらにアクセルを踏み込んであのトラックを探した。


 この先、緩いが長い下りの右カーブが続き、キャンパスのある丘を回り込むように降りていくと、片側2車線道路の十字路交差点に出る。その時点で見失っていたら、もう追い着くことは難しい。何とかその前に捕捉し、確実に後をつけなければならない。


 時速80kmで坂を下ると、十字路の信号が赤から青に変わったところだった。その光景を見て、由乃は愕然とした。同じトラックが6台。それぞれ2台ずつに分かれ、三方向に進んで行く。


 「くそっ、やられた。」


 明らかな尾行妨害措置だ。これで追跡できる確率がグンと下がった。同時に、この作戦がそれなりの組織によって、きちんと計画されたものであることが分かった。少なくても、6台のトラックと6人の運転手を用意することのできる組織であることは、間違いない。

 

 由乃は、直進に賭けた。可能性は3分の1に減った。あっという間に追い着くことはできたが、運転席を確認させないよう、2台が車線をいっぱいに使い、同じ速度で走っている。由乃が右に寄れば右が狭く、左に寄れば左が狭くなる。ドライバーの運転技量もなかなかのものだ。


 「・・・もう! 頭来た!」


 ギアを下げ、ハンドルを右に切った。ミニクーパーは中央を分離しているポールを数本なぎ倒して、対向車線に飛び出した。アクセルを目いっぱいに踏み込んで、二台を追い越そうとするが、こちらの意図を察した二台も、同じようにスピードを上げた。


 対向車線を向かってくる車が、激しくパッシングし、クラクションを鳴らした。脇目で

距離を測りながら、ギリギリまで速度を上げ、すんでのところで左に寄り、またポールに突っ込んだ。速度が落ちる。また対向車線に戻り、アクセルを踏み込む。向かってくる車が気付き、慌てて車線を変更した。


 「よしっ!」


 由乃はギアを下げ、アクセルを床に着くまで踏み込んだ。瞬時にエンジン回転数がレッドゾーンに飛び込み、ミニクーパーはロケットのように加速してトラックに並んだ。右車線のトラックの運転手は、先ほど見かけた人物とは別人だった。はずれ。そのまま追い抜くと、ハンドルを左に切って、一気に第一通行帯まで車線を移し、ブレーキを踏み込んだ。鋭いスキール音を上げて、ミニクーパーが急停止する。トラックも同じように急ブレーキを踏んだ。勢いでトラックのフロントが沈み込み、ミラー越しに運転手の顔が見えた。これも、はずれ。賭けは、失敗した。


 追突されるギリギリで、再び急発進した由乃のミニクーパーは、脇道に逸れ、そのまま行方をくらました。既にパトカーのサイレンが聞こえてきている。すぐに身元はバレるだろうが、まだ捕まるわけにはいかない。由乃はモールの立体駐車場にボロボロになったミニクーパーを止めると、広い店内に姿を消した。


次に別の出口から姿を現した由乃は、別人の恰好になっていた。何食わぬ顔でタクシーを拾おうとした時、スマホが着信を知らせた。見たことのない番号だった。


「・・・はい・・・。」

「笹鳴の由乃、だな?」

「・・・そちらは?」

「作業班の、駒止の信二、という者だ。手長は、作業班で聞きたいことがあって、身柄を預かっている。ヘタに、騒がないことだ。自分の首を絞めることになる。」

「手長は、無事なんでしょうね?」

「・・・今のところは、な。」

「・・・すぐに返してもらうわ。どこに迎えに行けばいいの?」

「それは無理だ。こちらの用件が終わるまで、誰とも会わせないし、拘束を解くつもりもない。」

「ふざけたことを言ってんじゃない! 話が聞きたいのなら、踏むべき段取りってもんがあるでしょ! いきなり身柄を攫うなんてことが、許されると思ってんの?」

「ははは・・・おかしなことを言うな? か弱い女子大生だ、とでも言いたいのか?あいにく、アンタも俺も、そんな世界で生きてねぇだろ? もちろん、手長もな。アンタにできることは、大人しくこっちからの連絡を待つことだけだ。・・・今夜にも連絡を入れるから、それまで大人しくしてろ。・・・それと、な、この件で、他を巻き込まない方がいいぞ?それが例え、身内でもな。これ以上、周囲を巻き込むな。わかったか?」

「そんなたわごとを、真に受けろ、とでも言うの?」

「ふ・・・好きにしなよ。ただ、俺は忠告したぜ?」


それだけ言うと、電話が切れた。由乃はすぐに、「組合」に発信番号の照会を依頼したが、結果は間違いなく、「作業班」で登録がされている電話番号だった。これで、ハッキリした。千英は、作業班に連れ去られた。


タクシーに乗り込んで、自宅ではない目的地を告げた。作業班が絡んでいる以上、自宅に見張りがついているのは、ほぼ間違いない。自宅はもう、しばらく戻れない場所となった。車内で考えを整理する。千英の身柄を抑えてまで、聞きたいこととは何か。普通なら、所属支部の聴聞を受けるのが先だ。いきなり委員会が動くほどの、重大な掟破りがあったとは思えない。


 それに、駒止の信二は、「周りを巻き込むな」と忠告してきた。「身内を含めて」と。そこにどういった意図が隠されているのかは不明だが、おそらく実家にも監視の手が回っていることだろう。もしかすると、もっと進んだ事態になっているかも知れない。由乃が下手に協力を要請すれば、連帯責任を押し付けて、制裁を加える気でいるのかも知れない。


 その可能性が否定できない以上、由乃は一人で作業班と相対しなければならない。すでに大学施設を意図的に破壊し、交通法規を逸脱した運転を行って、周囲を巻き込んでいる。その罰はいずれ受けるつもりだが、今ではない。最優先は、千英を無事に取り返すことだ。


 15分ほどで、目的の場所へ着いた。同じようなショッピングモールだが、こちらは駅に併設されていて、人通りも比べ物にならないほど多い。本当の目的地へ行く前に、ここで尾行の確認をするつもりだった。恐らくは、ないだろう、と思う。向こうが千英を抑えている以上、こちらを見張る必要はないと判断するはずだ。


 モールをグルグルと回り、何度も昇り降りし、やはり尾行がないことを確認した。それでも、由乃は最終的に下着専門のテナントに入り、その裏にある従業員通用口からバックヤード経由でモールを出た。にこやかに微笑みかけてきた店員が、怪訝な面持ちでこちらを見ていたが、由乃も笑顔で会釈をすると、絵に描いたような作り笑いで会釈を返してよこした。恐らく、今頃はもう忘れているだろう。ショップ店員も、ヒマではないのだ。


 そのまま電車に乗り込み、本当の目的地の最寄り駅で電車を降りた。徒歩で向かったのは、閑静な住宅街にある一軒家だった。いざと言う時の、いわゆるセーフハウスである。


 ここに、由乃は当面の活動を行うための資金、美雨作成の偽造身分証明書、カードなどを隠していた。この場所は、千英も知らない。同じように、千英にも由乃の知らないセーフハウスを持たせてあった。知らない情報は、話しようがない。聖からの忠告を受け、「比翼連理」にならないための措置の一つだった。


 由乃はソファに腰を下ろすと、そのまま微動だにせず、目を閉じた。


 今や、完全に孤立無援だ。聖から渡されている特殊装備も、何一つ持っていない。真相を知るために、伊十郎に連絡を取ろうかとも考えたが、向こうは由乃と伊十郎の関係性も突き止めているだろう。「身内」と捉えているかも知れない。ダメだ。


 今ある資産をまとめてみた。ガレージに車が一台、何の変哲もない、旧式のトヨタノア。バッテリーの端子を繋げば、すぐに走れるようにはなっている。現金が200万円ほど。パソコンと携帯が数台ずつ。それだけだった。特筆すべきものは、何もない。


 これで、作業班と渡り合わなくてはならない。何もかも、不足だった。せめてあと一人、事情を知る人間が欲しい・・・。


 ふと、思いついた。由乃は書斎机の引き出しから、まっさらな携帯を取り出すと、番号を押した。


 

 千英は、見慣れない部屋で目を覚ました。まだ頭がボーっとしている。どうやら、椅子に座っているらしい。身体を動かそうとして、身動きができないことに気が付いた。拘束服を着せられている。声を出そうとして。口に玉口枷が付けられていることにも気が付いた。


 「お目覚めのようだな・・・。時間、ピッタリだ。」


 顔を上げると、目の前に事務机に寄りかかるようにして立っている男が、腕時計を確認していた。白のスーツに、紫のシャツ。胸元から金の喜平ネックレスが見えていた。


 「お前は、『縄抜け』もできるし、『絶息』まで使えるらしいからな。小娘一人に大袈裟かとも思ったが、油断はできねぇ・・・。申し遅れたが、俺は委員会作業班班長の、瑛吉ってもんだ。」

 「むーむむ・・・むっ!」


 千英は抗議の声を上げたが、声は出ず、代わりに口の端から涎が垂れた。口が閉じられないので、呼吸はできるが、唾を飲み込むのも楽ではない。


 「おいおい、そう興奮するなよ。涎まで垂らしやがって、カワイイ顔が台無しだぜ?」


 そう言うと、男は千英に歩み寄り、指で口に着いた千英の唾液を掬って、自分の口に入れた。音まで立てて、指を吸って見せた。瞬間、千英は激しい吐き気を覚えたが、かろうじて堪えた。目から意図しない涙が溢れ、喉が焼けるように痛い。


 「ああ、美味ぇ・・・。もう少ししたら、たっぷりと味わってやるからな・・・。だが、その前に、お前の恋人を始末しちまわねえとな・・・。ま、それまでは、窮屈だが我慢してくれよ。」

 「・・・!っ」


 こいつは、由乃に危害を加えようとしている。しかも、作業班の班長と名乗った。組合絡みのことなのか? だけど、いきなり始末? そんなことが有り得るのか? こいつは下品でとんでもない変態だが、立ち居振る舞いを見てもかなりの腕利きだと言うことはわかる。その時、千英の背後でドアをノックする音が聞こえた。


 「・・・入れ。」

 

 ドアの開く音がして、誰かが室内に入って来た。


 「準備が、整いました・・・。」

 「よし・・・。」


 瑛吉は、優雅とも思えるゆっくりとした仕草で事務机を回り込むと、高い背もたれのついた革張りの椅子に座り、上着のポケットからスマホを取り出して、机に置いた。すぐにスマホから、呼出音が聞こえて来る。スピーカーにしたらしい。


 「・・・はい。」


 由乃の声だ。瞬間的に、危機を感じた。自分をダシに、由乃を呼び出す算段に違いない。そしてその先には、何かとてつもない罠が仕掛けられている。


 「んーーーっ! んーーっ!」


 身体を振るようにして、椅子を前に出し、何とか声を届けようと試みたが、声は声にならず、椅子は後ろから押さえつけられた。


 「・・・聞こえたか? 状況は、わかっているな? 俺は作業班班長の、明神の瑛吉だ。笹鳴の由乃さんよぉ、すまねぇが、その件でご足労願いてぇ。今晩0時ちょうどに、作業班で使ってるビルに来てくれ。住所はメールで送った。言うまでもねぇが、一人でな。」

 「・・・わかったわ。」


 それだけ言うと、由乃は「自分から」通話を切った。瑛吉が、驚いたような顔をする。

 

 「・・・おいおい、向こうから先に切りやがったぜ? 普通は無事に返せとか、声を聞かせろとか、言ってくるもんじゃねぇのか? なぁ、信二、こいつ、ほんとに大丈夫なんだろうなぁ?」

 「・・・さぁ・・・。」

 「自宅にも戻ってねぇし、身内どころか、伊十郎にすら相談した様子がねぇ、と言うのは、どういうことだ? まさか、手長を見捨てて、どこかにトンズラこいたんじゃねぇよな?」

 「・・・もう一度、電話してみたらどうで?」

 「ばかやろう! そんなみっともない真似、できるかよ! こっちが見失ってるって宣伝するようなもんじゃねぇか!」

 「・・・。」

 「ちっ! まあ、いい。とにかく、予定通りだ、行くぞ!」


 信二と呼ばれた男が、先に部屋を出た。瑛吉も立ち上がり、ドアに向かう。向かいながら、瑛吉は千英の顎に手を掛けて、顔を上向かせた。目の前に、瑛吉の顔がある。必死に顔を背けようとしたが、強く下顎を掴まれて、乱暴に正面を向かせられた。


 「へへっ、いいねぇ。俺は、嫌がるのを無理矢理するのが大好きなんだよ・・・。ま、せいぜい楽しませてもらうさ・・・。」


 そういうと、瑛吉は舌を出し、千英の頬を下から上に、舐め上げた。千英はそのざらっとした感触に、とてつもない嫌悪感を覚えた。瑛吉が部屋から出て行った後、今度は堪えきれず、千英は激しく嘔吐し、玉口枷の影響で、危うく自分の吐しゃ物で溺れそうになった。

 

24 決戦


 東京港に浮かぶ、通称、「新令和島」。令和島の西側に造営された新しい埋立地だった。一時期は、ここに大きなカジノの誘致が検討され、いずれは舞浜とも橋で繋いで、子供から大人まで楽しめる、一大エンターテイメント施設を建設しようと、気勢が上がったこともあった。しかし、今ではその勢力は鳴りを潜め、建設途中で打ち捨てられた建物が数棟取り残されただけの、だだっ広い野原と化している。


 由乃が呼び出された作業班のビルは、ここにあった。6階部分まで作られ、そのまま放置されていたビルを、ただ同然で「委員会」が手に入れたものだった。敷地は高い鉄のフェンスで囲まれ、足場が組まれたままで、落下防止のために張られたネットが、そのままになっている。おかげでこのビルは、とても目立つが、中で何が行われているかは外から窺い知ることができない。


 時折、このビルから悲鳴が聞こえると話題になり、「心霊話島」と呼ばれた時期もあった。視聴数稼ぎの配信者がポツポツ現れ始めた頃、その噂はあっという間に聞かれなくなり、今では訪れる者もいない。界隈では、「アソコはマジだから、絶対に近付くな」と言われていると言う。


この「島」に入るには、北側の若洲から延びる道路か、東側の令和島から延びる道路を通るしかない。普段はゲートが閉じられているが、今日は瑛吉の指示で、どちらも開放されていた。


 「若洲方面から、車が一台。古いミニバンです。」

 

23時50分、道路を見張っている男から、信二の持つ無線機に連絡があった。信二が瑛吉に視線を送ると、瑛吉は静かにうなずいた。


 「よし、恐らくそいつが笹鳴だ。若洲方面を固めろ。令和島班は念のため0015まで待機、動きがないなら、戻ってこい。」


 無線機から、次々と受領通知が送られてきた。続いて、ビルの前庭を照らし出すように配置された投光器のスイッチが入れられ、敷地が明るく照らし出された。


 瑛吉はここに、30名の手下を潜ませている。作業班の人数だけでは足りないので、元手下で、掟に触れて、組合から切られた人間や、付き合いのある海外勢力から借りた人間も含まれていた。当然、全員が武装している。その多くは木刀やナイフ程度の物だが、瑛吉や信二は、銃も携帯していた。


 二人は、前庭が全て視界に入る、3階の広い部屋にいた。ここが指令室となっていて、作業班の中枢とも言える場所だった。普段瑛吉のいる班長部屋は5階に、信二のいる部屋はこの上の4階にある。今、この指令室には、二人の他に2名の手下がいて、監視業務とこまごました無線のやり取りを行っている。


 二人が並んで、窓から前庭を見下ろしていると、報告にあったミニバンが敷地に入って来て、ライトを消した。すぐに、敷地入り口の鉄扉が閉められる

 運転席のドアが開き、運転していた人間が降りてきた。ぴったりとしたトラックスーツに身を包み、頭はパーカーのフードで隠されている。一見して女と分かる体型で、瑛吉はそのスタイルを見て、下卑た笑みを浮かべた。手長より、こっちの方が全然いい。


 女は、閉められた門扉を一瞥すると、運転席のドアを閉じ、両手をパーカーのポケットに突っ込んだまま、立っていた。こちらからの指示を待っているようだ。


 「車内には他に誰もいません。一人です。」


 車を視認できる位置の人間から、報告が送られてきた。こちらの指示通り、一人で来たらしい。


 その報告を受けた信二が、手下からマイクを受け取って、静かに話し出した。


 「両手を出して、顔を見せろ。両手は、頭の上だ。」


 場内のスピーカーから、信二の声が敷地内に響いた。


 

 その頃、千英は何とかして拘束服を脱ごうと、身を捩ってもがいていた。両腕は胸の前で交差するようにされていて、肩関節を外す余裕がない。だが、少しずつ、服の位置をずらすことに成功していた。右腕の締め付けはどんどん強くなるが、左腕に僅かだが、動かせる余裕ができてきた。もう少し、余裕が欲しい。あと、5mmでいい。


 事務机の後ろにある窓に、人の気配を感じて顔を上げた。ビルの外に、由乃が立っていた。由乃は窓から室内を覗き、他に誰もいないことを確認すると、ガラスカッターで窓に穴を開け、そこから手を伸ばして錠を外して室内に入って来た。


 「んんん! んんん!」


 千英が声にならない声を上げると、人差し指を口に当て、声を出すなとジェスチャーを送ってくる。千英はうなずいて黙った。


 由乃は無言でナイフを取り出すと、千英の拘束具の皮バンドを切り始めた。すぐに両手が動くようにはなったが、長い袖が椅子の後ろで結ばれているため、まだ自由にはならない。由乃はナイフを拘束服の隙間に入れ、服自体を大きく裂いた。その間も、由乃は小さく千英、千英と呟きながら、千英の目から視線を外そうとしない。その目に、みるみる涙が溢れてきた。それを見て、千英も涙を浮かべた。


 やっと、上半身が自由になった。千英が一番最初にしたのは、さきほど瑛吉に舐められた頬を、拘束服の吐しゃ物で汚れていない部分で拭き取ることだった。これをどうにかいしない限り、由乃に抱き着くこともできない。由乃まで穢れてしまう。


 その様子を不思議そうに見ていた由乃は、すぐに気を取り直し、下半身の解放にかかる。拘束服の上から、ナイロンバンドで足が椅子に固定されていた。素早くそれを切って身体を起き上がらせると、待ちかねたように千英が由乃の胸に飛び込んで来た。声を殺して、泣いている。口枷は、千英が自分で外していた。


 「千英、千英! 」

 「よ、しのーーー!」

 

 お互いに小声で名前を呼び合うのが、精一杯のところだった。ひとしきり抱き合った後、身を離し、千英の顔の汚れを拭きながら、状況を説明した。


 その時、外で大きな爆発音が起きた。


 

 女は、ゆっくりとポケットから手を出した。その手に、何かが握られている。瑛吉や信二が異変を感じ、警告の叫びを上げると同時に、女は半身を返して両手を開き、ビルの正面口と敷地入り口に向けて、次々に何かを発射した。


 飛翔した光の尾を引く物体は、着弾すると激しい光とともに、無数の火花を散らした。まるで太陽を直視した時のような眩しさに、3階にある、無灯火の指令室までが、昼間のように明るく照らし出された。


 手で顔を覆うようにしていた瑛吉と信二が、光の闇から立ち直ると、前庭では体のところどころに小さな火の着いた手下たちが、闇の中で踊るようにしながら、必死に衣服に着いた火を消そうと躍起になっていた。恐らく、1階のロビーでも、同じような光景が繰り広げられているに違いない。


 その飛翔体を撃った女は、既にミニバンに乗り込み、敷地の外に向けて車を返している最中だった。


 「くそっ! やられた! おいっ! 全員5階に集めろ! 俺の部屋だっ!」


 

 「こっちは終わったわよ! 順調に逃走中! ごめん、車はボコボコ!」

 「ありがとう! 車は適当に捨てていいわ! 無事に逃げてね!」

 「はいはーい!」


 由乃と千英は、無事にビルを脱出し、既に裏手の水路近くまで逃走していた。イヤホンから聞こえてきたのは、美雨の声だった。


 「今の、美雨!?」

 「そうよ。偽造を依頼したの。私のね。」

 「ははっ! なるほどね! ところで、私たちはどこに向かってんの? こっち、何もないよ? 海以外。」

 「まあまあ、それは着いてからのお楽しみよ。」


 由乃は、走りながら千英にウィンクして見せたが、この暗闇では見えたかどうかはわからない。二人はそのまま、島の端、コンクリートの防波堤まで走った。


 海の上に、ぼやけた裸電球の点いた一艘の船が浮かんでいた。由乃は迷いなくその船に飛び移ると、間もなく、千英も飛び移って乗り込んだ。それは、養殖業で使うような、小さな和船だった。


 「いいわ! 出して!」


 由乃がそう言うと、船のエンジン音が高まり、船は驚くほどのんびりと、防波堤を離れた。船の後部で、船外機を操作している人物を見て、千英は仰天した。


 「あ! アイツ!」

 「Wさんよ。本名は、名乗りたくないって。まだこっちにいたから、応援を頼んだのよ。」


 帽子を被り、マスクで顔を覆った男は、千英の声に気が付くと、軽く右手を挙げた。釣られた千英が、呆けたような表情で同じように右手を挙げる。


 あの時、由乃は真っ先に、Wのことを思い出した。バッグに忍ばせておいた携帯をダイヤルすると、7コールで本人が出た。事情を伝え、頼めた義理ではないが、と前置きしてから話をし、残った品々を集めて渡すことで、協力を承諾してくれた。本当は、正面からは由乃が乗り込み、時間を稼いでいる間に、千英の救出を依頼しようと思っていたのだ。Wの身体能力なら、力技だけで千英の救出は可能なように思えた。


 だが、協力を得られたことで、由乃はもう一人、「組合」も「委員会」も関係性を掌握していないだろう人物がいることを思い出した。それが、美雨だった。美雨の方は、「自分を偽造して欲しい」という依頼を出して承諾させた。というより、美雨は由乃が引くほどに積極的で、事情を伝えると、一も二もなく飛びついてきたのだ。美雨は前々から、こういう冒険を望んでいたのだという。そのためなら、多少の危険は喜んで冒す、とまで言い切った。


 そして、美雨を引き入れたところで、これから行われる「仕上げ」が可能になった。由乃はスマホを取り出すと、ある番号にリダイヤルした。


 

 明神の瑛吉が先頭になり、駒止の信二が後に続き、班長部屋の扉を勢いよく開いた。二人とも、その手には拳銃を握っていた。それを構えて、室内に踏み込む。だが、すでに千英がいた椅子は空になり、椅子の足元に切り裂かれた拘束着が捨てられていた。奥の窓が開け放しになっている。


 「くそっ! 逃げられた! おい! 車を追わせろ! どこかで合流するはずだ!」


 瑛吉が窓から身を乗り出すようにして周囲を確認するが、二人の姿は見当たらなかった。信二が遅れてついてきた手下に命令を下し、無線でも同じことを指示したが、そう簡単にはいかないだろう、と考えていた。


 あの火花は、粘着性の可燃物質のようだった。外の連中は転げ回って火を消そうとしていたが、いったん消えたと思っても、すぐに再燃するのだ。一階ロビーの状況は、こちらに向かいながら、カメラの映像をチラッと覗いただけでも、かなり燃え広がっていたようだ。ほとんどの人間が、その消火に追われているはずだ。現に、ここにも二人しかついてきておらず、無線指示についてもどこからも応答がない。


 その時、信二のスマホが着信を告げた。画面を見ると、笹鳴の由乃からだった。もはや、電話を掛けてくる余裕すらあるらしい。


 「・・・なんだ?」

 「すぐにそこから逃げ出しなさい。もちろん、手下も連れてね。それから、車には近付かない方がいいわよ。」

 「なに? ふざけたことを言うな! またすぐに捕まえてやる!」

 「ふふ・・・好きにしたらいいわ。でも、忠告したわよ?」


 それだけ言うと、通話が切れた。その様子に気付いた瑛吉が、信二に詰め寄った。


 「誰からだ! どうなってる? 捕まえたのか?」

 「いえ・・・笹鳴からです。すぐに、手下を連れて逃げ出せ、と。」

 「なにぃ? あのアマ! なめくさりやがって! 委員会に盾突いて、無事に済むと思うなよっ!」

 「いや、ありゃあ、脅しじゃねぇ。すぐに逃げた方が・・・。」

 「あ? 手前まで、日和やがって!」


 そう言うと、瑛吉は手にした拳銃の引鉄を引いた。3発の銃弾を受けた信二が、口から血を吐きながら吹き飛んだ。


 「ざまぁ見ろ! 前々から、気に食わなかったんだよ!」


 瑛吉はそう言うと、踵を返して班長部屋を後にした。残された信二は、薄れゆく意識の中で、自分が付き従う人間を間違えたことを後悔しながら、自嘲気味に薄く笑った。


 「笹鳴の・・・お頭と・・・腕を、ふるって見たかったなぁ・・・。」 


 最後にそう呟いて、信二は絶命した。


 「ホーリー、ワーブラー、アタックアタックアタック」

 「ヤー。」


 それだけで、スマホを仕舞い込んだ。その時、真っ黒の物体が、特有の風切り音を残して、高速で船の上空を通過した。その、数秒後、今二人が逃げ出してきたビルが爆発した。上空から、炎の矢が立て続けに敷地に向かって飛んでいき、次々と爆発が起きた。


 

 一気に階段を降りた瑛吉は、一階ロビーの惨状を見て、思わずたじろいだ。火災はどうしようもないレベルで広がっていた。熱気が階段まで押し寄せて来ていた。もはや、追跡どころではない。まずはここから逃げ出さなければ。


 その時、どこからか、糸を引く高音が聞こえてきた。その数が増して・・・。

 

 ドォオオオン!


 大きな音と共に、ビルが大きく揺れ、瑛吉は床に倒れ込んだ。あちこちから悲鳴が上がり、ビルを囲んでいた足場が崩れ、入り口を半分ほど塞ぐ。その後も立て続けに爆発が起こり、そのたびにビルが大きく揺れ、軋み音や金属の折れる音がそこら中に響いた。


 その音が止むと、全員が立ち上がり、一気に玄関へと殺到する。瑛吉も手下を押しのけるようにして外に出ると、駐車してあった車が、すべて炎上していた。


 「な・・・何が・・・何が、起こった?」


 そう考えた時、瑛吉は頭に強い衝撃を受けて、意識を失った。防音ネットで支えられていた足場を接合していた金具が落ちてきて、瑛吉に当たったのだ。


 

 「うわーーー! ヤバ! えっ? ミサイル???」

 「ミサイルなら、とっくに建物は跡形もないわよ。あれは、ロケット弾。」

 「いやいやいや! ここ、日本だよ?」

 「何言ってんの。定期的に、ミサイル飛んできてるじゃない。北から。」

 「そ、そうだけど! 着弾はしてないよ! 爆発も!」

 「ちょっと、お願いしたの。」



 そこから、約1万キロ離れた暗闇で、聖が作戦完了の報告を受けていた。聖は、上空から見下ろした爆撃の効果に、満足した様子だった。投入したドローン3機は、すでに横須賀沖の米軍艦艇に着艦したと言う。今の映像は、静止軌道上にある衛星からの映像だ。見た感じ、人的被害は微少。恐らく、直接の死者はいないだろう。ビルの屋上と、車6台を破壊したのみだ。


 「湯浅家を、なめるんじゃないわよ・・・。」


 聖はそう呟くと、モニターの電源を落とした。ここから先は、兄、秀仁の出番だ。間もなく、現場に警察と消防が到着する。科学鑑定で、爆薬が使われたことが判明するだろう。自動的に、兄の出番となる。全てを有耶無耶にし、廃ビルでガス爆発が起きた、というような感じに決着するはずだ。すでに、聖の上司である米国の国防長官から、日本政府の上層部に話は通してある。その事実も、秀仁を助けるに違いない。



 由乃と千英を乗せた和船は、若洲ゴルフ場の脇で停船し、そこで二人は船を降りた。


 「じゃあ、手はず通り、船は戻しておいてね。約束の品物は、近日中に届けるわ。」

 「む、わかった・・・これを、返して、おく。」

 「ああ、いいのよ。受け取っておいて。何かと必要でしょ?」

 「だが・・・。」

 「いいのよ。本当に、ありがとう。この恩は忘れないわ。何か困ったことがあったら、連絡をちょうだい。」

 「む・・・。」


 そして船は、闇に溶け込むように消えて行った。由乃はWに手持ちの200万を丸々渡していた。船を借りて、燃料を入れるのにどれくらいかかるのかわからなかったからだ。Wは残りを返そうとしたが、由乃は受け取らなかった。人間社会に溶け込めない以上、金を稼ぐ手段は乏しいはずだ。だが、Wにも数少ないながら、支援者がいるようだった。船は、そうした人間の一人から借りたものらしい。助けを得て、彼本来の目的を、無事に果たせるといいが。


25 翌朝


 翌日のニュースでは、新令和島での爆発事故が、大きく報道されていた。建築途中で放置されたビルで、大規模なガス爆発があったらしい。消防が消火活動を終えた後、ビル内を捜索すると、中から拘束されていたらしい人間数名を助け出し、現場にいた人間15名程度が警察に逮捕されたと言う。どうやら、どこかの反射組織のアジトのようで、逮捕された中には多数の外国人や、指名手配中の者も含まれていたと言う。


また、明らかに射殺されたと見られる男性の遺体も見つかった、とのことだ。すでにその犯人と思しき人物が、凶器と共に逮捕されているらしい。


 現場では、他にも多数の銃器や、ロケット弾の破片のようなものまでが発見され、日本の首都、しかも、大きなリゾート施設からも程近い場所に、これだけの闇が迫っていた事実を、アナウンサーが驚愕した様子で伝え、コメンテータ―がそれを補強するコメントをしていた。


 そのニュースを、自宅のリビングで見ていた由乃と千英は、束の間の平和を味わっていた。この後、二人は組合の聴聞会に参加することになっている。由乃はその後、警察にも出頭しなければならない。もしかしたら、大学も放校される可能性があった。


 間もなく、父が迎えに来ることになっていた。帰宅すると、聖から連絡を受けていた権蔵や克仁、伊十郎までが二人を出迎え、事の顛末については話が終わっている。今日は、伊十郎の報告を年寄がどう受け取り、どのように処断するかが伝えられる。


 二人とも、泣き腫らした顔をしていた。由乃は、千英を無事に助け出せた安堵と、事実を事実として受け止め、すべてを受け入れてくれた家族に対する、感謝の涙だった。千英は、自分の不注意で招いた結果のために、由乃の立場が危うくなり、警察に逮捕されるかも知れない、という事実を突きつけられた、悔悟の涙だった。


26 終章


 あの事件から、10日が経過していた。聴聞会の結果は、お咎めなしだった。明神の瑛吉の、組合の職務とは関係のない、数々の悪行が表沙汰にされたのだ。駒止の信二は、瑛吉との会話をほとんど全て録音し、自分の死後にそのデータが組合に渡るように、手はずを整えていた。その中に、千英を誘拐した際のやり取りや、他にも特定の年寄との金と欲に塗れた会話までが、克明に残されていた。当然、その年寄の瑛吉への過分な肩入れも、問題とされた。


 ここは公にはされなかった部分だが、その年寄は権蔵と因縁のあった人間だった。元手下だったその年寄は、若い頃のお盗めの現場で、あろうことか女を犯そうとした。もちろん、それは権蔵によって未然に防がれ、激しい制裁を受けて破門された後、経済界で成功を収め、権蔵への復讐を心に秘めて、組合の年寄として戻って来たのだ。だが、権蔵はその時には隠棲しており、積年の恨みは孫の由乃に向けられた、という訳だ。


 事態を重く見た組合は、これに掛かる全ての痕跡を消し去りに掛かった。その中には、由乃の大学構内での器物損壊事件も、その後の暴走行為も含まれた。結局、由乃はどこからもお咎めを受けることなく、聴聞会の翌日から大学に戻っている。


 また、駒止の信二については、その功績が組合に認められ、頭分としての保障を家族が受け取れることになった。それは、幼い子供二人が、無事に生育するのに十分な金額だった。この件に関しては、権蔵、克仁、伊十郎、そしてもちろん由乃と千英が、連名で組合に強硬に申し出た結果とも言える。


 駒止の信二が、由乃や千英を助ける目的でそうしていたかどうかは不明だが、結果的にそうなったのは、間違いがない。由乃は、最初に掛かって来た信二からの電話は、瑛吉の許可を得ない、独断のものだと考えていた。あの時、信二に止められていなければ、事はこんな風に収まらなかったはずだ。誘拐に「委員会」が絡んでいると知ったから、その後の由乃の動きが変わった。だから、由乃は最後の瞬間、瑛吉ではなく、信二に電話を入れたのだ。


 

 「じゃあ、行こうか。」


 千英がフォードの運転席で、助手席の由乃に声を掛けた。今夜は、Wとの約束を果たすため、都内某所の博物館に来ていた。Wは、ここに収蔵されている鎌倉時代の鉢金を手に入れたがっていた。


 由乃がうなずいて、フォードから滑るように降車し、その前で左手を差し出した。その手を、千英が握る。二人は顔を見合わせると、小首を傾げた。


 「それじゃあ、今夜も!」

 「オツトメしましょ!」


 滑るように敷地を進む二人を見つめるのは、夜空を明るく照らし出す、丸い月だけだった。








 豪華な和風住宅の、広い和室の中央に、一人の老人が、いかにも豪華な金刺繍が施された布団に包まれて、眠っていた。


 その枕元に、藍染の装束に身を包んだ小柄な人影が、老人を跨ぐようにして佇み、その寝顔を黙って見つめていた。


やにわに、その人影が、寝ている老人の頬を、軽く叩いた。老人が目を覚まし、目の前の人影に気付いて悲鳴を発し掛けた時、その口と鼻を塞ぐように、左手が添えられた。老人はもがいたが、人影がその胸の上に腰を下ろして、その動きを封じた。


 右手で、口元の覆面を下ろす。その顔を見て、老人の目が、さらに大きく見開かれた。


 「久しぶりだな・・・。やっぱり、おめぇはあの場で殺しておくべきだったよ・・・。俺の甘さが、孫娘たちにまで迷惑を掛けることになっちまった・・・。」


 左手の下で、老人が必死に首を振る。正確には、振ろうとして、振れなかった。


 「へっ・・・。俺より十も年下のくせに、だらしのねぇ。明神の、八十吉よぉ。もう、十分だろうよ、黙ってあの世に逝きな。おめぇを、長く生かし過ぎちまった、せめてもの、俺のけじめさ・・・。」


 人影の手の下で、老人がガクガクと痙攣した。やがて、見開いていた目がぐるんと裏返り、最後の抵抗も収まった。人影は、それから3分近く手を離さず、そのまま老人を見守っていたが、徐々に元の位置に戻って来た眼球の瞳孔が、完全に開いているのを確認すると、静かに手を離した。


 そのまま、一陣の風のように、天井に開いた穴に飛び上がると、やがてその穴に、天井板が何事もなかったように戻った。


後には、静寂だけが残されていた。





 

 




 

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