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小説「ぐくり」④

④あらすじ
川口は志津子の手料理を味わいながら、自分の生きざまを見返し、自分がいかに狭量で、拗ねた目で世の中を見ていたかということに気付き、自省することとなった。情熱とやる気を取り戻した川口は、志津子の計画に従い、日本鉄道の重役、小瀬の懐に入り込もうとするが・・・。

6,680文字


 目が覚めると、志津子はいなかった。壁の時計は午後4時を回っている。思ったよりもまとまった時間、寝てしまったようだった。足元のスツールに衣服が一式、きれいに畳まれていたので、それを身に着け、階下へと降りる。


 食堂の方から音が聞こえたので覗いて見ると、志津子が前掛け姿で食事の準備をしているのが見えた。


 「いや、すっかり眠ってしまったよ。」

 「あら、もう少ししたら起こしに行こうと思ってたところよ。ゆっくり休めた?」

 「ああ、おかげさまでね。・・・洗濯も、ありがとう」

 「いいのよ。それより座って。お腹、空いたでしょ?」


 そうなのだ。先ほどから漂う揚げ物の香りに触発され、川口は空腹を覚えていた。何かを手伝おうかとも考えたが、台所でてきぱきと立ち働く志津子の姿を見ていたい気持ちになり、椅子に腰掛けて待つことにした。


 真っ白いクロスのしかれたテーブルに、山形に折りたたまれたナプキンとナイフやフォークなどの食器やワイングラスが準備されていた。


 「これは、すごいね。まるっきり高級な洋食屋じゃないか。」

 「そうかしら? 長いこと英国暮らしだったから、うちでは当たり前だったのよ。」

 「英国? ご両親がかい?」

 「ええ、私も12の歳までは向こうで育ったのよ。」


 川口は、実際志津子のことを何も知らなかった。もちろん、飲み屋のママと客の関係でしかなかったのだから、それは当然のことではあったのだが、今更ながらに、川口はそのことを後悔した。


 銀色の大きな盆を手に、志津子が現れた。テーブルの上にそれを置くと、次々と料理の皿が並べられる。大皿にはサラダとカツレツが2枚、それに丸くて白い何か。飯は皿に平たく盛られ、いわゆる「ライス」という状態になっていた。それに、茄子と茗荷のみそ汁。ほのかにごま油が香り、食欲をますますそそられる。

 「それと・・・はい。箸。」

 「や! これは助かる。僕はどうも、このフォークというやつが苦手でね。・・・それと、この白くて丸い物は、なんだい?」

 「食べてごらんなさいよ。」


 そう言われて、箸で持ち上げようとしてみたが、それは途中で千切れ、ちんまりと箸の上に乗った。恐るおそる鼻先に運び、匂いを嗅ぐと、デンプンの香りに混ざり、ほのかな酸味が感じられた。口に入れると、溶けるようになくなり、ジャガイモと酸味に加え、黒コショウの香りが広がった。


 「む、これはジャガイモか! うん、美味いねぇ!」


 もう一度、今度は多めに箸で取り、口に運ぶ。やはり口中で溶け、酸味と旨味が同じように広がった。


 「マッシュポテトと言うのよ。まあ、付け合わせね。ご飯の代わりに食べたりもするの。」

 「この、味付けがいいねぇ。あまり馴染みはないのに、何か懐かしい感じがするよ。」

 「マヨネーズね。酢と油と卵で作るの。それに、胡椒。まだあるから、持ってくるわね。」


 志津子が台所に消えると、川口は貪るように食事を始めた。一口大に切ってあるカツレツも、肉にしっかりと下味が付けられていたし、みそ汁もダシが効いており、茄子と茗荷の食感も素晴らしい。


 ボウルに入ったマッシュポテトを手に、志津子が戻って来た。


 「いや、どれも素晴らしく美味いよ! こっち方面でも、商売ができるんじゃないのかい?」

 「まさか! そんなわけないでしょ! カツレツ、もう一枚あるけど、焼こうか?」


 志津子は両手を振って否定したが、満更でもなさそうだった。夜を飛び回る蝶だとばかり思っていた志津子が、こんなにも家庭的だったとは。もちろん、細やかな気配りができる女性でなければ務まる仕事ではないのだろうが、それにしても、人の知らない側面を知る、と言うのがこんなにも興味深いものなのだ、ということを、川口はあらためて思い知らされた気持ちだった。

 それは、志津子ばかりでなく、川口の仕事に対する向き合い方や、山下の恐妻家ぶりなどもそうだ。


 川口は、今まで自分にしか興味がなく、他の人間から学ぶことなど何もない、とでも言わんばかりの生きざまであったから、この二日の出来事は新鮮であると同時に、自身の考え方を大きく変えざるを得ないほどの衝撃を受けていた。


 カツレツとライスを頬張りながら、川口はふつふつと身内に新たな情熱が沸き起こるのを感じていた。つまるところ、他者を理解しない、しようとしない生き方、と言うのは、ちょっとした自尊心と引き換えに、自分自身を貶める結果を呼ぶのだ。 


 志津子を「飲み屋のママ」と割り切って、女性として見ようとしたことなどなかった。近藤を「気難しいだけのロートル」と決め込んで、その知識と経験を分けてもらおうとしたこともなかった。副編の山下にしたって、自分が逆の立場なら、自分のような部下には同じような叱責をしたことだろう。もっとも、山下については自分ならもう少しスマートに同じことをできる自信はあったが。


 『よし、やるぞ! 今日の直当たりで、今までの分を取り返す!』


 鼻息を荒くしてライスを掻き込む川口を、志津子が、それこそ母のような笑顔で黙って見つめていた。志津子も志津子で、男を一人、立て直すことができたという、女としての満足感に浸っていたのだ。


 その後、6時過ぎに二人で志津子の家を出た。志津子は店に行って準備をするが、川口は店の近くで、日本鉄道の路線開発部長、小瀬が店に来るのを見張るつもりでいた。どんな人間と一緒に来るのか、車は使っているのか、そんなところを見極めるつもりだった。


 銀座には7時になる前に着いた。志津子とはあえて別の経路で銀座に入り、ニューユニオンの路地の入口にある、道路に面した小料理屋で小瀬を待つ。志津子から聞いた容姿は、背が低くずんぐりとしていて、いつも白の背広と丸縁の眼鏡を掛けているという。薄い髪を真ん中から分けて撫でつけていて、ぴょこぴょこと跳ねるような歩き方をするらしい。


 「まあ、とにかく目立つ人だから、見つけられないということはないと思うけど、とにかく8時になったらお店に来なさいな。」

 

 志津子から言い含められ、川口はコップ酒を啜り、焼きするめを齧りながら、小瀬が来るのを待つ体制に入った。辺りがようやく闇に包まれた頃、路地の入口に一台のビウイクが止まった。高馬力を謳って梁瀬自動車が輸入販売していたはずの、米国の車だ。

  

 そのビウイクから、一人の男が降りた。志津子から聞いた通り、一度見たら忘れられないような、特徴的な体つきだったが、一番の特徴は、顔の中心に胡坐をかいているような、大きな鼻だった。ご丁寧に鼻の穴が正面を向いている。


 『まるっきり、ブタだな・・・。』


 これが、川口の第一印象だった。子供の頃に読んだ「西遊記」に出てくる猪八戒の挿絵に酷似している。まるでその物語から飛び出して来て、今風の派手な背広を着せたかのようだった。


 小瀬は運転手に何かを告げると、子供が飛び跳ねるような歩き方でニューユニオンへと向かった。運転手は小瀬がニューユニオンに入ったのを見届けると、車をバックさせ、幹線道路をどこかに走り去って行った。


 川口はそこから10分ほど、後から合流する人物がいないかを確かめていたが、特に動きもなかったので、勘定を済ませてニューユニオンへと向かった。


 扉を開けると、昨日と同じように伊藤がカウンターから出てきた。目顔でうなずいたところを見ると、志津子から事情を知らされているらしい。川口も無言でうなずき返し、伊藤の後についてホールへと入った。


 書き入れ時だけあって、今日のホールは活気があり、ボックスは八割方埋まっているようだった。伊藤に通されたのは小瀬のちょうど裏側の席で、衝立代わりの観葉植物の後ろで、多くの女給に囲まれてご満悦な小瀬の姿がチラリと見えた。席に着いてみると、向こうの声まではっきりと聞き取ることができた。

 

 ウィスキィのボトルとグラスなどを持ってきた伊藤が、さりげなくテーブルに小さな紙片を置いた。開いてみると、志津子と打ち合わせた事柄の手順と、始まりの時間が書いてある。

 床に片膝をついて水割りを作っている伊藤が、チラリとこちらを見たのに合わせて、微かにうなずいて了解の意を示すと、伊藤もうなずき返して歩み去っていった。


 問題の「事件」が起こるまで、あと20分。川口はネクタイを少し緩め、シャツの一番上のボタンを開けると、水割りを喉に流し込んだ。それは、お茶の味がした。


 きつかり20分後、女給たちの悲鳴で、「事件」が始まったことを知った。伸びあがるようにして後ろの席を見ると、小瀬がチンピラ風の3人に取り囲まれている。


 「おぅ、お前! さっきから女給たちを独り占めにしやあがって! こっちにはチンコロみてぇな女しか来てねぇんだよ! ちょっと表で、話しようぜ!」


 いかにもチンピラがつけそうな因縁に、川口は口元が綻ぶのを覚えた。3人は駆け出しの俳優だと聞いているが、演技力は確かなようだ。


 志津子が描いた筋書きは、こうだ。チンピラに絡まれた小瀬を川口が助ける。小瀬の性格からして、自分に益となる人間と見れば、お礼をせずにはいられないし、そこで小瀬を担ぎ上げれば、とにかく自慢や愚痴が多く出るので、その流れで具体的な話をうまいこと聞き出そう、と。また、店の悶着を収めた客なら、志津子がそこに付きっ切りとなっても、他の客からの不満も出ないだろう、よしんば出たとしても、伊藤や他の女給が宥めるための理由にできる。


 もっとも、川口に本物のチンピラを追い払うような腕力はない。だから志津子は、駆け出しの俳優に話を持ちかけて、チンピラ役を引き受けてもらったのだろう。


 川口が通路を回り込み、小瀬のいるボックスの方に向かった時、ちょうど小瀬をひきずるように出口に向かおうとしていた3人と、対峙する形となった。


 「なんだぁ、お前は! 邪魔だよ! どけ!」


 サングラスを鼻眼鏡にして、パナマ帽をあみだに被った、先頭のいかにも「若造」的なチンピラが、大袈裟に右手を振った。小瀬は二人目の、素肌にサラシを巻いて背広を羽織った男の膝元で、泣きそうな顔で川口に両手を合わせている。


 「よしなさいよ、ここは、みんなが楽しくお酒を飲む場所だ。・・・騒がしくては酒がまずくなる・・・。」


 自分でもなんて気障りなセリフを吐いているのだろう、と思ったが、どうせ茶番だ。それなら思い切り楽しんだ方がいい。


 「なんだと、手前っ!」


 「若造」が川口の胸倉を掴んでくる。川口はその手を捻り上げ、脇固めのようにして動きを封じた。


 「いでででで!」


 二人目の「サラシ」が、この野郎、と喚きながら殴りかかって来た。大きく振りかぶった右手を搔い潜り、すれ違いざまに腹に膝を叩き込む。男は「ぐえっ」と呻いて床に伸びた。それを見て、小瀬の顔がパッと輝いた。どうやらこの場を逃れられそうだと見て取り、急に元気が出てきたようだ。


 3人目は、一番偉そうで、落ち着きのある「親分」だった。ニヤニヤしながら、小瀬を膝で押しのけながら、ゆったりとした動きで前に進んでくる。


 「へへ・・・兄さん、強いね・・・ウチの若いのが、世話になっちゃって・・・。」


 言い終わるか終わらないかの内に、「親分」が雪駄を履いた足で蹴り上げて来る。川口は半身で躱すと、左手でその足を取り、そのままソファに押し倒す。今度は激高して襲い掛かって来た親分の首を右手で掴み上げた。親分は顔を真っ赤にして、川口の右手を両手で掴み、バタバタともがいている。川口はそのままクルリと向きを変え、まだ床で伸びているサラシの背中に向かって親分を突き放した。


 「チ、チキショー! 覚えてやがれっ!」


 サラシを若造と親分が支えるようにして、去り際の捨て台詞も見事に、3人が店を後にした。すかさず伊藤が入り口付近に塩を撒く。騒ぎに静まり返っていたホールが、大きなどよめきに包まれた。拍手と共に、あちこちから賞賛の声が上がる。とどめは志津子の一言だった。


 「皆さん! お騒がせをして、申し訳ございません! お詫びに、店からお席にボトルを一本、付けさせていただきますので、どうぞそのまま、ごゆっくりお楽しみ下さい!」


 ホールは割れんばかりの歓声に包まれた。川口の度胸をほめそやす声、ママの見事な客捌きに感心する声が、至る所で上がっている。


 「いやぁ! 助かりました! 危うく野良犬に手を噛まれるところでしたよ!」


 額に大粒の汗をかき、下卑た笑いを浮かべながら、小瀬が川口ににじり寄って来た。川口の右手を掴んで上下に振り動かすと、そのまま手を引いて自分のボックスに川口を座らせようとしてくる。一応、遠慮の形を見せながら、川口は勧められるままに小瀬のボックスに腰を下ろした。


 すぐに志津子も現れ、川口に深々と頭を下げた。それは、茶番だとは思えないほどに心のこもった謝罪と感謝だった。


 「さあさあ、ママ! もうその辺でいいだろ。この方も困ってらっしゃる! まず、お酒を・・・ほら、明子ちゃん、おつくりして!」


 川口はあくまで恐縮の体で、後頭部に手を置きながらぺこぺこと頭を下げる。明子の作った水割りを手渡されると、早速乾杯となった。


 「あらためまして、危ういところを助けて頂いて、ありがとう! 私、小瀬と言う者です。」

 「いやいや、僕はただ、静かに飲みたいな、と思ったまでで・・・川口と言います。」

 「いやぁ、川口さん、それにしても、見事な手際でしたなぁ! 3人を向こうに回して、なかなかできることじゃあありませんよ、あなた!」

 「いやいや・・・。まことに、お恥ずかしい・・・。」


 小瀬は、この謙遜と遠慮の態度がひどく気に入ったようだった。志津子の読み通り、トントン拍子に話が進み、自分が日本鉄道の幹部であること、政界にも顔が利くことなどを、尋ねもしないのに自分からべらべら話し始めた。川口はいちいち大袈裟に驚き、ますます恐縮の体を作って、小瀬を持ち上げた。


 自分のことを聞かれた時は、近藤の話を混ぜ込んで話をした。自分が元軍人で、軍でも格闘術においては師範として指導に当たっていたが、ある時知らずに上官の子息にケガを負わせてしまい、任を解かれて従軍記者として再配属されたものの、そこでは仕事にやりがいを見出せず、除隊して今は流浪の身となった、云々・・・。


 驚いたことに、小瀬はその境遇に涙を流して川口を労わり、自分が責任を持って今後の身の振り方を世話する、とまで言い出したのである。


 「ちょうど、明後日から代議士先生を連れて東北の方に行くんですが、川口さん、そこで私たちの警護をお願いできませんか?」


と、こう来たものである。川口は内心、しめた!と思ったものの、ここで飛びついてはいかにもに過ぎるので、一旦は辞退した。だが、小瀬は執拗だった。日当は一日あたり十円を払う、とか、その後も継続的に仕事ができるように取り計らう、と川口を慰留した。最終的に、志津子の、


『この方は常連の方で、これは、と見込んだ人については決して無下にはしない人だから、まずは警護のお話を受けて、それが終わったらもう一度身の振り方を考えてはどうか?』

  

という提案を受け入れる形で、川口は東北行きを了承した。小瀬は大層喜んで、すぐに財布から十円札を取り出して、川口の手に握らせた。東北行きの準備金として使ってもらって、釣りはいらない、と言うのである。


 志津子も大げさに喜んでみせ、また小瀬のキップの良さを褒めた。

 結局、小瀬は最後まで有頂天のまま、店は閉店の時間を迎えた。別れる時に、住んでいる場所を聞かれたが、まだ定住先は見つけていないと告げると、日曜日の朝8時に、ニューユニオンの路地の入口に、車で迎えに来る、ということになり、小瀬は迎えに現れた運転手と共に帰路に着いたのであった。


 見送りを済ますと、川口も志津子や見送りに出ていた女給たちに別れを告げ、帰路に着いた。だが、帰るのは自分の部屋ではなく、志津子の家だった。川口の右手には、見送りの時にそっと手渡された、志津子の家の鍵が握られていた。


「ぐくり」④
了。



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