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小説「ぐくり」⑦

⑦あらすじ
列車の車内では、期待したような話が出ないことに焦りを感じた川口は、数少ない会話の中で「ぐくり」という聞き慣れない言葉を耳にした。
言葉の意味をわからぬままに仙台に到着した川口だったが、そこで小瀬と3人の代議士が密談の動きを見せた・・・。

3,730文字

 列車が一時間ほど走り続け、幾つかの駅を通り過ぎたが、この車両に乗り降りする者はもちろんなく、列車が動いていようが止まっていようが、小瀬と代議士の談笑は止むことがなかった。

 今のところ、川口の興味を引く話をしている気配はない。車が普及してきた話題や酒の話など、寛いだ様子で雑談が繰り広げられている。

 川口は、田畑の広がるのどかな景色を眺めつつ、先ほど交わした会話の内容を考えていた。代議士の誰かから川口についての質問が出たらしく、小瀬に呼ばれてソファ席の脇に立ち、簡単に自己紹介した時のことだった。

 「軍では災難だったが、キミも運が開けて来たんじゃないか? 恩を売るにはうってつけの男だぞ、小瀬は!」

 そう言って、柏谷が豪快に笑った。すでに酔っているのか、頬骨の辺りに赤みが差し、目が半眼になっていた。

 「いや、まったくだよ! しかもいきなり『ぐくり』に同行とはねぇ・・・。」
 「うむ、警護と言っても、現地では竹谷先生のお声がけで官憲も動いているしね、面倒なことにはならんさ。まあ、キミも存分に楽しみたまえよ。」

 井上が意味ありげな目配せを送って来たが、何のことやら意味が分からず、川口は愛想笑いを浮かべつつ、チラッと小瀬の顔を覗いてみたが、小瀬はニヤついて小さくうなずくと、川口を下がらせた。

 『ぐくりって、言ったよな・・・なんのことだ・・・』

 竹谷は明らかに、『ぐくり』という一語に力を入れて発言していた。それが何を意味するのかはわからないが、井上が「君も楽しめ」と言ったところを見ると、何かの遊び、もしくは郷土の祭りのようなものか何かなのだろうか。川口が期待していたような話とは違うようだが、『ぐくり』の意味が掴めるまで、決めつけるのは控えていた方がいいだろう。折を見て、小瀬に尋ねてみてもいい。

 その後、大宮と郡山で車掌の交代と食べ物や飲み物の搬入があった以外、車内に大きな変化はなく、列車は辺りに夕闇が漂う仙台駅に到着した。

 「今晩はこのまま仙台泊りです。明日からは車で移動しますから。」
 「それは構いませんが・・・目的地はどこなんです?」
 「ああ、ここからさらに北に向かいます・・・おっと、先生がお呼びだ。今日はもう構いませんから、明日の9時にここで。じゃ!」
 「あ、ちょっと・・・。」

 川口が呼び止める間もなく、小瀬はいそいそと代議士方の待つホールへと消えていった。各カバン持ちは先に部屋に上がったはずだから、ホールには小瀬と代議士3人しかいないはずだ。川口はトランクから急いでライカを取り出すと、トランクを受付に預けて、ある物を探した。ほどなくして、大きな柱に掲示されている避難経路図が目に留まった。

 あの震災以降、大きな施設には明示が義務付けられている。その図を見つめ、ホールの位置と、それに通ずる通路を確認した。案の定、ホールに飲食物やサービスを提供するための通路と、それらを準備した物を一時的に置いておく小部屋があることがわかった。しかも、それらは小瀬が入った入り口とは別方向から入ることが可能だ。

 川口は緊張で乾燥した唇を舐めると、さりげなく周囲を確認してから「従業員用」と書かれた扉を押し開けて、通路に入った。左右に廊下が伸びており、右に行けば厨房、左に行けばホールへと向かうことができる。川口にとって都合が良かったのは、ちょうど宿泊客の受け入れが立て続けに起こる時間だったため、通路に人影がないことだった。これがもう少し経つと、食事を提供するホテル従業員で慌ただしい動きがあるはずだった。

 川口も記者の端くれとして、こういった隠密とも言える行動を取ることには手慣れていた。すぐに廊下を左に向かい、多く並んだ扉から目的の扉を探し始める。だが、慌ててはいけない。いかにも堂々と、全てを知っている体で振舞うのがコツだ。誰かに見つかったら、誰何される前にこちらから声を掛けるのもその一つだ。
 扉はすぐに見つかった。「ホール控室」と書いた真鍮のプレートが扉に取り付けてある。川口は取っ手を捻り、薄くドアを開いた。室内は薄暗く、人のいる気配はない。可動式の衝立の後ろから、ホールの光が漏れている。

 『しめた!』

 川口は音を立てないように気を配りながら、室内に身を入れ、静かに扉を閉めた。念のため鍵を掛け、衝立の隙間からホールを覗き見る。

 衝立から3mほど向こうに、井上と柏谷の後ろ姿が見えた。室内はそれほど大きくなく、中央に置かれた丸テーブルに、4人で腰掛けていて、今は小瀬が身を乗り出すようにして何事かの説明をしている。

 川口はライカを構えかけて、手を止めた。このアングルでは一番大物の柏谷の顔が撮れない。もう2、3枚分右にずれれば、横顔を捉えられそうだ。体を低くし、静かに移動する。3枚目の衝立まで来た時、小瀬と柏谷の横顔、正面から竹谷を捉えられる画角が得られた。

 フィルムを止まるまで巻き上げ、隙間にレンズを押し付けるようにする。後は、シャッター音だ。ライカはシャッター音も静かだが、無音というわけではない。ホールに流れているクラシック音楽にタイミングを合わせるしかないだろう。時折入るシンバルの音に合わせれば、まず気付かれまい。

 川口はジリジリしながら、その時を待った。シンバルを呼び込む木琴の軽やかな音が始まった。このパートの最後に、シンバルが立て続けに3回、鳴らされる。ファインダーの中で、小瀬の話は熱を帯びている。クラシックのためにこちらにその声は聞こえないが、全員の真剣な表情からして、重要な話には違いない。

 『来た!』

 シンバルの音と同時に、シャッターを切る。続けざまにフィルムを巻き上げ、今度は絞りを変えてもう一度シャッターを切った。3回のシンバルで2枚の撮影に成功した川口は、そこに残りたい衝動を抑え、手探りでドアを探ると、控室を後にした。

 ライカを上着のポケットにしまい込み、入って来た従業員出口から外に出る。ちょうど通路に入ろうとしていた若い従業員と鉢合わせしたが、川口は咄嗟に厳しい顔で目礼を交わし、早く行け、と言わんばかりに目を合わせながら首を振った。若い従業員は見慣れない顔ながら、その態度からして『自分などが顔を知らないほどの上役に違いない』と勝手に思い込み、目を丸くしながら慌てて通路に消えていった。

 川口は事が上手く運んだ高揚感を必死に隠しながら、すれ違った従業員が裏で今起きたことについて仲間に話す前に、ホテルを出た。

 道路を進むと、目の前に東二番丁という大きな通りにぶつかる。道行く人の流れに沿って町を歩いてみると、陸軍憲兵隊の屯所を回り込んだところに「ブラザー軒」と書かれた洋食屋を見つけた。

川口は志津子の家で食べたカツレツを思い出し、ちょうど腹も空いたところだったので、ドアを開けて店に入ってみた。洋食屋には違いないが、なぜか中華までメニューに載っているのを見て、川口はしまった、と思った。

店の造りからして本格の洋食屋だと思っていたが、何のことはない、大衆食堂と変わらないということだろう。川口の経験からして、こういった店では、量はともかく味はあまり期待できない、というのが相場と決まっていた。

とは言え、今更席を立つのも大人げないと思い、カツレツ定食と麻婆豆腐、それにビールを大瓶で注文した。懐も温かいし、中身は不明ながらも、まずは会合の様子を収めた写真を手に入れることに成功した喜びを祝う、小さな祝杯だった。

冷えたビールを喉に流し込むと、一日の疲れがいっぺんに吹っ飛ぶような気がした。長時間、することもなく固い椅子に腰掛けているだけ、と言うのは川口のような人間には苦痛だったのだ。

 給仕がカツレツ定食と麻婆豆腐を運んでくる。麻婆豆腐の方は、山椒の辛みが効いていて偉く美味かったが、カツレツの方は案の定、ひどい味だった。志津子の家で口にしたカツレツの味がまだ舌に残っていただけに、まるで靴の裏の皮を揚げたような肉の硬さが、一層ひどい物に感じられたのだ。

 川口は二本目のビールを注文し、それで何とか流し込んだものだが、米の美味さに飯をおかわりし、腹いっぱいになって店を後にした。

 涼しい夜風がアルコールで火照った頬を心地よく掠め、酔い醒ましに少し遠回りをしてホテルに戻った。仙台には初めて来たが、噂に聞く東北とはだいぶ違う、洗練された新しい街、という印象を持った。ここからさらに北に向かえば、状況は変わるのかも知れないが、今のところ治安が落ち着いていない様子は感じられなかった。

 受付で預けていたトランクと部屋の鍵を受け取り、3階の自分の部屋へ入ると、上着を脱いでベッドに横になった。腰の拳銃を忘れていて、危うく腰の骨を痛めるところだったが、手を回して拳銃を引き抜き、それを枕の下にしまい込むと、抗しがたい眠気に襲われ、川口は眠りに落ちていった。

「ぐくり」⑦
了。



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