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王女メディアの普遍性、ギリシャ悲劇が描く人間の根源-0926②

隈研吾展から吉祥寺オデヲンへ移動し、ナショナル・シアター・ライブ(NTL)『メディア』を鑑賞。

製作年:2014年
脚本:ベン・パワー
演出:キャリー・クラックネル、ロス・マクギボン
音楽:アリソン・ゴールドフラップ、ウィル・グレゴリー
出演:
メディア/ヘレン・マックロリー
イアソン/ダニー・サパーニ
乳母/ミカエラ・コール
クレオン/マーティン・ターナー
アイゲウス/ドミニク・ローワン

今年4月に他界したマックロリーの追悼として日本公開された作品。凄まじいの一言に尽きる名演だった。
ギリシャ悲劇って、紀元前に書かれたものなのに人間の根源的な部分を描いていて現代でも共感できるのが魅力だと思う。だからもともと現代化に耐えうるテキストであるはずなんだけど、そんな冷静な分析ができないほどに、メディアの全身から溢れ出す怒りと悲しみと、その根底にある愛に当てられてしまった。

思い返すと現代化されているとはいえ、奇抜な演出をしているわけではなく、全体的に「分かりやすい」=目新しさがあるわけではない。例えば舞台は上下に区切られており、上に位置するコリントスの王宮が華やかだが、下のメディアの生活空間は落ちぶれて心淋しい。視覚的に両世界の差、断絶を表すとともに、冒頭、人物が上から下へ降りてくることでかつては王女であったメディアの没落も示唆されていると感じた。


孤立した母親が子どもを殺すというのは現代でも見受けられる例だと劇開始前に解説されていたが(「孤立」をキーワードとして挙げるあたり、さすがリンクワーカーが制度化されているイギリス)メディアの場合、イアソンが自身と対等になることを復讐の成就だと冷静に捉えた結果の行動ではなかったか。
愛した夫が望むから弟を殺した、命がけで子を産んだ、故郷・権力を捨てた。しかし夫は権力を望み、新妻を愛した。愛する者をすべて失ったメディアにとって、夫からもすべてを奪うことは必然だったのではないか。メディアは狂っていたのではない、という解説に引っ張られている気もするけれど、激情に流されての行動ではなく、揺るぎない意思から生まれた悲劇だと感じられた。だからこそ余計に、喉元にナイフを突きつけられたような緊張感と恐ろしさを覚えた。

ギリシア悲劇の現代化を観ると、取り上げた関係者の「現代社会に対する問題意識」を考えずにはいられない。社会の不安定化は社会的弱者の困窮を招く、その延長に悲劇が生まれる。
もちろんこれは王女メディアとその周辺の悲劇なのだけれど、これが現代の姿で世に問われた背景まで考えさせる力のある作品だった。

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