信仰告白inキリスト教
メリークリスマス🎄。以前の職場でお世話になった漫画家の先生から、信仰を牧師先生の言葉ではなく、自分の言葉で語ってみて欲しいと要望された。せっかくの聖夜なので、クリスチャンとしての初の証(これを教会では「信仰告白」という)をSNSで。ふだんは牧師先生の説教をなるべく忠実に伝えるように努めている。それは伝道のためであり(宗教勧誘はされた時に不快だったので、自分では直接的にしたくない)、浅学の自分のコメントが誤った解釈を伝えないためである。
もともと大学時代に水泳部が月水金の活動で、空いた火木に聖書研究会に属していた(法学部クラスで使っていた野球のバットやグローブを置かせてもらっていた関係で出入り)。そのよしみで聖書研究会の後輩である連れ合いと結婚した。聖書研究会時代に派遣されていた神学舎の方と親友と呼んでいいくらい仲が良くなって、連れ合いとの結婚は牧師になった神学舎の先輩に司式をお願いした。当然のことながら結婚式では永遠の愛を誓うことになるが、その前提としていくつかの課題図書が挙げられた。「結婚」などである。従って結婚の誓いは、おそらく通常以上に覚悟を要するものだった。しかしこの時点でも自分はクリスチャンにはならず20年以上が過ぎた。
人生の転機は元職場の上司が膵臓癌になったことだった。仕事である以上に人生でお世話になっていた上司の治癒もしくは苦しみの軽減を願い祈りたかった。ペンテコステ(キリスト復活降誕祭)の礼拝時に受洗した。そこに更に経理を担当していた部下が子宮頚癌に罹ってしまった。結果的に祈りも虚しく、2人とも病没してしまった。その頃の自分は積極的に神の存在を肯定するまでには至らなかったが、神の存在を否定する気にもならない心境になっていた。それでも若い頃は敢えて宗教問答的な議論を経て、神の存在意義の判断を退けていた。ただ聖書研究会にいたことや、結婚式を知人の牧師の下で行ったことで、身の回りにクリスチャンは多かった。仕事柄、お酒を飲むことも多かったし、クリスチャンが尊ぶ禁欲的な生活とは無縁だった。今通っている教会には息子が通っていた中学のPTAでお世話になった方がいて、よくしてくれた。ただ最初の牧師先生とウマが合わなかった。その方は教団からどう見られているかを気にしている印象があり、自らの奉仕する教会のことより外部活動に熱心だった。公私の繁忙もあって、なるべく深く関わらないようにしていた。しかし2番目に赴任された牧師先生が人物だった。公私の悩みも相談できたし、note に牧師先生の説教を要約してレポートすることも始めた。この牧師先生の話は聖書オンリーではなく、多彩で深い人生経験に裏打ちされていた幅の広いものだった。この牧師先生に出会ったことで、教会通いに熱心になった。その上で監査役を務めたり、zoomの導入などで、自分の経理やシステムの知識が活かされる場ができた。今も信仰心はさして深いとも思えないが、良き師、良き朋輩の存在が教会通いを続けさせている。
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