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2022北京パラリンピックの意義

2022北京パラリンピックが閉幕。日本選手の活躍もあったし、中でも親会社の社員が出場しての活躍という注目点もあった。商業主義やドーピングに塗れたオリンピックよりはパラリンピックの方が、身体に障害がある方々(全人口の14%という解説にはビックリ)の可能性や能力開発という意味で、より開催の意義は大きいと思う。しかし一生懸命競技していた選手には悪いが、今回だけはあまり積極的に観る気がしなかった。ロシア🇷🇺がウクライナ🇺🇦に侵攻して、大きな犠牲者が出ている状況の下で、素直に没入できなかった。
 東日本大震災の際に『こういう時に自分たちの仕事は意味があるのか?』と多くのコメディアンやスポーツ選手が自問したと聞く。しかも今回は侵攻当事者国であるロシアとベルラーシの選手たちの参加が認められなかった。侵攻はプーチン大統領の責任であって、選手たちに罪はない。しかし参加が認められないということで、それがニュースとなって、ロシア国民を政権打倒に向けての起爆剤になるなら意味があるのかもしれない。それにウクライナの選手団の活躍も目を惹いた。戦火の故国に思いを寄せているであろう健気な活躍である。ウクライナ選手団のメンバーが戦火を離れて無事でいることそのものも安堵の一つ。開催した方がよかったのか、そうでないのか。凡夫にとって、心がモヤモヤしたパラリンピック開催であった。

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