油山観音慰霊祭の主宰者・深尾裕之氏が来訪
いつも油山観音慰霊祭でお世話になっている深尾裕之氏が拙宅に来訪。以前から亡父の遺した資料の実物を見て欲しかったが、ようやくそれが実現できた。
油山観音慰霊祭は、太平洋戦争末期に陸軍西部軍で起きた3つの捕虜処刑事件。捕虜の虐待は国際法で禁じられている。亡父が油山でのB29搭乗員捕虜の処刑に関与したため、BC級戦犯となって、巣鴨プリズンに収容された。そのことから油山観音慰霊祭に、関係者遺族として何らかの形で参加することになった。油山観音慰霊祭を主宰しているのが、深尾裕之氏である。氏は特に事件の関係者ではないが、処刑された米兵遺族と出会ったことをきっかけに、事件を後世に伝える意義を感じて、日米の関係者に声をかけて慰霊祭を自腹で開催して下さっている。
このほど泊まりで上京されて国立公文書館に足を運ばれて、西部軍関係事件の記録を集めたそうだ。ここでは所蔵資料が複写できるそうなので、昨日はひたすら複写の作業に務めたとのこと。元々はメリーランド州にあるアメリカ国立公文書記録管理局の資料が原本だそうだ。手土産に横浜軍事法廷における亡父にまつわる資料を持参して下さった。母親(私の祖母)による亡父の巣鴨プリズンの仮出所申請書だった。その中には父親の遺影が3つ載っていた。
この日は深尾裕之氏に、亡父の遺した資料を見て頂いた。新聞記者たちが興味を示さなかった資料にも、戦時に詳しい深尾裕之氏は強い関心を示された。そんな中で話してくれた興味深いエピソードは、東海軍と西部軍の違い。大岡昇平「ながい旅」によって、東海軍司令官であった岡田資中将のイメージは固められた。岡田資中将は、一般市民に対する無差別な空襲を戦争犯罪と見做して、米軍捕虜たちを処刑した。従って「そのことが罪に問われるなら、命令を下した自分にのみ全ての罪がある」と主張された。刑場の露と消えた岡田資中将だが、その発言により東海軍一同の団結は強かったそうだ(Wikipediaによれば、中国で毒ガスを使ったとか、法務少将を呼ばずに東海軍の合法的な処刑を装ったという記録もあり)。これに対して西部軍は各部署の意思疎通がバラバラで、戦後の軍事法廷でも責任の擦り合いが頻発した。これもリーダーの資質の違いによる、結果の甚だしい相違だったとのこと。
来年は戦後80年だそうである。これまで篤志で油山観音慰霊祭を主宰してくれていた深尾裕之氏だが来年を一区切りにしようと考えているそうである。処刑された米軍捕虜の遺族の方々も、慰霊祭への参加を希望されているそうだ。またそれを契機に、慰霊祭に至った経緯を書籍にまとめられないかとの構想もお持ちとのこと。