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天沢退二郎先生、逝く😭

天沢退二郎先生が1月25日に86歳でお亡くなりになった。FB友だちの一報を読んで、慌てて奥さま(マリ林)に電話した。以前から介護付き施設に入居されていると聞いていた。亡くなる直前には、頭を強く打って、聞くことはできたが、話すことはできなかったそうだ。実際には2/5、2/6で葬儀が行われていて「何で来なかったの?」「すいません、知りませんでした」「新聞に出ていたじゃないの」「気がつきませんで」。ということで、ご自宅に2週連続でお焼香にお伺いした。通夜は200人が来たそうだ(告別式は家族葬)。お焼香しながら、先生ご夫妻の若い頃のアルバムを見せてもらった。お子様が誕生した頃の若いお二人はアカデミックで才気溢れて、キラキラとお美しかった。中にはフランス🇫🇷で、お二人が敬愛するジュリアン・グラックの自宅を訪問された写真もあった。

 復刊の仕事をしていた頃に、会う前に緊張したのは天沢退二郎先生と神宮輝夫先生だった。決して藤子不二雄Ⓐ先生でも谷川俊太郎先生でもなかった。天沢退二郎先生はフランス文学の権威であり、宮沢賢治学会の会長であり、そして偉大なるファンタジー文学作家であった。自分はファンタジー文学が大好きだった。天沢退二郎先生は名著「光車よ、回れ!」そして「オレンジ党シリーズ」の著者であった。若かった私は貪るように天沢退二郎先生の作品群を読んでいた。その天沢退二郎先生と仕事で絡めるという幸運に興奮した。

 初めてお会いしたのは、先生に指定された千葉駅のベーカリーカフェ「Vie De France」だった。『なぜこんな騒がしい場所で?』と思ったが、先生に言わせると「執筆に一番落ち着く場所」ということだった。その後にノマド活動が多くなって、無関心な空間に身を置くという、その気持ちがわかるようになった。先生の作品が好きなので、売れようが売れまいが、出して出して出しまくった。全部で10冊出した。先生との仕事で最も心が震えたのは「オレンジ党シリーズ」の完結編「オレンジ党 最後の歌」を書き下ろしで出せたこと。「オレンジ党シリーズ」はマリ林の挿画だったので、夫婦揃っての創作進行となった。それで先生ご自宅には何度もお邪魔した。また「光車よ、回れ!」では他社に文庫化されることを契機に、先方の買収騒動となって、人生初のM &Aの体験となった(結局は株主の反対で頓挫)。この作品はずいぶん映像化の話しが来たが、結局どれも実現せずに無念だった。2014年11月26日に天沢退二郎先生が「巌谷小波文芸賞」を受賞したことで、もう一人の憧れである神宮輝夫先生(審査委員だった)にも受賞会場でお会いすることができた。そのおかげで神宮輝夫先生が翻訳されたロイド・アリグザンダーの名作絵本「コルと白ぶた」「フルダー・フラムとまことのたてごと」を復刊できた。

 こんな風に密接に仕事で関わった天沢退二郎先生ご夫妻だったので、すごく可愛がって頂いた。退任後も食事に呼んで頂いたりした。おつきあいの中で、よく京橋で開かれた天沢退二郎先生の詩の朗読会に呼ばれた。いつも聴衆は5人以内だった。僕は詩には強い関心はなかったが、先生が好きで好きでしかたがなかったので、のっぴきならない用事があった時以外は皆勤した。先生は僕に気を遣ってくれたのか、朗読素材によく「オレンジ党シリーズ」の一節を選んでくれた。先生の発声はやや吃音で聴き取り辛かったが、よく耳をそば立てて聴くと、学究の徒が純真な少年の心でひたむきに語る愛すべき朗読だった。会が終わってから主宰者の天童大人先生と京橋の蕎麦屋に行って(先生は絶対に僕に払わせず割り勘にされた)、総武線で帰る天沢退二郎先生を必ずタクシーで、東京駅ホームの発車までお見送りした。そこまでしたので、天沢退二郎先生からは絶対の信頼を得ることができた。明治学院大学の教授退官の際は最終講義に出席して、研究室の引っ越しまで手伝った。惜しむらくは、岩手県花巻市の「賢治祭」にご一緒することを果たせなかったことだ。僕はまた1人宝石のように大切な人を喪ってしまった。家に帰って夜半に、天沢退二郎先生がこよなく愛していた中島みゆきを聴きながら大泣きした。

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