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部屋と冷蔵庫と私の男

初孫が生まれ幸せでむせかえるような実家から、逃げるようにこの部屋に越して来た時、私が買った冷蔵庫は中古品だった。モノも味方もお金すら、本当に何ひとつ持たずにたった一人で飛び出してきた。必要最小限で良い。とりあえず今さえ何とかなれば、それでよかった。

「まあ一人暮らし用の冷蔵庫なんてあと数年持てば良いんだから、中古なら安いし手放す時に惜しくないし丁度いいわ」

数年後、数年前の私が想定していたように、それは壊れた。
私は一人で、そして一気に老いていた。

本当は分かっていた。見方によれば、初めから壊れていたのかもしれない。でも、とりあえずの今ではない明日を夢見たのだ。手放すことに惜しさを感じない訳ではなかった。だが、壊れたコンプレッサーが放つ不協和音は、日に日に私の心を蝕んでいった。数年持てばいいような軽い存在であれば、苦しまなかっただろう。でもそうではないから粗末に扱うことなどできなかった。

ただ一つ、他人という名の不確定要素をあてにして生きるのはこれでやめにしようと決め、私は新品の、一人暮らし用の冷蔵庫を買い直した。

それから数年経った頃、8歳年上の当時の同僚の引越しを、皆で手伝ったことがあった。就職した時から暮らしているという、一人暮らしにしては広い1DK。彼の部屋に足を踏み入れた時「ああこれは今まで自分のことだけ考えて、好き勝手に生きて来た男の部屋だ」と思った。彼のことはよく知らない。だがその部屋に集められたモノたちが、彼の歴史と人柄を雄弁に物語っていた。

おそらくは好きなアーティストの、大量のCDが詰められた箱。買ってみたものの埃をかぶったままのギター。クローゼットに押し込められたアンプ。元々は喫茶店で使われていたというアンティークの木製テーブル。月兎印の琺瑯のスリムポット。チェブラーシカの、継がれた跡があるマグカップと羊毛フェルトの人形。祖母の形見だという銀の手鏡。

そして全てが二つ揃えの食器と、ファミリー用の古い冷蔵庫。

「ねえ、この冷蔵庫捨てていかないの?トラックもう一杯なんでしょう?」
「いや、持っていくよ」
「この機会に捨てていって、小さいの買い直した方が楽じゃない?」

実際冷蔵庫の中は半分以上が使われていなかった。明らかに「昭和ではないものの平成」くらいの古さだったし、荷物もトラックに乗り切らないかもしれないと言っていたから、その提案は割と合理的だったと思う。

「そもそも一人暮らしのくせになんでファミリー用なのよ」

洒落た食器を新聞紙に包みながら尋ねた。

「それは私がこの部屋に越して来る時に『もう買い換えなくていいように』と買ったんだ」

食器を包む、手が止まった。

かつての私が、私の男をあてにして捨てやすい冷蔵庫を選んだように。かつての彼は、彼の女をあてにして捨てなくていい冷蔵庫を選んだのだ。

それぞれが就職したばかりの頃、ほぼ同じ理由で冷蔵庫を選び、そして時間は流れた。きっと私たちは似た者同士だったのだろう。

「…悲しいね」

その言葉は永遠に私の胸にしまったまま。私は二つ揃えの食器達をダンボールに丁寧に詰め込み、気持ちと共に封をした。彼は部屋を出て行き、そして二度と会うことはなかった。

何年経ったかを数える事はとうにやめた。今となっては当時の彼の年齢を追い越した。日々の業務の情報収集で、時折彼の名を目にする度に、私はあの悲しみを思い出しているが、きっと彼の方ではそんなことがあったこと、私の存在自体を忘れていることだろう。

それで良い、その方が良い。

あの美しい銀の手鏡に映るのは悲しみなどではなく、後朝に紅を引く女の幸せであるべきなのだから。

あの日はまだ肌寒い、春と呼ぶには早い冬の終わり。作業の休憩がてら、最上階の角部屋である彼の部屋のベランダで、細い葉巻に火を点けた。修学院の夕暮れをぼんやりと眺めていたらふと、「居なくなるのは寂しいか」と言うから、そのふざけた顔に向かって煙を吐いたら嫌な顔をした。

映画やドラマのように、さよならで全て綺麗に終われたら良かったのにね。
それでも日々が続くから、私達は「さよなら」の続きを生きていかなければならない。

「さよなら」すらないような軽い存在でしかなかったことを思い知る苦しみに、本当の優しさとは「さよなら」を告げることであるという事実の重さに、押しつぶされそうになりながら。

春の終わり。長年の友人が、私の部屋に初めて遊びに来た。殺風景な部屋で申し訳ないと言いながら私は台所でお茶を淹れていた。彼女は、部屋が一番よく見える場所に座らせていた君を見つけた。

「人形?チェブラーシカなんて好きだったっけ?」

長い間友達なのに聞いたことないけど、と不思議そうな顔をした。

「…大嫌いよ」

もしこの物語を読んだあなたが今、人生の岐路に立っていて、「あの日選べなかった何か」を選ばないといけない状況にあるのであれば。

こんなどうしようもない大人たちの寓話を少しだけ思い出して、せめて悔いのない選択をされたい。

でもそんな気持ちを誰にも言えない、私です。