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給付金バースデー

31歳の誕生日、父からおもむろに封筒を渡されて「え、なになに」と笑った。「なんでしょう」と父は早口で答えた。

「封筒だったら……札束!?札束でしょ!」
冗談を飛ばしながら中を見たら、本当に札束が入っていた。

「え」
「まぁ給付金だから、受け取って」

生まれてはじめて、父から誕生日プレゼントをもらった。

***

私には父との思い出がほとんどない。そんなこと言ったら父は悲しむかもしれないが、一緒に過ごした時間が少なすぎたと思う。

父は元大学教授で、私の数百倍仕事人間だ。平日の帰りは毎晩遅くて、休日も書斎で原稿を書いている姿しか見ていない。

幼い頃の私の部屋は、父の書斎の一部分に作られていた。天井近くまで高さのある本棚で仕切った一区画に、ベッドと勉強机をはめこんでいた。
休日の朝まどろんでいると、隣からカタカタカタカタとワープロを打つ音が聞こえた。その音がしばし止むと、本のページをめくる音が響く。
姿は見えないが父を感じていた。あの時間がとても好きだった。

その記憶が一番鮮やかということは、つまり、そういうことなのだ。

我が家はキャンプに行かないし、バーベキューも基本的にはしない。これ、北海道の家族としては非常にまれなことだったと思う。

周りで見る“お父さん”は、うちの父よりも家族に近いように感じた。運動会で早朝から席を取ったり、休日は一緒に買い物に行ったり。どうやら、うち以外の家にはクリスマスにサンタが来るそうじゃないか。

正直、とてもうらやましかった。

母は専業主婦だったから、私が与えられたものはすべて父のお金で買ったものだ。けれど私は、父から何かを選んでもらったことはないと思う。

それを不満に思うのは傲慢かもしれない。だって父は、合理的に判断して必要だと思うものは与えてくれていた。私は俗にいう「何不自由なく育った」身だと自覚している。文句はない。

ところで、父はめちゃめちゃ賢い。苦手な数学でつまずいて、おそるおそる父に相談しに行ったことがある。父は教科書に書いていない方法で問題を解いた。ものの数秒で。余計にわからなくなった。

そんなに賢いはずなのに突然キレることがある。どうでもいいことで激昂する。地雷がどこに埋まっているのかわからないから、そもそも踏まないことにした。

父は私の知人のなかで一番遠い人だった。
近付けない、と言うほうが正しいか。
遥か彼方で揺らめくカゲロウのような人だった。

***

父と屈託なく笑って喋れるようになったのは、ここ数年のことだ。いつのまにか、私はずいぶんと父に似ていた。

考えてみれば当然のことで。父の書斎にある本をかたっぱしから読んだのだから、趣味も思想も似ちゃうわけだ。

「父みたいに浮世離れしないように、人に愛されるキャリアウーマンになるわ」と息巻いていた私は、どこで道を誤ったのか、現在は父以上に浮世離れした働き方に落ち着いている。

幼児が母の声を聴いて落ち着くがごとく、自分の打つキーボードの音が心地よい。いつの間にか父の音は、私の音になっていた。

ちゃんと働いていると伝えたくて、仕事で書いた文章を読ませたことがある。そうしたら父は最後までしっかり読んで、「ちゃんと書けているね」と言ってくれた。

褒められた。私は子どもみたいに赤面して喜んだ。

いまさら、父が書いた本を手に取ってみる。ずっしり重くて、パラパラ読んでみてもさっぱりちんぷんかんぷんだ。こんな分量を一人で仕上げたのか。専門書を書ける知識と、それをまとめる才能があるのか。

父、すげえ。
文章を書くことを仕事にして、ようやく父の尊さに気がついた。

父から見たら私の書いた文章なんてアリの行進レベルのはずなのだが、父は真面目な顔をして「これで原稿料、いくらくらいもらうの」とか訊いてくる。思い切って答えてみると、「ふうん、結構いい値段もらえるのね」と感心顔。

自立して、あるいは文章を書いて、あの父に並べたのかもしれない。私はそれがとても誇らしくて、ようやく言葉を交わせるようになった。知識で殴ってくるような予想斜め上の父の冗談についていきたくて、ギミックの効いたツッコミを返す能力が高くなっていった。

***

令和二年一月、個人事業主から法人成りした。これからハーブティー販売をやりたいという夢は、両親にも説明した。でも、迷惑をかけるつもりはないと、言い訳のように早口で加える。両親を心配させたり、自分の夢を否定されたりするのが怖かったんだ。

父は普段と変わらない、いまいち心を読めない顔で私の説明を聴いていた。そして「じゃあ、一株買っておくか」と、一言答えた。

信頼している、と父なりに伝えてくれたんだと思う。私の胸はぎゅっとして、「おう、いつかその株、化けるよ」と笑って返した。

なけなしの百万円を資本金に船出した直後、コロナの混乱がやってきた。まだ経営のケの字もわからない中、払わなければならない税金だの何だのの郵送物が山積みになっていく。心がガリガリと彫刻刀で削られていくように痩せていった。

新しいことを始めようにも、基礎知識がなさすぎて足がすくむ。そもそも既存のライティングの仕事が激減して、自分の給与を払い続けられるのかすら怪しい。したことのない計算にまみれながら、必死で赤字にならないよう思考を巡らせる。たった一人でこれなんだから、従業員を抱える企業の経営者はなんと辛い日々を送っているだろう。

あまりに不安で、父に教科書を持って相談しに行きたいとすら思った。でも、父に経営の知識はないし差し出す教科書もない。それにこれは私の会社だ。甘えていられない。

母は「大丈夫?暮らしていけてる?」と何度も連絡をしてきた。その連絡すら焦りに変換してしまう。ここで泣き言を吐いたら二人に迷惑をかける。私は努めて明るく振舞った。

***

そして迎えた31歳の誕生日だ。
父からプレゼントを手渡しされたのは、ほんとうにはじめてだった。

そこに入っていた現金は、まぎれもなく父が私のために選んでくれたプレゼントだ。「給付金だから」という理由は父なりの配慮だろう。「受け取れない」と言わせないための。

父と母の分、20万円。
二人からのプレゼントだ。

私は今まで「お金にばっかり目を向ける人間は嫌い」とよく言っていた。でも、今は手元にあるこの20万円があたたかくて、尊くて、涙が止まらない。

私のほうこそ返したいんだ。
父の書斎のなかに詰まった知識、想像力、文章のすばらしさ。何かに没頭し続け、それを仕事にする生き方がかっこいいと教えてくれたこと。私をこの世に生んで育ててくれて、今もなお見守ってくれていること。

感謝しかないんだ。

31歳にもなって甘えているのかもしれない。でも、私はこの給付金をきっかけに、父から改めて大切なものを受け取った。

これを20万円として使うのではなく、何倍もの価値にして社会に返したい。

そんじょそこらの20万円とは違うのだ。これは父がくれた、合理的で賢い父らしい愛なのだから。私もこの愛を循環させたい。きれいごとかもしれないけれど、父がしてくれたように。

そして、いつかこの20万円の使い道を父も笑える冗談話にして、「ありがとう」と伝えるんだ。

尊敬する父よ。どうぞこれからも、健やかに生きていてね。

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