くらげの日
私はくらげが好きです。
いつだったか、水族館で初めてくらげに出会ったとき、こんなに美しい生きものがいるんだ、と感動して泣いてしまったのを覚えています。あのとき一緒に居たのが誰なのかは思い出せないけれど、「水族館で泣くほど感動する?」と、驚いたような、すこし戸惑ったような笑いを浮かべられたのは思い出せます。誰なのかは、どうしても思い出せないのに。
くらげはふわふわしていて、輪郭がはっきりとは見えません。たしかに個体としてそこに在るのだけれど、じいっと見ていると、ほんとうにそこに居るものなのかちょっと自信がなくなる。光をあてられると色に染まってさまざまな表情を見せるけれど、影に隠れると消えてしまったりする。
私はなんだかこのよくわからない存在に、あこがれるような、あるいは共感するような、いまだ言葉にできていない何かを感じて、いつも心が揺れ動いてしまいます。「くらげが好き」という言葉には、好きでは語り尽くせないいろんな感情が蠢いていて、私はいつも探しています。その感情を的確にあらわす言葉はないものか、と。探しているうちに、水槽の前で1時間以上突っ立っていた日もあります。
私の心の中にもたくさん言葉にできていない感情や想いがあって、くらげのようにふわふわしていて。すべて言葉にできたら、すべて説明できたら、誰かにそれを伝えることができたらどんなにいいだろうと願う一方で、それらを死ぬまで言葉にしないまま、輪郭を捉えないまま泳がせておかなければ、と考えることもあります。
くらげと向き合うと、言葉で照らされない自分自身の奥底に沈んでいくことができるのです。言葉にできない自分を鏡で見せてもらっているような気分になって、そこに何の答えもないことに安心するし、願っても叶わないことがあっていいんだと落ち着くのです。
先日、街中に新しくできた水族館に行きました。くらげがいました。とても美しくて、やっぱり私はすこし泣いたし、しばらくそこに突っ立っていました。その水族館に連れて行ってくれた人に心から感謝して、楽しい時間を過ごせたと思います。そのとき私の心の中にあったいろんな感情を、一言も言葉にはできなかったけれど。だから伝わるわけは、ないんだけれど。
水族館で私の隣に居てくれた人のことを、私はもう二度と忘れなくないな、と思いました。くらげを見るたびに、自分のなかには言葉にできないたくさんの想いが泳いでいるのだと確かめるたびに、そのすべてを伝えられたらどんなにいいだろうと願った相手がいたことと、その幸せや苦しみを思い出せたら、と。
ほんとうの私はお土産なんて買うタイプの人間じゃないのに、帰りがけに水族館に併設されたショップに寄りました。かわいらしいくらげの商品がいっぱいあったけれど、私はその中から黒いシンプルなマグカップを選びました。無骨な一本線でシンプルなくらげが描いてあるそのマグカップは、とても地味だけれど、私が感じるくらげに近い何かを感じました。
今日、そのマグカップを箱から出して、あたたかいお茶を入れました。そうしたら色が変わって、あかるい白地にパステルカラーのくらげが浮かび上がったのです。温度が変わると絵が変わる仕様のマグカップだったんですね。
私はそんなのまったく確認せず買ったから、お茶を入れて自分の想定外のくらげが出てきた瞬間、笑ってしまって。それから「ねえ、これ温度が変わると絵が変わるよ」と伝える相手が、もうそばにいないことに気付いて、お茶を飲みながらわんわん泣きました。
「私は確かに幸せだったよ」とだけでも、最後に言葉にして伝えられたらよかったな。
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