見出し画像

思考を停止したい。

“ないものねだり”が自分を苦しめている。
自分にないものばかり求めてしまう。昔からそうだった。今の自分を受け止める器量が私にはないから、理想を求めてはへこたれる。自分の周りの人間にも理想を求めてしまう。ありのままの全てを愛せたらこんなに苦しまないのだろうに。

近頃、自分の病気について考えることが多い。
仕事を探しているけれどなかなか見つからず、それが“何のせい”なのか、考えてしまうからだ。
精神障害者として、障害者雇用で働いていたこともあったが、ここ数年はずっと無職だった。働く意思も気力もなかった。それは紛れもない事実で、言い訳もできない。
仕事を探していく上で、自分の条件を考えると、通勤のしやすさが大事だと気づいた。でも家の近くには障害者雇用でとってもらえるいい職場などない。
次に、週5日は無理だ、と言う点も問題だった。
甘えではなく、自分が長く働くための譲れないポイントであるのは事実だが、これでは採用される可能性はとても低いだろう。

企業との電話で、障害者であることを伝えると向こうの声が曇るのがわかる。
「差し支えなければどのような症状かお聞きしてもよろしいでしょうか?」
そう言う問いに、どこまで答えるのが正解かわからなくなる。
もちろん、隠して入社して企業に迷惑をかけるのは私も嫌だ。だから、必要であれば事実を伝えようと思っている。それなのに、向こうが明らかに“障害者”というワードで空気を濁すものだから、こちらも言いにくくなってしまう。

人より落ち込みやすいとか、怒られたら気にするとか、そう言うのは障害者じゃなくても悩む人は多いだろう。そうなってくると、自分のどの点が他人と違うのか分からなくなってしまう。私は本当に障害者なんだろうか?もっとちゃんと、普通に生きていかなければならないのでは?
でも、それができないから今まで障害者として生きてきた。

正直言って、私は真面目だと思う。仕事もできると自分では思う。今までの職場も、自分の気持ちがついていかず長く続かなかったが、どこでも仕事は褒められることが多かった。
それでも自分に自信があるわけではない。仕事を休まない自信もないし、すぐ辞めてしまうかも知れない。自分の弱さは身に染みてわかっている。

障害者であること、そして自分は障害者じゃないのではと言う疑問、どちらも両方苦しいのだ。
障害は甘えではないし、自分の意思とは反して心が脆くなるのもわかる。だけどもし私が障害者ではなく、ただの甘えなのだとしたら?でも障害者と診断され、15年以上投薬治療をしてきて、「薬を飲まないと普通に生活もできないんだ」と何度も泣いたのも事実。「やどりはやどりだよ」と言われても、私は自分がわからない。治療は必要で、そのためのお金は飛んでいって、生きづらさを感じて、自分で死を選ぼうとし、それが正常とは思わない。でも、それでも他人との大きな違いがわからない時がどうしてもある。みんなだって落ち込んでる。みんなだって不安そうだ。そう思えば思うほど、自分は甘えではないのかと自問自答を繰り返す。


冒頭の話に戻るが、私は高校生の頃より30キロ以上太ってしまった。薬のせいも大いにあるだろう。そして私はそんな自分を全くもって許せないし、愛せない。受け入れることもできていない。これからどんどん歳をとって、シワが増え、白髪が増え、そんな自分がたとえ美しかったとしても、今の自分が醜いことが事実なのだ。私はそれが嫌だ。嫌でたまらない。
着たい服はサイズが入らないだろうし、こんな太い体では似合わない、と遠目に見るだけになった。お金がないから自分の体に合うであろう服も買えない。どんどん自分が嫌いになる。
最近ダイエットを始めたが、もちろんそんなにすぐ痩せることはない。
「長い目で見よう」と言われることが苦しくなる。“今の私”は我慢するしかないのだ。ただただ気付かぬフリをして、この苦しみを受け流すしかないらしい。

自分の性格が嫌でたまらない。
他人に何も与えることが出来ない。自分勝手でわがままで強欲で、そしてすぐ落ち込んでしまう。安定しない。

生きている限り思考は停止しない。
きっとずっと苦しみ続ける。
私の思考が“しんどさ”に関連しないもので埋め尽くされることがあればいいのに。きっと無理だ。
私が私じゃなくても、私が誰かである限り、ずっと苦しいのだと思う。


やどり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?