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晩秋のミニシアター紙芝居

 島にいるので参加しない今日からの紙芝居イベント直前に急に実演したくなり、動画を撮ろうと思い立つ。

 いつもいつも腰を上げるのがギリギリか直前。しかもやり始めると寝食も忘れてしまう。

 高校の頃はずっと家で音楽を創っていた。創り始めると寝れなくなり、幻覚が見えるようになってくる。今でもよく覚えているのは当時のマックが水槽になったこと。でも魚が泳いでいるのは画面の方じゃなくて画面の縁。それから仮面の部族みたいのが自分の周りで踊りだした。幻覚がおもしろくて笑ってたら隕石が飛んできてガンとあたってそのまま椅子から落ちて床で気絶。そんな高校時代だった。

 ガムランやケチャにハマった時もあったけど、打楽器とかリズムとか繰り返してると高揚感から幻覚見えてもおかしくないんじゃないかとすら思う。あの幻覚音楽体験もきっと似たようなものだったんだろう。

 思えばそうやって自分だけのこだわりで何かを0から作っていくのが昔から好きだったんだろう。あの時の幻覚が見えるギリギリの高揚感が蘇る。

 今日も思いつきでやり始めたら、今回の見せ場、紙芝居を破る場面がうまくいかず、何度かやりなおし、今の自分じゃまあここまでだろうってところまではやった。

 結局どこで満足するかってことで、大事なのは今の自分の限界がどの程度でそこまでやりきってるかどうかってところだと思う。

 だから決して完璧ではないけれど、今の段階でできるところまではやれたと納得できればある程度の達成感は得られるし、不足な点は反省しながら進歩や向上につなげることができる。

 まあ、破るところと紙吹雪はまだまだ改良の余地はあるけれど、30分ノンストップで演じきったところはよしとしよう。

 そしてこのやりきった感のあとの残骸がこちらである。

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 子どもの遊んだあと……?

 そう遊びだ。夢中になってやる遊び。

 何かを創ること、熱中すること、0から世界を創ること。音楽でも小説でも紙芝居でもその一人遊びは楽しくて、喜びを感じるのに、そこに誰かの反応を求めてしまうのはなぜだろうか。

 自分の作った世界観を理解してほしいからなんだろうか、分かち合いたいんだろうか、それともただの承認欲求?

 それこそ音楽をやっていた頃は、承認欲求が強かった。小説も絵本も紙芝居もそれはある。でもじゃあ、反応がないならやめればいいのにやめられないのはどういう理由からなんだろう。

 この紙芝居動画だって見る人いるのかわからないし、友だちとかもほとんど反応がない。それでも今日自分がやろうと思ったところまでやれたことにはある程度の満足感がある。そういうのは何だろうか。

 例えばこのnoteも見てる人はあまりいないだろう。でも、なんか書いてしまうし、完全なひとり言でもなくて、誰かに話しながらまとめていく感じ。結局一人だけの日記やメモではそこまでモチベが上がらない。

 なんだか似てる。創るだけで満足ながらも、反応なくて残念でもあり、それでも創る繰り返しに。

 書くことに関してはもう瞑想なんだろうな。「今ここ」に集中するのがそもそも瞑想で、今その瞬間に集中していること、それこそ我を失うぐらい没頭している状態が瞑想だと言う人もいる。

 実際動画撮ってる時は、人気ない島が実はけっこううるさいということに気づかされる。

 まず島のスピーカーでの放送。それからカラスや鳥の声、木から何か落ちる音、飛行機の音、決まった時間に鳴る音楽。そんなに気にしたことなかったけど、紙芝居実演中は雑音がすごく耳に入ってきた。動画になると意外に入ってないけれど、神経研ぎ澄まされていたのか、閉め切っているというのに人の声まで気になった。

 今その瞬間の音に敏感なわけで、それもある意味「今ここ」なのかな。

 

 絵で心理状態がわかるように、自作の物語もまた自己対話や潜在意識との交流に役立つ。

 創作の源泉みたいなところにつながった時の喜びと物語を降ろしているような感覚。自分が物語を書くことで世界が一つできていくといったあの感覚。裏側と表側の世界で、自分もまた神の手に「書かれている」という感覚。そんな合わせ鏡的な体験の連なりを感じるからおもしろいんだろう。

 そしてそう感じたことを書いたのが、さっきのミニシアター紙芝居の原作小説「月をうむ」だ。

 秋から冬、季節の狭間の長い夜。誰かがこの合わせ鏡をのぞき込むことがあればまたおもしろい。

 

 

 

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