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Museum and well-being

◆well-being…社会とつながりを持ち、心身ともに良好と感じる状態

ようやく最重要視される「個人の幸福」
しかも世界規模で。

シンプルに、嬉しい。


今年私は、東京都の美術館でとある活動を始めることになったのだけれど。

基礎講座がいくつか用意されている中で、初めに言葉のシャワーを浴びたのが、このwell-being。

本当に待ち望んだこの価値観が、波に乗って地球をキラキラに覆いつくす未来を想像して、胸が高鳴った。

個人の幸福が最重要視されるのは当たり前なのにね。


私はかつての大学の講義で「平和」ってどういうことだと思う?という問いを投げかけられたことが忘れられない。

国際開発や国際協力などを扱う学部だった。

当時の私はこんな風に考えていた。

・戦争がない状態
・食べ物に困らない状態
・命が守られている状態

日本の子どもの貧困問題を解決する活動に関わっている今の私からすると、これらは平和というよりは、「絶対的貧困」の状況ではない状態、でしかないとわかる。

当たり前にクリアされるべき、人間としての基本のき。

ただ、これが当たり前ではなかった時代が、確かに地球にはあった。

そして日本のような先進国が抱える「相対的貧困」。

例えば
・大学進学したいけどお金がなくて諦める状態
・学校に必要なものを買うために、食費を削らなくてはいけない状態
・子どもが3人もいるのに、1Kで暮らさなければいけない状態

でも、きっとこんなこともいつかは「歴史」になる。

「戦後は食べるものも着るものもなく…」的な感じでね、語られるはず。

環境に配慮しない社会はあり得ない時代になった今。

これからはwell-beingに配慮しない社会はあり得ない時代になるという。

なんとありがたいことだ。

「平和」を超えて「幸せ」を問える時代だ。
(でも戦争はいまだになくならない)

まぁ、何をいまさら、という気持ちが同時にふつふつと湧いてくるのだけれど。

だって、いったいこれまで何人の人が「社会」のために命を絶ったのだろう。

命を絶つまでいかずとも、絶望の中でぎりぎり生きている人も大勢いると思う。

自分の優先度を一番下まで下げている人もたくさんいると思う。

だってそうじゃないと生きていけないから。家族を生かしてあげられないから。

肉体は生きていても、心は死んじゃうよね。

こんな世界に、新しい命を産み落とす意味を問う人だって出てきちゃうよね。

「人間らしさ」がそんな形で失われる、そんな世の中。(ポイズン)


というわけで、well-beingについて考察したあと、Museumとの関係性について。

私が理解したのは、

「美術館という場所が、人が対話し、コミュニティが生まれ、みんなが共にあることができ、社会とつながりながら心も体もいい気分になるのには打ってつけ!」

ということ。


アートって、「あーでもないこーでもない」とおしゃべりするのに向いてると思う。

初めて集まった人たち同士であっても。

年齢が大きく違っていても。

障がいがあってもなくても。

むしろ生きてきた過程が違えば違うほど、いろいろな感想が出て面白いと思う。

それでいてアートに触れることによる感動(心が動かされること)も起こるから、後味もよいときた。


美術館はいつでもどーんと建っていて、来るもの拒まず去るもの追わず。
入口から人が入って、出口から出て行って。
アートをその空間に抱えて。
決して無駄口をたたかない、寡黙な紳士。

でも、well-beingを起こす場として、人々が紳士をくすぐり出す。

人々が美術館を動かし始める。

足が生えたように、美術館の方から人々を迎えだす。

アートを抱えていた空間に、私たちのwell-beingが充満する。



そう考えると、美術館という場所が、なんだか違って見える今日この頃です。










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