芸術の必要性を考える2
ちょっと今回からは、本の言葉👩🏫、私の考え📝にします。
👩🏫経験によって、人は作られ、人間は進化してきたが、経験の最初の接触は、感覚(聴覚、視覚、味覚、触覚、嗅覚)に依存している。
Sasunne Langerは以下のように述べている。
神経システムは、精神(心)の器官であり、中心は脳。そして、その末端にあるのが、感覚である。そのため、心と感覚は繋がっている。
例えば、見ることは決して受動的な体験ではなく、人間は見たものを認識し、理解し、意味を自分の頭の中に描く、そのため、視覚という末端から得られた情報はその時点でもう心と繋がっているのだ。
📝日本語で書いてある本で、図画工作科とか、音楽科とか、就学前教育の多くは非認知能力という括りにされているけれど、筆者によると、非認知って、私たちが意識していない生命の形態に関することらしい。血が流れているとかね。だから、この著者によると、図画工作科は、非認知能力ではないんだよね。てか、むしろ心と感覚を繋いだり、自分の心に描いたものを作品に表す、行動に心の中のものが影響を与えているという時点でめちゃくちゃ意識が働いていて、認知的なんだよね。軽々しく、非認知とか使わない方がいいな。
一方で、私たちは、常に感覚を使っているから、わざわざ芸術を学ぶ必要はないのではないか。という意見もあるだろう。
しかし、筆者は、以下のように述べる。
👩🏫芸術の中では、効率性を求めて通常だと見逃してしまうようなことを丁寧に扱うことができる。
📝確かに、よ〜く見る。よく聴くとかするもんな。だからこそ、ただの丸まった靴下も、芸術の中では、飛行機にも食べ物にもなるかも。効率性を求められない教科っていうのは、いいよね。だからこそ、感覚を十分に使うことができる。
そして、ちょっと途中の話よくわからなかったんだけど、
👩🏫アートが担う“認知“機能の一つの役割は新しい世界に気づかせる学びの手助けをしてくれることだ。例えば、モネの作品は、私たちに新しい光の見方を教えてくれる。(光にもいろんな光があることに気付く。)ポールストランドの写真は、工業世界の幾何学さの経験を与えてくれる。
📝バンクシー見に行ってから、社会問題をアートで表すことに興味を持ったし、そんな表し方があるんだ〜って気づけた。
で、友達と話していたんだけど、
ガーナでした図工の授業の時に、葉っぱで作った人間見せて、
👩これ何に見える?ってクラスの子に聞いたら、
👦葉っぱ!!って。
人に見えるっていう子は一人もいなくて。
光の見え方が全部一緒で光であっても、葉っぱがただの葉っぱでしかなくても、全然生きていけるけど、トイレの窓から射す朝の光と青い空を見て、なんか初夏っぽい懐かしい気持ちになるし、道歩いていて、雲が鯨の形に見える〜とかって、癒しや感動になると思うんだよね。それってちょっと幸せだなって思える。あれ、こういうことじゃない?
この感覚が敏感すぎるとそれはそれで生きづらいのだろうけれど、それはまた別の機会に。
※写真は、その後子供がつくった葉っぱ人間。
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