しおり市長の市政報告書 vol.27

   1月7日午後2時16分
 
 私は、自分なりに方策を探ってみた。そのつもりだった。
 しかし、鳥獣被害対策についても、中山間地の農業の問題も、環境の問題も、そんなに簡単ではない。
 ぼろ車で、留山川ダムに隣接する田麦野地区に行ってみた。
 留山川ダム、ダム湖の名称「天留湖」は、冬期間は雪により封鎖されている。ダムは立派に完成し、湖も水で満たされているが、それを取り巻く周辺整備、親水公園の工事は凍結されたままだ。整地だけされて、なにがそこに作られるのか、じっと雪の中で待っているはずだ。
 そんな留山川ダムに思いを馳せながら山道を上り、田麦野地区を巡ってみる。天童では唯一と言っていい、山間部の集落だ。市内中心から、15分ほどの距離にある。15分と言えば、それほどの距離ではないのかもしれない。しかし、コンパクトな天童市のこと、やはり人里離れた印象を持ってしまうのだろう。雪も、やはり平地に比べれば多い。数十戸の家が、山道に沿って立ち並んでいる。
 だが、決して廃れた山村という感はない。
 それぞれの家の構えは立派だし、敷地も広い。古民家もあるが、近代的な建物も多い。田舎そばの店などもあって、流行っているようだ。今は雪に覆われた棚田が、真っ白な階段となって、非常に美しい風景を生んでいる。ちょっとした買い物ぐらいならばできる店もあるし、簡易郵便局もある。まして15分車を走らせれば、市街地なのだから、優雅な田舎暮らしを楽しむなら、それほどの不便はないだろう。
 それでも…そう、それでもなのだ。
 小学校は廃校になってしまっている。田麦野地区の子ども達は、近くの山口小学校に通っているのだ。じわじわと、地区の人口も減っているし、高齢化もしてきている。若い世代が中心部に移り住む例は、あとを絶たない。
 以前は田麦野地区の上にある「天童高原スキー場」が華やかだった。いつもスキー客で賑わっており、冬期間の働き場所になっていた。が、スキー人口の減少により、全盛期には比ぶべくもない。
 中心部までの距離。雪の深さ。生活の不便さ。そういったものは、住んでみた者にしかわからないのだろう。
「景色が綺麗な田舎で、住むには最高じゃないですか!」
 などと放言するのは、無責任なよそ者の言うことだ。
 農家さんの努力もあって、田畑が荒れていることもないが、やはり山が近い。すぐそばの林から、いつ動物が出てきてもおかしくないと感じる。山が近いから、日の光も少ない。そして、農地の狭さも実感できる。
 この場所に住み、農業を続けるのは、大変なことだろう。
 そんな状況で、「市長の農業・鳥獣被害軽視発言」だ。そりゃあ、反発も起こるだろう。
「そんなに住むのが大変なら、移り住めばいいじゃないか」
 という視点も確かにあるだろう。
 しかし、そうやって山間部を切り捨てれば、いずれそこは人跡未踏の地に埋没してしまう。森が人里にせまれば、自然災害や鳥獣被害も人里にせまるのだ。農村環境の維持、自然環境の維持、そういった視点から、山村部は切り捨ててもいい、などというのは短略的すぎる。
 もちろん、山間部に住んでいる人達は、自然環境の維持のためなどという理由で、そこに住んでいるわけではあるまい。
 父祖伝来の土地への愛着、生まれた場所でのつながりや郷愁、あるいは経済的な制限、もちろん、自然環境豊かな地域が好きだ、という理由もあるだろう。
「だから、不便を甘受してそこに住むのは、その人の勝手だ。なぜ、そういう少数派の心配をしなければならないんだ?」
 という意見もあるだろう。
 しかし、これは「民主主義の究極の課題」と言ってもいいと思う。
 仮に30人の住民がいる、山間部の集落があるとする。ここに3億円をかけて水道を引いたとしよう。しかし一方で、3000人の住民がいる中心部への水道敷設も、同じく3億円がかかるとする。どちらが優先されるべきだろうか。
 民主主義的優等生の答えは、「どちらも大事」になるだろう。
 民主主義の基本原則は多数決だ。とすれば、より多くの人間の福祉につながることを優先する、というのが至上になる。だが、民主主義においては、一人一人の人間が主権者だ。たとえ少数でもこれを切り捨てず、少数のために多数が動くこともまた、至上なのだ。どちらも正しく、どちらも優先したい。
 だが、現実はそうではないのが、賢明なる市民の皆様には明白だろう。
 予算は限られているのだ。10人のために使う1億と、1000人のために使う1億、どちらが優先されるのか?という命題は、民主主義国家における政治家の端くれとして、答えを求めて煩悶せざるを得ない課題だ。
 一度、そんな命題をつきつけられるケースがあった。
 天童市ではなかったが、県内で大雨による土砂災害が発生し、県道が土砂で埋まってしまった。これにより、その道が通じる3戸の家が孤立してしまう。
「県としては、早急に数億円を投じて復旧工事を行い、孤立の解消に向けて最大限の努力をします」
 と、当時の県知事が記者会見を行い、それは美談として県民の目に映った。
 少数の危機を救う、という意味では全くもって正しい。私としても、その対処に否やはない。県道である以上、その管理者が復旧工事をするのも当然のことだ。
 しかし、一方で、
「数億かけて道を復旧するより、中心部に5000万円の家を3軒建てて、移り住んでもらった方が、安上がりだべした」
 と思ってしまった自分がいた。
 これは極端な例だが、等しく集める税金をどう活用するか、という点で、税金を執行する側の行政としては考え込んでしまうだろう。
 だが、この問題を追及していけば、どこまでも少数の権利を無視することにつながる。
 天童市の中心街だけを優先し、周辺地域はどうでもいい、という考え。
 それは、人口の5割をしめる三大都市圏を優先し、地方はどうでもいい、という傲慢とどう異なるのか。
 やはり、「どちらも大事」なのだ。
 天童の市街地も大事だが、田麦野も大事。
 今回の鳥獣被害の問題も、農業の問題も、環境の問題も、「不利な山間部なんだからしょうがない」では済まないのだ。むしろ、そうした山間部の問題を解決してみせることで、しおり市長の逆転も見えてくるだろう。
 そのためにも、鮮やかな「いい事業」が必要だ。
 とくに、ダム湖親水公園に対する「答え」が必要だ。
 んだげど、ああ…。現場に来ても、なにも思い浮がばねず(浮かばないよ)。
 田麦野からの帰り道、下りの曲がりくねった山道は、悶絶しながら沈みゆく、織田しおり市政の前途に見えた。

vol.28に続く ※このお話はフィクションです

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