しおり市長の市政報告書 vol.29

   1月29日午前10時21分

 次の日から私は、予定調和的にマスコミの批判にさらされた。
 さすがにテレビで放映されることはなかったが、新聞に批判記事が載った。松永のテレビ局の系列の新聞の記事で、明らかに松永が要請して書かせたものだろう。どう読んでも、あの場にいなかった者に書ける記事ではない。報道機関は各々独立しているなどと言ってみても、いかにお互いに繋がっているかがわかる記事だ。まして同じ系列。そんな記事を載せさせることなど、松永には簡単なのだろう。
 曰く、「大物国会議員の娘が市長となり、秘書が市議会議員となり、市政を専横している。市議会議員は市長の太鼓持ちで、市長を批判するどころか擁護している。むしろ市長を裸の王様にしているのは、批判精神のない市議会議員の責任だ。天童市政は、いまや大物国会議員の亡霊が支配し、その亡霊が残した悪事を正すこともできない、負の遺産政治と化している」。
 そんなところが概略だが、そこには寒中引き抜きそば賞味会での松永とのやり取りも入っていて、「某市議会議員」の失礼な態度、マスコミを軽視する言動が紹介され、「市長と元秘書のなれ合い、言論の自由への挑戦」といった言葉が、記事に彩りを加えていた。
 まあ、一部頷けなくもない。
 確かに私は市長を擁護しているし、なれ合いの部分もあるだろう。「市長を裸の王様にしている」と言われれば、反省すべき点もあるかもしれない。新聞記事の字面だけ読めば、冷静に現状を評しているようにも見える。
 しかし、明らかに私を攻撃するために書かれた文章だ。うんうん、と頷いてばかりもいられない。
 秘書が市議会議員になってなにが悪い。秘書は政治家のそばで政治を学ぶのだから、少しは一般の人より政治行政をわかっている。それに、批判するだけが市議会の仕事か?市長という権力者をチェックするのが議会の最大の役割だが、執行部と議会は車の両輪なのだ。市長と協力しながら事業遂行する、あるいは事業を提案する、というのも立派な議会の仕事だ。だいたい、大物国会議員が興した事業は、悪事か?先達が成し遂げた大きな事業を継承することは、負の遺産を受け継いだことなのか?
 そうした反論は次々と浮かぶものの、私の声に耳を傾けてくれる人はいない。
 一応私もSNSでの発信はしている。そこに今回の顛末を書いて、報道への反論を語ってみた。
 しかし、もちろんのことその記事を読む人数が圧倒的に違う。新聞と個人のSNSでは、影響力の差が歴然だ。それに私のことを擁護してくれる人もいるにはいたが、大半は「言い訳するな」とか「この市長の太鼓持ちが」などという、報道側に立った批判メッセージだった。「市議になって鼻が高くなりやがって」「若造のくせに態度がでかい」といった私個人への嫌いアピールもあったし、「俺のしおり市長に近づくな」とかいう訳のわからないアイドルファンメールまで来るにいたり、私はSNSでの発信をやめた。まあ、沈黙すればしたで、沈黙したことを批判されているようだが。
 さすがにテレビ報道まではされなかった。しかし、スプリング的な週刊誌がしおり市長への批判記事を書いた際、「地元市議との癒着」という項目があった。ほとんど先日の新聞記事をなぞった内容で、系列じゃなくてもマスコミが「癒着」していることが伺えた。「市長と市議の怪しい関係」だそうだ。バカバカしくて反論する気にもならない。しかし、私は週刊誌で全国デビューしてしまった。批判の勢いも爆発的に増した。
 これが、マスコミという神にケンカを売った者の末路か。
 私はどんどん追い詰められていった。
 もとからの支援者である地域の人達は、誰もが私のこともしーちゃんのことも知っているから、励ましてくれた。もしかしたら、天童市民の大半は私たちに批判的ではないかもしれない。しかし、記事やネットで叩かれると、周りの全てから批判され、嫌われているように感じてしまう。
 道行く人に呼び止められて非難されたり、遠くから罵倒されたり、ひどいのになると空き缶を投げつけてくる人までいた。そうした極端な人はごく一部なのだとわかってはいても、落ち込む心はどうしようもない。伊達の側の人間が意図的にやっているのかもしれない、と思っても、心の慰めにはならない。しおり市長側を追い込むための作戦だとすれば大したものだ、などと笑い飛ばしても、心は晴れない。
 松永との口論は後悔していない。私の思いをぶつけただけだ。
 いや、後悔してない?あれは結構なしくじりだったんじゃないか?
 感情にまかせてケンカして、一時だけは気分がよかったかもしれないが、その後は状況を悪化させただけだ。しおり市長にも、必死に状況を挽回させようとしている議長や副市長にも、大いに迷惑をかけている。批判報道が激化して、ますます政策立案どころではなくなっている。
 全部私のせいじゃないか?
 追い詰められると、弱気になってくる。神に楯突いたことを後悔してくる。神の慈悲にすがりたくなってくる。私が悪ぅござんした、と告解したくなってくる。
 しかし、「すべて私のしくじりです」と教壇で語れるのは、芸能人か有名人だけだ。私のような視聴率のとれない一般人では、神の慈悲にすがることもできない。
 いやいや、弱気になってる場合じゃないぞ、俺。
 すでに、半月近くを浪費している。批判報道に右往左往させられすぎた。外に出るのが億劫になって、引き籠もりがちになっていた。
 だが、今こそ正念場だ。
 私はスーツに着替え、家を飛び出した。とにかく、市役所に向かおう。
 落ち込んでる、などと甘えたことを言ってどうする?
 お前も政治家の端くれだろう?
 政治家だったら、批判報道などに動揺するな。政治家だったら、周囲の評価など気にせず、自分の成すことを成せ。
 故織田ケンイチ代議士ならそう言うだろう。
 ケンイチ代議士も、よくマスコミに叩かれていたものだった。政治とカネの問題、女性問題は言うに及ばず、仕事をするにつけ記事を賑わせた。大物になればなるほど、仕事が大きくなればなるほど、マスコミの餌食になっていた。代議士は、平然として仕事に取り組んでいた。
 それが政治家の資質というものだろう。
「世の人は我を何とも言わば言え 我がなすことは我のみぞ知る」
 坂本龍馬の言葉が、私をえぐった。
 世の批判などどこ吹く風で自分の仕事をするのが、政治家ではないだろうか。たとえ傲慢と見られようと、自分の成すことを信じる。そうしたふてぶてしさを、大政治家はみんな持っているのだろう。
 私にはない資質だ。
 もしかしたら、ケンイチ代議士だって龍馬だって、もともと批判に強かったわけではないかもしれない。しかし、ちょっとした批判に凹むようでは、大きな仕事はできない。政治家たらんとすれば、歯を食いしばってふてぶてしくならなければならない。
 政治家の資質かあ…。
 私は、市役所への道を歩きながら、市議会議員に立候補した時のことを思い出していた。

vol.30に続く ※このお話はフィクションです

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