しおり市長の市政報告書 vol.16

   11ヶ月前11月2日午後12時18分

 市長を私のぼろ車に乗せ、私は天童高原からの蛇行する山道を下っていた(乗ってきた公用車は帰したため、私が送ることになった)。
 山から下る途中の田麦野地区、上山口地区の田畑を見つめながら、市長が言った。
「なにか考えんなねね(考えなきゃね)。こうした中山間の農地の荒廃は、里山の荒廃に直結すっから」
「田麦野地区は市長の卒業発表のテーマですからねえ。『天童市田麦野小学校の利活用と地域再生について』でしたっけ。思い入れもあるでしょう。頑張ってください」
(すぱしっ!頭を叩く音)「人ごとみたいに言うな。ケーちゃんも考えんの!」
「痛いですよ!事故るでしょ!でも、一緒に考えるって言ったって、難しいですよ。果樹には手間暇かかりますから。私の知り合いも、耕作放棄地を受け入れてくれって頼まれるけど、手が回らなくてこれ以上は無理だ、って嘆いてましたもん」
「んだのよねえ。果樹も野菜も、手間かけないと売れないしねぇ」
「日本人は、曲がったキュウリ、買いませんからねえ。味は一緒なのに」
 キュウリは本来曲がるものだが、調理しにくいからか販売側の事情なのか、曲がったキュウリは売り物にならない。市場が買ってくれないのだ。だから矯正器具を一本一本につけてまっすぐにする。その手間だけでも大変だ。つまり人手がかかる。
 まえに、心底頭に来る話を聞いた。
 山形県の遊佐町では、パプリカの生産に力を入れて一大産地になっている。しかしこのパプリカ、三割ほどは売り物にならず、棄てているのだという。理由はパプリカのおしりの部分。パプリカを立てたときの台座の部分だが、これが四つこぶのものと三つこぶのものが、自然にできる。その割合が七対三ぐらいの確立で生まれるのだが、この三割の三つこぶのパプリカは売り物にならないのだそうだ。
 パプリカの出荷先は主にファミレス。ここで付け合わせにパプリカを出す時、四つこぶのものは切りやすいが、三つこぶのものはこぶをつけて切るには三等分にしなければならず、均等に切りづらいのだそうだ。しかも、三等分にした方が、四等分より大きくなってしまい、隣の客とパプリカの大きさが違うとクレームが来てしまうという。
 はあ?そんな理由?
 んなこと気にする客、いる?いたとしても我慢してもらえばいいじゃん。そもそも、なんで一つ一つにこぶがついてなきゃならないの?味、かわんないでしょ?
 そんな理由で三割ものパプリカが廃棄され、本来農家さんに入るべき収入が削られていく。そんなことをしていては、日本の農業がダメになるのは当たり前だ。
 さすがに今は出荷できるようになっていると思うが、曲がったキュウリと同じく、味は同じなのに形や色で値段に差が出てしまう農作物は枚挙にいとまがない。
 これは、消費者の意識を変えていかないと、どうしようもない。
 いや、消費者の前に、そうした現状を作り出しているのは流通だろうか。
「前に、東京の青果市場に行ったんですよ。そしたら、山菜のタラの芽が百グラム九百円で売ってまして。九百円ですよ、信じられます?山形ならその辺の山に入って行ったら自生してるのに。もちろんハウスものなんですが、そんなもの、うまいわけないじゃないですか。露地物の方がうまいに決まってるのに、って言ったら、青果市場の人、なんて言ったと思います?
 こういうタラの芽みたいな山菜は、一般家庭ではほとんど食べられなくて、扱うのは高級料亭だ。高級料亭では、お客さんが春の息吹をいち早く感じたいってんで、正月から三月くらいに山菜を出す。『四月過ぎたら、もう東京の人は山菜なんか食べませんよ』ですって!山菜が美味しいのは春ですよ!本当にうまい時期には食べないで、石油のかたまりみたいな山菜をありがたがる。江戸っ子の粋とか、バカみたいですよね。そういう意識変えないと、農業はよくなりませんよ」
「ホント、んだね。いっそ地方が手を組んで、東京への農産物の輸出、やめればいいのに。そうすれば自然と地方に人口が戻って、地方創生でぎんのにね(できるのにね)」
「ははっ!そりゃいいや」
「だけど、今はそんな現実逃避はやめねどね(やめないとね)。果樹は贈答品に使われることが多いがら、それなりの品質じゃねど(じゃないと)売れないのは確かだしね。だから、どうしたって手間暇がかかる」
「…そうですね。さくらんぼなんか、やっぱり赤くて粒が大きくないと。品質を落とせば、天童のさくらんぼそのものに打撃をあたえてしまいますからね」
 山形名物のさくらんぼ。
 山形の代名詞だが、これを上手につくるには大変な技術が要る。
 冬の間に、さくらんぼの木の枝を適度に切り落とす剪定作業。これによってさくらんぼの実を小粒になるのを防ぎ、一本一本の枝によく陽があたるようにする。春になれば受粉作業。マメコバチという蜂を使ったり、蜂が飛ばなければ手作業で受粉させる。花の芽に霜があたると全滅してしまうから、夜にストーブを焚いて園地を暖めることすらある。また、なりすぎてしまうとさくらんぼは小粒になるから、「おろぬき」という摘果作業もしなければならない。収穫前に雨が当たると、水分を吸いすぎてさくらんぼは割れてしまうから、あらかじめ雨よけのビニールかけもしなければならない(これが大変で危険だ)。色がつくように下からも陽を当てようと反射する敷物を敷いたりもする。そして収穫。これも短期間で行わなければならないから、ものすごい人手がかかる。
 こうした大変な技術と努力、そして労力がかかるのだ。
 あるさくらんぼの名人が言っていた。
「さくらんぼは、なるんじゃねえ。ならせるんだ」
 その背中がめちゃくちゃかっこよかった。
 そうした努力を経て、木になるルビーといわれる山形のさくらんぼができ、農家の大きな収入源となる。
 しかし、こうした手間暇がかかるからこそ、おいそれと園地を広げられない。
 安かろう悪かろうの大量生産ではなく、より高品質なものをつくって、より高く売る。狭い農地から最大限の収益を上げる、というのがこれまでの日本の農業の戦略だった。だからこそ、世界最高の農産物が生産されているのだ。
 その努力が、いまや農業の首を絞めているのかもしれない。
 もう消費者はこの世界最高の農産物を当たり前のものだと思っている。これだけの努力と労力を考えればもっと高値でもいい農産物が、極めてリーズナブルに買える。こんな状況で安かろう悪かろうの農産物をつくっても、誰も買わないだろう。
 生産者も消費者も販売側も、大量生産の安い農産物、うまいが高級な農産物、という二者択一の割り切った認識にシフトしなければ、農業は変わらない。
「大規模農業化していく流れの中で、集積できる土地はあるけど、それを耕作する人手が足りない、か。園地を無理に広げようとすれば、農産物の質を落とすしかない」
「んだね。急に就農者を増やすのは不可能だし。どうすればいいんだべ?」
「いっそ、まったく手間かけないで売れる園芸作物でもあればいいんだけど」
「手間をかけないで、ねえ…」
 しおり市長は呟いたが、おもむろにスマホをとりだし、電話をかけ出した。
「もしもし、石田教授ですか?天童市長の織田です。先日伺ったお話の件なんですが…」
 しばらく話し込んだしおり市長は、電話を切ると、

「私、いい事業(こと)、思いついだんだべが(たのかなあ)?」

 そう自信なさげに笑った。
 うーん、こんな表情は珍しい。憂いをおびた笑みもなかなか…。
 いやいや、そういうことじゃなくて。
 まあ、今回は仕方ないか。なにを思いついたか知らないが、俺も苦労を引き受けよう。天童農業のためならば。
 私は、市長の「いい事業」の内容を拝聴した。

vol.17に続く ※このお話はフィクションです

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