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しおり市長の市政報告書 vol.4

   市長経歴概説(承前)

 その後、定期的にしーちゃんは天童に帰ってくるようになった。
 どうやら本人が言っていたように、東京で都会的な遊びをするよりも、田舎の遊びが楽しくてたまらないらしい。
 一緒に遊べる悪友を見つけたことで、頻繁に父の選挙区の地元に戻ってくる。
 何度も遊ぶうちに、互いの呼び方も、いつのまにか「しーちゃん」「ケーちゃん」で定着した。
 小学校の低学年の頃は、近くの舞鶴山がもっぱらの遊び場所だった。
 南北朝時代に天童氏が山城を建てて本拠とした小山で、歴史的な遺物がたくさんある。私にとっては宝の山だ。市内の中心部にあるのに、森あり沼ありの自然がある一方、ちゃんと公園整備もされていて、天童の春の風物詩「人間将棋」もここで行われる。遊び場としては最高だった。
 斜面の樹にからまったツタでターザンごっこをしたり、洞窟探検(じつは洞窟ではなくて戦時中の防空壕だった。今は埋め立てられてしまったが)をしたり、山城だった頃の歴史遺物をめぐったり(これはもちろん私の趣味だ)。
 少し成長すると、自転車で市内周辺の地へ遠征するようになった。
 市内の津山地域に存在する、常に洞穴から冷風が吹き出ている「じゃがらもがら」までいって、冷たい水でそうめんを食べる。市内東方の果樹園を手伝って、さくらんぼを食べる。市内を流れる立谷川をさかのぼった渓谷で釣りをして、イワナやハヤを食べる。
 食べる、食べる。しーちゃんはものすごい食いしん坊なのだ。
 とにかく、美味しいものに目がなく、新しいものを食べてみたい。そういう意味では天童には、その欲求に応える豊富な食べ物がある。
 しーちゃんは、食べ物だけではなく、新しいものが大好きだ。
 好奇心がとにかく旺盛なのだが、それも自分が興味を持ったものに限られる。それ以外のことはどうでもいいし、興味を持たないことには、とことんものぐさだった。だから、食べるための釣りや農園の手伝いは喜んでやるが、それまでの移動はめんどくさい。自転車もこぎたくない。しかも彼女は全く地図が読めない。
 そんなこんなで、極度のめんどくさがりで方向音痴の彼女を、私は自転車で二ケツして(市民の皆様、自転車の二人乗りは今も昔も違反です)、市内のあちこちに遠征するのだった。
 まあ、かなり危ないこともしたし、悪さもした。
 もし自分に子どもができたら、あんなことは絶対にさせない。
 春は蜂の巣ワングランプリ(誰が一番多く棒で蜂の巣をたたき落としてこれるかグランプリ)、夏は飛び込みワングランプリ(立谷川上流の深い川淵に、いかに高い岩の上から飛び込めるかグランプリ)、秋は果樹ワングランプリ(リンゴやブドウを畑からいくら盗んでこられるかグランプリ。これは犯罪です。すみません)、冬はスキーワングランプリ(雪の舞鶴山の頂上から、崖のような斜面を誰が早く麓までミニスキーで下ってこられるかグランプリ)、などなど。
 これらの〇〇ワングランプリは他にも色々とやったが、私の同級生も多く参加しており(ほとんどが男の子)、優勝するとなんでも一つ誰かに要求することができた。密かにみんなが優勝してしーちゃんからキスしてもらおうと考えていたのを私は知っているが、あいにく全てしーちゃんが優勝するのだった。
 もっとも、果樹ワングランプリという犯罪は、初回で畑のおばちゃんに発見され、こっぴどく叱られて未遂に終わった。
 ちなみに怒られたのは首謀者たるしーちゃんではなく、私だったことは言うまでもない。
 その後は、果樹ワングランプリは、畑仕事を手伝って、いかに多くのバイト代(果樹の現物支給)をもらってこられるか、というグランプリに変貌した。

 私の同級生のほか、一緒に遊んでいた子ども達はたくさんいたが、常にひっぱりだされるのは私だった。私もしーちゃんが帰ってくる度に繰り広げられる遊びを楽しみにしていた。二人で遊びに行くこともざらだった。
 それだけ一緒に行動しているのだから、恋愛的なことがあったかというと、そういうことはなかった。
 少なくとも、恋人という関係になったことはない。
 周囲の友達も、男女が二人で遊んでいれば、面白がってひやかす年代だったのに、私達二人にはそういったひやかしがなかった。あまりにもしーちゃんがすごすぎて(容姿的にも出自的にも)、あまりにも平凡な私とつり合わない、と即座に判断したためだろう。
 周りから見れば、お姫様と従者、という見られ方だったと思う。
 そしてそれは、現在にいたるまで変わらない印象だろう。その証拠に、マスコミからそうした関係の疑いを取り沙汰されたことは、一度としてない。
 これが、私としーちゃんの幼なじみエピソードだ。

 高校生になっても、二人がやることはあまり変わらなかった。
 「外遊び」が「アウトドア」に進化した程度だ。
 ただ、互いの興味の先は少しずつずれた。私は相変わらず歴史にのめり込んでいったが、しーちゃんは、政治に興味を持つようになった。
 いや、「政治」というより、「政策」というべきだろうか。
 というのも、しーちゃんの通っていた高校の学び方が影響していた。
 私は山形市の公立高校(一応県内では成績のいい高校だ)に進んだが、しーちゃんは東京の一流私立高校に進んだ。頭に来るが、しーちゃんは勉強もとことんめんどくさがるくせに、すごく成績がよかったのだ。
 その私立高校では、今では当たり前になってきた「探求型学習」を取り入れていた。ただ問題を解くだけではなく、数学にしても社会にしても、探求する課題を設定して、その課題解決のために勉強していくという形式の学習だ。「なぜ勉強するのか」という疑いなく、「この課題解決のために学ぶ」という学習意欲が感化されるのだという。大学受験のための問題を解く、といった直接的な受験勉強をやっているわけでもないのに、難関大学への合格率が飛躍的に上がった、というのだからすごい。全国的にも教育界はこれを取り入れようとしている。
 その先駆けとも言うべきしーちゃんの高校では、その探求型学習の究極の形として、「地域の課題を見つけ、解決方法を提示する」という卒業発表が設定されていた。
 例えば、「観光客の減少」や「河川の水質汚染」などの課題をテーマに決め、それがどうやったら解決できるのか、ということを考える。それも机上の空論ではなく、ちゃんとしたデータを集め、教室で発表するのだが、生徒はお互いにデータの不確かさや解決方法の甘さなどを指摘し合うのだ。その指摘をもとに、さらなる学習を重ねて、自分の論をグレードアップさせて、卒業発表とする。
 これはもはや、「政治行政」のやることそのものだ。
 まずはテーマ設定からして地域課題にアンテナを張り、その解決のために情報収集して知識を増やし、その情報を活かすために発想力を磨かなければならない。さらに互いに穴を指摘し合うことで、他の生徒の問題も自分の問題として考え、建設的な議論が展開される。
 これを経験した生徒たちが、大学受験の成績も良くなるというのだから面白い。
 しーちゃんの発表を見せてもらったが、すごい内容だった。
 テーマは、「天童市田麦野小学校の利活用と地域再生について」(すでにテーマからして、高校生のものではない)。
 もともとの地元である天童に問題意識をもったわけだ。小さい時から天童大好きだったしーちゃんらしい。
 田麦野地区は、天童の東部の山間部にある。天童では唯一、山の中に隔絶された地域と言ってよく、市街まで車で20分ほどかかる距離だ(天童の行政区は非常にコンパクトなので、どの地区からも10分で中心部に行ける)。非常に美しい山間の村だが、雪も深く、天童の中では不便な場所であれば、自然、人口が減っていく。
 今では、世帯数70数戸、人口170人弱、高齢化率50%以上の集落だ。
 以前はしっかりと小学校も存在した。しかし、その人口減少の波によって小学生の数も減り、天童市立田麦野小学校は廃校となり、地域の子ども達は、スクールバスで一番近い(といっても6㎞以上離れた)山口小学校に通うこととなっている。
 しーちゃんはこの状況を憂い、田麦野小学校の廃校利用と、田麦野地域の活性化についてを卒業論文のテーマにしたのだ。
 田麦野小学校の廃校は、ちょっとした集会場のような形で活用されているが、これでは地域の人は喜ぶものの、それ以上の発展性はない。大事なのは外部の人間を呼び込むこと、あるいはそれそのものを産業に活用すること、というのがしーちゃんの主張だ。
 一つの方策として、農林水産業に利用するという手段がある。
 全国的には、屋内の養液栽培が注目されている。もともとキノコなどは工場のような場所で生産されるのだし、レタスなどの葉物野菜を屋内で栽培する農業も増えてきた。田麦野の涼しい環境を活かして、イチゴの栽培などが有効かもしれない。または、廃校を利用して生け簀をつくり、ふぐなどの高級魚を養殖する取り組みも、全国的には見られる。こういった利用はどうか。
 こうやってできた農林水産業の知見を、田麦野地区に広げていき、田麦野の農業を振興することで、地域の活性化を図るというもの。
 もう一つ考えられるのが、日本の誇るアニメ・ゲーム文化の招致だ。
 ネット社会の現在、なにもこういった業種は東京にあらねばならない理由はない。クリエート会社と提携して、田麦野小学校の跡地を、アニメ製作・ゲーム開発の場所として利用してもらおうというのだ。
 クリエーター達には、自然溢れる静かな環境での職場で作業してもらう。
 周辺にはその住まいも提供する。
 今で言えば、ワーケーションの発想を先取りしていた。
 なにも本社機能でなくとも、彼らに永住してもらわなくても、クリエーターの福利厚生も兼ねて、年に数週間とかで休養がてら来てもらえばいいのだ。もちろん、気に入ってもらえたら定住が望ましい。
 いっそのこと田麦野小学校をアニメ・マンガの博物館のようにして、その分野の聖地にする、というのも提案されていた。
 もちろんこうしたことは言うは易し、である。
 小学校の改築のイニシャルコスト、地域住民の理解、進出業者の募集など、ハードルはいくつもあるだろうが、しーちゃんの発表では、例えば農業をやるなら、初期投資がどのぐらいかかり、どれくらいの産物をつくっていくらで売れば採算がとれるのか、クリエート会社の誘致ならば、オフィスに改築するための費用や、周辺の空き家を住居として改築する計画などなど、様々なデータと計算を提示し、しかもその場合に国から出る補助金なども考慮して、発表は構築されていた。
 十分に企業が触手を伸ばしたくなるプレゼンだった。
 予算をかけて「地域を守る」というジリ貧の政策ではなく、また、よくありがちな自然を活かした観光事業をしようという視点でもなく、廃校を活用する「経済行為」で田麦野を活性化させよう、という発想がすごいと思った。
 「今考えれば、子どもっぽい発表だっけね」としーちゃんは自嘲するが、高校生が考えて構築した事業としては驚くべきことだった。
 こうした高校時代の経験から、しーちゃんは「政策マニア」になった。
 全国の自治体で行っているおもしろい政策を、調査収集するのが趣味という、年頃の女性にはあり得ない趣味をしーちゃんは持った。
 そのマニアっぷりが高じて、しーちゃんは東大法学部(当然のように東大ってのがむかつく)に進んで政治政策を学び、さらに大学在学中にアメリカの大学に留学して、さらにその方面の学問を深めた。
 もちろん、父親であるケンイチ代議士の影響もあったろう。
 しかし、しーちゃんの政策好きは、趣味の延長上にある、と私は思っている。

 一方私はといえば、山形県ではまあまあの進学校を経て、東京のまあまあの大学に進んだ。もちろん東京大学ではない。そんなに不名誉な大学ではないが、しーちゃんの東大と比べられたくないので、私の大学名はふせる。
 しーちゃんの政策マニアに対して、私の歴史マニアも高じるばかりで、専攻は歴史学、とくに中世から近代の日本史を学んだ。要は戦国時代と幕末というミーハーなところを選んだわけだが、教授からはもっと時代を絞りなさいといわれ、卒論は織田藩の関係にした(これもものすごくベタだが)。
 ミーハーな私は、中国の三国志でも西洋のローマ史でも、それこそエジプトやマヤ文明といった考古学の範疇まで何でも好きだが、こういったちょっとずつかじるような学問は大成しない。私はぼんやりと歴史の研究者にでもなれればいいなあ、と思っていたが、私の場合は、いわゆる下手の横好きというやつだ。
 歴史分野にも「中世日本史のイチロー」とでも言うべき、その分野に関しては飛び抜けて優秀な人材がいるものだから、そうした一分野を極めていく連中を超えて、歴史の研究者になど簡単になれるわけもない。
 そして、歴史などというつぶしのきかない学問は、就職活動には役立たない。
 そんなこんなで、めでたく私は、就職浪人をしてしまった。
 そこで声をかけてくれたのが、かの織田ケンイチ代議士だったのだ。
「なんだ、ケーちゃん(この当時は、娘と同じく代議士もケーちゃんと呼んでた。秘書になってからは「羽柴」だったが)。就職決まらないのか。じゃあ、うちの事務所で働いてみないか」
 そう声をかけられ、それほどなにも考えることなく「織田ケンイチ事務所」で、見習い秘書(というより書生?)として働き始めた。
 だからとくに、政治家を目指していた、というわけではない。
 しかしその意識もだんだんと変わり、あることをきっかけに私は天童の市議会議員選挙に立候補することを決意した。
 そして、当選後しばらくして、織田ケンイチ議員が急死したのだ。
 私にとっては、視界が暗転するような出来事だった。
 もちろん、しーちゃんにとっても。
 その巨星の死は、日本の、山形の、そして天童の政治に大きな影響を与えた。
 混乱の中で、天童市長選挙。すでに引退を決めていた前市長に変わって、紆余曲折の末に急遽しーちゃんが立候補。伊達よしきとの激しい選挙戦。
 そしてしーちゃんは「織田しおり天童市長」になった。
 そして約2年ほど、「織田市政」は経過している。

vol.5に続く ※このお話はフィクションです

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