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木の記憶10/抱きしめたい

 祖父は大工の棟梁だった。太平洋戦争の終戦直前まではたくさんの弟子たちを抱え、釜山で大きな木造建築(小学校や病院)をたくさん建てた人だったらしい。戦況が悪化すると、闇船を使い家族全員でいち早く帰国。その後原爆で焼け野原となった長崎にバラックを建て、そこに家族を住まわせながら炭鉱景気に沸く飯塚まで出稼ぎし、ここでは炭坑舎を建てていたそうだ。帰還するたび祖母に手渡されたアルマイトの弁当箱には、びっしりと紙幣がつまっていたと父から聞いた。そんな祖父はあの長崎出島の復元にも関わったと亡くなった後に聞く。きっと腕の立つ大工職人だったに違いない。昭和40年代はじめ、大のおじいちゃん子だった幼少期の僕は、祖父母の家に行けば祖父とべったりの関係。晩酌時は、大の日本酒好きの彼の膝に抱かれ手下となった。祖母にお酒の制限をかけられていたため、ちろりが空っぽになると、家の奥にある四畳半の暗がりからこっそり一升瓶を運ぶ使命を負っていたのだ。祖母はそんな孫と祖父の密な関係を見逃してくれていたに違いない。また帰りが遅い時は、決まって道草し近くの角打ちで弟子たちと飲んでいた。そんな時は祖母の使いとなって迎えに出かける。可愛い孫のお迎えに、祖父は僕を肩車し最後のコップ酒を一気に煽って帰路に着く。膝の上で、肩の上で嗅いだ、祖父のシャツに染みた木屑と油の匂い。そこに混じった日本酒の匂い、そして死ぬまで愛したエコー(煙草)の匂いは、いまでも僕の記憶から薄まることはない。それから数年が過ぎ僕が幼稚園に入る頃、父が長崎市郊外に分譲住宅を購入。小さいながら庭付きの家へと引っ越しした。そのお祝いにと、大工を引退したばかりの祖父が庭に木製のブランコを作ってくれた。この遊び場は、2つ年下の妹と近所の子どもたちにとって小さな社交場に。もっと高く!高く!日が暮れるまでブランコを漕いでいたあの日。ブランコの木の柱に何度も繰り返し登っては、遠く団地の向こうの山を眺めた。同様に自宅には祖父が作ってくれた椅子や机も増えていく。一方世の中の生活道具は、どんどんと大量生産で作られた既製品が増え、市場ではプラスチックなどの新素材が多く並び、祖父が作った木製の生活道具たちは、徐々に地味な存在に見え始めてしまっていた。気がつくと僕は新品のスチール椅子に座り、祖父の椅子は庭先で雨晒しのまま朽ちている。誰も遊ばなくなったブランコは、いつの間にか庭から消えていた。今にして思えば祖父という存在を木を通じ感じていたんだなぁ。祖父のいない今、あらためてそう思う。我々の周辺にあるさまざまな素材の中で、木ほど抱きしめたくなる素材はないのではないか?頬を近づけ、鼻で嗅ぎ、手のひらで触りたくなる素材はないのではないか?強くそう感じる。事実、コンクリートや鉄やガラスに抱きしめたい感情は湧かない。それは生き物であるから?同じ生き物として抱きしめ合い確かめ合える関係や長い歴史が、木と人の間にはあるからではないだろうか。
(福岡宣伝係/伊藤敬生/ホームベース)

祖父が作ってくれたブランコ。漕ぐより登るのが好きだった。
稲佐山にて。祖父母と一緒にハイキング。

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