【人間論】他人と比較することは本当に良くないことなのか?
人と比べてしまって苦しい。最近の若い人、特に自己分析を始めた就活生に多い悩みだと感じる。
◎世の中は"大比較時代"へ
◇SNSの普及による爆発的な比較対象の湧出
ここまで他人との比較に悩む時代になったのはどうしてだろうか。
移住しながら狩猟メインで暮らしていた時代や、定住して農耕が始まってもコミュニティ規模が多くても数百人であった。産業革命により日本全国、ひいては世界中のどこまでも数日でたどり着ける時代になってさえ、人生で会う人はどれだけ多い人でも数千人であっただろう。そう、インターネットが出現するまでは。
インターネット、ひいてはSNSが出現してからは毎日のように数百人との接点が気軽に持てるようになった。これは人体の進化のスピードは全くもって追いつけない、爆発的な増加である。もちろん対応できない。シンプルに異常事態なのである。
◇そもそも比較から逃れられる人は存在するのか
接点を持つ人間が増えたということは、それだけ比較対象を持てるということだ。人は本能的にコミュニティに存在価値がある、ということを示したい動物である。それは狩猟採集時代にコミュニティを外されるということは"死"を意味していたからである。
基本的に存在価値の示し方は2パターンしかない。"希少性"か"優位性"である。簡単にいうと「他の人にはできない価値あることができる」か「他の人より価値を大きくできる」ということである。
その本能に則って、他人を見た瞬間から自分の"希少性"か"優位性"を探し始める。特にコミュニティ内での役割が被りそうな"境遇の近い同性の同世代"とは差別化を求める。役割が近くなる人間よりその役割としての提供価値が下がると、自分がコミュニティから必要されなくなるからだ。わかりやすいのがすごいおじいちゃんや小学生棋士がテレビで称賛されていても嫉妬しないが、同世代で同じ職場や教室の友人が自分の得意分野で称賛されていると嫉妬する例である。
他人との差別化ポイントを探す、というのは相手と自分の比較が必須である。そのため、他人との比較は本能的に逃れられないのである。
◎比較の苦しみはどこからくるのか
ここまでで人間という生物は比較から逃れられないことが分かった。では、なぜ他人と比較すると苦しくなるのだろうか。
◇比べているから苦しいのではない
当然のことではあるが、"比較"するためには比較する軸がいる。その軸において、自分が相対的にどの場所にいるのかがわかる。この営みが本来の"比較"という行為であろう。
これだけ聞くと、あくまで相対的な立ち位置がわかるだけなのであるから、比較すると必ず苦痛が伴うわけではない。
ならば、現代人の比較と苦痛はどのように結びついているのだろうか。
人と比べて苦しい、と思う時はどんなときだろうか。
クラスの隣の子がテストの点で褒められている時
クリスマスに幸せそうなカップルとすれ違った時
SNSで豪華な食事やブランドバックを見た時
どの状況でも、あえて誇張すると「Aさんには〇〇でも負けているし、〇〇でも負けているし、自分には勝てるものがないのではないか、、」と思うときではないだろうか?
この状況を冷静に見ると、勝手に勝負を挑んで、勝手に負けているのである。しかも挑む領域も勝手に決めて。
ここまでは問題ないのである。その敗北感・悔しさをバネに自分の成長に繋がる行動を起こせれば健全ではないか。
しかし、ここからネガティブな感情を暴飲暴食やショート動画、ポルノで発散していたら問題である。以下のような悪循環に容易に陥るからである。
→行動したくなくなる
→成長している感覚がない
→周りと比較して苦しくなる
→再びストレス発散で時間を潰す
このサイクルが始まりだしたら苦しい。自分に価値を感じられないし、ひどい時には自分を責めてしまうからである。
つまり、比較することが問題なのではない。比較が健全な行動ではなく、ネガティブな行動や感情に結びついてしまうことが本当の問題なのである。
◇比較軸が少ないと、執着が生まれやすい
では、負の連鎖を断ち切れる人はどのような人か。
◇競争に勝ち続けれる人は幸せか
最後に触れておきたいことは、「エリートは幸せか?」という論点だ。言い換えると、「社会的に価値があるという競争に勝ち続けてきた人は幸福な生か?」という問いになる。
社会的に価値のある競争に勝ち続けた人生というのは例えば以下のようなストーリーだろうか。
小学校の時から生徒会長を務め、50m走もテストも常に1番で友人も多い
中高では海外ホームステイを経験し、インターハイ優勝や数学オリンピックで優勝
大学ではMITやハーバードに入学し、最年少で教授に就任し、自身の会社も最年少上場してから株価がうなぎ登り
世界で一番人気の女優と結婚し、資産ランキングにも常にランクイン
数十年に一人くらいならリアルに存在してもギリギリおかしくなさそうなライン。しかし全ての人類がこうなれるわけではないし、こうなれたから幸せかと言われると疑問を持たざるを得ない。
もちろんこのストーリーの過程で自分なりの幸せや存在意義を明確に言語化できている可能性はある。しかし、勝負に勝って自分の存在価値を示し続けないといけない生は常に焦りとの戦いである。社会的な価値軸は無限にあるのである。
◎【行動編】なりたい自分であるために
◇積極的に比較するために、たくさん経験しよう
あくまで目的は"比較軸"を増やすためである。好奇心を持って少しでも興味のあることはやってみよう。一見無意味に思えてもハードルが高そうなことでも、まずは一歩踏み出してみよう。
時々この話をすると、好奇心があまりない、やりたいことなどない、と主張してくる人もいるがそれは自分への嘘である。
やりたいことがない人間なんていないけれども、これまでの数十年間で好奇心に蓋をしてきて、自分に聞こえなくしているだけである。まずは小さなこと、あのお菓子買ってみたいな、くらいのレベルでいいので自分の声に素直になることである。
◇あなたにしかできないことは存在しない
◇人生の意味を社会が外発的に定義してくれる時代は終わった
◇なりたい自分に近づくために、競争(比較)を有効活用しよう
◇周りの大切な人の存在に感謝しよう
〇〇してくれるから、という条件付きの感謝ではなく、「いてくれるだけでありがとう」という存在の承認をしよう。自分の周りの人たちを条件付きで承認している人は、自分自身も周りから条件付きで承認されていると感じてしまう。
周囲の人に対する承認が条件付きかどうかは完全に主観である。主観であるということは変えていける。まずは一番身近な人の存在を無条件で承認・感謝することから始めよう。
◇孤独であろう
自分に向き合おうとする営みには、1人でいる時間が必要不可欠である。もちろん人と対話することで気づくこともたくさんあるが、自分と対話し、解釈し、言語化して今日からの行動に落とし込んでいくためには1人になる時間が必要である。
さらに言うと、根本的に人間は孤独なのだろう。孤独で生まれ、孤独で死んでいく。これからは誰一人として逃れることはできない。孤独であるから人との繋がりを求めるし、孤独であるから繋がりに感謝できる。
大前提を否定するのは苦しいだけである。孤独を認め、受け入れる。そこから始めよう。
◎【まとめ】生きているだけで価値がある、と感じるために
p.s. 人生は根本、苦しいもの
◇苦しみを全て取り除いた状態は幸せか
◇苦しみがあるから喜びがある、価値を感じられる、人を愛せる
◇苦しみを乗り越える、その過程を楽しめられる人に
参考文献
大前提、僕の思想は引用にも頻出する以下の書籍に大きく影響を受けています。もし興味があれば読んでみてください。
「嫌われる勇気」岸見一郎
「幸せになる勇気」岸見一郎
「愛するということ」エーリッヒ・フロム
「反応しない練習」草薙龍瞬
「7つの習慣」スティーブン・R・コヴィー
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