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Ghost of Tsushimaをクリアしました

 少し前になりますけど、Ghost of Tsushimaをクリアしました。

 意識的に収集要素も集めながらプレイしていたので、自然にトロフィーもコンプリートです。プラチナトロフィーは、これで45個目です。

 開発元のサッカーパンチは、インファマスシリーズが有名。
 私も一通りプレイ済みですので、どうしてもそれらと比べて意識してしまうわけです。

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 インファマスは何作か出ていますが、どれもストーリーの中で、手に入れた力を、善に使うか悪に使うかの選択を迫られます。その力を望んでもいないのに手に入れてしまい、使い方の選択を迫られるわけです。

 テーマとしては、人それぞれ捉え方はあると想いますが、人それぞれに正義がある以上、力の使い方にも人それぞれの判断がある、ということを描いているように感じます。

 なにせ最終ボスですら、「力の使い道を間違えた」人でしたし。

 そんなストーリーを描いてきたサッカーパンチが新たに送り出してきた、Ghost of Tsushimaのストーリーは、目的のためにとった手段に悩みつつも、生きるために前に進んでいく、という力強いものになっています。

 その「手段」が、インファマスが超常的な「超能力」であったことに対し、Ghost of Tsushimaでは、戦争としては現実的な選択でありながら「侍が選ぶには卑怯な手段」として主人公の前に現れます。

 インファマスでは超能力を持つ超能力者が、その異能故に、一般人から恐れられ、差別され、攻撃されます。片やGhost of Tsushimaでは、誉れを持たない卑劣な手段で敵を倒す侍、として村人に恐れられ、疎まれます。

 そう。ある意味、すごくサッカーパンチ節なんです、今回も。

 本作では、インファマス同様、主人公と立場や思想の違うNPCが登場します。それぞれに正義があり、それに基づいた判断を彼等は取ろうとするのですが、その要所要所で、都合よく主人公の助力を求めてきます。人ではなく、「力」を求められるわけです。

 そんな願いに対し、主人公は流されるように力を貸してしまうのですが、おおよそ人生における選択において、「なにかを選ぶ」ということは、「なにかを選ばないことを決める」ことでもあります。当然、その選択には因果がついて回ります。特に、「そちらは選ばない」ことの決断には、綺麗に理由がつくことが少なく、次善の策であることが多いものです。

 ───例えば、路傍で弱った猫を見つけて、助けるか助けないか。
 助けなければ猫は死ぬかもしれないし、とはいえ助けてしまえば、その後の猫の人生に影響を与えてしまっていることに、道義的責任を感じます。生の苦しみを伸ばしてしまった責は己にあるわけです。猫にせよ人にせよ、助けるということは、覚悟がいる。

 その選択の結末のほろ苦さこそがGhost of Tsushimaのストーリーの魅力であり、サッカーパンチのゲームの魅力のひとつだと思います。(今日はそれだけを言いたくて、ちまちまとこの記事を書いてます)

 ごく個人的には、インファマスにあった面白くないタイムアタックやレースゲーム要素が、スポイルされているのがとても良かったです。あれは恐らく、ファークライ等の影響だと思いますが、オープンワールドには必ずレース要素を入れなければならない、といわんばかりに決まって盛り込まれる要素です。そんなカビ臭い呪いは、そろそろ解呪されても良い頃合いです。

 サカパンについては、まだ語りたいことがあるので、またの機会にでも。

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※おまけ。温泉要素、いいですよね~。エピソードの内での説明台詞を廃して、内心を語らせるのに、これほど適したシチュエーションは無い気がします。

俺はねぇ、饅頭が怖いんだ!俺は本当はねぇ、情けねぇ人間なんだ。みなが好きな饅頭が恐くて、見ただけで心の臓が震えだすんだよ──── ごめんごめん、いま饅頭が喉につっけぇて苦しいんだ。本当は、俺は「一盃のサポート」が怖えぇんだ。