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疑問 道徳を考える難しさ:ジレンマ

きちんとまとまった記事を書く体力がないが、考えていることを書き殴る。

このような疑問が頭の中に浮かび、悶々としている。

Q.
私は、道徳とは、他者を地位、肩書き、お金などでむやみに判断しないことだと定義しています。 道徳がない社会の中で、どのように道徳を持ったらいいのか?という疑問が私にはあります。言い換えると、道徳を持つための試みには、自分は間違っているのではないのか?という漠然とした不安がつきまとうのです。語りえないものについては考えない方が良いのでしょうか?

※ここでいう道徳の定義だと、人を年収とかで判断する結婚相談所に道徳はない。

そして、上記の疑問について
Q.具体的方策は?
と生成AIに聞いてみる

A.
自分の価値観を明確にする:
自分にとって大切な道徳的価値観を言語化し、明確にしておくことが重要です。それを行動指針とすることで、ぶれない強い意志を持つことができます。

  1. ロールモデルを見つける:
    道徳的に尊敬できる人物を見つけ、その人の生き方から学ぶことも有効です。身近な人でも、歴史上の人物でも構いません。その人の考え方や行動を参考にすることで、自分の道徳的判断力を養うことができるでしょう。

  2. 多様な意見に耳を傾ける:
    自分と異なる価値観を持つ人の意見にも耳を傾けましょう。多様な視点に触れることで、物事を多角的に捉える力が身につきます。ただし、最終的な判断は自分の良心に従って下すことが重要です。

だそうです。

さて、私のいう道徳とは、
他者を地位、肩書き、お金などでむやみに判断しないことだ。
むやみに、というのは、必要以上に、過剰に、ということ。

「道徳」についてもう少し例を用いて言うと、
あなたは男です。あなたは女です。と判断する行為は悪ではない。
いくら地球の80億人が一人一人全く違った人間でも、便宜上「男」「女」というラベルをつけて判断した方が便利なので、今日の社会ではそういうシステムが採用されている。この場合、異論はない。(もちろん男と女の二元論で判断できない人が多くいることも念頭にあるが)
しかし、男なので○○ですよね? 女なので△△ですよね?がダメ。悪だ。
"男なのでドラゴンボールが好きですよね? 女なので新田真剣佑が好きですよね?イギリス人なので白人ですよね?"
こんな感じに、勝手に偏見に満ちた判断をすることに異論がある。 メチャクチャな例だと思うかもしれないが、これと似たような構造の決めつけが実際に沢山起きている。
「この人は女/男だ」という【認識】はいいとして、その次に【判断】を、必要以上にしすぎるのが良くない。

いうまでもなく、男でもドラゴンボールが好きじゃない人がいる。
イギリス人 ≠ 白人なので、そんなことを他者に言うのはもちろん悪だし、
そういうふうに自分の頭の中で判断することだけでも、正しくない、知性が足りない。そのような知性の欠如は道徳の欠如を招く。

他の例をあげると、企業が採用段階において「学歴」をもとに人を判断していることは皆ご存知の通りだ。
これも、経済的合理性はあると思うが、道徳はない。

ようは、頑張っているのに、学歴が原因で見向きもされない求職者の気持ちや、
年収が原因で見向きもされない男、容姿が原因で見向きもされない女の気持ちになって一度考えよう、ということだ。

このように、自分の頭の中でぐるぐる考えていたら、「道徳的な行いを心がけましょう!」みたいなふわっとした方策ではなく、次なる考えが浮かんだ。

まず企業が採用活動において学歴を参考にすることについて、あるいは、
婚活をしている人が容姿・年齢・年収を参考にすることについても、
何かしらの目的を満たす合理性があるはずだ。
(企業だったら、学歴を基準に求職者をスクリーニングする行為には、営利を上げるための合理性があるかもしれないということ)

合理性がある事象について、ある程度許容しないといけない部分もあるが、
そもそも、学歴・容姿とかそういう判断材料自体が、完全に不平等である。
したがって、そのような属性で他者を判断することは不完全である。
そこに対して改善の余地は何かあるだろうし、「道徳がない」という批判を招く余地もある。

じゃあ、どないすんねん?相手の容姿とか一切わからん状態でお見合いするんか?履歴書の学歴欄書くのやめにするか? みたいな、急進的な話はしていない。
現実的に私がするべきこと、私が確実にできることは、たぶん、
道徳のない行いが平然と行われていて、あらゆる人の心を蝕んでいる社会に対する「問題意識の共有」だ。

今の社会で当たり前に行われている慣習、それによる問題の数々は、簡単に解決できない。
しかし、多くの人が『あんまりこういうのよくないよね』と意識を共有することさえできれば、問題は解決していなくても、非常に大きな前進といえる。

「道徳のない行い」に関する問題意識を共有する、
それこそが私の「道徳」を実践するための具体的かつ現実的な方策である。
40分くらい考えていて、今日のところは、ここまで思いついた。

「問題意識の共有」は真面目すぎて「ノリ」に合わない、ノリが悪い、という反応を招く。そういうリスクが高いと思う。
日本社会に限らず、人間が集まって社会を構成すると、どんな社会でも「ノリがいい/悪い」という、いわば同調圧力が起きる。

普遍的なことなのだが、人は「見たくもないもの」「考えたくもないもの」について、なるべく、見て見ぬふりをし、考えないようにする。
なぜそういう傾向があるのかというと、おそらく、人間の重要な感覚器官である脳のエネルギーを、ムダに浪費しないための機構が働いているんだろう。

人は、見てみぬふりが好きだ。
その結果として、たくさんの努力をしてきたのに報われない外国人技能実習生の問題、労働者の権利の問題、機会の不平等の問題、差別や偏見の問題、すぐには解決しなさそうな問題…
これらは、その問題の当事者にならない限り、頭の中で「ないもの」にしてしまう。
私たちは、見てみぬふりをしている方が楽なので、楽な方に流れていく。
たとえ今この瞬間にも苦しんでる誰かがいることをわかっていても、 しばしば私たちはこう考える:
「だって関係ないし」

話は戻るが、今いったように人間は「見てみぬふり」をする習性があるので、「問題意識の共有」というノリの悪い行為は、
道徳的に間違っているわけではないのに、煙たがられる可能性が高そうだ。それは見ないでいたほうが愉快なものをわざわざ掘り出し、見せている行為に映る。

また、私が数え切れないほどの人付き合いをしてきた中で思うことがある。社会人であっても「自分は社会の構成員である」という意識が低い人が、半端なく多い。
それは私の感覚だけでなく、データとして、
ボランティアをはじめとしたWorld Giving Index(世界人助け指数)の、驚異的な日本のスコアの低さにあらわれている。

出典:World Giving Index 2021

私の中で「不平等」や「道徳のない行い」への問題意識を共有したい、という気持ちはあるが、助け合いに関心のない、冷笑的な社会の中で、
道徳について考え実践することが、どれだけ不安なのか、ご理解いただけるだろうか。

お読みいただきありがとうございます。
なにか、アドバイスがあればいただけると嬉しいです。



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