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自分の価値観を他者に当てはめる危うさ

グループ、組織の中にいると、人間はもめる。

今この瞬間も、SNSで誰かと誰かが揉め、友達同士で言い合い、またあるところで兄弟げんかが起き、国と国が戦争をしている。

原因は、私たちの、『自分は正しいという思い込み』にある。

人間が協力すれば全体の利益になるのに、なぜか協力ができないのは
みんな判断のバグを起こしているからだ。

誰しも、自分が正しいと思いたくて仕方がない強烈な思考の鎖につながれている。
いわゆる『バイアス』のことだ。

自分の価値観を他者に当てはめる危うさについて

まず、アマゾンの奥地に『生まれたばかりの赤ちゃんを燃やして精霊に返す』風習のある原始的な部族がいる。この実例について考えよう。※[1]

私たちから見て、赤ちゃんを燃やすのは『精霊に返す』ではなくて、『殺人』でしかない。
アマゾンの奥地の風習と、街中で暮らす私たちでは文化的距離が遠すぎる。

ただし、私たちが赤ちゃんを燃やす風習に対して『理解不能だ』という反応をするのは他に理由がある。
簡単に言うと科学を信仰してるから、である。

たとえば、『科学のない時代』にあなたが生きていたとする。
すると、あなたは突然わけもわからず地震や雷、嵐、洪水などの天変地異で人の命が奪われるのを見るだろう。

今なら『地震は海溝のプレートのずれが〜』
『台風は気圧が〜』と、それらの現象の説明があり、納得できる。

が、科学がなければそんなん理解できない。

だから『神の怒り』と昔の人は考えた。

また、現代も過去も、人は病気にかかって命を落とす。

今だったらインフルエンザですね、マイコプラズマ肺炎ですね、と診断名が付く。

しかし医科学の発達してない時代において、人が熱を出して急に動けなくなったりしたら?

目に見えないものが原因で起こる現象に対して、人はどう考えるか?

目に見えないもの、イコール『精霊のしわざ』と考えるのはかなり自然ではないだろうか?

そして、精霊や神といった、人間が通常理解できる感覚を超えたモノに対して、
昔の部族は生贄(いけにえ)を捧げたりする。

なぜそうするのだろうか?
荒れ狂う自然や、人が死んでしまう目に見えない病気といった恐怖に対して、対処するためだ。

科学がない時代には、生贄を捧げたり儀式を行うメリットが、きっとある。
儀式などで病気や自然災害は解決しないが、
恐怖や不安という、心の内側はいくらか解決できるだろう。

このように、工学、医療で対処するなどの方法を知らない世界線においては、
『神よ静まりたまえ!』と儀式をしたり、自然と共存するため精霊に供物を捧げる習慣にも、合理性を見出すことができる。

そこで、改めて考えよう。
前述の『生まれたばかりの赤ちゃんを燃やして精霊に返す』風習について聞いた人はどのようなリアクションをすることが多いだろうか。

科学を知っている現代の文明人の立場から、
アマゾン奥地の原始的な価値観を『バカじゃないの?』と見下す人は、たくさんいる。

けど、そういう人が、もし受験勉強で志望校に受かるために神社にお祈りをしてたら、ぜんぜん筋が通ってない。

•受験に落ちても別に死なない人が、××神社の目に見えないご利益に頼る。
•その一方で、自然がもたらす死の恐怖から逃れるための儀式をバカにしている。

それに対して、なんなんだ?と私は思う。

赤ちゃんを燃やして精霊に返す風習は、
現代日本の価値観において判断すると、殺人行為として批判されるものだ。

しかし、現代日本の価値観を、そのまま他者や、他のグループの人に当てはめているから
『バカにする』『理解できない』『無視する』
というような結果につながる。

以上は、『文化が違うと殺人ですら正当化されることがある。
だから殺人という一見絶対的な悪に思えることですら、突き詰めて考えると、本当に悪なのかどうかわからないし、その時代や場所の価値観による。』
という一つの例だった。

これは極端だなと思ったかもしれないが、

あなたの周りにも、
『イスラム教を誤解してテロのイメージを持ってる人』とか
『反ワクチン思想を他者に押し付ける人』とか、
『合理的だからといって、他者の気持ちを考慮せず合理的を押し付けてくる非合理的な人』とか、
『恋人同士はこうであるべき』が強い人とか

ふつうに居ないだろうか?

最後の『◯◯同士はこうであるべき』を持つ人は、よくいる。
そのあたりに原因があるためか、色んなカップルが喧嘩をしたり、別れたり、
生涯を共にすることを誓った夫婦たちが、バンバン離婚届にハンコを押しているのかもしれない。

『恋人同士はこうであるべき』は、
その恋人2人の間で、あるべき目標を、完全に共有できていたら正しいのだが、
たいてい共有できていないので、そんなものは
自分は正しいという思い込み。エゴにすぎない。

人間社会は複雑で、
『正しいっぽい価値観』をなんとなくみんなで共有していて、
『正しいっぽい価値観』をこんな感じっぽくね?と単純化した『正しいっぽい解釈』を通して、
そしてなんとなく理解した気になっているっぽい。

でも、『っぽい』が多くて、不確かなので、
認識にはずれが生じる。

先ほどのアマゾンの奥地の部族のような、
『普通は理解できない行為』を、理解できないと判断するそのわけは、
前提を無視してるからだと思う。

自分と隣人では、生まれ育った環境、見聞きしたもの、バックグラウンドの違いによって醸成される価値観、考え方が全く違う。

似た世代、環境を共有した兄弟ですら喧嘩に発展することがたくさんあるのに、

『自分のもつ正しさと、背景の異なる他者のもつ正しさが、近い』と考えることはかなり危険なのではないか?

私たちはかなりの部分で『自分にとって正しいことは、正しい』という錯覚を起こしている。
これを謙虚に自覚するのが大事だと思う。


私たちが絶望的にわかり合えないことを、歴史やTwitterが証明してるのだから、

まずは、他者の前提や、バックグラウンドを理解するよう努めるのが建設的ではないだろうか?

もめごとの原因 -自分の価値観を他者に当てはめる思考-

『自分には正しいことが他者にとっても正しいとはかぎらない』
こんな単純なことすら私たちは時々わからなくなる。

だからこそ、人間が集まるとやたら揉める。
もし自分も他者も正しさが一致してるなら、揉める必要がないはずだ。

つまり、自分も他者もみんながみんな『自分は正しい』と思い込んでるし、思い込みたいから、
そりゃ、とうぜん揉める。

教育について

中等教育にはある程度の『答え』という正しさがあった。

高校卒業してる人なら、少なくとも12年は学校教育を受けてるはずだが、
そんな、長年教育を受けた私たちに、正しさを判断する思考は備わっているだろうか?

いや、そもそも私たちが受けた教育も正しいかはわからないし、それらの教育カリキュラムを決めた大人たちが、散々揉めている。

もしも私たちが受けた教育が正しくないなら、

私たちは、
正しくない価値観を持った人たちに、正しくない価値観を教わった、正しくない価値観を正しいと信じている、正しくない人となる。(ややこしい)

ところで、私よりもはるかに上の世代の人は
『部活、運動中に水を飲むな』という正しくない指導を学校で受けたりしている。

また、今の教科書には『1192作ろう鎌倉幕府』を示す記載がない。

おまけに、鎌倉幕府を作った源頼朝の有名な肖像画は、別人の可能性が高いらしい。

このように、
過去に暫定的に正しいと思われていたことは、改訂され、常に移り変わっている。


その点を踏まえて私が指摘するのは、
『老害』という言葉だ。

老害というのは、移り変わる価値観に対応できない高齢者世代にありがちな特徴を揶揄する言葉だが、

当然、その世代にはその世代の正しい価値観があった。

たとえば『1192作ろう鎌倉幕府』と教えられた世代と、そうでない世代の間でこんな会話があるとする↓
『鎌倉幕府は1192年だ!』
『いや!1185年か、あるいは何年だとか明確な根拠がない!』
『何言ってんだ!私は権威ある教育機関でそう学んだし、私が正しい!』
『黙れ老害!』

みたいな論争が繰り広げられてたら、どう思うだろうか?


私はどっちもバカだと思う。

『なんかバックグラウンドが違うみたいね』
の一言で済む話だから。

老害、といって人格攻撃すれば一時的に気持ちはせいせいするだろう。
しかし自分も歳をとれば、かなりの確率で老害になる点を考えると、
『老害』は他者に投げかけてるようで、将来の自分に向けて投げかけてる、呪いの言葉だな。そう私は思っている。

しかし、こういう論争に近い低レベルな論争が、
例え話ではなく、リアルにSNSでは繰り広げられていることは、ご存知だろうか?

デートでの会計、『奢り奢られ論争』とかが、これに近いと思う。

いかにも自分の主張が正しいと、理論武装して、主張の正しさを競い合う。
そういう変わった趣味をもつ人たちが、SNSをみてるとたくさん目に入る。

もちろん、『論(主張)』だけに着目して、
ヘーゲルの弁証法みたいに絶対的な真理を目指すのであれば、論争もアリかもしれないが、

殆どの人は人格攻撃をしてるだけなので、やめておけばいいのにな、と思う。

『デートで奢るべき/割り勘がいい』という
個人の価値観の違いで済む話について、いちいち止揚を試みて、敵を増やすよりも

友達とうまいご飯を食べてた方が、私は楽しい。そして、思い込みを強化する論争に時間を費やすよりもコスパがいい。

ただし、これはあくまで、私の価値観では、という話なので、別にこれも正しくない。

さいごに


見てきたものや聞いたこと
今まで覚えた全部
デタラメだったら面白い
そんな気持ちわかるでしょう

情熱の薔薇

ブルーハーツの情熱の薔薇という曲の歌詞に
このエッセイでいままで述べてきた、
『正しさが、相対的であること』を示唆したような歌詞がある。
音楽的にもメロが綺麗で、パンクバンドにこの歌詞は、改めてすごいなと思う。


誰もが主張しがちな、
正しさってなんだろう?



※[1]ちなみにその部族はNHKがドキュメンタリーを撮ることに成功している。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012035560SA000/

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