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富に仕える者は上を、神に仕える者は下を見る

詩編・特祷・聖書日課

2022年9月18日(日)の詩編・聖書日課
 旧約聖書:アモス書8章4~7節
 詩編:113編
 使徒書:テモテへの手紙一2章1~8節
 福音書:ルカによる福音書16章1~13節
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 皆さん、おはようございます。大型の台風が接近中とのことですけれども、なんとか今朝も、皆さんとこの場所に集って礼拝をささげられることを感謝したいと思います。ご自宅や他の場所でこの時を過ごしておられる方々にも神さまの慈しみがありますようお祈りしております。
 さて、世界の聖公会において、いま一番注目されている話題というのは、やはり「エリザベス女王逝去」のニュースではないでしょうか。去る9月8日、長きにわたってイギリスの君主として在位してきたエリザベス女王が亡くなったと、イギリス王室から発表されました。享年96歳。昨年4月に亡くなられた旦那さんのフィリップ殿下が99歳でしたから、ご夫婦ともにビックリするほど長生きをされたということになります。
 25歳という若さでイギリス女王として即位し、それ以降、歴代最長となる70年と214日間、その務めを担い続けてこられた、ということなんですね。エリザベス女王の国葬は、明日19日、日本時間の午後7時から、ロンドンのウェストミンスター寺院で予定されているとのことですので、……出席される方は、道中お気をつけておでかけください。

「王たちやすべての高官のために」

 ところで、英国教会(英国聖公会)では、エリザベス女王が亡くなるまでの間、日々の礼拝の中では、『祈祷書』に則って“O Lord, save the Queen”と祈られていました。「主よ、女王を守りたまえ」という意味ですね。英国教会のウェブサイトには、『祈祷書』の内容が全部掲載されているんですけれども、昨日確認してみましたところ、おそらく数日前までは“O Lord, save the Queen”だったと思われる部分が、“O Lord, save the King”(主よ、国王を守りたまえ)というように変更されていました。対応が早いですね。
 まぁ、紙媒体である『祈祷書』のほうを変更するのは、しばらく時間がかかるでしょうから、当面の間は、Queenと書かれているところをKingと読み替えたりするんだろうなぁと思いますけれども、多分、うっかりそのままQueenって言っちゃって「アワワワワ……」ってなる聖職の方々もいらっしゃるのでしょうね。
 それにしても、どうして英国教会の礼拝では、そのように「エリザベス女王」や「チャールズ国王」のことが祈られるのでしょうか。英国教会の祈祷書には、実は「女王・国王のための祈り」だけでなく「王室のための祈り」も収録されているわけですけれども、どうして英国教会はここまでイギリス王室に特別なこだわりを持っているのでしょうか。
 その理由の一つとして、英国教会が、英国の王室と常に一体となって発展してきたからであると言えます。ヘンリー8世によるローマ・カトリックからの分離、そして、国王を英国教会の「唯一最高の首長」とする、いわゆる「国王至上法」の成立以降、英国教会はまさに文字通り「国の教会(国教会)」となっていきます。ですので、そのような歴史的な観点から見てみれば、英国教会の祈祷書の中に、「国王のための祈り」や「王室のための祈り」が、今日まで収録され続けてきているのは、いたって当然のことと言えるわけです。
 もう一つの理由に関しては、今の話とは少し違う観点からの議論になりますけれども、『聖書』の中にその根拠を見出すことができると言えます。本日の聖書日課のテクストとして選ばれている「テモテへの手紙一2章1節以下」の箇所。その冒頭にはこんな言葉が書かれていました。
「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(1~2節)
 王たちやすべての高官のために(も)祈りをささげなさい……ということが書かれています。これを言葉の通り受け取るならば、英国教会の『祈祷書』の中にある「国王」や「王室」のための祈りの正当性は、まさに『聖書』によって保証されているということになるわけです。実際、このたびのエリザベス女王崩御に関するインターネットの記事をいろいろと読んでみましたけれども、その中にはこの第一テモテ2章1~2節の言葉が引用されている記事がいくつか見られました。そして、その中の一つには、“Please join us in praying for King Charles III, not only as he grieves the loss of his mother, but also as he becomes the leader of our nation.”(国王チャールズ3世のために共に祈ってください。彼が亡き母のために嘆き悲しむだけでなく、私たちの国のリーダーとなれるように。)というような言葉も添えられていました。

 この日本という国には「国王」という存在はいません。ですので、我々日本のキリスト者には、なかなか理解しづらい信仰のような気もしますけれども、このように歴史的背景や聖書の記述から、女王エリザベス2世の逝去という出来事を読み解いてみたとき、イギリスの人々がおよそ500年ものあいだ築き上げてきた「国教会」というキリスト教の特殊性の片鱗を見ることができたように思います。

『日本聖公会祈祷書』にあった「天皇のため」の祈り

 さて、聖公会の『祈祷書』の中に収録されている「王や権威の中にある者たちへの祈り」に関して、英国教会のケースを例にあげて話をしてまいりましたけれども、この日本の聖公会の『祈祷書』にも、かつて、「天皇」のための祈り、そして「皇室」のための祈りが掲載されていたことがありました。それについては、僕よりも皆さんのほうがよっぽどご存知のことと思います。

【参考】
二一 天皇のため
王の王、主の主いと高き天の父よ、恵みをもって我らの天皇を顧みたまえ。願わくは聖霊の導きによりて、まことに主を敬い、救い主イエス=キリストを信じ、常に御心に従うことを得させたまえ。また豊かに天の賜物を授け、健やかに、盛んに、命ながく、ついに限りない幸いに至らしめたまえ。主イエス=キリストによりてこいねがい奉る。アーメン
二二 皇室のため
恵みに富みたもう全能の神よ、我らの皇后・皇太子・すべての皇室をみそなわしたまえ。願わくは聖霊をもって導き、まことに主を信じ、ついに限りなき御国に至ることを得させたまえ。主イエス=キリストによりてこいねがい奉る。アーメン
(1959年版『日本聖公会 祈祷書』より)

 戦前・戦中に使われていた『祈祷書』に「天皇」や「皇室」のための祈りが収録されていたのは、まぁ、まだ理解できなくはない。しかしながら、戦争が終わって15年が経とうかという時期に発行された1959年版の『祈祷書』にも、当たり前のように「天皇」と「皇室」のための祈りが掲載され続けていたのは、日本聖公会の歴史における“闇の歴史”であると言わざるを得ないだろうと思います。
 80年代に入って、ようやく日本聖公会の中で、「天皇制」に関わる『祈祷書』の問題を解決していこうという動きが見られるようになります。82年から83年にかけて、『聖公会新聞』の紙面に、「天皇のため」の祈りを祈祷書から削除するよう求める信徒や聖職の意見が掲載されるようになり、そして、83年に行われた第38定期総会においては、部落差別問題委員会によって、「天皇」という言葉と、「天皇のため」の祈り、「皇室のため」の祈りを削除する議案が提出されました。この第38総会では否決されてしまったものの、3年後に開催された第39総会では賛成多数で可決されることとなりました。この決定を受けて、当時の『祈祷書』の「天皇」に関する部分には(見えないようにするために)“テープ”が貼られたとのことですけれども、皆さん、覚えていらっしゃるでしょうか?
 今、我々が使っている現行の『祈祷書』では、天皇や皇室のための祈りは削除されています。90年代以降に聖公会の教会に通い始めた方々は、もしかすると、そのような『祈祷書』の歴史はご存知ないかもしれません。かつての『祈祷書』のように(目隠しの)“テープ”が貼られていたりしたら、もしかすると、「これは何だろう?」と関心を持つキッカケにもなるかもしれません。しかしながら、この『祈祷書』には、そのような痕跡が残されていないんですね。80年代に聖公会の中で「天皇制」に関する熱い議論が交わされた歴史的事実を、この現行の『祈祷書』を見るだけでは知ることができないわけです。これは、個人的には、ちょっと残念だなぁと感じます。なにかしらの形で、その痕跡を残してほしかったなぁと思っています。
 歴史というのは、良いものも悪いものも、後世に語り継いでいかなければなりません。『祈祷書』改定をめぐる歴史は、日本の聖公会にとって“闇の歴史”でもあり、また素晴らしい決断をした“良い歴史”でもあったわけです。日本のキリスト教史上、稀に見る歴史的決定であると言っても決して言い過ぎではないでしょう。まぁ、このように言えるのはもしかすると僕が聖公会の歴史を外側から見ているからなのかもしれませんけれども、ぜひ皆さん、日本聖公会の方々には、日本のキリスト教界全体のためにも、この『祈祷書』改定の歴史を“誇り”として、末永く語り継いでいっていただければと願っています。

「弱き者たちを虐げる人々の存在」

 もう少しだけ『祈祷書』の話を続けます。先ほどお話しした「天皇のため」の祈りをめぐって議論がなされた日本聖公会定時総会において、ある議員の方が、次のような発言をしたと記録に残されていました。2018年11月に発行された「管区事務所だより」から引用します。
「天皇の問題とか部落民の問題に無関心だったが、差別された100万同朋、沖縄県民の一人として発言せざるをえない。虐げられた者は耐えることによって強くなるが、この総会の議論を聞いて、今なぜ日本聖公会の教勢が伸びないのか良く分かった。弱き者の心を知らない、声なき者の声を聞く耳を持たない人があまりにも多い。権威のために祈るが、弱い者のために祈ることを知らぬ聖公会はこれからも伸びません。天皇のために祈ることが、ある人々にとって、もっと惨めな痛い思いとなるなら、この際私たちは、その一匹の弱い羊のために、その弱い者の立場に立って考えましょう。そういう人の立場に、もっと自らが入っていくような、そういう信仰者になりたいと思う。率直な気持ちから、天皇のために祈らなくていいと思う。『天皇のための祈り』を削除しても痛くも痒くもない。しかし、それで聖公会が変わる。どう変わるか、聖公会はエリート集団じゃない。庶民のための信仰の組織で、そういう教えをもっと底辺の人々に広めてゆく力がある。そういう働きをするという認識を持った方がよいのではないか。」

https://www.nskk.org/province/jimusyo_pdf/tayori337.pdf

 この文章を目にしたとき、心を強く打たれた気分になりました。そしてそれと同時に、今朝の聖書日課のテクストとも見事に響き合っていると感じたんですね。
 本日、旧約聖書からはアモス書8章4節以下、福音書としてはルカ16章1節以下、そして詩編113編が選ばれておりましたけれども、これら三つの箇所に共通しているのは「弱き者たちを虐げる人々の存在」です。
 アモス書の内容は、まぁ、読めば分かるといった感じの簡単なものでしたね。「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」……というように、預言者アモスは、商売人たちが不正行為によって社会的弱者とされている人々をさらに苦しめて利益を得ようとしていたのを告発しています。いつの時代も、こういう人間たちは世の中にはびこっており、そしてそのような人たちに踏みつけられるようにして、苦しんでいる者はさらに苦しめられるという状況が作られるわけですけれども、そういう不正を働く者たちに関して、預言者アモスは、神の言葉として次のような言葉を突きつけています。
「主はヤコブの誇りにかけて誓われる。『わたしは、彼らが行ったすべてのことを/いつまでも忘れない。』」(7節)
 「いつか痛い目にあうぞ」でも、「天罰がくだるぞ」でもない。「主はいつまでも忘れない(主はすべてを覚えておられる)。」……これ以上に恐ろしい言葉は無いのではないかと思わせられます。

「不正な管理人」の行為は“悪”か?

 さて、ルカ福音書16章に記されている、いわゆる「不正な管理人」のたとえ話。これもまた、アモス書と同じく「社会的弱者を搾取する者たち」にまつわるお話なんですけれども、しかしこちらに関しては、パッと読んだだけでは、なかなか理解しづらい内容となっています。これは、福音書に記されているイエスのたとえ話の中でも、一二を争うくらい“難解”なたとえ話だと思いますね。……本当はこのたとえ話だけで20分くらい喋りたいところなんですけれども、実はこのあと、友だちと遊びに行く約束をしているので、残念ですが、今回は要点だけお話したいと思います。
 ある金持ちに財産の管理を任されていた男。彼は、裏でこっそり主人の財産を不正利用していたんですが、ある時、そのことが主人にバレてしまいます。
 すると、彼は何をしたでしょうか。驚くことに、なんと彼は、主人に借りのある者たちを呼び集めて、彼らが主人に対して負っている「借金」……と言うか、もう少し丁寧に言うならば、彼らの「負債」を減らしてあげたんですね。しかも、それぞれの債務の証書を“改ざん”することで。つまり、不正行為のあとに、さらに不正行為を続けたわけです。
 ところで、いま僕は「借金」ではなく、あえて「負債」という言葉に言い換えましたが、そうなんです。彼らは主人に「借金」をしていたわけではないんですね。6節と7節を見てみますと、一人目の人物は「油100バトス」、二人目の人物は「小麦100コロス」と証言しています。彼らが主人に対して負っているものは、お金じゃなくて「油」と「小麦」なんです。しかも、「油100バトス」、「小麦100コロス」っていうのは、聖書学者いわく、結構な量だったようなんですね。
 どうして彼らは、大量の「油」と「小麦」を主人に渡さないといけなかったのか。ここで我々の想像力、読解力が試されるわけですけれども……、おそらく、このたとえ話に登場する金持ちの主人は「地主」、そして彼らは「小作人」だったのではないかと考えられます。
 小作人である彼らは、主人から土地を借りて農業を営んでいた。だとすると、彼らがこのとき負債として負っている「油100バトス」、「小麦100コロス」というのは、いわば主人に払うべき小作料、ということになるわけです。彼らが負っていた小作料が、常識の範囲内のものだったのか、それとも法外な量だったのかは分かりません。しかし、このとき管理人が行なった不正行為を知って、金持ちの主人は、「ワッハッハ!お前、やるじゃないか!」と言って彼のことを褒めて、それでおしまいなんですね。多分、この金持ちの主人にとっては、管理人が減らした「油50バトス」、「小麦20コロス」なんていうのは、別に痛くも痒くもないくらいの量だったんでしょう。まぁ、それぐらいの大金持ちだったってことです。
 そして、管理人もまた、そのことを十分に把握した上で、「この程度なら主人も気づかないだろう」というレベルの数字の“改ざん”を行なったのだろうと想像します。でも、貧しい小作人たちにとっては大助かりだったでしょうね。
 ここまで丁寧に読んで、ようやく「金持ちの地主」と「貧しい小作人」という構図が浮かび上がってくるわけですけれども、最後に注目していただきたいのが、冒頭の部分に書かれている「無駄遣い」という言葉です。主人から財産の管理を任されていた管理人は、その財産を「無駄遣い」していたと書かれています。しかし、コレ、はっきり言っちゃうと、“良くない翻訳”なんです。「無駄遣い」と訳されている言葉(διασκορπίζω)の本来の意味は、「追い散らす」とか「撒き散らす」。一つに集まっているところから広範囲に「拡散させる」という意味があります。確かに、お金を「撒き散らす」と言うと、散財する、無駄遣いするというようにも読めてしまうんですが、ここで、先ほどの管理人の不正行為に関して思い出していただきたい。彼は、債務の証書を“改ざん”しました。困窮にあえぐ貧しい小作人たちを救うためです。弱い人たち、貧しい人たちの生活を助けるために、あの金持ちの男に損をさせても構わないと思っていた。「ちょっとは痛い目にあったらえぇんや」とすら思っていたかもしれません。
 そう考えますと、このお話の冒頭に使われていた「無駄遣い」という言葉。これは、本来は「一つのところから広く拡散させる」という意味を持っている言葉だったわけですけれども、これはもしかすると、富が一箇所に集中している状況を憂えた管理人の男が、貧しい人々に主人の財産を(何らかの方法で)分配していた、ということだったのかもしれません。弱者救済のための、いわゆる「富の再分配」を行なっていた。だとすると、どうでしょう。彼の行なった行為は、たしかに不正行為だったわけですけれども、では、彼の行為は「悪」だったと言えるかというと、答えに窮するところがある。しかし、イエスの答えははっきりしています。すなわち、9節の言葉、「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」不正にまみれた富なんか、友達を作るために使ってやれ!……なかなか、スパイスの効いた言葉ですね。実にイエスらしい皮肉です。

おわりに

 聖公会の『祈祷書』は、英語では“The Book of Common Prayer”と呼ばれます。Prayerは「祈り」。Commonというのは「一般の」あるいは「庶民の」という意味があります。ですから、日本語に訳すと「庶民の祈りの書」ということになります。先ほどご紹介した、定時総会内でのある議員の方の発言。「聖公会はエリート集団じゃない。庶民のための信仰の組織で、そういう教えをもっと底辺の人々に広めてゆく力がある。」
 聖公会は、庶民のための信仰の組織。これ、非常に大事な指摘だと思うんですね。庶民のための信仰の組織である聖公会が持つ、「庶民の祈りの書」という名の『祈祷書』に、「天皇」とか「皇室」の繁栄を願う祈りなど載せていてはいけなかったのだと、改めて思わせられます。なぜなら、神の子であるイエス・キリストは、「権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返される」ために、この世に来られたはずだったからです(ルカ1:52~53)。日本の聖公会が、『祈祷書』から「天皇のため」「皇室のため」の祈りを削除したことは、まことに、そのイエス・キリストに立ち返る見事な歴史的決断だったと、僕は思います。
 最後に、詩編113編の言葉を引用して、説教を終わりたいと思います。
「神は貧しい人を塵から立ち上がらせ∥ 恵まれない人を高く上げ
  彼らを支配者とともに座らせ∥ 民の支配者とともに並ばせ[られる]」
(6・7節)
 ……それでは、また来月。

説教音声データ

こちらからダウンロードしてお聴きください。

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