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他人事を自分事として 〜仏教「代受苦」の教えをヒントに〜

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詩編・聖書日課・特祷

2023年11月26日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 エゼキエル書34章11〜17節
 詩 編 95編1〜7節
 使徒書 コリントの信徒への手紙一15章20〜28節
 福音書 マタイによる福音書25章31〜46節
特祷(降臨節前主日/特定29)
永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」
 さて今回は……「仏教」(※大乗仏教のこと)のお話をさせていただきたいと思います。僕の義理のお義父さん(妻のお父さん)は、実は“曹洞宗のお寺のお坊さん”なのですけれども、そのお義父さんから、先日、LINEでこんな質問を受けました。「キリスト教には、仏教の『代受苦』のような考え方はありますか?」

僕の妻のお義父さんは曹洞宗のお坊さんです

 皆さん、「代受苦」っていう言葉、ご存知でしょうか。僕ははじめて聞く言葉でした。「代受苦」というのは、読んで字の如く「代わりに苦を受ける」という意味です。つまり、誰かが受けるはずだった苦しみを、他の誰かが代わりに受ける――ということですね。まぁ、それはさすがに、この漢字三文字を見れば、きっとそうだろうなとは思いました。でも、仏教に「代受苦」という教えがあるというのは僕は知らなかったので、「具体的にはどういう教えなのだろう?」と思い、早速インターネットで調べてみたんですね。
 すると、このような解説が見つかりました。「仏や菩薩が衆生をあわれむ大悲の心から、衆生に代わって苦しみを受けること。」Web版 新纂浄土宗大辞典より
 仏教においては、我々命あるものは皆「衆生(しゅじょう)」と呼ばれます。それで、衆生である我々は“現世での悪い行い”の報いとして、死んだあと苦しみを受けることになるそうなんですが、そのような運命にある我々衆生のことを、なんと、「仏」や「菩薩」という存在が助けてくれる……、つまり、衆生である我々の受けるべき苦しみを、彼らが“代わりに”引き受けてくれる――ということなのだそうです。そのような教えのことを、仏教では「代受苦」と呼んでいるということなんですね。
 なるほど!それなら、我々キリスト教にも似たような教えがありますよね。キリスト教的には、間違いなく「イエス・キリストの十字架での贖罪」がそれにあたると思います。神が、その独り子であるイエス・キリストの命と引き換えに、すべての人の罪を贖ってくださった――という教えがあるわけですから、キリスト教の「代受苦」と言えばこれしかないでしょう!……と思ったんですが、お義父さん曰く、それとはちょっと事情が異なるということなんですね。

広義の「代受苦」

 「代受苦」という教えは、確かに本来の意味は先に述べたとおりなんですけれども、宗派によっては、もっと広い意味で、この「代受苦」という言葉が理解されているそうなんです。すなわち、誰かの代わりに苦しみの運命を担う役目を果たすのは、仏や菩薩だけでなく、いまこの地上に生きている生身の人間も含まれるということなんですね。
 たとえば、誰かが思いがけない出来事で命を落としたり、あるいは病気を患ったりしたとします。そうしたときに、仏教では、「代受苦」という教えをもとに、こう考えるそうなんですね。「本当は、私がそのような苦しみを負うはずだったのに、私の代わりにその人が苦しみを引き受けてくれた。」つまり、私に代わってその人が亡くなった、私の代わりにその人が病気になった、私の代わりにその人が災難に見舞われた……というように、つらい思いをした(あるいは、つらい思いをしている)その人が、あたかも「代受苦」の実践者として、自分の身に降りかかろうとしている境遇を“代わりに”引き受けてくれたのだと考えるわけです。
 ……どうでしょう皆さん、この考え。「いやいや、そんなわけないやん」と、普通なら、言いたくなりますよね。別に、つらい思いをすることになった人には、ほとんどの場合、誰かの身代わりになるつもりは毛頭無かったはずです。「勝手にそんなふうに決めないで!」「あなたのために苦しんでいるわけじゃないから!」と怒られてしまうかもしれません。
 でも実は、この話にはちゃんと続きがあるんです。「代受苦」という教えは、そのように、無責任な「他者犠牲」を説くものではないんですね。むしろこの教えは、「他者犠牲」の論理などではなく、積極的に、自分を他者へと関わらせようと後押ししてくれる教えなんです。

 「あの人は、私の代わりに亡くなった」、「あの人は、私の身代わりとして病を引き受けてくれた」、「だから!私は、あの人の死を“自分のこととして”悲しもう」、「だから!私は“自分のこととして”あの人と一緒に病気と向き合おう」というように、ポジティヴな方向へと発想を転換させるわけなんです。「代受苦」という教えを、自分とその人、この双方の間に持ち込む。それによって、誰か、苦しみや不幸な境遇に置かれている人に対して、感謝や尊敬、ホスピタリティの精神をもって関わることができるようになる―ーということなんですね。それを、仏教では(特に、禅宗や天台宗などの宗派では)、広い意味での「代受苦」の教えと理解し、そして、あくまで、いま生きている人、また不自由をしていない人に、慈悲の心を抱かせる“説諭”の方法として、この「代受苦」の教えが使われるということなのです。
 ……これは、とても興味深い考え方だと思います。キリスト教には無い、独特な教えですよね。

当たり前のことをするために

 仏教においても、またキリスト教においても、「他者の苦しみを他人事とせず、自分事として共感する」ことを大切にしている、という点に関しては一致していると思います。その目的を達成するための“プロセス”というものは、キリスト教と仏教、この二つの宗教間で異なっていますけれども、しかし、どちらの宗教においても、「誰かが苦しんでいる。気の毒にね」と言って“他人事”として終わらせるのではなくて、「手を差し伸べよう。その人の苦しみや痛みに寄り添おう」と言って“自分事”として受け止めることを、人々に“善き行い”として勧めているわけなんですよね。
 本日の聖書日課として選ばれておりました福音書の箇所、マタイによる福音書25章31節以下のところでも、困っている人に共感し、助けることの大切さが説かれていました。この箇所では、いわゆる「最後の審判」の際に、かつて誰かに親切にしたことのある人たちが、王様であるキリストから評価される、というシーンが描かれていたわけですけれども、王様は、その人たちに対して、このように言います。「きみたちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたよね。」すると、彼らは戸惑います。そして、「えっ、王様、私たちは王様に対してそんなことをした覚えはありませんが……」と、正直に説明するわけです。そこで、王様は、彼らにこう伝えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」……世の中で、様々な困難を抱えて苦しんでいる人たち。その人たちを皆、キリストだと思って(あるいは神様だと思って)親切にしなさいという教えですね。
 「人に親切にする」ことは大切だというのは、みんな分かっていることだと思います。わざわざ、教会やお寺に行って、牧師さんとかお坊さんから教えてもらわなくても、まぁ、よほどの事情がない限り、誰でも知っている、“当たり前のこと”ですよね。でも、その“当たり前のこと”が、なかなか出来ないのが、僕ら人間なのだと思うんですね。
 誰かが苦しんでいる。しんどい思いをしている。まぁね、そういう世の中だから。みんなしんどいから。あなただけがつらいんじゃないよ……。確かにそのとおりです。みんな、何かしらの痛みやつらさを抱えながら生きています。でもだからこそ、本当は、慰め合ったり、励まし合ったり、助け合ったりしなくちゃいけないのに、その“当たり前のこと”ができずにいる。そんな僕らに、新しい気づきを与えて、立ち上がらせてくれるのが、今回の福音書のお話や、また仏教の「代受苦」という教えといった、宗教による諭しなのだろうと思うんですね。誰かの苦しみを“他人事”と言って受け流すのではなく、“自分事”として受け止めること。「あなたもつらいかもしれないけど、こっちもつらいんだよ」と言って、共感を得ようとするだけでは何も始まらない。「私も痛みを抱えているけど、そっか、あなたもつらい思いをしているんだね」と、相手に共感することで、はじめて、助け合いの輪が広がっていくわけなんですね。

おわりに

 今日は、教会の暦の上で、最後の日曜日を迎えています。来週からまた、新しい教会暦が始まり、それと同時に、アドヴェント・クリスマスの期節へと移っていきます。昨年の降臨節から今日に至るまで、日本でも、また世界においても、様々な出来事が起こり、その中で、この一年もまた、多くの人の悲しみや苦しみの声に世界が包まれることとなりました。本当に残念なことです。この世界から、あらゆる悪が失われ、それによって完全な平和が実現する日が来ることを、我々キリスト教会はいつも願い続けているわけですけれども、その日はまだ訪れません。
でも、世の中の声に注意深く耳を傾けてみると、嘆き悲しむ人々の声だけではなく、この世界を変えたい!と思っている人たちの力強い声が、いろんなところから聞こえてくることに気付かされます。それはきっと、人の痛みに共感し、“他人事”を“自分事”と受け留めて、その人と共に立って生きようとする人たちが、世界には確実に増えてきているということなのだろうと、僕はそう感じているんですね。
 教会も、そのような社会の変化に突き動かされながら、正義と平和を求める多くの人々と共に在り続けられるように、ますますイエスの教え、主の御言葉を語っていかなければならないと思います。そして、我々キリスト者一人ひとりもまた、愛の働きの実践者として、独りではなく、誰かと共に生きることを目指していければと願っています。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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