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ユダの事情 +柳川真太朗はどうして日本聖公会に移籍したのか

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詩編・聖書日課

2024年3月10日(日)の詩編・聖書日課
 詩編:2編1~12節
 聖書:ヨハネによる福音書12章1~8節

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 豊明新生教会で奨励を担当させていただく最後の日曜日となりました。皆さん、これまで1年間、ありがとうございました。去年の4月から、計10回、礼拝にお招きいただいてまいりましたけれども、今日で最後ということで、一抹の寂しさを覚えております。
 さて、先月こちらに来させていただいたときに、皆さんのほうから、今日のお話に関しまして、一つ、リクエストをいただいておりました。それは、「『どうして日本基督教団から日本聖公会に移籍したのか』を語ってほしい」というものでした。まぁタイミング的にもですね、そろそろきちんと、自分の中で気持ちを整理して、『どういう事情で教派を移ったのか』を言語化できるようになったほうが良いなと思っているところでした。ですので、今回は、そのリクエストにお答えする形で、どうして僕は日本聖公会に移籍したのか……というお話をさせていただこうと思います。

日本聖公会への移籍は直感的だった?

 まずはじめに、結論から短く申し上げますと、僕が日本基督教団の教師を辞めて、新たに「日本聖公会」という教派に身を移して生きていきたいと思ったのは、別に「日本基督教団に嫌になって……」などというような“後ろ向きな理由“ではありません。そうじゃなくて、第一に、ただシンプルに、「日本聖公会」という教派の在り方、また何より、日本聖公会・中部教区の人間味あふれる雰囲気というものに心を惹かれたから――ということがあります。それともう一つ……、自分のこれからの未来のことや、あるいは自分のことだけでなく、この国のキリスト教の将来のことを考えたときに、僕は、日本基督教団の中で活動し続けるのではなく、日本聖公会という教派に移ったほうが、更に“自分の理想”を追求していくことができるのではないか――と思ったからなのですね。
 ただし、そのような思いというのは、けっして長い間、持ち続けてきたわけではありません。「日本聖公会も良いな、いつか移りたいな」というような思いを密かに抱きながら、教団の教師を続けていたわけではないということです。「自分には聖公会という道もあるのかもしれない」という思いを抱いてから、実際に移籍に向けて行動を起こすまでの時間というのは、実を言うと、ほんの数日、あるいは長くても数週間程度だったように記憶しています。しかも、その期間というのは、(これはまた後ほどお話しますけれども)“ある事情”があって、しばらく教団の教師としての働きから離れていた時期でした。その時期に、いろいろと背負っていたものを肩から下ろして、頭と心をリセットした時に、最後に僕の中で“繋がっていた“ものが、聖公会との関係だった……という感じです。

愛知聖ルカ教会での奉仕

 さて、その聖公会と僕との繋がりに関してですけれども、これもまた、実は決して長いものではありません。ここ4年くらいの本当に短いものです。それまでは、ほとんど聖公会との関わりは無かったですし、正直に言いますと(キリスト教の専門家として非常に恥ずかしいことなのですが)、「聖公会」という教派のことをほとんど何も知りませんでした。「聖公会?……あぁ、カトリックとプロテスタントの中間みたいな教派よね、たしか」――くらいの認識しか持っていなかったのです。あとは、「メソジスト」という教派は聖公会から派生してできた、くらいでしょうか。当時は、その程度の知識しか無かったです。それなのにどうして、聖公会に移籍しようと思うようになったのか……。
 不思議な縁、というか不思議な導きなのですが、僕は、大学のチャプレンとして働く傍ら、今から4年前、2020年のことですけれども、その年から、尾張旭にある「愛知聖ルカ教会」という聖公会の教会で、月1回、礼拝の奨励を担当させていただくことになりました。

 「愛知聖ルカ教会」という教会は、日本の聖公会の中でも(もしかすると、数ある日本の教会の中でも?)結構珍しい教会でして、定期的に、聖公会“以外”の先生方に来ていただいて、礼拝のお話をしていただくという、そういう“おもしろい取り組み”を長く続けてこられた教会なのですね。それで、当時、僕は大学のチャプレンで、日曜日は基本的にフリーという立場でしたので、「じゃあ、2020年度から、毎月第3週目にお話してください」と、教会のほうからお声をかけていただいたということなのです。
 ただ、その時にはまさか、自分が聖公会に移るなんてこと、微塵も考えていませんでした。その思いを持つのは、それから数年が経過してからのことです。

何か新しいことを始めたいという思い

 2020年というのは、皆さん、記憶に新しいと思いますが、コロナ禍の最初の年でしたね。今でこそ「ウィズコロナ」みたいな感じで、もはや当たり前のような感じになっていますけれども、当時は本当に、世界中が大混乱に陥っていましたよね。この国においても、ありとあらゆる場面で“自粛”が強いられ、我々キリスト教界もまた、礼拝や集会などの自粛を余儀なくされました。僕が働いていた大学も同じでした。授業だけでなく、クラブ活動とか、特にキリスト教主義大学にとっては最も重要な「チャペルアワー」などの礼拝行事がすべて行えないという事態になってしまったのですよね。
 今まで当たり前のようにできていたことが、ほとんど何もできなくなった……。かつてないほどの閉塞感を我々は経験することになったわけですけれども、しかし、その一方で、「こんな時だからこそ、何か新しいことを始めていくべきではないか」というような、そういう思いに駆られる人々も多かった――、そのような期間でもあったように思います。
 僕も、そのような思いを抱かされた一人でした。大学では、動画の撮影とか動画の編集のことをイチから勉強して、チャペルアワーの動画配信というものを行えるようにしました(自分で言うのも何ですが、動画配信を始めたのは他の学校よりも早かったと思います)。また、礼拝メッセージを担当することになっていた「愛知聖ルカ教会」でも――教会からは当初、「対面での礼拝が行えないので、皆さんに原稿だけでもお送りください」とお願いされていたのですが――、せっかく動画配信のスキルを身に着けたのだからということで、YouTubeに説教動画をアップロードして、皆さんに見ていただけるようにしました。他にも、SNSを通じて、キリスト教のことを面白おかしく発信していくという取り組みも行いましたね。いま振り返っても、2020年以降の数年間というのは、自分の人生の中で最もクリエイティヴな時間だったんじゃないかなぁと思います。
 そういう技術的・実践的なことだけでなく、コロナの期間中は、いろんなことをよく勉強した期間だったとも思います。自分が関わり始めた「聖公会」という教派に関しても、「やっぱり、礼拝の奉仕者として関わるわけだから、きちんと聖公会のことを勉強しといたほうが良いよなぁ」と思って、聖公会に関する本などを積極的に読むようになっていました。

鬱(うつ)との闘いと生きる希望

 そんな中、僕の身体に変化が現れるようになります。これはコロナの前からなのですが、数年前からの様々な環境の変化(転職/引越し/子育て/仕事)に上手く適応できなかったようで、2019年の7月に、心身に不調をきたしてダウンしてしまいます。その時は、4ヶ月間、休職をしました。
 その後、仕事には復帰したものの、根本的には何も良くなっていなかったということで、心身の不調を引きずりながら生活することになります。それで、しばらくして、「これは、ちゃんと自分と向き合わなアカンな」と思い、2021年にメンタルクリニックに通い始めるようになります。それで、ずいぶん自分のコントロールが上手くはなったのですが、残念ながら、現状維持が続くだけで改善には至らず、その1年後、2022年の4月に、再びダウンして、また休職することになります(結局、そのまま昨年の8月に退職しました)。
 自分自身、キリスト者として、そういうしんどい時にこそ「教会」という場が心の拠り所になるのではとも思うのですが、現実はそう簡単にはいかないものだなぁと思わされました。と言うのも、仕事を休むことになる数ヶ月前から、あまりにも調子が悪すぎて、日曜日に教会に行くことすら、ままならなくなっていたのですね。
 2022年の6月には、カウンセラーに勧められて、なんと人生で初めて、「精神病院」というところに入院することになります。僕としては、“堕ちるところまで堕ちたな”という感じでした。

 当初は2〜3ヶ月入院する予定だったのですけれども、(大きな声では言えませんが)あまりにも生活環境が悪すぎたせいで、「ちょっと、もうさすがに限界です……」と、先生に泣きついて、結局、僅か4週間で退院してしまったのですね。多分、物凄く神経が過敏になっていたせいだと思うのですが、あの……、トイレとかの掃除が不十分すぎて……、それが耐えられなかったのですよねぇ。
 そんなわけで、予定よりもかなり早く退院してしまうことになる、その精神病院での生活ではあったのですが、一応、“形だけ”は、仕事とか家庭、その他のあらゆる責任あることから離れて生活してはいました。
 しかし、そんな入院生活の間にも、一つだけ、続けていることがありました。それは、愛知聖ルカ教会の礼拝メッセージの準備です。本当はダメなことなのですけれども、病院の先生から、「まぁ、楽しいと思えることなら、良いですよ」と言ってもらえたので、病室でパソコンを開いて、一日中、聖書や専門書とにらめっこして、説教原稿を作っていたのですね
 もちろんそれは、あらかじめ愛知聖ルカ教会の皆さんに協議していただいた上でのことです。まぁ、いま冷静になって考えてみたら、「絶対アカンやろ……」と思うわけですけれども(笑)。しかし、そのように、いろんな責任から解放されて、たった一人、“孤独”になったときに、それでも最後の部分で、自分に役割を与えてくださる(自分を必要としてくださる)愛知聖ルカ教会という存在があったというのは、本当に感謝なことであったと思いますし、そのおかげで、僕は“生きる希望”を保つことができたというように、いま思っているのですね。

突然頭に浮かんだ「移籍」の二文字

 さて、精神病院を退院した後、僕は、その先のこと……、つまり、職場に復帰できるのか、それとも退職するべきなのか、というようなことを考えるようになっていたのですけれども、それと同時に、こんなことも考えていました。「もしも、このまま大学を退職せねばならなくなったとしたら、おそらくその後は、一人のキリスト教の教師として、教会の世界に戻ることになるだろう。ただ、家族はこのまま名古屋に住み続けたいと言っている。でも、教会の牧師というのは転勤族だから、どこの教会に行くことになるか分からない。じゃあ、僕は一体、どうしたら良いのだろうか……。」
 そんなことを考えながら、ふと、頭に浮かんだのが、「日本聖公会」という教派の存在だったのです。日本聖公会という教派は、日本基督教団とは違って、基本的には、自分が所属している教区の中で、転々とすることになります。ここは「中部教区」にあたるわけですけれども、もし、聖公会で働くことができるなら、この中部教区(愛知・岐阜・長野・新潟)のなかに留まることになるはずなので、名古屋に留まりたいという家族の希望も叶えてあげられるかもしれない――。それに、もし仮に、やっぱり大学の仕事に復帰しようということになったとしても、別に「日本基督教団の教師でなければならない」というルールは存在しないので、それほど業務に支障をきたすことにはならないだろう――。
 ……と、こういうわけで、僕は、そのような混沌とした状況の中、はじめて「聖公会への移籍」ということを考えるようになったわけです。最初は、まったくの自己都合、自分たち“家族”の将来を考えたのがきっかけだった。しかし、冒頭でもお話ししましたように、日本聖公会、またその中でも特に、日本聖公会・中部教区という組織には、既に多くの部分で心惹かれている部分がありましたし、自分との親和性というものも感じていました。なので、家庭の事情だけではなく、聖公会に対するそういうポジティヴな感情というものが、より具体的に、僕の聖公会移籍への道を拓いていく手伝いをしてくれたのだろうというように感じています。

EXODUSの道

 もちろん、長年お世話になってきた日本基督教団から離れることに関しては、当然のことながら、不安とか、申し訳ない気持ちもありました。いまようやく、このように、自分の言葉で丁寧に説明できるようになりましたけれども、聖公会への移籍を決めた1年前は、まだまだ、「自分がどうして聖公会に移りたいと思うようになったのか」を言葉にすることが難しかったように記憶しています。やっぱり、長く自分が身を置いていた環境から離れるというのは、どのような場合であっても、大きな不安に襲われるものなのだなと思います。
 それに(これも今だからこそ言えることかもしれませんが)、きっとあの当時は、精神的に不安定な状態だったので、なんとか、この苦しい状況を打破したい!という思いが強くあったのだろうと思います。現状を変えるために、なにか方法は無いか……と考えた時に、「もしかすると、日本基督教団から日本聖公会に移ったら、未来が拓けるかもしれない……!」という、そのような“決して冷静とは言えない”独断的な考えというものも影響したのだろうなぁと思っています。
 ただ、そのようなマイナスな気持ちをかき消すようにして、「これは僕にとって、新しい道を切り拓いていくチャンスなのだ」という言葉を、ずっと自分に言い聞かせてきました。そうして実際に、この一年間、周りにおられるたくさんの方々、特に、聖公会の中部教区の先生方に助けていただきながら、なんとか歩んでくることができました。なので、今は全く後悔していません。きっとこれは、神の救いの御業によって、最善の道へと導かれた結果なのだと、僕は信じています。
 苦難から解放へと至る、言わば、EXODUS(出エジプト)の道が、僕には日本聖公会への移籍だったのだろうと思います。精神病院を退院して一ヶ月後、8月だったと思いますが、気付いたら僕は、日本聖公会の中部教区センターに問い合わせをしていました。その時から、本格的に移籍の話が進んでいくことになります。

裏切り者扱いされているかもしれない

 今日はいつもよりも余計に長くなっていますけれども、もう少しだけお話させてください。それにしましても、日本聖公会に移籍したのが、去年の4月2日のことです。それから1年が経とうとしているこの時期に、こうして日本基督教団の教会において、「どうして聖公会に移ったのか」というお話をさせていただいているわけなのですが、そんなこの日のために選ばれていた聖書テクストは、奇しくも、先ほどお読みいただいたように、「イスカリオテのユダ」に関する箇所でした。なんとも複雑な気持ちにさせられます。
 今回の移籍に関して、「後悔は無い」と申し上げましたけれども、それでもやはり、これまでお世話になっていた日本基督教団の先生方とか、かつて伝道師として働いていた名古屋中央教会の皆さんのことを思うと、今でも、「合わせる顔がない」という気持ちになります。もしかすると、周りの方々から、「裏切り者」として見られているのではないかという、そのような恐怖心さえ抱いてしまうのですね。もちろん、そう受け取られても仕方がないものだったとは思います(被害妄想かもしれませんけどね)。
 でも、そのような後ろ向きな気持ちに陥ってしまっている僕にとって、大きな支えになったことがあります。それは、この豊明新生教会の皆さん、そして代務牧師をしていらっしゃる安達先生が、礼拝メッセージの担当をお任せくださったことです。「もう日本基督教団の教師ではないけれども、それでも……」と言って、聖公会に移った僕のことを、礼拝の奨励者として1年間、用いてくださった――。日本基督教団の教師を退任したことを、いまだに負い目に感じている部分がある……、そんな僕に、これ以上ないほどの勇気と希望を与えてくださったのは、豊明新生教会の皆さんなのです。ですので、皆さんには本当に心から感謝しております。

イスカリオテのユダ

the Last Supper, painting by Carl Bloch, late 19th century

 一方で、今日の福音書の箇所に登場していた、通称「イスカリオテのユダ」と呼ばれる人物は、残念ながら、僕とは真逆の道を辿ってしまったようです。彼がどうしてイエスを引き渡したのか――。その理由は、実は、はっきりとしたことは分かっていないのですよね。マタイ福音書とルカ福音書が記している情報によれば、湯だという人はどうやら「お金に目が眩んでイエスをユダヤ当局に引き渡した」、と考えられていたようですけれども、しかし、実を言うと、そのマタイとルカが参考にしたとされる「マルコ福音書」には、そのようなことは書かれていません。マルコが記していない以上、マタイとルカが報告しているユダに関する情報は、かなり後になって付け加えられたものだと言わざるを得ないのですよね。
 また、今回の聖書箇所として選ばれていたヨハネ福音書の箇所(12章1〜8節)を見てみますと、「彼は盗人であった」(6節)などというように書かれていて、いかにも「ユダという人は悪いヤツだった」というように説明されているのですけれども、これも、言わば後の時代に付け加えられた補足です。
 このような事情から推察するに、このイスカリオテのユダという人物に関する聖書の記述、つまり、盗人であったとか、イエスや弟子たちのお金を“ちょろまかしていた”とか、お金のためにイエスを引き渡したのだ、とかいう話というのは、実は十中八九、後の時代の人たちが考えた創作なのだろうと考えることができるわけですね。新約聖書の中にはほかにも、ユダは自ら命を絶った(マタイ27:5)とか、無惨な死を遂げた(使徒1:18)とか、そういう後日談が書かれているわけですけれども、多分それらの話も、「ユダはイエスを裏切った」というところから広がっていった、根も葉もない噂話だったのだろうと思われます。
 そういうわけで、実際のところ、ユダという人物に関しては、実は多くの部分が謎に包まれているのであって、イエスをユダヤ当局に引き渡したあと、彼がどこに消えたのか、彼はその後どのような人生を送ったのか、そしてそもそも、彼はどうしてイエスのことを引き渡したのか……、何もかもハッキリしていなかったのですね。それなのに!イエスの死後、誕生したキリスト教会はというと、その行方不明になったユダという人物に関して、根拠のない噂を広め、あたかもそれが真実であるように福音書に書き残し、そうすることで、ユダ一人に、「イエスの死」の全責任をなすりつけようとしたわけです。
 そう考えますと、ユダという人物は、なんと可哀想なのだろう――。そして、彼をスケープゴートに仕立て上げた初期のキリスト教会は、なんと残酷なことをしたのだろう――と思ってしまいます。それと同時に、もし今回、僕が日本基督教団から日本聖公会へと移籍するにあたって、このユダと同じような目に合っていたならば……僕はどうなってしまっていただろうかと、自分のことと重ね合わせてこの箇所を読んで、非常に怖くなりました。でも、そうはならなかった。今回の移籍のことを応援してくださる方々が多かった。本当にそのことは良かったと思います。

おわりに

 キリスト教という宗教は、他者の心、他者の尊厳というものを大切にできる宗教だと思っています。そして実際に、僕自身は、今回のことを含めて、多くの愛を、キリスト教という宗教を通じて受け取ってきました。そのような温かい心と心の繋がりに感謝の念を抱いているからこそ、これからも、キリスト教をより多くの人々に伝えていきたい(その働きを担っていきたい)、そのように思っています。
 しかしながら、キリスト教もまた、人の集まりによって形作られている者です。なので、このユダの出来事に見られるように、残酷な部分も時折、顔を覗かせます。それによって、多くの人々がキリスト教を通じて“傷つけられてきた(傷つけられ、その傷を負い続けている)”というのもまた事実であるわけです。僕は、そのようなキリスト教の悪い部分と、これから先、臆せず向き合っていきたいと思っています。臭いものに蓋をしたり、お茶を濁したり、良い部分だけにしか目を向けなかったりするのではなく、自分たちの悪しき一面にもしっかりと目を留め、悔い改めるべきところを悔い改め、改善すべきところを改善し、そしてより良い“キリスト教”というものを、後の時代に残していきたい――。それが僕自身の使命だと今は思っています
 その働きの場として、僕は昨年、「日本聖公会」という世界を新たに選び、これから先、いよいよ本格的に活動を進めていこうとしています。教派こそ違いますけれども、同じキリスト教、また、同じこの東海地方(中部地方)で宣教の働きを担う仲間として、どうぞこれからも末長く、交わりを続けていただければ幸いです。
 ……それでは、お祈りいたします。

お祈り

 この世界を罪の束縛から解放するため、御子をこの世にお送りくださった主なる神さま、今日、皆さんとご一緒にあなたのための礼拝をおささげできる恵みを感謝いたします。また、この1年間、豊明新生教会の皆さんと、実り豊かな交わりを続けてくることができたことを、重ねて感謝申し上げます。
 少子高齢化が進む社会の中で、自分たちの教会をどのように守っていくかという課題に、教会活動の大部分が割かれてしまいがちで、どうしても、対外的な福音宣教や社会への働きかけまで手が回らないというのが、私たち、現代のキリスト教会の実情です。「香油を売って貧しい人への奉仕ができたのではないか」と、憤りつつ問題提起をした、あのイスカリオテのユダの言葉が、鋭く迫ってきます。どうか、そのような困難な状況の中でも、あなたが御力をもって、弱きわたしたちを支えてくださり、あなたの御業に参与するものとならせてください。そのために、いまこの受難節のひととき、私たちがいま一度自らを顧み、悔い改めつつ、誠実な心をもって信仰生活を過ごしていくことができるように、あなたの御導きをお願いいたします。
 このお祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前におささげいたします。アーメン。

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