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マイク、置きます……

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詩編・聖書日課・特祷

2024年4月21日(日)の詩編・聖書日課
 使徒言行録 4章32〜37節
 詩 編 100編
 使徒書 ヨハネの手紙一 3章1〜8節
 福音書 ヨハネによる福音書10章11〜16節
特祷(復活節第4主日)
永遠の契約の血によって良い羊飼い、主イエス・キリストを死人のうちからよみがえらせられた平和の神よ、どうか、わたしたちをみ旨にかなう者とし、み前に喜ばれるすべての良い業を行わせてくださいますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 さて、初っ端からこんなことを言うのも何なのですが……。ウルウル……、柳川真太朗、引退しようと思います(涙)
 今月から本格的に、マタイ教会での仕事と、柳城学院のチャプレンとしての仕事が始まりまして、早くも3週間が経ちました。毎日元気にお仕事しています。それなのに、どうして引退したいかと申しますと、僕いま、おそらくですけれども、人生のピークを迎えているような気がするのです。なんかもう、頂点に達したような感じ……なので、この時点でね、いさぎよくマイクを置いて、山口百恵のように――、ステージにそっとマイクを置いて引退したほうが、カッコよくこの業界を去れるんじゃないかと思ったのですね。

大学と教会で……

 先日、柳城の始業礼拝がありました。それで、そのときに、自己紹介の際にですね、学生たちの前で「いつくしみ〜」を披露したのですけれども、それ以来、なんと、大学で学生たちとすれ違うたびに、みんな僕に向かって、「いつくしみ〜」って挨拶してくれるのですよ。こんなありがたいことないですよね。と言うか、最近はもう、「いつくしみ」って呼ばれるようになっています。「いつくしみ」っていう名前になっちゃってるのですよね。「ねぇ、“いつくしみ”はさぁ」とか、「いつくしみ、絆創膏ちょうだい」とか言われるんですよね。
 こないだ、一番うれしかったのはですね――。「先生、これ見てください」ってスマホを見せに来てくれた女の子がいるのですけれども、何かと言いますと、僕のことを一切知らない学外の友だち(高校のときの友だち?)に、「いつくしみ〜」を教えて、一緒に5人くらいでプリクラを撮った――って言って、その時のプリクラを見せてくれたんですよ。ヤバくないですか?5人くらいで「いつくしみ〜」してて、真ん中に「いつくしみ〜」って書いてる写真をね、わざわざ見せに来てくれたのです。これはもう、ヤバいとしか言いようがないですね。

 そうかと思えば、大学だけじゃない。本業である教会のほうでも、先日嬉しいことがありました。数日前に礼拝メッセージでお邪魔した教会で(どことは申しませんけれども)、90代くらいのおじいちゃんが声をかけてきてくださいまして、「おたくの、あの、何でしたっけ。こうやって、指でやる、あれ、良いですね」とわざわざ言いに来てくださったのですよ。「あぁ、あれは、両手の人差し指で十字架を作って、『いつくしみ〜』って言うんですよ」と教えてさしあげたら、そのあと帰り際に、「いつくしみ〜」ってやりながら見送ってくださったのですね。もう、その光景を見て、「えぇっ、尊い、尊すぎる……」って、泣きそうになりましたよね。
 大学生から、90代の超ご高齢の方まで、みんなが「いつくしみ〜」ってしてくださる――、いま、もうこの時が、僕の人生のピークだと思うのです。やっぱり、百恵ちゃんみたいに、人気絶頂期にもかかわらず、マイクを置いて去っていく――、っていうほうが良いんじゃないかと思うのですよね。
 ……まぁね、ホンマにそんなことしたら、ただでさえこの業界、人手不足ですからね、一生恨まれますよね。なので、“マイクを置く”のは止めておいて、一生懸命これからも頑張っていきたいと思います。

財産を共有する信仰者たち

 しょうもない話はここまでにしておこうと思いますけれども、いま、山口百恵の「マイクを置く」というお話をしました。実は、これ、今日のお話とちょっとだけ関係しています。今日のキーワードはずばり「置く」です。この「置く」というキーワードをもとにお話させていただきたいと思うのですね。
 さてそれでは、はじめに、本日の使徒言行録の箇所、4章32節以下のところをご覧いただけますでしょうか。この箇所には、どんなことが書かれていたのかと言いますと、イエス・キリストの信者たち、それも最初期の信者たちが、使徒であるペトロやヨハネといった人々を中心にして“信仰共同体”を作り上げた、ということがここには記されているのですね。
 彼らは、32節を読んでみますと、「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とあります。原始キリスト教時代の信者たちの生活は、しばしば“共産主義的”だったと言われることがあるのですが、その根拠はここなのですね。一人ひとりが私有の財産を持つ権利を放棄する、自分の財産を公共のものとする(この場合だと、信仰共同体のものとして譲り渡すということですね)。そして、その共同体の構成員である全員が、公共のものとなったその財産を使えるようにする。もちろん、誰でも自由に、勝手気ままに使えるわけではなくて、あくまで平等に、「必要に応じて」(35節)という条件の範囲内ではあるのですけれども、とにかく、そうすることで、初代のキリスト教会は、信者たちの間で経済的な貧富の格差を無くそうとしたわけです。
 34節の後半からの箇所をご覧ください。このように書かれています。「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き」……。ここに、面白い表現が使われていますね。人々は、自分たちの財産を「使徒たちの足もとに置いた」のだそうです。元のギリシア語の言葉では「τθημι」という動詞が使われているのですけれども、この「(足もとに)置く」というのは、まぁ言ってみれば、一種の比喩表現ですね。まさか、本当にペトロたちの足もとにお金を「置いた」わけではないでしょう。そうではなくて、ペトロたち使徒の権威のもとに、信者たちはお金を持ち寄って集約した、集めた。そのようにして、彼らは、自分たちの財産の所有権を、手放して、使徒たちに委ねたのですよね。それをここでは、「使徒たちの足もとに置く」という表現をもって説明しているのだと考えられます。

羊のために命を……置く?

 この箇所で重要なのは、彼ら初期の信者たちは、決して、「お金(財産)なんて要りませんよ」と言って、すべてを放棄したわけじゃないってことですね。彼らは、お金(財産)を捨てたわけじゃなくて、“財産を保有する権利”を放棄したのであって、その管理と運用を、使徒たちを中心とする共同体に委託したということなのです。自分のため、あるいは自分たち家族のためだけに財産を保有するのではなく、(自分たちも含めて)もっと多くの人たちが平和に暮らせるようにするために、今まで持っていた財産を使徒たちに託した。「オレたちの代わりに、このお金を有意義に使ってくれよな。頼んだで」ということで、彼らにお金を預けたわけですね。なので、そこには「信頼」と「目的」というものがあった――、そのように言うことができると思います。
 さて、「置く(τίθημι)」という言葉に関してですけれども、実は、今日の聖書日課の他の箇所にも、同じように、「置く(τίθημι)」という言葉が使われておりました。それはどこかと言いますと、福音書のテクストとして選ばれていた、ヨハネによる福音書10章11節以下のところなのですね。ヨハネ10:11には、このように書かれています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

写真AC(https://www.photo-ac.com/)より

 この中に「置く」という言葉が使われているのですが、……あります?無いですよねぇ。そうなのです、無いのですよ、この日本語訳のなかには。この新共同訳聖書だけじゃなくて、昔の口語訳とか更に古い文語訳、あるいは、最新の聖書協会共同訳、福音派の教会で使われている新改訳(2017)も、だいたいこのような翻訳になっています。でも、この中には確かに、「置く(τίθημι)」という言葉が使われているのです。じゃあ、それは一体どこかと言いますと……、ここなのです(※◯で囲む)。なんと、「命を捨てる」の「捨てる」と翻訳されている言葉が、「置く(τίθημι)」なのですね。

「置く」という言葉の用例

 「命を捨てる」と、「命を置く」――。随分と違いますよねぇ。まぁ、「命を置く」だと、どうしても意味がよく分かりませんからね。なので、前後の文脈から推測して、「羊飼いではない雇い人は、狼が来たら羊を見捨てて逃げるけど、良い羊飼いは、もし狼がやって来たとしたら、自分の命を犠牲にしてでも羊たちを守るんだ」ということで、「命を捨てる」と翻訳されているのですけれども……。しかし、どうもそれにしては、「命を“捨てる”」と「命を“置く”」だと、ニュアンスがだいぶ異なっているんじゃないかと思えてならないのですね。
 そもそも、この「置く(τίθημι)」という言葉はどういう使われ方をする言葉なのか、調べてみました。新約聖書の中では、100回近く使われているのですが、それらを全部、一個一個、頑張って確認しました。
 まず第一に、基本的な意味としては、「置く」ですね。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」(マタイ5:15) つまり、シンプルに物を「置く」という意味で使われます。イエスが、子どもたちを祝福する場面では、頭の上に手を「置く」(マルコ10:16)という使われ方もしていました。そのように、なにかの上に物を「置く」というのが、基本的な使われ方なのですね。また、そこから少し発展して、「土台を据える」(ルカ6:48)とか、「人々の上に誰かを立てて、任命する」(一テモテ2:7)という使われ方をしている箇所もありました。
 次に、「ひざまずく」です。これはどういうことかと言いますと、「ひざ」を地面の上に「置く」というところから、転じて「ひざまずく」――と。礼拝するために、あるいは敬意を示すために「ひざまずく」というように訳されているわけです(マルコ15:19など)。この使われ方も結構多かったですね。
 他には、遺体を墓の中に「納める」(マタイ27:60など)。日本のように火葬の文化ではないですからね。遺体を安置する洞穴みたいな場所があって、そこに遺体をまさに「置く」わけです。イエスの遺体に関しても、例外なく、この「置く」という言葉が使われていました。また、遺体ではないですけれども、病人や、体の不自由な人たち。そのような自分たちで動けない人たちを「寝かせる」「横たわらせる」(ルカ5:18など)というときにも、人を「置く」というように表現されています。あるいは、不自由という意味では、逮捕されている囚人もそうですね。囚人を「牢に入れる」という場合にも、この言葉が使われています(使徒4:3)。
 さらには、「決心する」(使徒19:21)とか「心に留める」(ルカ1:66)と訳されている箇所にも、この「置く」という言葉が使われています。その思いを「心」に受け取って、しっかりと「心」のなかに「置いておく」(納めておく)ということですね。
 このように、今回地道に一つ一つ調べてみましたところ、少なくとも新約聖書の中のおよそ100件の用例に関しては、ほぼそのすべてが、特に違和感なく、「置く」という言葉から訳されていることが(多少なりとも)理解できる……、そういう訳され方がされていることが分かったのですね。

羊たちのそばに命を置く

 ところが、今回のこのヨハネ10章に関しては、例外なのです。「命を“捨てる”」という翻訳になってしまっている。これだと、「置く」という言葉のニュアンスがうまく伝わらないですね。ここまで見てきたように、この「置く(τίθημι)」というギリシア語の動詞には、なにか“意味”や“目的”があって、物を置くというニュアンスが込められていました。なので、「(命を)捨てる」と訳してしまうと、せっかく、このように「置く(τίθημι)」という動詞が使われていることの“真意”が分かりづらくなってしまっているように思うのです。
 では、羊のために「命を“置く”」とは、一体どういう意味なのか。最後に少し考えてみたいのですけれども――。この問題を解決するために参考になるのが、前半に読みました使徒言行録の箇所なのですね。
 使徒言行録4章……、初代のキリスト者たちは、土地や家を売り払って、そのお金を「使徒たちの足もとに“置いた”」、そのように書かれていました。彼らは、自分や家族だけでなく、より多くの人々と恵みを分かち合うために、使徒たちのことを信頼して、彼らにお金を預けた(託した)のです。決して「捨てた」わけじゃないし、手放したわけでもないし、使徒たちに“あげた”わけでもない。彼らは、大切な財産を、自分たちの共同体のために上手に使ってくれ!ということで、その権利を委ねたのですね。そのことを、使徒言行録のこの箇所では、「置く」という言葉をもって表現しているわけです。
 だとすると、ヨハネ福音書の「(羊のために)命を“置く”」という表現に関しても、これは実は、「命を捨てる」というような、いわば、“失われること”前提の意味で使われているのではない。ここで言われている「命を“置く”」というのは、必ずしも、「羊のために死ぬ(命を失う)」ということだけが言われているわけではない。そうじゃなくて、羊のために、羊たちのそばに、「命を置く」――、つまり、羊たちと運命を共にする、羊たちのために命を使う(費やす)というような、そういう「生きる」ということを目的とした内容として、この箇所は書かれているのではないかと思うのですね。
 雇い人たちは、自分の命を守るために逃げるけれども、良い羊飼いは逃げない。でも、逃げないからと言って、それは「死ぬ」ことを覚悟するものではない。良い羊飼いとは、どんなことがあろうとも、羊たちと一緒にいる、羊たちのそばに命を“置く”――、それが、羊飼いの模範なのであり、そしてイエス・キリストはそういう存在なのだということを、ヨハネ福音書の著者はここで言おうとしているのではないかと、僕は今日の聖書日課を読んで、そのように理解しました。

おわりに

 先ほどもお話しましたように、この「置く(τίθημι)」という言葉は、「土台を据える」とか、「決心する」などというように、そういう“強さ”を表す言葉として、しばしば新約聖書の中では使われています。かつての百恵ちゃんも、「マイクを置く」と決めた、あの引退のときには、強い決心と、応援し続けてくれているファンの人たちとの強い絆と、そして、新しい家族への強い思いがあったのだろうなと想像しますけれども、奇しくも、その百恵ちゃんの「置く」という動作には、今日ご一緒に見てまいりました聖書の中で、イエス・キリストが、また初代の弟子たちが、弱き人々との繋がりを大切にするために「命を置いた」、その強い心を感じさせるものがあるなと思いました。
 我々も、そのような“強い心”をもって、人との繋がりを築き、深めていければと思います。かつて、新約聖書の時代の人々が思い描いた、すべての人が繋がりを有して、支え合い、守り守られ合う、そのような世界を、2024年という時代に生きる我々もまた、妄想や夢物語として諦めるのではなく、いつか必ず実現されるはずだと信じて、その未来に向かって今日からまたご一緒に歩んでまいりましょう。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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