3秒ルールと落としちゃった聖餅(パン)
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詩編・聖書日課・特祷
2024年1月28日(日)の詩編・聖書日課
旧 約 申命記18章15〜20節
詩 編 78編1〜8節
使徒書 コリントの信徒への手紙一8章1b~13節
福音書 マルコによる福音書1章21~28節
特祷(顕現後第4主日)
神よ、あなたはみ子を世に現して、悪魔の業を滅ぼし、わたしたちを神の子、永遠の命を継ぐ者としてくださいました。どうかこの希望によって自らを清く保ち、み子が栄光とみ力をもって再び来られる時、み姿に似る者とならせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。
はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」
先週は、雪、大変でしたねぇ。ちょうど先週の木曜日に、新幹線で岐阜・大垣付近を通る機会があったんですけれども、一面の雪景色でした。もちろん、その先の滋賀のあたりはもっと凄かったですけどね。この辺(岐阜・大垣)もなかなかでしたよね。教会関係の用事で、広島に行かなければならなかったのですが、幸いなことに運休までは免れて、なんとか1時間遅れで広島に到着しました。それに何より、この日曜日にかぶらなくて良かったなぁって思いながら、週末を過ごしておりました。無事に皆さんとお会いできてよかったです。
3秒ルール
さて、皆さんは「3秒ルール」ってご存知でしょうか。食べ物をポロッと落としちゃったときに、3秒以内なら拾って食べても問題ない(?)というルールのことですね。3秒くらいだったら……まぁ……「ふっ」ってゴミを取ったら食べれるでしょ、っていうことです。
そういう、“謎理論”に基づく“謎ルール”なのですけれども、皆さん、どうですか?もしも、ご飯とかお菓子とかを食べようとして、ポロッと床に落としちゃった場合、皆さんならどれくらいの時間であれば食べますか?
僕は……そうですねぇ。まぁ、落としたものとか、場所とかにもよるでしょうけれども、たとえば、落とした場所が「土足禁止の場所」で、なおかつ、「落としたときにすぐ気づいて拾ったやつ」だったら、「ふっ」ってしてから食べれるかもですね。でも、水分多めの食べ物とかお菓子だったら、残念ですけど、諦めるかもしれません。小さいゴミとかホコリが付いちゃったら、「ふっ」ってしても取れませんからね。逆に、クッキーとかスナック菓子みたいな、表面が乾いているやつだったら大丈夫だと思います。
道端とか、みんなが靴で歩いているような場所に落ちたときは、さすがに厳しいですね。ここ(岐阜聖パウロ教会/大垣聖ペテロ教会)は、土足禁止ですから、まぁ大丈夫だと思いますけど、みんなが靴で歩いているような場所だと、正直言って“きちゃない”ですよね。その靴で公衆トイレとか行ってるわけですからね。そういう“きちゃない”ところに落ちた食べ物だと……、まぁさすがに食べるのを躊躇するかなぁって感じです。
まぁ、そんな感じで、その時の状況次第かなぁと思うのですけれども、皆さんはいかがでしょうか。
聖別されたパンを落としたら①
ところで、僕はかれこれ、聖公会に移籍してからもうすぐ10ヶ月が経とうとしているのですけれども、聖公会のことを勉強する中で、つい最近、ある疑問が浮かんだんですね。「聖餐式で使われているパンって、もし陪餐のときに、うっかり落としちゃったら、どうしたら良いんだろう?」って。もちろん、“感謝聖別”のあとの話です。ただのパンじゃなくなった後のものですね。
3秒以内だったら、いけるか、いけないか。……というのも、まぁ気にならないことは無いですけれども、それはちょっと置いといて、今回は、もう少し“神学的なレベル”まで踏み込んで考えてみたいと思います。
聖堂の床に落ちちゃったパン――。さて、皆さんどうしましょうか。どのように、それを扱いましょうか。
「別に気にしない人なら食べたら良いし、気になるなら食べなかったら良い」……?。いや、これは多分、そんなに簡単な問題じゃないだろうと僕は思うんですよね。
僕自身は、正直に言いますと、この問題に関する“正しい答え”というものを持っているわけではありません。一応、いろいろ調べてみた結果、「これが、一番“無難”な考え方かな」っていう“自分なりの答え”というのは、見つけることはできました。しかし、もしかすると、聖公会の先生方によっては……、あるいは、これまで祭壇奉仕の訓練などを受けてこられた方々によっては、僕とは違う考えだという方もおられるかもしれませんね。
しかしまぁ、いずれにせよ、おそらくこのように、「床に落ちちゃった聖別後のパンをどう扱うか」という問題について真剣に考えるのは、実は、ユーカリスト(聖餐)という、言わば、キリスト教において非常に重要なサクラメントに対する一人ひとりの姿勢というものが問われている、結構大きな問題だと思うのですね。
聖別されたパンを落としたら②
では皆さん、あらためて想像してみてください。聖別されたパンです。でも、それをうっかり、ポロッと床に落としてしまった!「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」、「アーメン」と言って、受け取ろうとしたら、(どっちのミスかは分かりませんけれども)とにかく、そのパンが落ちちゃった!そこで、我々のように“心から主に従い、日々絶えず、神に感謝しつつ生きている”信仰者はきっと、その瞬間、「あっ!」と、ショックを受けるわけです。そして、すぐにそのパンを拾うわけですけれども、時すでに遅し。
一度床に落としてしまったそのパンにはもう、小さなゴミとか、あるいは雑菌とかが付いてしまっているわけですね。つまり、そのパンは「汚(よご)れてしまった」ということになります。だとすると、それはもう“ダメ”になっちゃったのか。一度聖別されたけれども、汚(よご)れてしまった。そしたらもう、そのパンは“聖別”前のものと同じ状態になってしまったのか。
それとも、たとえ床に落として汚(よご)れてしまったとしても、いやいや、聖別されたパンは、聖別されたパンのまま変わらない……と、果たして言えるのでしょうか。もし、そうだとしても(聖別された状態がそのまま継続するのだとしても)、じゃあその落としたパンは、誰が、どうすれば良いのか。
拾うには拾うけれども、それは、信徒が食べなければならないのか。それとも、(さすがにそれは可哀想ということで)代わりに司祭が責任をもって食べなければならないのか。……皆さん、どう思われますか?
Don’t worry!
この問題に関して、いろいろ調べてみましたところ、残念ながら日本語の資料には辿り着けなかったのですが、アメリカのテキサスにある「聖オルバン教会」という教会のホームページに、「よくある質問」みたいなページがありまして、そこに、“落としちゃったパン”のことが書かれていました。
「What if I drop my wafer?(もしパンを落としちゃったらどうしたら良い?)」っていう質問に対して、教会側の回答として書かれていたのが、まず、「Don’t worry!」……良いですねぇ。「大丈夫!」と言うわけです。そして、「This happens all the time.(よくあることなんですわ)」と、安心する一言を付け加えてくれています。それで、質問の核心に迫るわけですけれども、その教会のホームページ曰く、「司祭(あるいは信徒奉事者)がそれを拾います」とのことでした。そのパンが、信徒に渡されることはありません。あくまで、その落ちたパンの責任を担うのは、信徒ではなく司祭の側、ということなんですね。なので、皆さん、「Don’t worry!」 今後もし、パンを落としちゃったとしても、その時は慌てずに、先生方に全部おまかせしたら大丈夫!みたいです。何も気にすることなく、安心して新しいのを受け取ったらOKということらしいのですね。
廃棄は絶対ダメ、拝領するかそれとも
……でも、「気にしなくても良い」って言われても、やっぱり気になりますよねぇ。その“落ちたパン”は、そのあとどうなるのだろう?って。「これはもう食べられないね」ってことで、ゴミ箱にポイッ?
これも、「Don’t worry!」 大丈夫です。今回確認してきた資料はすべて、たとえ、床に落ちてしまっても、聖別されたパンは聖別されたパンのままだから、絶対にゴミ箱に捨ててはいけません、という意見で一致していました。したがって、聖別されたパンが、その後、ぞんざいな形で扱われることは決してないということです。「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」と言って渡されるパンを、いい加減に扱ってはならない。そして何より、聖別されたパンは、たとえ(床に落として)ゴミとか雑菌が付いたとしても、聖別されたパンであり続けるのだ――。これ、大事なポイントなので、ぜひ覚えておいてください。
ただし、その後の対応は、教派、あるいは教会とか先生方によって異なるようです。たとえば、先ほどご紹介した、アメリカ・テキサスの教会のホームページには、「拾った司祭や信徒奉事者がいただきます」と書いていました。あるいは、カトリック教会の奉仕に関する手引き書を見てみましても、やはり、「うやうやしく拾い上げて自分で拝領します」と書かれていました。なので、基本的には「食べる」というのが最も良い扱い方なのだろうと思います。
でも、どうしても食べるのはキツい……っていう場合もありますよね。たとえば、一度、信徒のかたの口に触れたあとに落ちたりとか、靴で蹴っちゃったり踏んじゃったりとか。そんな感じで、「これは食べないほうが良いよね」ということもあると思います。そういうときのために、ちゃんと“良い方法”が提案されていたんですよ。それは、「土に還す」という方法です。
礼拝が終わった後、オルターギルドの方々が祭具を洗ってくださるわけですけれども、その水は“下水”には流さないんですよね。そうじゃなくて、教会の周りにある土へと還元させるわけです。そのときに、落ちちゃったパンも一緒に、自然に還っていってもらう(ちゃんとある程度溶かしてからのほうが良いと思いますけどね)。そういう方法があるということで、「なるほど!それがグッドアイデアやなぁ!」と、個人的には思いました。
男の“周り”にまとわりついていた霊
……と、まぁ、このように、聖別されたパンは、たとえ床に落ちちゃったとしても、その後も変わらず、聖別されたパンとして丁重に扱われるべきであると、我々聖公会やカトリック教会は考えるわけなんですが、今回どうしてこのような話をしたのかと言いますと、この「落ちちゃったパン」に対する我々信仰者の向き合い方(扱い方)というのは、今日の福音書の内容とも深く関係しているなぁと感じたからなんですね。
最後、3分くらいで短くまとめようと思うのですが……。今回の箇所(マルコ1:21以下)で、イエスは、人々が集まる会堂のなかで、ユダヤ教の教えについて語っています。その最中に、一人の男性が急に大声を張り上げて、妙なことをイエスに向かって言い始めたんですね。
この箇所の語り手は、その男性のことを「汚(けが)れた霊に取りつかれた男」と説明しています(23節)。ただし、これ、ギリシア語の原文では、ちょっと違うのです。正確には、「汚れた霊の中の人」というようになっているんですね。つまり、位置関係としては、男性の中に汚れた霊が入り込んでいたわけではなくて、男性の“周り”に汚れた霊がまとわりついていた(?)ということになるわけです。まるで、今日のテーマである「床に落ちちゃったパン」みたいにですね。ゴミとか雑菌がついたパンのように、汚れた霊が男性の周りについていたわけです。
そこで、イエスは厳しい口調で、こう言います。「黙れ。この人から出て行け。」(25節) 「出て行け」というのは、「離れろ」とか「立ち去れ」とも訳すことができます。男性の中ではなく、彼の“周り”に汚れた霊がいたのなら、「この人から出て行け」よりも、「この人から離れろ」のほうが良いかもしれませんね。
実はこの瞬間、イエスの周りにいた人たちは、その男性が「霊に取りつかれていた」ということを初めて知ることになります。この箇所をじっくり読んでみますと、彼が「霊に取りつかれていた」というのは、唯一、この箇所の語り手だけが言っていることであって、イエスが「この人から離れろ」と言うまでは、その男性はただの「騒ぎまくって迷惑をかけている人」だったわけなんですね。
そういう人は、普通、どういう扱いを受けるか。……その場から退場させられて終わりですね。「あんた、うるさいから出て行け」と言われて、つまみ出されることになるはずです。でも、イエスは違ったんですね。その男性を追い出すのではなく、その男性の周りにまとわりついている「汚れた霊」を取り除こうとした。その男性のことには触れず、あくまで、彼に取りついている「汚れた霊」に対して、「出て行け」「この人から離れろ」と告げたわけです。汚れた霊に取りつかれてしまったことで、その男性自身が「悪い存在」になってしまったわけではなかった。イエスにとっては、たとえ汚れた霊に覆われていたとしても、その男性はその男性だったのだということですね。
おわりに
どんなことがあろうと、“本質”は変わらない。尊い、一人の人間として神は見てくださっているのだということを、今日の箇所は、イエスの悪霊払いという出来事を通して、教えてくれているのではないでしょうか。これから、僕らはまた、聖餐の恵みにあずかります。その霊的な行為の中に示される、「変わるもの」と「変わらないもの」のコントラストに心を揺り動かされつつ、神の救いであるパンとぶどう酒を、感謝してご一緒に味わいたいと願います。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。