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よーし、よしよし

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聖書日課

2023年5月14日(日)の聖書日課
 交読詩編:34編1〜11節
 旧約聖書:ダニエル書 6章10〜23節
 新約聖書:ルカによる福音書 7章1〜10節

はじめに

 皆さん、おはようございます。前回こちらに来させていただいたのが4月30日。まだ4月でした。「さて、次は5月かぁ」と思っていたんですけれども、よく考えたら、わずか2週間後だったんですよね。あっという間に今日を迎えておりました。今月も皆さんにお会いできて嬉しいです。
 さて、今朝のお話のタイトル(「よーし、よしよし」)ですけれども、これは、かの有名な動物研究家である「ムツゴロウさん」こと畑 正憲さんを象徴する言葉ですね。先月5日、心筋梗塞のため87歳というお歳で逝去されたという悲しいニュースが報じられました。様々な動物と触れ合う際に、いつも「よーし、よしよし」と優しい声をかけていた姿を、皆さんもよく覚えておられるのではないだろうか。

 ワンちゃんやネコちゃんだけでなく、大型動物……、ワニやオオカミ、ライオンといった獰猛な生き物たちとも全力で触れ合っていたムツゴロウさん。1980年から放送が開始された「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」というテレビ番組では、21年もの間、世界中の数えきれないほどの動物たちとの出会いと交流の様子をお茶の間に届けてきました。
 ムツゴロウさんが出会いに行く動物たちは、動物園で生活しているような生き物ではなく、正真正銘、本物の野生動物たち。それ故に、ムツゴロウさんが怪我してしまうことも少なくなかったと言います。
 特に、2000年には、ブラジルでライオンに右手の中指を食いちぎられるという痛ましい事故を経験されたことがあるそうなんですね。僕は、先月の追悼番組で初めてそのことを知りました。
 番組が終了したあとも、変わらず動物を愛し、また動物からも親しくしてもらい、そうやって動物と共に生きてきたムツゴロウさん。亡くなる数日前(3月27日)に更新されたSNSの投稿でも、動物を膝に抱えてうれしそうに笑う姿を公開しておられました。

 ところで、今日は別に、ムツゴロウさんの思い出話をしたいわけではありません。僕自身、ムツゴロウさんのことを人よりも知っているわけではないですし、きっと皆さんも、テレビとか雑誌とか、そういうメディアを通して伝えられる(畑正憲さんではなく)『ムツゴロウさん』という、言わば“作られた”人物像しかご存知ないのではないかと思います。直接の知り合いでもない限り、我々が得ることのできる情報というのは、その人に関する、切り取りや着色が施された“不正確な”ものでしかありません。
 ですから、僕は今回のお話の中で、ムツゴロウさんこと畑 正憲氏のことを、まるで聖人(アッシジのフランチェスコ)のような「人だけでなく動物とも心を通わせながら生きた偉大な人物」として語る気は毛頭ありません。ですが、そのようにフィクションや、ある種の神話的な要素も持っている、その「ムツゴロウさん」というキャラクターは、今朝の聖書の朗読箇所として選ばれているそれぞれのテクストを読み解く上で、とても重要なカギになると思い、それで、お話の初めに少し紹介させていただいたわけです。

ダニエルの生還

 今日の説教題である『よーし、よしよし』というタイトルは、皆さん、既にお察しのことと思いますけれども、これは、旧約聖書のダニエル書の箇所からヒントを得て、付けることにしました。ライオンが出てきますからね。ライオンとダニゴロウさんの心温まるハートフルなお話です。そういうわけで、本日はまず、旧約聖書のダニエル書のお話から始めてまいりたいと思います。
 旧約聖書のダニエル書には、その名のとおり、ダニエルという人物を主人公とした物語が収録されています。ダニエルにまつわる物語の中で特に有名なのが、今朝の箇所、すなわち、獅子(ライオン)たちのいる穴にダニエルが投げ込まれるというエピソードですね。
 ダニエルという人物はこの時、彼のことを嫌うバビロニアの役人たちの策略によって、ライオンの穴に投げ込まれることになった。新共同訳聖書では「獅子の洞窟」と書かれていますけれども、これは単に、ライオンたちの住んでいる巣穴のことを指しているものと思われます。ヘブライ人であるダニエルは、バビロニアという国で優秀な働きをしていた人物だったようですが、そこに住むバビロニアの役人たちにとっては、邪魔者でしかなかった。だから、ダニエルをライオンの穴に放り込んで消し去ってやろうと考えたわけです。けれども、翌朝になって、ダニエルは奇跡的にも、ライオンの穴から無事生還を果たした。そういう内容のお話となっています。
 ダニエルは、自分が無事に一夜を明かすことができた理由を、今日の箇所の中で次のように述べている。「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。」(6:23)
 彼が実際にその目で“天使”の姿を目撃したのか、それとも、自分が無事に生還できたのは、神が(見えない形で)天使を遣わして助けてくださったからだと考えたのかは、このテクストからは分かりません。しかし、いずれにせよ、彼は「神の助けがあったから助かった」のだと、証言しているわけなんですね。

ライオン

 さて皆さん、ちょっと想像してみましょう。もしも、ダニエルと同じように、ライオンの巣穴に突然放り込まれたとしたら……? 皆さんは、無事に生還する自信があるでしょうか。他のユダヤ教の文書を読んでみますと、「ダニエルは“潔白さのゆえに”獅子の口から救われた」(マカバイ記一 2:60)と書いているんですが、皆さんはどうでしょう。潔白さのゆえに、奇跡の生還を果たすことができるでしょうか。
 「私は生き残る!絶対!自信がある!」という方はおそらくおられないだろうと思います。僕もそうです。もし本当に、ライオンたちの巣穴に放り込まれることになったら、誰だって絶望するに違いありません。それは何故か。ダニエルのような“潔白さ”が無いから?いや、違う。ただただ、ライオンという動物が“恐ろしい”からですよね。
 名古屋の「東山動植物園」、あるいは、豊橋の「のんほいパーク」などに行きますと、それぞれ数頭ずつライオンたちが住んでいますので、生でライオンを見ようと思ったら、数百円の入園料を払えば、簡単に見に行くことができます。けれども、そのように“気軽に”会いに行こうと思えるのは、あくまで、ライオンたちが柵の中とか分厚いガラスの向こう側にいるからこそ、ですよね。もし、柵もガラスも無かったとしたら……? いくら飼育員の人から「しっかりと調教しているので人間を襲うことはありませんよ」と言われたとしても、ほとんどの人は、怖くて近づけないだろうと思います。それくらい、我々はライオンという動物を“恐ろしい”存在だと認識しているわけですね。
 ライオンは恐ろしい動物。我々にとって脅威となる存在。その認識は間違ってはいないと思います。ですが、何かが足りない……と僕は思うんです。説明を要する何かが欠けている。すなわちそれは「理由」ですね。どうして我々はライオンを怖い動物、恐ろしい動物だと思っているのか。その理由を飛ばして、ただ「ライオンは怖い動物だ」と考えているような気がします。
 ライオンに対して恐怖心を抱く理由。それは「ライオンが強いから」に他なりません。昔から「百獣の王」と呼ばれているように、ライオンには“天敵”となる動物がいません。実は、ライオンよりも強い動物は存在しています。ライオンは時に、ハイエナの群れに襲撃されたり、ワニに襲われたりします。それに、ライオンが襲いかかっても倒すことのできないアフリカゾウなどもいます。一説によりますと、陸上の野生動物たちの中で、アフリカゾウが最強と言われているそうなんですね。
 しかし、ライオンにとって、アフリカゾウは別に天敵というわけではない。草食動物ですからね。ですから、彼らライオンには、常に自分たちの身を守らなければならないような天敵は存在しないわけです。だからこそ、ライオンは、狩りに出かけるとき以外は、ずっとテリトリーの中で(時折お腹を見せながら)ゴロゴロとくつろいでいられるのである。日によっては20時間以上もゴロゴロしているそうです。「百獣の王」と呼ばれる理由はそこにあるわけなんですね。
 他の多くの動物たちと同様に、我々人間もまた(武器などを持っていないならば)ライオンよりも弱い存在です。ライオンは生身の人間よりも強い。だから人間はライオンのことを恐れるわけです。

百人隊長という強い存在

 このように、我々は「強い」相手を前にすると「恐れ」を感じるわけですけれども、しかし……です。もしも、その「恐れ」という感情を、仮に無くすことができるとすれば……。あるいは「恐れ」という感情を、何か“別の感情”に置き換えることができるとするならば、どうでしょうか。きっと、その「強い」相手との向き合い方というものが大きく変わってくるのではないかと思うんですね。
 ここで、少し新約聖書のほうのテクストを見てみたいと思います。本日の聖書日課では、旧約のダニエル書に対応する形で、新約聖書のルカによる福音書7章1〜10節という箇所が選ばれています。「百人隊長」という人の部下が、このとき、病気を患って死にかけていた。新共同訳聖書では「部下」と書かれていますけれども、実はギリシア語本文では、ただの「奴隷」としか書かれていません。新しい日本語訳の聖書では、「部下」ではなく、ちゃんと「僕(しもべ)」と訳し直されています。百人隊長の家で働く“しがない奴隷(しもべ)”が、病気で死にかけていた。すると、イエスは、百人隊長の願いに応じる形で、その奴隷(しもべ)を不思議な力をもって回復させてあげた。そのようなエピソードとなっています。
 ここに登場している百人隊長という人物は、ユダヤ人ではありません。この箇所の内容からして、彼は、十中八九、異邦人(外国人)だったと思われます。ローマ帝国の支配下にあるユダヤ・ガリラヤ地域に駐屯していた百人隊の隊長というわけです。つまり、彼らローマ帝国の兵士たちというのは、その土地に住むユダヤ人、ガリラヤ人たちにとっては「敵」であって、自分たちの安全を脅かす存在だったはずなんですね。

“恐れ(怖れ)”の感情が無い関係性

 ところが、今回の箇所を読んでみますと、この百人隊長の周りにいるユダヤ人たちは、彼に対して「恐れ」の感情は持っていなかったみたいなんですよね。それどころか、ユダヤ人の長老たちがわざわざイエスのもとに駆け寄ってきて、「あの人の奴隷(しもべ)を助けてやってくれないか!」と熱心に願うほどでありました。百人隊長や他のローマ兵から脅されて、仕方なくお願いしているという感じでもなさそうです。
 「あの百人隊長は、我々にとって支配者側の人間ではあるけれども、彼は本当に良い人なんだ。我々のことをとても大切にしてくれている。だから、彼と彼の奴隷(しもべ)の苦しみは、我々の苦しみでもあるんだ。ひょっとすると、あんたには事情が分からないかもしれないが、どうか彼らに憐れみをかけてやってはくれないか。」そんな風に、長老たちはイエスにすがってきたんですよね。
 彼らユダヤ人たち、ガリラヤ人たちは、間違いなく、百人隊長のことを「強い存在」だとは認識していた。抵抗しても勝ち目がない、圧倒的な力の差を感じていたはずです。けれども彼らは、少なくともここに登場する百人隊長に対して、「恐れ」の感情は抱いてはいなかった。尊敬、信頼、人種や宗教、立場の違いといったものを超えた愛。そのような思いが、この百人隊長とカファルナウムの住民たちとの間で共有されていたのだろうと思われるわけです。
 いや、もしかすると、彼らはやはり「おそれ」の感情を抱いていたかもしれない。ですが、その「おそれ」というのは、恐怖という字を使う「恐れ(怖れ)」ではなく、「畏れ」の方だったのではないでしょうか。「畏れ」とは、「かしこまってうやまう感情」のことを言います。畏敬の念、という言い方もありますように、この「畏れ」の感情の中には(恐れ・怖れとは違って)相手へのリスペクト(敬意)が込められています。
 この場面に登場する百人隊長は、“強さ”というものを持ってはいるけれども、それをもってして、支配下にあるユダヤ人たちやガリラヤ人たちを不当に扱うことはしていなかった。それどころか、彼らのことを丁重に扱い、彼らのために会堂を建ててあげたと書かれています。そして何よりも、この百人隊長は、病に苦しむ自分の大切な奴隷(しもべ)のことを気遣っていた。生きる世界は異なるけれども、社会的な上下関係はあるけれども、しかし、その違いを認めつつ、共に生きる道を彼は選んでいた。そして、カファルナウムに住むユダヤ人たちもまた、そんな彼のことを尊敬していた。そのような繋がりがあったからこそ、このとき、イエスの癒しの奇跡は実現したわけです。言い換えれば、もしも、百人隊長とカファルナウムの人々との間に健全な関係性が築かれていなければ……。癒しの奇跡は起こらなかったかもしれません。
 ひるがえって、先ほどのダニエル書の物語を改めて読んでみたいと思うんですが、ライオンの巣穴に放り込まれたダニエルが、どうやってそのような危機的状況から生還することができたのか。その詳細は一切描かれていません。テクストは、このダニエルの身に起こった出来事を、実際には起こり得ない“神の救い”の奇跡として記して終わっているわけですけれども、我々はそこからもう少し踏み込んで、この物語を読んでも良いような気がします。
 仮に、ライオンの巣穴に放り込まれたダニエルが、絶望のあまり発狂したり泣き叫んだりしていたら、きっとライオンたちの方も興奮して、部外者であるダニエルに襲いかかっていたに違いありません。ダニエルが生き延びるための唯一の手段。それは、ライオンたちを少しでも安心させることでした。彼らの領域を極力侵さず、その場から動かない。じっとしている。もしライオンたちが近づいてきても、匂いを嗅がれても、顔を舐められても、「いま自分は彼らのテリトリーの中に(特別に)居させてもらっているんだ」と、敬意をもって、「恐れ」ではなく「畏れ」の念をもって、黙って祈りつつ時が過ぎ去るのを待つ。それこそが、圧倒的な力を誇るライオンたちの中に放り込まれたダニエルにできる、たった一つの手段だったはずなんですね。
 ……まぁ、そうは言っても、現実はどうか分かりません。少なくともこの物語はほぼフィクションと言ってもいいお話なので、真剣に議論したところでどうなるというわけではないんですけれども、しかしそれでも、先ほどの「百人隊長」の話に関してもそうですが、我々はこれら二つのテクストを通じて、いかに“相手へのリスペクト(畏敬の念)”というものが大切であるかを、今日あらためて心に留めることができたのではないでしょうか。相手が人間であれ、動物であれ、リスペクトの心が無ければ、「強いか弱いか」、「上か下か」という、神さまが最も忌み嫌われる関係性しか作り出せない。そのように僕は思うわけなんですね。

おわりに

 最後に、冒頭でご紹介したムツゴロウさんの話に戻りたいと思います。今日のお話を準備するにあたって、今から2年半ほど前に公開されたムツゴロウさんのインタビュー記事を読む機会がありました。その記事の最後のところに、ムツゴロウさんとインタビュアーとの間で交わされた次のようなやりとりが書かれていました。インタビュアーがムツゴロウさんに対して、こんな問いかけをします。「(86歳を迎えた今、世の中の人々に向けて)どんなことを『話しておきたい』と感じているのですか?」すると、ムツゴロウさんは次のように答えています。「僕はね、動物でも人間でも命と付きあっていると、互いに何か伝わるものがあるんじゃないかと思っているんですよ。自分のありのままの命とも、もう少し付きあってみようと思ってます。」

 ……命と付き合う。動物であれ、人間であれ、その身体とではなく、その命と付き合う。それは、言葉ではなく、心で、本能で、敬意を持って相手と向き合うということではないかと僕は思います。それが、我々の理想とするコミュニケーションであり、真の平和を作り出す“主にある交わり”なのではないでしょうか。
 それでは、お祈りいたしましょう。

お祈り

 全ての命の創り主である神さま、本日与えられた御言葉を通して、私たちはまた、あなたの御心を感じることができました。私たちは、人間同士だけでなく、ときに人間以外のあらゆる動物たちから、大切なものを教えられることがあります。我々人間よりも彼らのほうが、あなたのことを理解しているのではないかと感じるときさえあります。神さま、どうかこの世界にあって、我が物顔で生きている私たちのことをお許しください。そして、人間同士、生きとし生けるもの同士、尊敬と畏れをもって、共に生きていく道をこれからも歩ませてください。
 父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

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